のぢしゃ工房 Novels

ナイチンゲールのさえずり

第三章〜ゆめ

啓吾は図書館を出ると、校舎の方に向かってふらふらと歩き出した。そして図書館と校舎に挟まれた、通称中庭と呼ばれている場所にやってきた。

そこには一本の桜の大木があった。高さは十数メートル、幹の太さは大人二人でも抱え切れないくらい程巨大なものだ。樹齢は千年とも二千年とも言われているが、確かめた者は誰もいない。

啓吾はその根元に立つと、手のひらを幹に押しつけて寄りかかった。その表情は苦しみにあふれている。

……う……あれが……あれがそうなのか?……いつか来るとはわかっていた……でも、こんなに早いなんて……。

啓吾はなんとか顔を上げて、葉の生い茂る枝を見つめた。

……僕はちゃんとやれるのだろうか?

と、その時。

「里見さん!」

啓吾が振り返ると、そこには後を追ってきたみどりが息を切らしながら立っていた。

「あ……だ、大丈夫ですか?」

みどりが心配そうに見つめた。

彼女は以前将介から、啓吾が大病から回復してまもないことを聞かされていた。それからもう一年近くたっているが、みどりはいつも心に留めていた。

「ああ……大丈夫ですよ。心配してくれてありがとう」

そう言う啓吾の表情は、とても大丈夫そうには見られなかった。

「あ、いえ、そんな……でも、どうしてなんですか!?」

しかし今のみどりには、啓吾の心配よりも先程の将介の決定にばかり気が向いて、どうしてもきつい口調になってしまう。

「どうして二人ともなんにもしないんですか!?」

「それは……将介の言った通りです」

啓吾は眼鏡をおさえながら言った。

「僕らが扱えるようなことじゃないんです。人の生き死にの問題は……荷が勝ちすぎるんですよ」

「でも……でも……」

「あの双子のことが気になるんですね?」

こくん、とみどりは肯いた。

「あの二人……なんか嫌なんです……よくわからないけど……とにかく嫌……嫌なんです!」

駄々っ子のようにみどりは叫ぶ。

「あの何もかも知っているぞって態度……あたし、はっきり感じたんです!あの二人は理由を知っている……今まで起ってたことは偶然なんかじゃないって……原因があるんだって……お兄ちゃんや里見さんがそれに気がつかないはずはありません!なのにどうして……何もしないんですか!?理由を……本当の理由を聞かせてください!!」

悲鳴にも似たみどりの叫びを、啓吾は真っ向から受け止めていた。まっすぐな目で彼を見つめるみどりは、いつもの恥ずかしがりの彼女では無かった。一体何が彼女をそうさせるのか?

「……どうして、それほどまでにこだわるんですか?多分、もう少し経てば何も起こらなくなります……また何事も無い日々が始まります……それでも知りたいですか?それは……なぜですか?」

訴えかけるような啓吾の言い方に、みどりは一瞬戸惑ったような表情を見せる。だが、彼女はしっかりとした口調で話し出した。

「それは……いつも周りで、誰かが勝手に話を進めていってしまうから……あたしの意思なんて関係無く、勝手に物事が進んでいく……そんな世界が嫌いだから……だから、あたしは知りたいんです。一体何が起きているのかを」

そう言うみどりの姿に、啓吾は思わず将介の姿を重ね合わせていた。

「あなたたち兄妹は……まったく……」

ため息をつくように啓吾は言った。

「それで……教えてくれるんですか?」

みどりはすがりつくような目で啓吾を見たが、その答えはあまりにもそっけなかった。

「いえ、だめです」

「ど、どうしてですか!?」

みどりは啓吾に詰め寄った。

「なんで……なんでお兄ちゃんと同じに……どうして!」

「そうです……さっき将介の言った通りなんです。これは僕たちが扱えることではない……そういうことなんですよ」

啓吾の普段にない厳しい目つきに、みどりは息を飲み、身体を硬直させた。

一体どれほどそうしていたのか……みどりはがくっと首をうなだれて、やっとの思いでこう言った。

「どう……どうあたしがお願いしても……だめなんですよ……ね?」

「ええ、そうです。答えは変わりません」

「……わかりました」

みどりは押し殺した声でそう言った。

「じゃあ……」

啓吾はほっとした表情を浮かべたが、次の瞬間、みどりは急に頭をあげて叫んだ。

「もう頼みません……自分で……調べます!!」

「え!?」

そしてみどりは突然走り出すと、校舎の方に走り去ってしまった。

「みどりちゃん!?」

啓吾はその後ろ姿をただ呆然と見つめる。その目にはどこか羨望の光があった。

……どうして……どうしてあんなにも必死になれるんだろう……なにが彼女をあんなに……それに引き換え、この僕は……。

啓吾は桜の木を見上げた。それは彼を包み込むように悠然と立っていた。

……どうする?

しかし、桜は何も言わない。

「……わかってる……そう、僕は知っている」

啓吾は自分に言い聞かせるようにつぶやくと、図書館の方に歩き出した。

それを見送るように、風にゆられて桜の枝がざわつく……。


みどりと将介の家は、学校から歩いて二十分程の場所にあった。三階建てで、広さは百坪はある大きな家だ。

みどりは駆け足で家までたどり着くと、靴を脱ぐのももどかしげに自分の部屋に向かった。彼女の部屋は二階にあり、同じフロアに将介の部屋もある。ちなみに一階は共有スペース、三階は両親の寝室と研究室になっている。

みどりの部屋は十畳ほどの広さで、中には勉強机に椅子、ベッド、クロゼット、本棚等があった。女子高生にはありがちな、アイドルのポスターやぬいぐるみなどは無く、ただ化粧品の置かれた棚と、花柄をあしらった壁紙が女の子らしさを表現していた。

そしてその壁には、額縁に収められた賞状が飾られていた。それは合気道の段位を修得したことを証明するものだった。二段位の賞状だ。

みどりは鞄をベッドの上に放り出すと、制服を脱いでクロゼットに収めた。クロゼットの中には控えの制服や外出着、そして合気道用の稽古着があった。

Tシャツにジーンズというラフな服装に着替えたみどりは、机の上に置かれたコードレスフォンの子機を手にとった。

その時、隣に置かれていた写真立てに視線が向く。それは二つあり、一つは家族写真で、そこには父親と母親、そして小学生時分の将介とみどりの姿があった。

みどりの両親は共に名の知られた考古学者であり、今も世界の何処かで発掘や研究をしている……はずなのだが、ここのところ音沙汰が無い。

その両親が家に帰らなくなってから、もう六年が過ぎていた。当時小学四年生になったばかりのみどりを残して、自らの研究のために旅立ってしまったのだった。その写真はその出発前日に撮られたものだった。

写真の中のみどりは、とても不機嫌そうにカメラを睨みつけていた。対照的に、並んで写っている将介の方はそれほどでもないようだ。

みどりと将介は初め両親の知人の家に預けられることになっていたのだが、みどりが猛烈に反対したため、当初は家政婦を頼んだりして生活していた。そのうちにみどりが家事を担当するようになり、将介と二人きりの生活が中学くらいから始まった。

だがそれはあまりに寂しいものだった。将介は外を出歩くことが多くて、夕食など一人で食べることが当たり前のようだった。それは将介が乙夜学園に入ってからもずっとそうだった。

そんなある日……将介が家に連れてきたのが啓吾だった。それ以来、みどりは彼らの活動に少しずつ関わるようになり、自分も乙夜学園に入学することで、そうした寂しい日々は少しずつ減っていった。

しかし……それが再び戻ってこようとしている。

みどりは写真の中の自分と向き合った。口はへの字に結ばれ、三白眼がにらみを効かせていた。とても可愛げのある顔ではない。

……なんていやな顔。

みどりは写真立てを伏せ、もう一方を手にとった。その中では制服姿の将介と啓吾が並んで立ち、将介の横で少し下がり気味にみどりが立っていた。そしてちらっと横目で啓吾の後ろ姿を見つめている。ちょっと寂しげだが、口元には幸せそうな笑みが浮かんでいる。

一瞬口元をほころばせたみどりは、すぐまた引き締めると、写真立てを下ろして子機を手に取り、短縮ダイアルボタンを押した。短い呼び出し音の後、相手が出る。

「あ、私、滝沢と言いますが……あ、絵俐素いますか?……はい?え、寝てる?……あ、そうですか……あ、でも……そうですよね……はい……後で会おうって言ってもらえますか?……はい、それじゃ失礼します」

電話を切って子機を戻す。

……無理ないわよね。あんなことあったんじゃ……でも、お通夜に行けば会えるから……今は、いい。

みどりは部屋から出ると一階の居間に降りた。広さは十五畳程、床は本来フローリングだが、一面ペルシャ絨毯で敷き詰められていた。両親が送ってよこした本物だ。

彼女は革製の大型ソファに腰を下ろすと、リモコンを手にとってテレビをつけた。適当にチャネルを合わせる。ケーブルテレビ経由で送られてくる衛星放送に地上波……一体何チャネルあるのか、みどりは知らない。その中でワイドショー的な番組をピックアップしてみたが、今日の事件が取り上げることは無かった。

「当たり前、か……」

彼女はテレビを消すと、深々とソファに身を委ねた。

……これだけ学校の周りで噂になっても、調べようとするのは誰もいない……マスコミなんてこんなもんか……期待してる方がどうかしてる……。

ふっと眠気に誘われ、みどりは軽く目を閉じた。

……今日はひどい日だった……って、まだ終わってないか……さすがに今日は稽古は休まないと……ああ、当分道場には行けないだろうな。

……これから……これからどうなるんだろう?……あんな大見え切って……あたし……どうするつもりなんだろう……。

気がつくと、もう時計は六時を指していた。寝てしまったらしい。

みどりは身体を起こして周りを見回した。将介が帰ってきたような雰囲気は無い。

……こんなに寂しいなんて……なんて……。

一瞬身体を震わせると、みどりはソファから立ち上がった。そして自室に戻ると、再び制服に着替え直した。さすがに胸元もちゃんと整えている。そして喪章を腕につけた。

その姿を鏡に映しながら、みどりはつぶやいた。

「さて……いくわよ、みどり」


篠田真里の通夜は、彼女の自宅近くの寺で行われていた。境内には既に何人もの弔問客が訪れており、その中には乙夜の生徒たちも多数含まれていた。だが準備に手間取っているのか、まだ焼香は始まっていない。

みどりは山門をくぐって、急な階段を急ぎ足で上っていった。そしてすぐ辺りを見回して、もう来ているはずの絵俐素を探した。出がけにした電話では、もう出ているということだったのだが……。

すると、境内に置かれた石灯籠に隠れるように、本堂を見ている絵俐素の姿を見つけた。絵俐素はみどりと同じく喪章付きの制服を着て、両手をだらりと下げてその場に立ち尽くしていた。

「絵俐素!」

みどりが声をかけながら彼女に駆け寄ると、絵俐素は気落ちした表情でみどりを振り返った。

「みどり……」

「良かった会えて。もう行ってるってお母さんに聞いてたから……」

「そう……ごめんね」

申し訳なさそうに言ってうなだれる絵俐素に、みどりはちょっと大げさに手を振って言った。

「そ、そんなことどうでもいいのよ!……まだ、お焼香始まらないんだ?」

「うん……そうみたいなの。でも……」

「でも……?」

「でも……なんだかその方がいいって気がして……」

「ど、どうして?」

みどりの問いに、ちょっとだけ沈黙した後、絵俐素は答えた。

「……真里が死んだって……思い知らされるのが、怖いの……」

「絵俐素……」

「頭ではわかってるの。わかってるんだけど……やっぱり、いやなの」

絵俐素は顔を伏せ、寄りかかるようにしてみどりの肩に手をかけた。

「ご両親の哀しい顔を見るのもつらい……それに……真里が死んだなんて、まだ信じられない……信じたくないのよ……」

「絵俐素……」

受け止めるべき事実……それは彼女自身が目撃したことなのだ。だが、できない。見たくない。信じたくない……。

しかし……みどりは心を鬼にして言った。

「でも……ここで会わなかったら、もっと後悔するだけだよ?ちゃんと会ってお別れを言ってあげなきゃ」

「……」

「それにここまで来て逃げ出したら、自分に負けることになるわ。自分に負けたら、一生後悔し続けることになる……そんなの、篠田さんが喜ぶと思うの?あたしなら、そんなこと思わない」

「……みどり」

「だから、行こ?あたしも一緒に行ってあげるから。他の人がお別れを言う前に……」

絵俐素は顔をあげてみどりの顔を見つめた。まだ不安そうな表情だが、ほんの少しだけ生気が戻っているようにみどりには思えた。

しばしの間を置いて、絵俐素は言った。

「……うん、わかった。行くわ、あたし」

「絵俐素!」

「そうだよね……ここまで来て逃げるのは、いけないことだよね……ありがとう、みどり。励ましてくれて」

絵俐素の感謝の言葉に、みどりは照れて頭をかいた。

「そんなふうに言われるようなことじゃないよ……えらそうなこと言ったけど、あれってお兄ちゃんの受け売りだし……」

「ううん……」

だが絵俐素は首をふり、笑って言った。

「それでも……嬉しかったの」

「絵俐素……」

みどりはじっと絵俐素を見つめると、肯いて言った。

「じゃあ、行こうか」

「うん」

そうして二人は寄り添うようにして、死者が安置されている本堂の方に向かった。

本堂の入り口の前には急ごしらえの天幕が張られ、その下で黒服の男たちが準備のためにあわただしく動いていた。そこへ絵俐素が事情を話して両親への取り次ぎを頼むと、両親は本堂にいるのでそちらにまわるように言われた。

二人が本堂に入ると、中には大きな花輪がずらりと並べられていた。その奥には花で飾りたてられた祭壇があり、その上に真里の写真が立てられていた。証明写真のような、制服を着た、まじめそうな顔をしている。

「あ、あの人じゃない?」

みどりが祭壇の前にいる女性を指差す。

「え?あ、お母さん……」

母親はじっと娘の遺影を見つめていた。喪服の背中はとても寂しげに見えた。

二人はそっと彼女に近づくと、絵俐素は恐る恐る声をかけた。

「あの……おばさん?」

「え?あ……絵俐素ちゃん……」

母親は振り返ると、絵俐素の顔を呆然と見つめた。

「あの、外の人に聞いたらここだと言ってたので……」

「ああ、そう……そうね……」

ようやく我に返ったのか、母親は目をしばたかせると、二人の顔を見た。

「ごめんなさいね、ぼーっとしちゃってて……だめね、こんなんじゃ……」

「そんなことありません。あたしだって同じ気持ちです……」

「そう……あ、こちらの方は?」

みどりの方を見て母親が尋ねた。

「あ、あたしは絵俐素の友達で滝沢って言います。今日……あの場に居合わせたんです。この子と一緒に。それであたしも……」

そうみどりが言うと、母親はほっとしたような声で言った。

「そうですか……わざわざ来てくれてありがとう……さ、あの子に会ってやって下さいね」

母親はそう言って目の前に安置されている棺に近付くと、棺に取りつけられた窓を開け、二人にどうぞと手を差し出した。

しばしの逡巡の後、意を決して、絵俐素はその窓をのぞき込んだ。

そこには……白い花に囲まれて静かに眠る真里の顔があった。

「……真里?」

絵俐素は一瞬目をそらしかけたが、もう一度しっかりと彼女の顔を見つめた。

「真里……真里……なんで……なんでこんなことに……」

うわごとのように繰り返す絵俐素の横から、みどりも棺の中を見た。実に穏やかな死顔だった。そこにあの断末魔の表情が重なる。

……あれは……あたしの見間違いなの?

「さっき帰ってきたばかりなのよ」

母親は昔話でもするかのような口調で言った。

「とっても穏やかな顔をしているって、住職さんが言ってましてね。いい仏様だ、きっと成仏するだろうって……でもあたし……まだ信じられなくて……」

目許をぬぐう母親の前に、絵俐素はひざまづいて言った。

「あたしも……まだ信じられません……」

「そう……そうなのよね……今日は具合悪そうに見えなかったの……なのに……」

ハンカチで目を覆う母親の姿は、みどりに今更ながら衝撃を与えていた。

……人が死ぬってこう言うことなの?何もかも終わったような……まるでこの世の終わりみたいな……。

「でも……あなたもつらかったでしょう?あの子の最後の姿を見てしまうなんて……最後の……うう」

「おばさん!……あ、あたしなんかどうでもいいんです!それよりも、おじさんやおばさんの方が……」

「絵俐素ちゃん……ありがとう」

「おじさん……!」

いつのまにかそばに来ていた父親が、母親の身体を支えながら言った。

「あの子もきっと喜んでいるよ。君のような友人がいて……」

だが、絵俐素はきつい表情になってうつむき、そして言った。

「……あの子は……悔しいはずです」

「絵俐素ちゃん?」

「あの子は……お料理がほんとに好きで、自分のお店を持つのが夢で……その夢を実現しないまま死んじゃうなんて……悔しいに決まっています……悔しいに決まって……」

ぽっ。

絵俐素の膝の上に、涙が落ちた。ひとつ、また、ひとつ……。

「絵俐素……大丈夫?」

みどりは後ろから絵俐素の両肩を抱いて言った。絵俐素は小さく肯く。

「……一つ伺ってもよろしいですか?」

みどりは母親を見て言った。

「え?……え、ええ……」

「真里さんは、あの時……とっても苦しそうでした……前からそういうことがあったんですか?」

「ええ、そ、それが……最近身体の調子がよくなかったみたいで……よく夜中にうなされてたの。だから休みなさいって何度も言ったのに……あの子、コンクールまでだからと言って聞かなくて……だからあの時ちゃんと止めていたらと思うと……うう」

泣き崩れる母親を見て、みどりは質問した自分を嫌悪し、思わず顔をそむけた。

……なんてばかなことを……あたし、いったいなにやってるんだろう……。

「そ、そうですか……ごめんなさい、変なこと聞いてしまって……」

「いいえ、いいんですよ……でもね、絵俐素ちゃん」

母親はハンカチで口元をおさえながら言った。

「あなたも身体には気をつけてね。あんまり遅くまで起きてないで、ちゃんと眠らないと駄目よ?」

「おばさん……」

絵俐素は目に一杯涙をためながら、そっと肯いた。

その時、本堂に人が入ってきた。準備が整ったのだろう。

「さあ、私達もそろそろ……」

父親の言葉に肯く母親。それを見たみどりは、絵俐素の背中に声をかけた。

「絵俐素、行こ」

絵俐素はゆっくりと立ち上がると、みどりの方を振り返って肯いた。

「……じゃあ、もう行きます」

そう言って、絵俐素は棺をもう一度のぞき込んだ。真里の死顔は……とてもとても綺麗で、そして穏やかだった。

「……さよなら、真里」

そうつぶやくように言うと、絵俐素はみどりに押されるようにして、出口へと向かって歩き出す。

そして本堂を出るまでの間に、何度も何度も後ろを振り返って、絵俐素は真里との別れを惜しんでいた……。


寺を出たみどりと絵俐素は、近くにあった公園のベンチに座っていた。辺りはすっかり夕闇に包まれており、街灯が寂しげに瞬いている。

「絵俐素……大丈夫?」

みどりがそう声をかけると、絵俐素はうつむいたまま肯いた。

「うん……ごめんね」

「そんな……あやまることなんてないよ」

「うん……でもよかった。みどりが一緒にいてくれて……でないとあたし、泣きわめいてたかもしれない……」

そう絵俐素が言うと、みどりは何故か突然口調を荒げて言った。

「泣きたいときは泣けばいいのよ!自分の気持ちをすっきりさせた方がいいの!」

「み、みどり……?!」

「我慢することなんてないの……そうよ、我慢することなんて……」

「みどり……?」

絵俐素の驚いたような視線を感じて、みどりは我に返った。

「あっ……ご、ごめん……急に大声出しちゃって……」

怪訝そうに絵俐素はみどりを見ていたが、少しだけ元気な表情になって絵俐素は言った。

「ううん、いいの……みどりの言う通りだわ……ありがとう、心配してくれて」

そんな絵俐素を、ほっとしたような目でみどりは見つめた。

「……でもあたしは、大したことしてないよ」

「それでも……ありがとう」

二人は顔を見合わせて、そして軽く笑った。

しばらくして、みどりがぽつりと言った。

「あ……そうだ」

「なに?」

「ねえ……真里さんってどういう人だったの?」

すると絵俐素はちょっとだけ哀しい表情になった。

……き、聞くんじゃなかった。

みどりは一瞬後悔したが、絵俐素は目を細めながら話し始めた。

「……真里とは中学の時からの親友なの。でね、いつも自分の夢のこととかを話し合ってたの。あたしが書いた小説を他人に初めてみせたのも、彼女だったの」

「へえ……そうなんだ」

「真里はシェフになるのが夢でね……いつも新しい料理のこととか考えてて、思いついたらすぐキッチンに飛び込んで料理してたわ。あたし、そのたびに何度も味見役をさせられてね。最初の内はとても食べられたもんじゃなくて、二人してひどい目にあったこともあったなあ……えへへ」

絵俐素は空を見上げた。街の光に埋もれるように、星が瞬いている。

「でもすぐに……あの子は上手になっていった……」

そう言う絵俐素の目が少し陰る。

「乙夜に入る頃には、フルコースのフランス料理を作れるくらいになってね……おいしかったなあ……今思い出してみても、舌がとろけるようで、あれ以上の料理は考えられないくらいで……でも、もう食べられないんだよね……」

息苦しい沈黙。それに耐えきれなくなったように、絵俐素は再び話し出した。

「……もうすぐね、料理のコンクールがあるの。オリジナルの料理で競う奴で、優勝できたら世界中の食べ物を見て廻れるんだって。シェフへの道も開かれるかもしれないって……あの子は言ってた。だから、最近は寝る間も惜しんで必死になってがんばってたのよ。なのになんで……なんで……」

ぎゅっと堅く、膝の上で絵俐素は手のひらを握りしめる。腕が、そして肩ががたがたと震え出す。

「なのに……なのに……なのに……なのになのになのに!!」

絵俐素の声は次第に大きく、そして悲痛な絶叫となって辺りにこだました。

「え、絵俐素?!」

こんなに取り乱す絵俐素を見るのは初めてだった。いつもおとなしくて、落ち着き払って騒ぎを見つめるような彼女が、今、錯乱していた。

「どうして?!どうしてなのよ!?どうしてあの子なの!?ねえ!どうしてあの子なのよ!おかしいわよこんなの!おかしすぎるわよ!あの子がいったい何したって言うの?!あの子はただ自分の夢を叶えるために頑張ってただけなのに!それがもう少しで実現するかもしれなかったのに!!どうして!!どうしてなのよっ!!」

ぜーっ、ぜーっと荒い息を吐く絵俐素。そして今度はみどりの方を振り向くと、顔をくしゃくしゃにしながらみどりの肩につかみかかると、ぐらぐらと揺さぶった。

「ねえ、教えて……どうしてあの子が死ななきゃいけなかったの?どうしてあの子じゃなきゃいけなかったの?教えてよ、みどり!教えてよ!!」

しかし、みどりには何も答えられなかった。ただ絵俐素に揺さぶられながら、意味のない言葉を洩らすだけだった。

……なんて……なんて無力なんだろう、あたしは。慰めの言葉も、励ましの言葉も、何も浮かばないなんて……さっきまで良かったと思って言ったことなんて……なんの役にもたってないじゃない……あたしは……ばかだ。大ばかだ……。

やがてその行為の無意味さを悟った絵俐素は、みどりの胸に顔をうずめると、か細い声で泣き始めた。

「うう……なんで……なんでなのよ……」

その背中をそっと抱き締めながら、みどりは夜空を見上げた。

その時、星が一つ、流れて墜ちた。

……願い事すれば……願いはかなうんだろうか?……あ……願い事するの、忘れちゃったよ……。


なんとか落ち着いた絵俐素を、みどりは家まで送ることにした。その途中、二人は何もしゃべらずに、ただひたすら夜道を歩き続けた。

「今日はありがとうね」

自宅の門前で、絵俐素はそう言って痛々しく微笑んだ。その姿に、みどりは胸を締めつけられた。

「ううん……あたしは、何もしてない……」

「そんなことない……いてくれてほんとによかった」

絵俐素はそう言って、またね、と寂しそうに家に入っていく。その後ろ姿を見て、みどりはたまらなく不安になった。

「あ……絵俐素!」

「……なに?」

振り返る絵俐素に、みどりは力いっぱい声をかけた。

「小説、頑張るんだよ!頑張って頑張って頑張れ!」

しばしみどりの顔を見つめた絵俐素は、今度こそ本当の微笑みを浮かべた。

「……ありがとう」

そうして、彼女は家の中へと消えていった。

みどりはしばらくその場を動かなかった。そして絵俐素の部屋に明かりが灯るのを見てから、ようやく彼女も家路についた。

既に道は街灯無しでは歩けないくらい、暗く、そして寂しかった。誰ともすれ違わない。靴音だけがやけに響いて聞こえた。

……絵俐素、元気になってくれるといいけど……しばらくは注意して見てないと……。

……でも……お兄ちゃんの言ってたこと、少しわかったような気がする……お母さんの泣く姿、見てられなかった……。

……あたしじゃ、なにもできないのかな……しゃくだけど……もうなにもしない方がいいのかも……。

不意に、今朝の出来事が思い出された。ハイヤーを降り、校舎に向かって歩いてくる双子の姿。その瞳はみどりに向けられて……。

……あの目……そう、あの目だ。何もかも見通していると言わんばかりの目……気に入らない……気にくわない……。

……嫌なんだ……あたしの知らないことを知っている人間がいる……何も知らないあたしを見て、笑っている人間がいる……そんなの、嫌なんだ……。

……だから……ここで逃げるわけにはいかない。諦めるわけにはいかない……。

……さっき絵俐素に頑張れって言ったばかりじゃないの……あたしが先にめげてどうするのよ!……自分に負けるわけなんていかないのよ。

……そうよ……負けるわけには。


みどりが家に帰ると、居間で将介がソファに座ってテレビを見ている所だった。彼はみどりに気がつくと、振り返って言った。

「よお、遅いじゃないか。何処いってたんだ?」

「何処だっていいでしょ」

つっけんどんにみどりは言うと、居間から出ていこうとした。

「篠田さんのお通夜だろ?」

将介の声に、みどりの足が止まる。

「ま、喪章をつけているのを見れば、な」

将介はそう言うと、テレビのチャネルを変えた。ニュース番組だった。

「で、なにか収穫はあったか?」

「……お兄ちゃんに言うことなんて、何も無いわ」

冷たい目で振り返りながらみどりは言った。

「おいおい、そう冷たいこと言わなくってもさ……」

しかし、みどりは聞く耳持たないという態度で、居間のドアに手をかける。

「お、おい、ちょっと待てよ!晩飯はどうすんだよ!?」

「勝手に作って食べたら?あたしはもう済ませたから」

「ええ!?そりゃないだろ〜!?あ、おい、待てよ!啓吾から電話があったぞ!」

ぴくりと、みどりの肩が動く。

「別に用はないって言ってたけど……連絡してやったらどうだ?」

しかしみどりはそれには答えずに、ドアを開けて無言で居間から出ていった。

「やれやれ……飯抜きかよ」

将介は嘆息して、テレビの画面に視線を戻した。メキシコでの恐竜化石発掘のニュースだった。

「……そういや、親父たち、今ごろどうしていることやら……いいのかねえ、子供たちをここまでほったらかしにしてさ……」

将介は立ち上がると、ダイニングキッチンの方に向かった。

「しかし……ほんとにあいつ、一人でやるつもりか?」

フライパンを取り出して油を引き、火にかける。

「そんな世界が嫌い……か。恨むぜ、おやじ、おふくろ……」

冷蔵庫から卵を二つ取り出して、器用にフライパンの縁で割って落とした。じゅうっという良い音がした。

「……俺も同罪か、くそ」


みどりは制服を脱ぐと、普段着に着替えてベッドの上に身を投げ出した。

「はあ……」

思わずため息が出る。

今日は色々なことがありすぎた。二日連続の転校生、二日連続の死者。そしてその両者を結ぶ、なにやら見えない糸。

……わからない……あの二人はいったい何者?一体なにをしに来たの?それに……なんで里見さんとお兄ちゃんにあんなこと言いに来たの?なんでそれをあっさり受け入れちゃったの?……わからない。いったいなにからどうやって調べていけばいいかわからない……。

……ううん、今からそんなこと言ってたらだめだ!どんなことしてでも真実を突き止めてやるのよ!

……真実、か。

ごろん。

体の向きを変えて机の上を見る。電話の子機が見えた。

彼女は起き上がると机の方に向かい、子機を手にとって文字盤を見つめた。

指が伸びる。短縮ダイアル、#、そして、0……1。聞こえてくるリングバックトーン。

ぴっ……。

みどりは切スイッチを押した。そして子機を元に戻す。

……もう誰も頼れない。あたし一人でやり遂げるしかない……あたしだけの力でやるしかないんだ……。

再びベッドの上に身を横たえると、急にまぶたが重たくなってきた。徐々に閉じられていく……。

……絶対……絶対真実にたどり着いてみせる……たとえそれがどんなものであっても……あたしは知りたい……知りたいの……。


……いつからだろう……夢を積極的に覚えておこうと思ったのは。

見ていた夢が楽しい夢ばかりだったからかもしれない。そう、毎日が夢のようで……ああ、夢の話なんだから当たり前よね。あはははは……。

だから日記をつけたの。夢日記……夢を忘れてしまわないように。だって、夢って大抵忘れちゃうでしょ?覚えているだけで幸せだっていうでしょ?だから……。

毎日変わる楽しい夢。奇想天外、驚天動地!様々な登場人物、様々なモチーフ、様々な、様々な……。

でも、あたしは不思議で不思議で仕方なかった。どうして毎日違う夢を見るんだろうか?どうして連続ドラマみたいな夢を見るんだろう?そして……。

夢は一体何処から来るんだろう?

考えても考えても、答えは見つからなかった。

その内、だんだん夢を見るのがつまらなくなってきた。内容がおもしろくなくなったわけじゃない。いつだって楽しかったわ。

でも……つまらなくなってしまったの。

見せられるだけの映像、わけのわからない物語……楽しいはずなのに楽しくない……楽しいって、いったいなに?

だから……あたしは夢から醒めた。

与えられるのではなく、自ら他に与える物を作り出すために。

……それからしばらく、はたと夢を見なくなった。夢を見ないって言うのもなんか変だった。夢を見る訓練は十分にしていたはずなのに……。

でもそのときは、別に不思議に思わなかった。そう……あの事件が起きるまでは。

最初の事件が起きたのは今から二ヶ月前のことだった。最初その話をみどりから聞かされたときは、別になんとも思わなかった。よくある事件……ただそう思った。小説のネタにもならない、他愛のない事件……ああ、人が死んだというのに……なんてことを。

だけどそれは単なる始まりに過ぎなかった。

二人目の犠牲者が出るまで一ヶ月、三人目に半月、そして……四人目が出るまで、一週間。そしてそして……ああ……。

真里……どうして何も言ってくれなかったの?苦しかったのならどうして?あたしじゃ頼りにならなかったから?……お願いだからなんとか言ってよ!

……聞こえる。ああ、まただ。また、あの声が聞こえる。

最初の事件の時からささやくように聞こえてきた声は、日を追う毎に大きく、はっきりとした形となってあたしを追いかけ続ける。

……いやだ。もう聞きたくない。いや、来ないで!来ないでったら!!……あたしはもう夢なんて見なくていいの!夢に振り舞わされるだけのは自分はもう嫌なの!!

あたしは……ただ眠りたいだけなの……でも……それはかなわぬ願い?

わかるの……夜が、あたしを追いかけてくるのが。

わかるの……暗闇の中から、あたしをそこへ引き込もうとしているのが……。

わかるのよ……あたしはきっと……いつかきっと……。


「……うあ?」

絵俐素は顔を上げた。机の棚の上で目覚まし時計の音がする。もう室内には太陽の光が差し込んでいた。

机の上で突っ伏したまま眠ってしまったらしい。顔の下にはノートパソコンのキーボードがあった。

「あたた……またやった」

きっと顔にキーボードの跡が付いているに違いない。モニターにはその名残か、意味不明の記号の羅列で埋め尽くされている。慌てて何度かアンドゥを繰り返すと、書きかけの文章が画面に表示された。

『……聞こえる。ああ、まただ。また、あの声が聞こえる。最初の事件の時からささやくように聞こえてきた声は、日を追う毎に大きく、はっきりとした形となって私を追いかけ続け……』

それをしばしの間見つめていた絵俐素は、首を振りながらノートパソコンの蓋を閉じる。

その傍らには何冊もの本が積み上げられていた。青い装丁の大きめのハードカバー本……崇高さと邪悪さとを混ぜ合わせたような、そんな雰囲気に包まれている。

……なんか夢を見ていたような気がするんだけど……だめ、思い出せない……。

絵俐素はいやいやをするように首を振ると、まるでその場を逃げ出すように椅子から立ち上がり、額に手を当てながら苦しい表情をした。

……うーん……気分がよくない……すっきりしない……昨日のことが堪えているんだわ……真里……ああ、そうだ……真里は……死んじゃったのね……もうどんなにしても会えないんだ……。

……でもなんで……なんで真里がこんなことに……あたしなんかよりよっぽど才能があったのに……あたしより真里の方が……。

……うう、気持ち悪い……でも……起きなきゃ……起きて学校に行かなくちゃ……真里が叶えられなかった分、あたしが……あたしが頑張らなくちゃ……。

……でも……あたしが頑張って……真里みたいに、人に認められるようなことができるんだろうか……?

……今だって……あんな……あんなことで、あたしは……。

絵俐素は激しく頭を振った。髪がぐしゃぐしゃになる。

……でも……それでも……それでもやらなくちゃ、あたしは……あたしは……。


みどりは朝の修練を終えると、いつも通りに家を出た。将介は先に学校に行ったらしい。

昨日と大して変わらない風景が、何故か目障りに思えた。日常の中の日常とでも言うべき、平和な風景が。

……でも、見せかけなのよね。

校門が見えてきたところで、登校する生徒の列の中に絵俐素の姿を見つけたみどりは、ほっとしたような表情を浮かべて彼女に駆け寄っていった。

「絵俐素、おはよう!」

いつも通りに元気に声をかけると、絵俐素はゆっくりと振り返ってみどりを見た。

どくん……。

みどりの胸が不穏な音をたてて鳴った。

「ああ……おはよ〜」

絵俐素はぶっきらぼうに挨拶した。その目の下にはくまができていて、顔もちょっとむくみ加減のようだった。それに肌も青白くて健康的とは言えない。

「ちょ……大丈夫?!」

「なにが……?」

「なにがって……顔色めちゃわるだよ!眠れなかったの?」

「うん……なんかさ、寝つけなくなっちゃって……ついでだから人から頼まれた書きものしてたら、半分徹夜みたいになって、そのまんま机の上で寝ちゃったらしいの……で、このざま……そんなにひどい?」

ぼそぼそとしたしゃべり方だが、意識ははっきりしているらしい。

少しだけ、みどりは安心した。

「う……ま、まあ……」

「ああ、どうしよう……」

片手で頬をおさえながら、絵俐素がぼやく。

「いっそ、休んじゃったら?昨日の今日だし……無理することないよ」

「うん、でも……やっぱり、出なきゃ」

そう言って微笑む絵俐素を見て、みどりは何も言えなくなった。

「でも、無理しちゃだめだよ?」

「うん……わかってるって」

絵俐素は顔をしかめながら、再び歩き出した。その後ろを、彼女のことを気遣いつつ、みどりがついていく。

……絵俐素、無理しなきゃいいけど。

みどりの心の中に、言い知れぬ不安が渦巻いていった。





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