のぢしゃ工房 Novels

ナイチンゲールのさえずり

第二章〜Realization

乙夜学園の体育館は、国際格式の陸上トラックが二面もある運動場のそばに建てられていた。校舎から歩いて数分はかかる。更衣室などは体育館内にあるから、生徒たちはかなりの余裕を見て移動しなければならなかった。

「やだなぁ……」

体操着に着替えた絵俐素が、体育館の壁にもたれながらため息をついた。乙夜では体操着はTシャツとトレパンと決められている。男女とも同じだ。

「なに始まる前から落ち込んでるのよ」

みどりは絵俐素とは対照的にとても楽しそうだった。

「みどりはいいわよねえ……」

「あん?」

「スポーツ万能でさ。あたしは運動苦手だし、それに小説のこと考えていたいのに、体育の授業中じゃろくに考えられないし……」

以前絵俐素が話した所によれば、授業中は頭の中で小説を“書いて”いるのだそうだ。なんでも頭の中で登場人物が勝手に話を進めていくらしい。

「そっか……で、なんのお話だっけ?」

「前に話したじゃない……シミュレーション小説よ」

「はあ……」

よくわからない風のみどりに、絵俐素は思わずため息をつく。

「はぁ……まあ知らないわよね。マイナーな分野だし……」

だが、絵俐素は顔をあげて瞳を輝かせながら言った。

「それでもね、いつかきっとみんなに認められるようにって頑張ってるんだけど……なかなかうまくいかなくて……」

今度はしゅんとする絵俐素に、みどりはできるだけ明るい声で言った。

「は、早く、認められるといいね。あ、あたし応援してるからさ!」

「……うん、ありがと」

その時、一瞬絵俐素の表情が曇ったように見えた。

しかし授業開始予鈴がみどりの思考を遮った。

「あ、はじまりだ!」

「……そだね」


本日の授業のテーマは跳箱だった。高校ともなればさすがに跳ぶだけでは終わらず、横向きにされた跳箱の上で倒立、つまり逆立ちをして跳ぶというのが本日の課題であった。ただ、段数は腰くらいの高さしかないし、補助者もつくのでそれほど難しくはない……はずである。

しかし生徒たちにやる気というものが欠けていた。最近は特にその傾向が強く、教師としては頭の痛い状態となっている。

「はい、先週教えたとおりに、まじめにやってくださいね!」

多少なげやりに教師は呼びかけるが、あまり聞いている風ではない。だがそれでも、何人かの生徒が跳箱に向かって突進していった。しかし失敗する者が多い。

その光景を見て、絵俐素はいやな顔をした。

「あ、ああ……痛いんだろうなあ……」

「大丈夫だって、あんなに低いんだし」

気楽にみどりが言った。

「みどりはいいわよ。でも……」

そして絵俐素の順番が回ってきた。彼女は意を決して助走を始めたが、踏み切りのタイミングを誤り、お腹を跳箱にぶつけてしまった。

「ふええ……い、痛い……」

「ちゃんと踏み切らないからよ」

泣きながら戻ってきた絵俐素に、みどりは冷たく言った。

「そんなこと言ったって……」

「手をつくタイミングがずれて、だからつっかかるのよ」

「だからあたし運動苦手なんだってば……ほら、次みどりの番だよ」

「はいはい」

みどりはスタート地点に立つと、大きく背伸びしてから跳箱を見た。大した段数ではないし、やることも大したことではない。

……つまんないなあ……そだ、あれやろうか?

みどりは口元を引き締め、二歩三歩と後ろに下がると助走を始めた。スプリンターのようなリズミカルなフォームで飛び出した彼女は、最初大きなストライドで、そして徐々に小刻みなステップを踏んで踏切板へ突進した。

……いまだ!

絶妙なタイミングで踏切板に踏み込んだみどりの身体は、次の瞬間には跳箱の上に逆立ち状態で……宙に浮いていた。手は跳箱についておらず、身体の側面にぴたりとつけられていた。そして彼女の身体は見事な放物線を描いて跳箱を飛び越えると、身体を半回転させてねじ曲げながら、後向きでマットの上に着地した。それは全く弾まない着地で、手でポーズを取っていたりする。

見ていた者は皆呆然としていた。教師までも呆然としている。が、当のみどりは平然と列の方に戻っていった。そこには頭を抱える絵俐素の姿があった。

「あんたねえ……」

「あっはっは……ちょっと派手すぎだったかなぁ?」

「派手とかそう言うんじゃなくって!体育の授業じゃあんなのはやんないの!まったくもう、加減知らずなんだから……」

「えへへ……ちょっと気分がさあ、すっきりしなくてね」

その時、みどりの視界に列から離れていく女子の姿が見えた。二人連れで、一人がもう一人を支えながら出口の方に向かっていた。外にある休憩室(保健室を兼ねている)に行くのだろう。

「あれ……どうしたのかな?」

「あ……真里だ」

それを見た絵俐素は、不安げな表情でつぶやく。

「知ってる子?」

「うん……中学のときのクラスメート……」

「貧血、かな?」

「……」

絵俐素はみどりの問い掛けには答えずに、連れていかれる真里を見つめている。その目はいつになく真剣で、そしてとてもつらそうだった。

「……どうかした?」

「え?あ、ううん、何でもない。ただ、大丈夫かなって……」

「うーん……」

みどりには絵俐素の方が心配に思えてきたが、それを言っても余計に不安がらせるだけだと思ってやめた。

その時みどりの視界に、今度は転校生の双子の姿が入ってきた。まだ体操着の無い彼女たちは、今日のところは見学という扱いになっていて、制服のままで体育館の隅で授業を見ていたはずだった。

その二人が、体育館を出て行く二人連れを見ていた。そしてなにやら二言三言、言葉を交わす。女子の体育授業では良くある光景を、なにか特別な熱心さで見ているようにみどりには思えた。

……うーん……なにをあんなに真剣に見てるんだ?

そして真里たちの姿が体育館から消えると、少しの間を置いて、由魅が胸を手でおさえるようにした。由莉は由魅を支えながら教師の所まで連れていって何かを告げた後、そのまま由魅を連れて体育館を出て行ってしまった。

「……どうしてあの子たちまで?」

思わず口に出てしまった言葉に、絵俐素が反応した。

「え、どうかしたの?」

「いや……なんでもないと思う……」

「そう……でも、あの二人までおかしくなるなんて、変ね」

……うん……確かに変だ……これは偶然?……朝礼なんかでも一人が倒れると次々と倒れ出すって例もあることだし……そうよ。

……ただの偶然だわ。

偶然偶然偶然偶然偶然偶然偶然偶然偶然。

そう、思い込みたかったのかもしれない。しかし、心の奥底ではけたたましく警告のベルが鳴り響いていた。

……いけない、だめだ、気になって仕方がない!今日は変だ!偶然が多すぎる……転校生が連続した?偶然!転校生同士が知り合い?偶然!気分が悪くなるのがダブる?偶然!!

偶然偶然偶然偶然偶然偶然偶然偶然!!

……どうしてそんな偶然ばかりが、あたしの目の前に現れるの!?

「……気に入らない」

「え?」

「気に入らないわ……なにもかも」

「みどり?」

「……ちょっと抜ける」

突然みどりはそう言い残すと、休憩室に続く通路に向かって歩き出した。

「ちょ、ちょっと!授業中なのよ?!」

絵俐素はみどりを呼び戻そうとするが、みどりはすたすたと先に行ってしまう。追いかけた勢いも手伝って、絵俐素までみどりの後を追って体育館を出て行ってしまった。

「ど、どこに行くのよ?!」

絵俐素は小走りにみどりに近づくと、肩に手をかけて彼女を止めた。

「な、なんで絵俐素までくんのよ?!」

「ほっとけるわけないじゃない、もう……どうしたのよ、いったい?」

「いやその……さっきの二人が気になってさ」

「二人って……転校生の?ただ気分が悪くなっただけなんじゃないの?」

「そ、それは……わかんないけど、でもちょっと……」

「いったい、なにが気になってるの?」

絵俐素が不安そうに尋ねたその時……この世のものとは思われない、地の底からわき出るような悲鳴が、辺りを覆い尽くした。

「な?!」

「ひい!」

みどりと絵俐素は、お互い抱き合うようにしてその悲鳴に耐えた。その悲鳴にかぶって別の悲鳴が聞こえてくる。

「なん……なの、今の声は?」

恐る恐る絵俐素が言った。

「こ、ここじゃわかんないわよ!」

みどりはそう叫んで、思い切りよく駆け出した。行き先については間違えようも無かった。悲鳴のした方向には休憩室以外無い。

「み、みどり、待ってよ!!」

後を追う絵俐素の顔はいまにも泣き出しそうだった。

二人は通路を抜けてホールに出た。そこからまた通路に入ったその奥に、休憩室はあった。その入り口のドアは何故か半開きになっていて、まるでみどり達を誘っているようだった。

みどりはそのドアを開け放ち、勢いよく中に飛び込んでいった。

「どうしたの!?」

そこには、いくつかの現実が存在していた。

白いカーテンに隠された二つのベッド。保健室のような薬品棚。夏の日射しが差し込む窓。そこまでは以前にも見たことのある光景だった。

ただ、床にしりもちをついて身体を震わせる女生徒と、ベッドの傍らで何かを見下ろしている、由莉と由魅の双子を除いては。

「な……なんなのよ、これ……」

そしてベッドの上に乱雑に置かれたシーツの下から、素足がのぞいていた。それが真里のものであることは想像に難くなかった。

「な、なに……これ……?」

後から入ってきた絵俐素が、中の様子を見てうめく。

みどりはぐっと息を飲み込むと、一歩前に進んだ。それにつられて絵俐素も足を踏み出す。たったそれだけのことで、カーテンの影から恐ろしい現実が見えてきた。

ベッドの上には体操服姿の女生徒が身を横たえていた。それだけなら何でもない風景だったろう。

しかし次の瞬間……みどりは声にならない悲鳴を上げた。後ろから顔をのぞかせた絵俐素は、何も言えず、絶句した。

そこにいたのは、確かにさっき見た真里だった。ほんの数分前に見たばかりの。

だが……その顔は明らかに死人のものであって、それもまともな死に方ではないと一見してわかるものだった。

みどりはただそれを凝視した。いや、してしまった。

全身の肌は土気色で、まるで何日も放置されていたかのようだった。肌の上には玉のような汗がびっしりと吹き出していて、筋肉の形作ったしわが幾重にも重なっている。そして……真里の口は大きく開かれ、奇妙に歪んでいた。

しかし、それらにも増して恐ろしかったのは……その目、だった。口と同様大きく見開かれたその瞳は、虚空を睨みつけるようにして、妖しい輝きを放っていた。

一体なにを見たというのか?

「い……いや……いああああああああ!!」

突然、絵俐素が悲鳴を上げた。そしてみどりにしがみつき、がたがたと激しく震えた。

「真里……真里……そんな……そんな!!」

「絵俐素、しっかりして!絵俐素!」

パニックを起こして暴れる絵俐素の頬を、みどりは二度三度叩きながら叫ぶ。

「落ち着きなさい!」

「み、みどりぃ……だって……だって……真里が……真里が!!」

「いいから、はやく先生呼んできて!それから、その子もここから連れ出して!」

床にしりもちをついて沫吹いている女子を指差しながら、みどりはきつい口調で言った。

「でも……でも……」

「いきなさい!!」

みどりは床の女子を強引に立たせると、絵俐素の肩にその子の腕を絡めた。

「さあ!」

「う……うん……」

力なく絵俐素はうなずくと、失神しかけている女子を引きずるようにして部屋から出ていった。

その様子を見届けると、みどりはベッドの方を振り返った。身体ががたがたと震えそうになる。だがそれを押さえつけるようにして、双子を睨みつけた。

由魅は床にひざまづいて、真里の手を取りながら瞑目していた。そんな彼女を由莉が腕組みしながら、見下ろすように立っている。その目は冷淡そのものであった。

「なんなのよ、これは!」

みどりは怒りの声を由莉に浴びせた。

「あんたたち、いったい何しているの!?」

しかし、由莉はちらっとみどりを見ただけで、何も言わずに視線を戻した。

「ちょっと、なんとか言いなさいよ!?」

みどりはまなじりをつり上げて、由莉の方に近づいて行った。

すると由莉がみどりの前に立ちふさがるように、一歩前に進んだ。

「な、なによ!?」

「だまって……由魅の気が散るじゃないの」

「な……!?」

あまりに横柄な口ぶりに、みどりは一瞬我を忘れた。

「聞いてるのはこっちよ!あんたたち!いったいなんなのよ!?」

しかし由莉は全く動じずに、更にみどりに詰め寄った。その迫力に、みどりは圧倒される自分を感じた。

「……!?」

「静かにしてくれない?さもないと……」

「由莉」

その時、由魅が立ち上がって声をかけた。

「終わったわ」

そうして由魅は疲れたような笑みを浮かべた。みどりにはそれが、中身のない空虚なものに思えた。

「そう。じゃ、行きましょうか」

そう由莉が言うと、双子はあっけに取られているみどりのそばを通り抜け、部屋から出ていこうとした。

「……ま、待って!」

ありったけの気力を振り絞って、みどりが声を出した。すると双子は立ち止まってみどりを見つめた。

「いったい、これはなに?あなたたち、いったい何してたの!?」

哀願するようなみどりの問いに、しかし、二人は答えなかった。ただ去り際に、由莉が忠告めいたことを、憐れみとも蔑みともとれる口調で言い残しただけだった。

「……答えは自分で見つけ出すものよ。人に聞いてなんとかなるもんじゃないわ。それに、それが望みのものかどうかだってわかりゃしないんだから……下手なこと、考えない方がいいよ」

そうして、ドアが音をたてて閉ざされた。

一人取り残されたみどりは、深く深呼吸をした。また身体が震えている。

……いったい……なんなのよこれは!?

そうして真里の横たわるベッドに目を向けた時……みどりは我が目を疑った。

「な!?……そんなまさか!?」

真里の死顔は、さっき見た時とは全く正反対の、穏やかで安らいだ表情をしていた。

「な、なんなのよこれ!?さっきはあんなに怖かったのに……あの子……由魅のせい?」

言い知れぬ恐怖が、みどりの全身を貫いた。

……死人の表情を変えた?あの子がそんなことやったの?なんでそんなことできるの?ああ、それよりも……これはなに?これは……昨日死んだ子と同じ?いままで死んだ子たちと同じだっていうの?これが……そうなの?そうだというの?

『答えは自分で見つけ出すものよ』

……ああ、あの子の言葉……確かにその通りだ……自分で見つけなきゃいけないのに……そんなこと、とっくの昔にわかっていたはずなのに……。

無意識のうちに、みどりは両の拳を握りしめていた。身体に力がみなぎってくるのを感じる。

……見つけてやろうじゃないの、その答えとやらを!それがどんなものか、絶対に突き止めてみせる!!

突然せみの声が辺りに響き出した。まるで時が動き始めたかのように。


またですか。一体いつまで続くんですかねえ?

まったくですな。人騒がせもいい所だ。

でもまあ、警察も報道も黙っていてくれるから楽ですよ。そうでなければ今ごろは週刊誌の餌食で……。

でも不思議ですな。教育委員会やPTAが何も言ってこないなんて。

まったくほんとうに。いつもなら口やかましく言ってくるだろうにねえ。

ここだけの話ですけど……なんでも、日本中でおんなじことが起ってるなんて噂もあるみたいですよ。

まさか……そんなばかなことが……ねえ?

どうせ無責任な噂でしょう。

ま、生徒たちや親御さんたちに動揺がないように、何も言わないのが得策でしょうな。

そうそう。ただでさえ私らはいらぬことで非難されやすいですからな。


授業は通常通り続けられていた。教師は教壇に立って黒板になにやら書きつける。それを熱心に、あるいは適当に書き留める生徒たち。

それを全く無表情に、みどりは見ていた。

……これが現実ってわけ。

学校からの連絡を受けて警察がやって来ると、みどりたちはいくつか質問された。死んだ者とは知り合いだったのか?どうしてあの場所にいたのか?なにかそれらしい兆候はあったのか?……等々。

しかし、それだけだった。

みどり自身は、授業をエスケープしようとして通りかかっただけだと言った。篠田真里に付き添っていた女生徒は、ただ保健委員としても役目を果たしただけで、それ以上は何もわからないと震えながら言うだけだった。そして、一番衝撃を受けているはずの絵俐素は……言うべき言葉を失っていた。

双子だけは真実の一部を握っているようにみどりには思えたが、ならばなおのこと、警察に素直に話すはずはないと確信できた。

そして当の警察も、その警察を呼んだ教師たちも、なんの答えも期待していなかった。彼らはただ、一人の女生徒が突然死したという事実以外のものを求めてはいなかった。学校側にしてみれば、いじめだとか体罰だとかの問題が無ければそれでいいのだった。そして篠田真里は、そういうことは絶対あり得ないほど、完璧な生徒だった。

……絵俐素、大丈夫かな?

絵俐素の席は空席だった。事情聴取の後、気分が優れないということで早退したのだ。みどりが送ろうとしたのだが、大丈夫だからと言って、絵俐素は一人帰っていったのだった。

……無理にでも送っていけばよかったかな?だけど……あの二人をほっとくわけにはいかないから……。

首を後ろに回して、みどりは双子を視界に捉えた。二人は並んで座りながら平然と授業を受けていた。そこには死体を見たというような衝撃は、微塵も感じられない。

……ただ者じゃないってこと、か。それにしても堂々としている……あたしなんか……まだ身体が震えてるのに……。

みどりは視線を落として、膝の上に置かれている自分の手を見つめた。……微かに、指が震えている。

……それにあの死顔……いったいなにを見たらあんな顔になるの?……恐ろしい……怖い……。

……でも、かわいそう……絵俐素のお友達か……どんな子だったんだろう……。

……だけど、それよりも今は……あの二人のほうが……。

もう一度、振り返ってみどりは双子を見た。

その何者も寄せつけない超然とした姿勢に、みどりはある種の感動を覚えずにはいられなかった。

……不思議だ。やな奴だって思っているのに……なにか惹かれる感じがする……そんなはずないのに……この気持ちはいったいなに?

……圧倒されてる……このあたしが?気後れなんてしたことないのに……。

……いやだ、こんな気持ちは……気に入らない、気持ち悪い……誰か助けて……。

……ううん、違う……だめ……それじゃいけない……自分でなんとかする……しなきゃ……するんだ……でないと……でないと……。

……あたしの生きている意味、無い。


ようやく授業が終わった。生徒たちは気だるそうに教室の掃除や部活へと動き始める。

みどりが気がついた時には、既に双子の姿は消えていた。どうしようもなくなったみどりは、仕方なく鞄を手にして教室を後にした。

向かった先は図書館だった。騒々しく階段を駆け上がり、書棚の森を抜け、奥の部屋を目指す。そして叩きつけるようにあのノックをして、みどりは荒々しくドアを開け放った。

「みどりちゃん?!」

ドアを開けたみどりを見て、立ちながら書類に目を通していた啓吾は目を見開いた。そのそばでは将介が机の上で両手で頬杖をつきながら、上目使いにみどりを見た。

「お兄ちゃん!」

「ああ、ああ、わかってる」

将介はみどりをあやすように言った。

「大変な目にあったのは知っている……だが、まずは落ち着け」

その冷静な声に、みどりは気勢をそがれておとなしく椅子に座った。

「やっぱり、もう知ってるんだね。さすがお兄ちゃん……」

元気の無い声でみどりは言った。

「だったら……聞かせて、知ってること」

「ああ……そう、だな……」

一呼吸おいて、将介は話し出した。

「死んだ生徒の名前は篠田真里、一年C組。体育授業中に気分が悪くなり、クラスメートに付き添われて体育館内の休憩室に移動。そしてベッドに寝かせたところ、急に苦しみ出し、そして死亡した……そうだな、啓吾?」

「うん……その直後に四人の生徒が到着。今日みどりちゃんのクラスに編入した双子の姉妹。そしてみどりちゃんと羽田さんだね。先に到着した双子の方は、妹の方が気分が悪くなったので休憩室に向かったと話している。そしてみどりちゃんの方は、授業をエスケープしようとして、悲鳴を聞きつけて休憩室に向かったと……。警察は付き添った女子も含めて、事件との関連性は無いと判断した……らしいね」

「いつもながら、すごい情報収集能力ですね」

いつものみどりなら嬉々として言うその言葉は、さすがに力の無いものだった。

「でもそれ、違います。絵俐素が心配してたのは確かだけど、先に動いたのはあたしだし、理由はエスケープなんかじゃない……」

「じゃあ、何が気になったんだ?」

将介は厳しい目でみどりを見た。

「うん……」

みどりは肯くと、ぽつりと言った。

「転校生の双子……が変だったから」

「変だって?」

将介は怪訝な表情でみどりを見た。

「そう……確かに篠田さんは気分が悪そうだった。だから休憩室に行く……それは当たり前よ。でもそのすぐ後に、その双子もついていったのよ。それも篠田さんの様子を確かめるようにしてから。気分悪そうにした方は、まるで演技してるみたいだった……」

「それは連鎖反応って奴じゃないのか?朝礼でよくある?」

将介がそう聞くと、みどりは首を振りながら言った

「最初はそう思ったわ。でも……休憩室の中の二人は……そう、もっと変だったのよ」

「変って……どんな風に?」

「篠田さんは、休憩室に入ってすぐに苦しみ出したのよね?」

「ああ……そのようだな」

「双子が部屋に入ったのも、そんなに間は空いてないはずよ。だから、苦しんでいるのを見てるはずなのに……」

「なのに?」

「付き添いの子が失神するくらい驚いているのに、あの子たち……平然として、篠田さんを……彼女の死体を見てた……」

みどりの目の前に真里の姿が浮かび上がってきた。思わず全身が震える。

「それは固まっていたとかじゃないのか?気が動転していからとか?」

「ちがう!なにか……そう、観察するみたいにしてた。一人は手まで触ってた!……それに……あんな……」

「あんな?」

「あんな……恐ろしい顔してたのに……」

大きく見開かれた目、虚空を見つめる瞳、そして恐怖に歪む口元……その時の光景を思い浮かべて、みどりは身体を震わせた。

「なのに平然と……篠田さんを見てた。普通じゃないわよ!」

「うーん……単に見慣れていたとか……家が医者だとかさ」

「ちがう!そんなんじゃない!」

みどりの叫びに、将介は真剣な表情で聞いた。

「まだ、なにかあるのか?」

「うん……そう、あれは……」

双子に気を取られている間に、起った出来事。

「顔が……篠田さんの顔が……変わったの」

「変わった?どう変わったんだ?」

「それは……あんなにむごい、恐怖に満ちた死顔が……気がついた時には、とても穏やかになっていた……そんなのって……そんなのって信じられる!?自然にそうなったなんて、あたし信じないから……信じないからね!」

興奮気味に叫ぶみどりを、将介と啓吾は静かに見つめていた。

「ねえ、お兄ちゃん、里見さん!あの双子、絶対なにかあるわ!きっとあの連続事件にも……関係してる……そんな気がするの……これは偶然なんかじゃない……全然偶然なんかじゃない……これは……」

と、その時。

ととん、とん、とん、とん。

あのリズムでドアがノックされた。

みどりは勢いを止められて不快な表情をした。しかし、ここでは将介達に会いに来た者が優先されるのだ。

「ああ、どうぞ、開いてるよ」

将介がそう言うと、ゆっくりとドアが開いた。そうして入って来たのは……。

「ああっ!?」

みどりは大声を上げた。

そこにはあの二人……由莉と由魅がいた。由莉は中を見回してみどりの姿を見つけると、馴れ馴れしく声をかけた。

「あら、あなたは……良く会うわね」

「な……なんであんたたちがここに来るのよ!?」

「あら……ここが相談所みたいなことやってるって聞いたから、来てみたんだけど……」

……うそだ!

みどりはそう思ったが、何の証拠もない。ただ唇をかみ締めるしかなかった。

由莉はそんなみどりを尻目に、将介の方を向いて言った。

「こちらですよね?困ったことがあったら相談しに来ると、なんとかしてもらえるというのは……」

「まあ……事と次第によるね」

将介はとぼけた口調で言った。

「あんまり面倒過ぎることだと請け負いかねる……普通の学生専門だから、興信所みたいなこと期待されても困るな……千原由莉さん?」

名乗る前から名前を言い当てられた由莉は、しかし、驚くでもなく、興味津々と言った感じで将介を見つめた。

「あら、もう知ってるんだ。なるほどねえ……あ、こっちは妹の由魅……って、説明することはないか」

「ま、地獄耳だからね。それに……女性は見間違えないのが信条なんだ」

「まあ、それはそれは……」

「由魅……です。よろしくお願いします」

由魅は静かにそう言って頭を下げた。そして顔を上げると、視線を滑らせるようにして啓吾の方を見た。その何かを訴えかけるような目に、一瞬啓吾が身じろぎする。だがそれはあまりにも一瞬の出来事で、みどりは何も気がつかなかった。

「それで……どういう相談なのかな?」

そう将介が尋ねると、由莉は笑いながらこう言った。

「いえね、そんな面倒なことじゃないんですよ。なにかをして下さいというお願いではなくて……何もしないでいて欲しいんですよ」

それはあまりにも奇妙なお願いだった。普通なら悩みごとを解決して欲しいという言葉が出てくるはずなのに。

将介は首をかしげながら言った。

「何もするなとはまた……おかしな話だね。それに僕たちがなにかをしているみたいな言い方じゃないか」

「あらやだ」

本当に驚いたと言う表情で由莉は言った。

「うそ、やだ、間違い?そんなはずないのに……だからあいつの言うことは……」

もごもごと由莉は口の中で何事かつぶやいた。あまり綺麗な言葉ではないらしい。

しかし由莉はすぐさまにこやかな表情を浮かべて尋ねた。

「事件のこと、調べてるんでしょ?」

「事件?……なんのことだい?」

「あれ?あれれ?……知っててとぼけてるでしょ?」

「いや……ただ事件と言われても、なんのことだかわからないよ」

「ふうん……なるほどねえ……」

将介の対応に、由莉は目を細めた。

「確かに、食えない人ね」

そうつぶやくと、由莉は小悪魔のような笑みを浮かべて言った。

「まあ、そういうのなら別にかまいませんけどね……でもね、これ以上首を突っ込まない方がいいと思うわ。でないと……」

「でないと……?」

「怖い目に遭っちゃうかも」

にっ。小悪魔を通り越して、悪魔そのものといった笑顔。

しかし将介は全く動じない。

「へえ……どういう目なんだろう?それに、される相手にもよるなぁ」

「あら、そんなこと……女のあたしに言わせるつもり?」

少女とは思えない蠱惑的な笑みを浮かべて由莉は言った。

「まあ、死ぬ目にはあわなくても、怖い目は見るかもね」

「……」

将介のその沈黙をどう取ったのか、由莉は笑った。あっけらかんと。

「うふふ……ま、へんなこと、考えるのはやめといた方がいいわよ。あたしたちのお願いっていうのは、そういうこと。……それじゃあまた……もしも、次があったらね」

言うだけ言って、由莉はきびすを返すと部屋から出て行く。

その姿を苦々しく睨みつけていたみどりは、由魅がまだ部屋の中に残っていることに気がついた。彼女の視線は……じっと啓吾に対して向けられていた。

そして、啓吾もまた由魅を見つめていた。いつものみどりを見る目とは違って、怯えたような、それでいて安らいでいるような、そんな瞳。

……そんな……やだ……里見さん……。

自分の見たことのない啓吾の姿に、みどりは胸騒ぎを覚えた。今まで感じたことのない、畏れにも似た感情……身体が不思議と熱くなった。

「さ……」

「里見……啓吾、さん」

が、みどりが啓吾を呼ぼうとするよりも先に、由魅が言った。

「お会いできて良かったです。できればこのまま……何も起きないことを、祈ってます」

「君は……君はいったい……」

啓吾は夢みるようにつぶやいた。

「由魅です。忘れないで……」

神秘的な笑みを浮かべて由魅はそう言うと、深々と一礼してから静かに部屋を出ていった。

それまでの光景をあっけに取られて見ていたみどりは、次第に胸の内に怒りが込み上げてくるのを感じた。いや、嫉妬というべきだろうか?

「さ、里見さん!し、知ってるんですか、彼女?!」

「え……あ、いや、初対面だよ」

寝ぼけたような声で啓吾は言った。

「でも……」

そんな感じじゃなかった、そう言おうとしてみどりは口をつぐんだ。嫉妬してるなどと思われたくなかった。

そしてそれを隠すかのように、みどりは大声で将介にくってかかった。

「お、お兄ちゃん、どうするの?!」

「どうっていったって、お前……事件がなんのことだかわからんしなあ……」

将介はちらと啓吾に視線を向け、とぼけた口調で言った。

「そんなこと!生徒の突然死しかないじゃない!あたし見たんだから!あの双子の目の前で事件が起ったのを!絶対何かあるのよ!」

「確実な証拠は何も無いぞ?」

「そ、それは……で、でも!なんであんなこと言いに来たの!?探られるのがいやだからじゃないの?それってやましいことがあるからでしょう!?」

「……」

しかし将介は何も言おうとはしない。それを見たみどりの心に疑念が巻き起こる。

「あ……まさか言いなりになるつもりじゃないでしょうね!?」

「まさか」

「じゃ、じゃあ……」

「そもそも彼女たちが言うような動きを、俺たちはしていない。だから言いなりになるまでもなく、することなんてなにもないんだよ」

「じょ……冗談じゃないわよ!!」

ばん!!

みどりは机の上を凄まじ音をたてて叩いた。

「あの二人が何か知ってるのは確かなのよ!聞いたでしょ、あの口ぶり!絶対おかしいわよ!なのになんで逃げるのよ!」

「別に逃げてるわけじゃない」

「うそ!!」

「嘘じゃない……あのな、もしお前の疑惑が本当のことだとして……一体俺たちになにができるって言うんだ?」

「それは!……それは……」

……なにをすればいいの?

自分が何も考えていないことに気がつかされ、みどりは絶句した。

……調べて……あの双子の関わりがわかったとして……それからどうするの?みんなに教える?ううん、それは……ただ事実がわかるだけで……それからなにをするの?なにをすればいいの?

黙り込んだみどりを見ながら、将介は哀れむように言った。

「そういうことだ……素人の俺たちにはどうしていいのかわからないような出来事なんだ。だから彼女たち言われるまでもなく、なにもしない。だからお前も、そんなことは考えるな」

……そんな……そんなことできない……できないよ……でもどうしたら……。

ふと顔を上げると、里見の姿が目に入る。さっき見せたもの憂い表情のまま。

みどりは最後の望みを里見に託した。

「里見さん!里見さんはどうなんですか?お兄ちゃんの言う通りにするんですか?!」

彼の意見次第では将介も考え直すかもしれない。そう思ったのだ。

だが、彼の答えはみどりの期待を裏切った。

「僕も……将介の意見に賛成だよ。僕らにできることは何も無い……」

「里見さん!?」

「じっと事態を見守るのがいいと思う。」

そう言う啓吾の顔は、普段以上に青ざめていた。

「そういうことだ。この件については、俺たちは何もしない」

将介の宣言は最終決定に他ならない。

「そんな……」

みどりは放心したように将介の顔を見た。

……そんな……お兄ちゃんが……あんなこと言われて引き下がるなんて……。

「……ちょっと……外に出てくるよ」

力の無い声で啓吾が言った。そして額に手を当てながら部屋から出て行こうとする。

「さ、里見さん?!」

みどりは啓吾を追うかどうか迷ったが、その間に啓吾は部屋から出てしまっていた。

動きようのなくなったみどりは、振り返って将介の顔を見た。将介は何を考えているのかわからない目でみどりを見つめていた。いや、みどりにわからないだけなのかも知れない。そう思うと、みどりは自分がとても情けなくて仕方がなかった。

しばし見つめ合った後、将介は思い出したかのように言った。

「いいのか、追わなくて?」

一瞬口元をゆがめたみどりは、きびすを返して啓吾の後を追った。

一人残された将介は、二人の出ていったドアを睨みつけた。

「……えらいことになったな」

将介はそう言ってため息をつくと、部屋のドアを閉めた。そして椅子に座り、机の上に置かれたノートパソコンの画面をのぞき込む。スクリーンセーバーが働いているその画面は、所々がゆらゆらと揺らめいて、砂時計の中の砂のように崩れて下に落ちていく……。

そんな光景をぼーっと見ながら、将介はぶつぶつとつぶやき出した。

「……みどりの奴、無茶してくれなければいいんだが……といっても無理か。啓吾が絡んじまったからな……それもこれもあの双子の……ああ、もう一人いるか……あいつらが来たせいで……」

……いや、違うな。あいつらが来たのは結果に過ぎない。問題はもっと別の……。

将介はキーを叩いてスクリーンセーバーを停止させると、椅子に座り直してなにやら作業を始めた。

「まさかと思いたかったんだが……そうも言ってられんしな……」

部屋の中には、ただキーボードを打つ音だけが響いていた……。





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