いつだって、朝って奴は突然にやって来る。楽しい夢から、気怠い微睡みから、引き剥がしにやって来るんだ……。
「おーい、櫻ちゃーん!」
……もっと眠っていたいのに……もっと夢の中にいたいのに……。
「櫻ちゃんってばー!!」
……あー、うるせーな。
「遅れちゃうよ〜!」
……なんだよ……俺はまだ眠いんだよ……。
「もう遅刻しちゃうってば〜、櫻ちゃ〜ん!」
……だからうるさいって……静かにしてくれよ。
……あん、遅刻?
「うわ!」
俺はベッドの上で跳ね起きた。時計を見る。やば、あと十分も無いぞ。
「おーい、起きたか〜?櫻ちゃーん!」
また窓の外から声がする。女の声だ……ええい、連呼しやがって。
「うるせー!」
そう窓の外に叫んでから、俺はベッドから降りた。
くそ、朝っぱらからろくでもない……だから朝は嫌いなんだ。なんでもかんでも無理やりやってきやがる。俺はただ平穏な一日を過ごしたいだけなのに、それが全く台なしだぜ。
……なんて、落ち着いてる場合じゃねえな。理想を語る前に現実を直視せねば……急げ!
どうにかこうにか手はずを整えて、俺はどたどたと階段を降りた。スラックスにワイシャツ、その上に碧のブレザーを少しだらしなく羽織った、いつものスタイルだ。
「おはよー!」
勢いよく声をかけながら俺はダイニングに飛び込んだ。
「あらあら、いつも通りだわね〜」
おっとりした、緊張感のかけらも無い声がかけられる。
キッチンの前に立って俺を振り返っているのは、今どき珍しい割烹着の下に和服を着た、いかにも日本女性風の顔立ちに黒くて長い髪……俺の母親だ。名前はという。
「学校、遅れるわよ〜?」
「わかってるんだったら起こしてくれよ!」
そう文句を言って、テーブルに置かれた焼きトーストを一枚口に放り込み、牛乳で流し込む。うぐ、苦しい……こ、根性で耐える。
「駄目よ〜、自分で起きれるように習慣づけないと」
ああ、いつもながらのお説教。昔っからほんと、変らないよな……だけど、ほっぺた膨らましていうようじゃ説得力に欠ける。叱るというよりは拗ねてるみたいだ。
「お父さんからも言ってやってくださいよ〜」
そう母さんが水を向けると、椅子に座って新聞で顔を隠したままの親父が言った。名前は。仕事はネットワーク関係のエンジニアだ。ちなみに親父は婿養子だったりする。
「こいつの人生だからなあ。自分でなんとかしてもらわんと」
似た者夫婦というかなんというか、こっちも眠たそうな声で言う。
「そうですよね〜」
おいおいおい。えらく突き放しとるなあ……まあ、そのおかげで無茶やってるというのも否定できんのだが……って、冷静に分析してる場合じゃない!付き合ってられんわい。
「はいはい、仲いいね二人とも!行って来ます!!」
「は〜い、いってらっしゃ〜い」
うーん……毎度毎度思うんだが、なんか気合いが入らんよなあ、あの声で言われても。
まあ、いいや。とにかく学校に行かなくちゃ話にならん。
玄関で靴を突っかけ、ナップザックを背中に背負った俺は、扉にぶつかりそうになりながらもなんとか外に出ることができた。
うむ、今日も見事な秋晴れである……などと人が感傷に浸っているとき、奴が現れた。
「もうっ、遅いじゃないのよ!」
ちい。人が折角季節感を味わっている最中に無粋な。
「なんだよ、うるさいな」
俺が声のした方を振り返ると……そこには、俺と同じ碧のブレザーに、緑がかった黄土色のスカートを着た女が一人、俺の方を睨んでいた。吊り目の、実に挑発的な目だ。それを逆立つような真っ赤な髪が強化している。もちろん、真っ赤な髪ってのは作り物だが。
こいつの名前は。幼稚園時分からの付き合いの、いわゆる幼なじみって奴だな。今となっては腐れ縁って奴かも……これがずいぶんと気の強い奴でさ……。
「うるさいじゃないわよ。人がせっかく起こしに来てやってるのにさ」
腰に手をあてながら薫はぶつぶつ文句を言った。
「だれが頼んだよ、そんなこと。それにな、ちゃんづけで呼ぶなって何度も言ってあるだろうが!!」
くそ。昔っから櫻ちゃん、櫻ちゃんと連呼しやがって。俺が嫌がってるの承知で繰り返しやがる。俺が嫌がる理由は……ふん、どうせ他愛のない理由さ。
「だって、櫻ちゃんは櫻ちゃんだもん」
が、素っとぼけた顔で薫はそんなことぬかしやがる。
「だからちゃん付けで呼ぶなっての!」
「ええ〜、櫻ちゃんは櫻ちゃんなのに〜」
まだ繰り返すか、こいつ。
「勝手に言ってろ」
俺は冷たく言い放つと、さっさと歩き出した。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
ち、ついてくんなよ……って、行き先が一緒じゃどうにもならんよな、くそ。
「あたしが毎朝起こして上げてるから遅刻しないですむってのに、その態度はないんじゃないのよ!」
薫は俺の耳もとででかい声を上げながら叫んだ。
「うるせー、別に頼んじゃいない」
「あんたねえ……人の好意を無視してるといつか罰が当たるわよ」
人指し指をつんと立てながら、薫は偉そうに言った。
「罰ねえ……当ててもらいたいもんだね。本当に神様がいるんだったらな」
俺がそう茶化すように言うと、薫は急に俺の前に立ちふさがった。
「いるわよきっと。絶対に」
そう言って薫はにっと口許を歪める。
「あんただけを懲らしめる神様がね」
まるでメフィストフェレスみたいな、ぞっとするような笑みだ。
こいつは時々こういう顔をする。なんでかよく分からんが、困ったことに、それが一番いい表情だったりするからなあ……まあ、いい表情って言っても、普段よりましって程度だが。「へえ……ぜひ、会ってみたいもんだね」
俺も負けずに言い返すと、ちょいと急ぎ足で学校の方へと向かった。いい加減本当に遅刻しそうだ。
「あ、こら!待ちなさいよ!」
薫が慌てて追いかけてくる。
「ええい!罰当ててやる〜」
「やなこった」
俺は薫の罰(?)をかわしつつ、学校への道を駆け抜けていった……。
そういや自己紹介がまだだったな。
俺の名前は……名前がなんだが、れっきとした男だ。当年とって16歳、北星高校一年生というのが現在の俺のプロフィールだ。がたいは平均的、顔は人並み、頭は……莫迦じゃないとは思っているが、まあこいつは相手に寄るからな……ま、そういうことでよろしく。
さて、どうにかこうにか学校にたどり着いた。が、しかし、遅刻ぎりぎりの時間だったもんで、まさに今、正門の鉄扉が生活委員の手によって閉められようとしている。
「ほら!もう閉まっちゃうじゃないのよ!」
「いつものことだ、走れ!」
俺は薫を置き去りにして門に向かって走った。すると生活委員の女子生徒がちらっと俺の方を見て、呆れたような微笑みを浮かべる。うーん、いいなあ、やっぱり。
「美琴先輩、おはようございます!」
門の前で足踏みしながら俺は元気よく挨拶する。
「おはよう、橘君。またぎりぎりなのね」
美琴さんはそう言って軽く睨み付ける。その表情がなんとも魅力的だ。それにセミロングの黒髪と、すらっとしたスタイルが見事に調和している。うーん、いいなあ……。
美琴先輩……野々村美琴さんは二年生。生活委員会の副委員長さんだ。毎朝一番最後に正面扉を閉めるのが彼女の日課だった。それでまあ、遅刻ぎりぎりを何度もやらかしているうちにお近づきになったという次第。
でもいつ見てもきれいだよなあ……言い寄る男が後を絶たないというのも肯ける。かくいう俺にとっても、憧れの人であるのだが……。
「でも間に合ってますよね?」
扉の間にそろっと身体を差し込みながら俺は言った。
「遅刻しそうになってもしないのが俺の信条でして……」
「あら。私は五分前待機の方がいいわ。その方が楽だし」
「いやあ、その五分が名残惜しくてですねえ……」
などとにこやかに会話している所に、
「さっさと入りなさいよ、櫻ちゃん!」
と、追いついてきた薫がものすごい形相で俺を睨み付ける。
「ほんとに遅刻するでしょうが!」
「わかったよ……」
ち、気の利かない奴め。
仕方なく門の内側に入ると、俺たちが入るのを見届けてから美琴さんは鉄扉を閉めた。
「はいはい、もう行かないとホームルーム間に合わないわよ」
「わかってますって。それじゃまた」
そう言って手を振ると、美琴さんも手を振ってくれた。うんうん、いい感じだ。
「行くわよ、ほら!もう時間がないっての!」
くそ、また邪魔が……薫が強引に俺の腕を引っ張る。
「おい、引っ張るなよ!」
「まったくもう……のんびりしてる暇なんかないのよ!」
「せちがらいねえ……」
「誰のせいだと思ってんのよ!?」
「怒ると寿命が縮むぜ」
「あんたも道連れよ!」
「くわばらくわばら……」
「それは雷よけだってーの!」
「そりゃどうも……俺にとっちゃ雷みたいなもんだが……」
「なんか言った!?」
「えー、本日はお日柄もよく……」
「ああもう!一生やってろ!」
応対に疲れたのか、薫は手を放して先に行ってしまった。まあいつものことだが……懲りない奴だ。最近はずっとこうだな。一体なにをいらいらしているのやら……もっとも、俺の対応も褒められたもんじゃないか。
正直言って、ああいうやり取りは苦手だ。ただ感情をぶつけられるだけの、意味のない会話……いや、意味はあるんだろうが、俺にはやかましいだけだ。会話ってのは、もっと有意義じゃなくちゃな。
さて、さすがに急がないと本当に遅刻になっちまうな……。
なんとかホームルームにも間に合い、一限目の授業も終わってほっと一息ついた。うーん、やっぱり朝は調子が出ないな。思わずあくびが出る。
「相変わらずだねえ、櫻は」
そう話しかけてくるのは、親友のだ。中学時分からの付き合いになる。俺を名前で呼べるただ一人の友人だ(薫の奴は別だが)。ちょいと抜けたような感じのする奴だが、結構外見はいいので意外と人気がある。眼鏡がチャームポイントってとこかね。
「なにがだ?」
ぶっきらぼうこの上ない口調で俺は言った。その辺りは心得ているもので、岬はおとなしそうな表情を変えずに言う。
「葉さん、またカリカリしてるみたいだよ」
「あいつはいつもそうなんだよ」
教室を見回してみたが、薫の姿は見えない。
「櫻がかまわなすぎなんだよ」
「なんだい、そりゃ」
「最近付き合い悪いだろ?心配してるんじゃないのかな?」
んなこと、真面目な顔で言われてもなあ……。
「悪い冗談だぜ、それ。なんで心配なんかされなきゃならんのだ?」
「それは……」
岬はそう言いかけて、視線を俺の背後に固定させる。
「なんだ?それは?」
「……それはねえ」
背中から聞こえてくるその声は……うげ。
「変なことしてないかってことよ!」
突然背後からフェイスロックをかけられる。
「うげ!や、やめろ、この!」
強引に腕を引き剥がすと、後ろを向いてくってかかる。もちろん相手はあのがさつ女、薫だ。
「いきなり何しやがる!?」
「ふん。罰が当たったのよ」
掌をたたき合わせながら平然とした顔で薫は言った。
「人にも言えないようなバイトしてるから」
「あのなあ……なんでそんなこと言わなきゃいけないんだ?どんなバイトしようと俺の勝手だろ?」
「親にも言えないようなバイトしておいて、そういうこと言うわけ?」
「うちは放任主義なんだよ。心配なんかするかい」
「そんなこと言って、問題起きてからじゃ遅いんだからね!」
厳しい表情で俺を睨み付ける薫。確かに、心配してるってのは本当だろうな……だが、どういう風の吹き回しだっていうんだ?
「まあまあ、ふたりとも……」
岬が間に割ってはいる。しかし、薫は岬にもかみつき出した。
「大体ねえ、蓮君が変なバイト持ってくるからいけないのよ!」
「そ、そんなこと言われたって……」
「なんのバイトなのか教えなさいよ!」
「だから言えない約束なんだよ。僕にもどうしようもないんだよ」
「うう〜」
申しわけなさそうに言う岬に、薫はうなり声を上げるだけ。
こういうときの岬は無敵だ。あいつの困った顔を見て無理を言えるやつはいない。
「そうそう、そういう約束だったよな。ま、割のいいバイトだし、いうことないけどな」
俺が意地悪そうに言うと、
「ふんだ、二人してあたしをのけ者にして!いいわよ、勝手にすれば!」
そう言い残して、薫はまた教室から居なくなった。忙しいやつだな。
「大変だねえ……」
頭をかきながら岬は俺を見た。
「何だその目は?」
「いや、大変だなと思って……」
うーん、捕らえ処のない目だ……ぼうっとしているようで、その奥で何考えているかわからない。つまり……なにを言いたいのかわからないということだ!わっはっは!
って、笑いごとじゃない、本当のことだ。ただ、言いたそうなことはわかる、その程度だ。だってそうだろう?本当に他人の気持ちのわかるなんて奴が居たら、そいつは詐欺師かその本人そのものだろう。いや……その本人だって怪しいかもな。
「別に、大変なわけじゃないさ」
俺は椅子の上でそっくりかえりながらそう答えた。
「もう慣れっこだよ」
「櫻のことなんか気にしちゃいないよ」
「なに!?まさかお前……薫に気があるのか!?」
「そう意味じゃなくてだね……ふうん?」
「な、なんだよ……」
今度はからかうような表情で俺を見る岬。
「さては……やっぱり気になってるな」
「へ?はっ、なにを莫迦な……あいつのことなんかどうでもいいさ」
「ふうん……」
まだなにか言いたそうにしていたが、岬は話題を変えた。
「そうそう、そのバイトの方は調子どうだい?」
「ああ、そろそろ馴れてきたってことかな。けっこう楽しいぜ」
「そりゃ良かった。推薦した甲斐があったよ」
夏休みが明けてぼけーっとしていた頃、岬から持ちかけられたのが、今俺が働いているバイトだった。秘密厳守、誰にもその内容を、どこでしているのかも話してはいけないという、実に怪しげなバイトだった。だが岬の紹介でもあったし、ちょうど暇だったので話だけでもと思ったのだが……まさかあんな内容だったとは思いもしなかったな。
「かなり評判いいみたいだよ」
「そりゃよかった。能力給ありと言ってたから、期待できるかもなあ」
「そうだといいね……あ、予鈴だ」
ち、もうかよ。
「今日は?」
「ああ、出勤日さ。今日はいい客が来るといいな」
「期待通りであることを祈ってるよ」
そう言って岬は笑うと、自分の席へと戻っていった。
期待通り、か……ま、世の中そうそううまくはいかんわな。
それにしても薫の奴……まだ戻ってこないつもりなのかね。一度ごねると引っ込みがつかなくなるタイプだからな、あいつは。
ま……自分でなんとかするだろうさ。
放課後……ようやく退屈な授業が終わった。さて、バイトに出かけるとするか。
教室を出ようとした時、薫の奴とぶつかりそうになった。が、薫はふんっとか言ってそっぽを向くと、あさっての方へと歩いていった。
ふう、どうやらついてくる気はないか……最初の頃はまくのに苦労したが、今日みたいだと安心だ。
俺は肩に荷物を引っかけながら教室を出た。
廊下は人で溢れていた。部活に行く者、帰宅する者、その他様々な人の群れだ。
色々な顔の奴がいる。楽しそうな奴に楽しくなさそうな奴。しかめっ面やら莫迦笑い顔やら、無表情な奴も居る……お、あの子可愛いな……。
とまあ、こんな感じで、俺はいつも周りの人間を観察している。
なにがおもしろいかって?さあ……なんだろう?俺にもよく分からない。
そう……分からないんだ。自分のことがよく分からない。他人のことはもっとよく分からない。なんであんな莫迦なことをするのか、なんでそんなふうに考えてしまうのか……とかくこの世は謎だらけだ。
だから楽しいということもあるかもしれないが、すっきりはっきりしないのは大嫌いなんだよな……見事なまでに矛盾。俺も似たようなもんってことか?
それでも……それでもなにか違うものがあるんじゃないかと、疑ってみたりする。違うことに意味があるのかは分からない。違いなんてないのかもしれない。でも、無ければ無いで構わないさ。違いを見つけるんじゃなくて、違いを作ってしまえばいい。ただそれだけのことだ。
ああ……そうこうしているうちに、目的地が近づいてきたようだな。
学校を出た俺は繁華街の方に向かっていた。辺りは学生や若い奴等で一杯だ。
しかし……大学生くらいに見える連中、ありゃ一体なんなんだ?まともに働いているような奴等には見えん。どうせ大方親のすねかじりだろう。全く、下らない奴等が多すぎる。まあ、すねかじりなのは俺も同じだが、それも高校出るくらいまでだ。小遣いだってたいしてもらっちゃいないし……だからこそバイトしているわけだが。
なんてことを考えつつ俺が入ったのは、カラオケボックスやらゲーセンなんかのいろんな店が入っているテナントビルだ。特に目立つようなものはない。
俺はゲームに興じるアホどもを横目に見ながら、店の奥に入っていく。奥の方は通路になっていて、進んでいくと突き当たりに鉄製のドアがあった。普通は従業員用の適当な扉だろうが、こいつはちょっと違う。造りは一緒だが、セキュリティロックの種類が違っていた。普通は単なるカードを使った電子ロックだが、ここのはドアノブにを組み込んだ最新型のドアだった。
俺がノブに手をかけると同時に認証が終了し、メカニカルロックが解除された。そのままノブを回し、ドアを開けて中に入る。
ゲーセン内の喧噪とは一転して、落ち着いた雰囲気がそこにはあった。若干落とし気味の照明のせいで広さは判然としない。床はカーペット張り、壁紙はそこらの安物とは物が違う。一流ホテルのロビーのような高級感にあふれていた。
俺の目の前にはカウンターがしつらえられており、その中に一人の男が立ってこちらを見つめていた。スーツ姿の若い男だった。顔には客商売特有のさわやかな笑みを浮かべている。
「いらっしゃいませ」
男が恭しく一礼する。学生然とした俺に対しても一分のすきもない応対。まさしくプロだね。
「やあ、"フロント"、調子はどうだい?」
軽く手を上げながら俺は言った。
「はい、おかげさまで。橘様も御機嫌麗しく」
"フロント"はにこやかにそう答える。
ああ、"フロント"っつーのは本名じゃない。通称だ。本名は知らない。それがここのルールというわけだ。本名さらすのは客の方だ。
「今日はこちらをお使いくださいませ」
そう言うと、彼は後ろの棚からICカードを取り出し、俺の前にそっと差し出した。
「ありがとう」
カードを手にした俺は更に奥を目指して歩き出した。
「それではごゆっくりどうぞ」
"フロント"が背後で頭を下げる。実際には見えないが、そういう雰囲気を感じさせるのだ。
さて、奥の方はカラオケボックスのように、廊下の両側にドアがずらっと並んでいた。しかし、窓も何も無い。その上には音楽スタジオよろしく使用中表示のランプがついているきりだ。
俺の今日の部屋はと……ああ、一番奥のだな。ではICカードを使って……と、開いたぞ。
入った部屋は少人数用のカラオケボックス程度の大きさで、廊下と同じような内装をしている。そしてその中央部には、大型のリクライニングシートがでんと鎮座ましましていた。部屋の調度と言えば、天井の明り以外はこいつだけだ。
リクライニングシートは黒革張りの一目で高級品と分かる代物で、シートの上には透明なフードのようなものが雨よけの様に張り出している。そしてシートの上には、大型のサンバイザーのようなヘッドギアが置かれていた。
準備は整っているようだな。
俺はシートに近づくと、ヘッドギアを取り上げ、そこに横たわった。そして腹にヘッドギアを置きつつ、リクライニングの調整をする。これを間違えると起きたときにひどいことになるからな……よし、これでいい。最後の仕上げ。ヘッドギアにぶら下がっていたコードをシートの側面にあるコネクターに接続し、ヘッドギアをかぶって楽な姿勢を取った。これで視界はほとんど無くなった。軽く首を振ってみるが、特に変な感じはしない。そして腕をアームレストにのせる。
さあ、ショータイムの始まりだ。
アームレストの先にあるスイッチを押すと、バイザーのシールドでふさがれた視界の先に何やら文字が浮かび上がってきた。
『Welcome to ......... "TOWER"』
シートが微かに振動する……心地よい振動だ。
そして、暗黒のバイザーに光の明滅が発生する。ひとつ、またひとつ、生まれては消え、消えてはまた生まれる。流れ、まわり、昇り、落ちる……その繰り返し。ただの、繰り返し。無限に繰り返す……メビウスの環。
意識が遠のいていく……いや。違う。意識そのものははっきりしている。
身体を感じなくなってきているんだ。身体が、とても遠くに感じる……動かすことはできない。俺の体はどこに行ったんだ……。
あらゆる感覚が遠のいていく……どこにいるんだ、俺は?ここはどこだ?俺は……誰だ?なぜここに居る?ここって……どこだ?
ああ、今度こそ本当に意識が遠くなっていく……星はもう見えない。願い事はもうかけられない。あるのはただ……想い、それだけだ。
それすら消えていく……小さくなっていく……いや、どんなに小さくなろうとも、それが消えてしまうことはない……それは……それこそは……俺の……。
そして世界は、闇へと還っていった。
……ああ……眠いなあ……でも起きないといけないんだよな……いやだなあ……。
……なにが嫌かって……それまでなにも感じていなかったのに、いきなりなにもかも、さらけ出されちまうんだぜ……否応なく、現実のただ中へと放り出されてしまうわけだ。こんなにひどいことはないだろう?自分ではどうしようもない世界。自由もなにもない世界。
……だが、それでも俺は起きなければならない。
生きながら死んでいるなど、俺の辞書には存在していないからだ。
……なんだ……またかよ。
俺はゆっくりと目を開ける。視界はオールクリア。バイザーは無い。更に言えばヘッドギアも無いな。もっと言えば、シートにかぶっていたはずのフードもない。
「いっつも夢見が悪いんだよな……」
慎重に口を動かしつつ、俺は身を起こした。少々ぎくしゃくしているが、ま、出だしはこんなもんさ。
慣らしも兼ねて辺りを見回してみる。さっきと特に変らない風景。リクライニングシートの外観が変ったくらいだ。うん、問題ない。
俺は慎重に立ち上がり、部屋を後にした。ちょいとふらふらする。いつのまにか服装がグレーのスーツ姿になっているが、気にもならない。
廊下を通り抜け、カウンターのそばを通りかける。先程とまったく変らない風に、"フロント"がカウンターの中から声をかけてきた。姿勢はもちろん最敬礼だ。
「いってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくるよ」
俺は片手を上げながらそれに応える。
そうして俺はロビーを離れると、木目も細やかな扉のノブに手をかけ、外に出た。
扉の外は……いきなりビルの壁が迫ってきていた。いわゆる裏路地だ。ビルとビルの間の、わずかな空間。出てきたドアはなんの変哲もない鉄の扉に変っている。
裏路地から表通りに出ると、残暑の日射しが顔を直撃した。全身にじっとりと汗の感触を感じる。
表通りにはたくさんの人が歩いていた。街の中心近く、繁華街と言ってよいこの界隈にふさわしく、様々な人種で溢れていた。ああ、さっき見たアホみたいな奴も大勢いるな。
そんな奴等のことは放っておいて、さっさと先を急ごう。
俺は人よりも早いピッチで表通りを歩き出した。
歩くことで生じた気流が顔をなぶっていく。髪が風に流され、歩くリズムにあわせて上下する。足を一歩一歩前進させるたびに、スラックスの生地と肌がすれ違う。
いつもと同じ……全く同じ感覚……いや、違う。これは現実ではない。
現実?ああ、脳の中で形作られた電気信号のことか?だったら、今俺が持ち合わせている全ての感覚で感じられるものは、その現実とやらと全く同じものだ。
ほんとうに?ほんとうにそうなのか?
いや……わかるわけは無い。区別はつかない。ただ……違和感を覚えるだけだ。
そうなるよう、現実と寸分違わずつくりあげられた世界……。
それが、今俺が居る世界……"TOWER"なのだ。
"TOWER"は、コンピュータによって構築された仮想世界……SFや映画でお馴染みのサイバースペース、その具現化された姿だった。
そんな夢みたいなものがこの世に存在し、日常的に利用されているってのは、かなりごっつい話だと思う。俺も、最初は作ったやつの正気を疑ったね。
だが、それは実在していた……違和感だのなんだのと言ってはみたが、単なる繰り言に過ぎない。ほんとうに、現実そっくりの世界が展開されていたんだ。いやはや、とんでもない時代に生まれちまったもんだな。
だが、コンピュータ内のという概念は目新しいものじゃない。二十世紀末期のコンピュータの発達の過程で、様々な人間がその実現を夢みた。
だが結局の所、それは成功したとは言い難いものだった。 ゴーグルのお化けみたいなものをかぶらされ、手にはぶかぶかで重たいデータグローブをつけ、何も無いところを夢遊病者のようによたよたと動き回り、何かをしたようなつもりになっている……そんな代物しか当時の技術では実現できなかったのだ。そのため、もっぱら視覚効果に頼った仮想現実が主流となった。現実世界をシミュレートしようなんていう大それたことは、コンピュータのモニタの中か、作り話の中でしか実現していなかったわけだ。それを覆したのが、"TOWER"と称される仮想世界……いや、もう一つの現実だった。
2019年の夏、その計画は突如として発表された。開発元は、いまや世界のOSを支配するインフィニット社。今から一年程前の話だ(ちなみに今は2020年の10月だ)。
発表当初、周囲の反応は鈍かったが、ネットワークが全世界に展開されいてくにつれ、体験したユーザーの口コミで爆発的に利用者が増えていったのだ(俺が初めて使ってみたのも、岬がおもしろいものが流行っていると教えてくれたからだ)。 そんな"TOWER"で表現されるものは、世界そのものだ。街があり、そこに住む人々がいて、ちゃんと生活している。二十四時間、年中無休だ。そうした街が、"TOWER"の管理センターの数だけ存在している。管理センターは一定以上の規模の都市に設置されていて、そこへの接続ポイントは様々な場所にある。俺がさっき行った場所もその中の一つだが、一般ユーザー用とは扱いが異なるらしい。らしいっていうのは、俺自身もよく知らないからだ(あそこは岬の奴にある条件で紹介してもらったもので……まあ、今はどうでもいい)。
それで、"TOWER"にアクセスする手段だが……さっき俺が使ったフード付きのリクライニングシートやヘッドギアがそれに当たり、"SHELL"と呼ばれている。なにかの略称らしいが、詳しくは知らない。
使い方はいたって簡単、寝て、かぶって、しばらく待つ……たったこれだけのことで、もう一つの現実世界へと足を踏み入れることができる。
サイバースペースへのアクセスと言えば脳への直接的干渉ってのが相場だが、ハードなサイバーパンク小説にありがちな、インプラントだの脳外科手術だのといった野蛮な手段は使用されない。脳神経系を外部から走査するデバイスがまず医学面から実用化され、それがまわりまわって、こんなアミューズメントな設備にまで、気楽に使えるようになった……そうだ。昔はプライバシーの侵害だの人倫にもとるだのと文句をつける輩がいたようだが、今ではそんな連中の活動も下火になっている。
こういったお膳立てがあって、この世界は存在しているのだ。
俺は繁華街の中へと入っていった。繁華街といっても色々あるが、ここいらは飲み屋が集まる場所だ。まだ夜にはなっていないのでネオンサインもまばらだが、派手派手しい装飾の店が多数並んでいる。
本来なら俺みたいな学生が入れる場所じゃないが、"TOWER"では一部を除いてそういう制限はない。なぜなら、いくら"TOWER"が現実世界そっくりであるとはいっても、やはり現実世界とは違うのだという認識があるからだ。つまり、ロールプレイングゲームに参加するプレーヤーのごとく、ユーザーはこの世界を歩き回ることができるわけだな。ま、流石に風俗関連の店には厳しい制限があるが。
俺の目的地は、そんな路地の一角にあった。ビルの一階、大理石風の化粧板に覆われたシックなたたずまい、そして人を誘うようにしてぽっかりと口を開くプロムナード。その上には、その存在をつつましく主張するかのように、ほのかな光で照らし出された文字列……流暢な筆記体風なそれは、こう記されていた。"Alexia"……それが店の名前だ。
聞いた話じゃギリシャ人の女性の名前だそうだが、英語ではもっぱら医学用語として用いられているらしい。どうしてこんな名前にしたのかは、聞いてみても答えてくれなかった。俺は言葉の響きが気に入っているので、理由については追求しないことにしている。
そしてこの店が、俺のバイト先というわけだ。どういう店かは……ま、追々わかるだろう。
しかし、ここに来るまで約十分……もちろん現実同様、それなりの疲労感がある。もっと楽に移動できるようにしてくれてもいいよな。どうせこの世界での場所って概念は、三次元空間の単なる座標データに過ぎないんだから。ちょいと書き換えてしまえば、あっと言う間に移動終了だ。
だが……それを言ったら、"TOWER"の前提が崩れてしまう。あくまで現実的であることが"TOWER"の存在意義なのだと、契約約款の冒頭に書かれているくらいだ。
なんでもできるはずのこの世界でそのような制限があるのは変な気もするが、そうなっているのだから仕方がない。それに反発しているやつもいるって話だがな……。
さて、いい加減に入らないと遅刻してしまう。さすがに従業員が正面から入るわけにはいかないので、俺はビルの間にある通用口の方にまわった。
カードキーを使って中に入ると、そこはちょっと薄暗い通路になっていた。奥の方からはなにやら音楽が聞こえてくる。なんとなく怪しい雰囲気……いいねえ。
通路の途中には幾つかドアがあった。俺はその内一番手前にあるドアを開けた。
なんとも言えない匂いが俺の鼻をついた。様々な化粧品の混じり合った、毒々しい臭気。何度来ても馴れんな、ここは。
部屋の中はちょっとしたサロンのようだった。部屋の中央には丸テーブル、そして椅子が何脚か置かれており、壁にはいろんなものは貼り付けられていた。ファッション雑誌の切り抜きやポスターだ。
「よお、"ナイト"」
一人テーブルに座っている男が手を上げながら声をかけてきた。派手な金髪で長髪、きりっと整った顔立ちがフランスの貴公子とでもいった感じの男だ。スーツのセンスも良い。
「よ、"ミシェル"」
俺も手を上げて挨拶すると、壁際にIDカードをかざす。タイムカード代わりだ。
ちなみに、ここでの俺の呼び名は"ナイト"、ということになっている。当然ながら本当の名前じゃない。"ミシェル"ってのもそうだ。ま、源氏名ってことになるな。
そして……名前以外でも違うことがある。それは、外見だ。
この世界では、知覚できる物全てがデータとして存在している。と言うことは、データの内容次第でどんな風にも見せることができるのだ。
だが、そうは言ってもみんなで化物になられても困るので、一定の制限がかけられている。人は人らしくあるべき、というわけだな。でもそれじゃあ折角の夢の世界が興ざめだ。
そんなわけで、姿形については変更が可能になっている。性別年齢はもとより、身体的特徴全てを好きなように選択できるのだ。でも、超有名人のそっくりさんにはなれないけどな。そう言う顔は商標登録されてるから、問題になるんだと(そういう意味では、この世界に存在しているあらゆる物品にも同じことが言え、使用料を払ってデータ化しているものも多数存在している)。
が、俺はあまりいじらないことにしている。現実とのギャップってのを常に考えさせられるのは嫌だからな。ちょっとばかし背を足して頭身を変更し、顔をちょいとやさしめにしているだけだ。
だだ、あまり変更点が少ないとちょいと問題があるんだよな。店に入る所を見られると面倒だし……まあ薫は"TOWER"に来ないから安心だが。何故かあいつ、"TOWER"じゃ遊ばないんだよな。流行り物や珍しい物は好きなはずだが……まあ、そんなことはどうでもいいか。
もし会いたくない奴と出くわした時は、その時だけ別人になればいいんだ。便利だろ?もっとも、相手に気付かれずに変更するにはちょいとコツがいるがな。
で、"ミシェル"は、その呼び名の通りの外見を選んでいるというわけだ。本当は日本人かも、男か女かもわからない。そこがこの世界の怖いところではあるのだが……。
「最近調子はどうだい?」
"ミシェル"はめんどくさそうに言った。だったら聞かなきゃいいのにねえ。
「いつも通りだよ。そっちはどうだい?」
俺は努めてさわやかに言った。このバイト、笑顔が基本だ。たとえ相手が仕事上のライバルであっても、その姿勢は崩さない。
「だめだねえ……どうも調子が出ないよ。最近は同伴もないしね」
「なるほどね。ま、波は寄せては返すものさ。その内良くなるって」
「だといいけどな」
冴えない表情の"ミシェル"をそのままにして、俺は奥にある更衣室に向かった。更衣室っていっても、服装はどこでもすぐに変更可能だから、便宜的なものにすぎない。でも往来で服を着替えたがる奴はそうは居ないだろう?一見無意味に見えるものでも、それなりの意味はあるってことさ。
更衣室に入ろうとドアを開けると、中には着替えを終えたばかりの先客が居た。
「よ、"ミッキー"」
俺がそう声をかけると、そいつは振り返ってにっこりと笑った。
「やあ、"ナイト"」
"ミッキー"は俺より背が低い。頭半分は違うな。顔は女性受けするような可愛らしさに溢れている。と言っても、"ミッキー"は男なんだけどな……でもそこが人気の秘密らしい。ボーイ風の黒のスラックスに黒のベストがよく似合っている。
「調子はどう?」
声まで可愛らしい。もっとも、そんなこと言ったら怒るから言わないけどな。
「休み明けで調子が出ないよ。眠たくてさ」
「いつもそうだもんね」
"ミッキー"はくっくっくと喉の奥で笑う。
「いつもは余計だよ」
「あははは」
今度は口を開けて笑う。
うーん、おもしろい奴だな。見るたびに表情がころころと変る。確かに人気が出るのがわかるな。
「ま、夜更かししないことだね。それじゃ先行くよ」
そう言って"ミッキー"は足どりも軽やかに更衣室から出ていた。いつも元気だねえ。
さて俺も仕事着に着替えないとな。
しかし、それほどバリエーションがある方じゃない。それにいいデザインは使用料も高いんだぜ。いくらでもデータを作れるからこそ、すばらしいデータにはそれ相応の対価を支払わなくてはならないのだ。ま、無難に黒のスーツでいこう。今のよりはもうちっとましなデザインのな。
変更は簡単、あっというまもない。頭の中に、あのスーツ、とでも思い浮かべ、変身の呪文を唱えればいい。
「スーツシフト、タイプ2」
たったそれだけで、服装が一瞬で切り替わった。便利だよな。
俺が更衣室を出ると、"ミシェル"も"ミッキー"も部屋にはいなかった。もうすぐ仕事が始まるしな。でもその前に、挨拶しとかなきゃ。
従業員控室から出ると、隣の部屋のドアをノックした。すると女の声で返事がある。
中に入ると、そこは高級な執務室といった雰囲気の部屋だった。内装は渋く表面処理された木造で、床はふかふかの絨毯で覆われていた。そして部屋の中央入り口寄りと奥の方に机があり、手前の机には一人の女性が座っていた。
「やあ、"ママ"」
俺がそう声をかけると、彼女は顔をあげてにっこりと笑った。
「おはよう、"ナイト"」
丸くて大きな縁の眼鏡をつけた彼女を、俺たちは"ママ"と呼んでいる。ママと言っても、別に母親ほどの年って訳じゃない。大学生くらいの感じだが、眼鏡をかけると幼く見えてしまうという人だ。
「なんだか眠たそうね。しゃきっとしなさいよ。そんな顔じゃお客様に失礼でしょう?」
こういう言い方をするから、"ママ"なんて呼ばれるんだろうなあ……俺が入ったときにはすでにそうだった。
「わかってますよ。それでバイト料もらってるんですから」
「それならよろしい」
彼女はそう言って人指し指を立てた。まるで先生に叱られてる気分になってくるな。
その時、奥の方から声をかけられた。渋い男の声だった。
「もうかなり馴れたようですね」
「あ、"マスター"、おはようございます」
奥の机に座っているのが、この店のオーナーだ。"マスター"というのがこの店での彼の呼び名で、年の頃は五十歳前後、ロマンスグレイの髪に柔和な顔、大人の魅力たっぷりな人だ。実際、"マスター"を目当てに来る客もいるくらいだ。
「もう一ヶ月ですか……なかなかの上達ぶりですよ。お客様の評判もよいですし」
「本当ですか?あまり自信はありませんけど」
別に謙遜でもなんでもない。本当にそう思っている。これまで何十人も相手にしてきたが、どうしてそんな評価が出てくるのか、疑問に思うくらいだ。俺はごく普通に対応しているだけなんだけどな……まあ、いいや。評判がいいってのはよいことだ。
「弱気じゃやってけないわよ、この仕事。でも"ナイト"には才能があるみたいだし、もっと自信もちなさい」
"ママ"が発破をかけるように明るい調子で言う。なんだか元気が湧いてくるね。
「ありがとう、"ママ"。それじゃ仕事場の方に行きます」
「がんばってね」
可愛らしい声に送られて、俺は執務室を出た。そして更に奥の方に進む。幾つか部屋を通りすぎて、一番突き当たりにある扉を開けた。
そこはホールのような広い部屋だった。室内は黒を基調とした内装で覆われ、床には豪奢な絨毯が敷き詰められていた。そしてその上には、丸テーブルや細長いテーブルが取り混ぜて設置されており、いろんな形をしたオブジェのような椅子がその周りを飾っている。
「"ナイト"、遅いじゃない!」
さっき別れた"ミッキー"が椅子を並べ直しながら叫ぶ。
「もう準備終わっちゃってるよ」
「すまんすまん、話し込んじゃってさ。でもなあ……なにも一々手で並べ直さなくてもいいんじゃないのか?椅子が自分で並ぶようにもすればいいのに」
「わかってないなあ」
"ミッキー"は腰に手を当てながら呆れ顔で俺を見た。
「そんな椅子なんてどこにも無いよ」
「確かにそうだな」
俺は苦笑しながら、"ミッキー"の意見に同意した。
現実世界の模倣たる"TOWER"は、俺みたいな思考を排除する。人は人、人の作りしものは作られたもののまま、全ては……全ては、あるがままに。
そしていよいよ店を開ける時間がやってきた。
バイト連中も一名を残して全員そろい、開店前の例会が始まった。総勢9名、それも綺麗所(俺以外はな)がずらりと並ぶ姿は圧巻だ。
「今日も皆さんご苦労様!」
一列に並んだ俺たちを前にして、"ママ"が元気一杯の声で言った。その後ろでは"マスター"が穏やかの表情で俺たちを見ている。
「あら、"カオル"くんは?」
一人いない奴の名前を"ママ"が呼ぶと、"ミッキー"が手を上げた。
「はい!今日は同伴だそうです!」
「あらまあ……ここんところ毎日ねえ」
感心するように言う"ママ"。が、みんなの表情はうれしそうでは無い。そりゃそうだ。ライバルの好成績を耳にしてうれしい奴はいないだろう。
俺?俺は……別にライバルだなんて思っちゃいないからな。関係ないね。
「みんなも負けないように頑張るのよ!」
"ママ"が気合いの入った声で檄を飛ばす。が、すぐ普段通りの優しい口調で話し出した。
「でも……忘れないでね。自分が楽しむのではなく、お客様に楽しんで頂くのが、あなたたちの仕事なんだから。いいわね?」
「はい!」
皆の返事に、"ママ"は満足そうに肯くと、俺の方を見ながら言った。
「それじゃあ今日も始めるわよ。"ナイト"、お願いね」
「はい」
俺は一歩前に進むと、大きく息を吸い、そして格調高く宣言した。
「私達は、常に笑顔を絶やさず、お客様に心からのおもてなしをすることを、今宵この時を、至高の時とするために、たゆまぬ努力と情熱を持って職務を果たします!」
これに続いて、他のみんなも同じ言葉を繰り返す。
「それではみんな、開店!」
"ママ"がそう言うと、各自の持ち場に散っていく。
これが俺の働く店、ホストクラブ・"Alexia"の開店前の儀式だった。
そう、ここはホストクラブ。そして俺はホスト、と言うわけだ。
いろんな女性達の相手を務め、一時の安らぎの場を提供する……それが俺に与えられた仕事だった。
まあ、学生のやるバイトとはちょいと言えないよな。大体バイトのホストなんて、普通いやしない。それを本職にしている奴がほとんどだろう。だがここは"TOWER"の中だ。ドラマを演ずるがごとく振る舞うことができる……。
このバイトをするきっかけは、岬の奴がいいバイトがあると言ってきたことからだった。そうして連れてこられたのが"Alexia"だった。その時は"TOWER"の中でのバイトだなんて考えもしていなかったな("TOWER"が初めてだったわけじゃないが)。
そして"マスター"と"ママ"に対面し、仕事の内容を聞かされた。最初はえらく面食らった。ホストってのは、聞こえはいいが、結局不特定多数の女と付き合うヒモだろう?あるいは詐欺師とでも言うべきか……そんなもんになるのは御免だと思った。
しかし、"マスター"は言ったものだった。
『うちの店はそんな人をいれたりはしませんよ。それに、うちに来るお客さんには、男漁りに来る人はほとんどいません。そういう店ではないと知っているのです。うちの店には、本当に心安らかならざる人達が来るのです。そんなお客様のために、一時の安らぎをご提供するのがうちのモットーなのです』
心安らかならざる人々……その言葉は、俺の心の中のなにかに触れた。それは、どういう人達なのか?何に不安を覚えているのか?そして……なにを求めているのか?
そんなふうに考えると、がぜんとやる気がわいてきた。その場で、バイト契約成立さ。
そして俺は、"Alexia"で働き出したのだ。
最初のうちは馴れなかったが、今ではそつなくこなしているつもりだ。もっとも、"マスター"の言うような客はほとんど居なかったけどな。それが不満といえば不満だが、なに、まだ始まったばかりだ。これからいくらでも機会があるさ。
さて、俺も持ち場につかなきゃな。
俺の持ち場は玄関だ。手すきの者は全員雁首揃えて、お客様を御出迎えするのだ。
今日の担当は俺と"ミッキー"だ。俺は"ミッキー"の隣に並ぶと、顔に笑顔を張りつかせて姿勢よく立った。"TOWER"内の時間では夕方6時を過ぎたばかり、間もなくお客が現れる頃だろう。
お、ドアが開いたぞ。
「いらっしゃいませ!」
間髪入れず、頭を下げ、活きのいい挨拶をする。
が、顔を上げたとき、俺の心は暗澹たる気分で溢れかえった。
「さあ、どうぞ」
そう言いながら、お客の品のいい奥様といった感じの女性を従えて入ってきた男……こいつが"カオル"だった。
奴はいかにもホスト然とした風体の男で、妙に日焼けした顔をしている。髪の色は茶色、背は高く、黒のダークスーツがよく似合っている……って、なんで俺がそんな風に感じなきゃいかんのだ。あくまで一般論だ、一般論。
俺はこいつが大嫌いだ。理由は簡単、"マスター"の言ってたそんな人……女を食い物にするタイプだったからだ。仲間内でも評判が悪いのだが、店一番の稼ぎ頭であることもまた事実だ。それは、同伴出勤してくるあたりが象徴している。
"カオル"は女性をエスコートしつつ店の中に入っていく。その時ちらと俺の方を見て、そして、にやりと笑いやがった。
だが俺はなんともない顔でそれを受け流す。奴は一瞬不快そうな表情を浮かべたが、すぐに営業スマイルになって客とともに奥へと消えていった。
……むちゃくちゃ腹が立つ奴だ。おまけに何故か俺を敵視しているようだ。そんな奴だから、俺の方も虫が好かないが。相性って奴かね。ふん。
ただ俺はそう言った感情を表に出さないようにしている。というか、不思議と出ないのだ。現実世界じゃそうもいかないが。確かに"TOWER"ってのは、こちらの反応、特に内的反応を全てフィードバックできるほどの能力までは持っていないから、そういったことに鈍いことは容易に想像がつく。
ただそれでも、俺は感情を表に出さない方らしい。それが余計にしゃくにさわるのかも知れんが……どっちにしろ迷惑な話だ。俺はこの店のナンバーワンになりたいわけでも、女に貢がれたいわけでもない。ただ俺は……。
っと、そんなこと考えている暇はない。次のお客に集中しなければ。
「同伴なんてすごいよねえ」
感心したように"ミッキー"が言った。
「僕なんかまだ一度もないよ」
「俺だって無いが、うらやましいのか?」
俺はドアを見つめたままそう尋ねた。
すると、"ミッキー"は複雑な表情を浮かべながら答える。
「うらやましいってことは無いけど……それだけお客さんに気に入られてるってことだから、悪いことじゃないんだろうなって」
「そうか……」
「"ナイト"は、そう思わないの?」
横目で俺を探るように見つめながら"ミッキー"は言う。
「俺は……やっぱり嫌だな」
前を見据えたままで俺はそう答えた。
「縛られるのは好きじゃない」
「それは……ステディな関係にはなりたくないってこと?」
よく分からない、そんな表情を浮かべて、"ミッキー"が聞いてきた。
「ちょっと違うような気もするが……ま、そんな感じかな。あまり頼られるのも、な」
「ふうん……そういうものかなあ……」
"ミッキー"は難しそうな顔をして腕組みをする。よくわからないらしい。
そりゃそうだろうな。俺だってよくわからん。あんまり絡まれ過ぎると、鬱陶しくなって無視したくなってくるんだよな。でもこれって……あいつのせいなのかな?だけど、人のせいばっかりにするのもなんだかな……。
そんな時、入り口のドアがかすかに開いた。
「いらっしゃいませ!」
俺たちはすかさず声をかけ、お客が入って来るのを待った。が……入ってこない?
ドアは確かに開いているが、誰も入ってこない。
俺と"ミッキー"は顔を見合わせた。ちょっと開いたくらいでは開きっぱなしになるようなドアじゃないんだが……やっぱり、向こう側に誰か居るのか?
すると、ドアの向こう側からおずおずと顔を出す女性がいた。そして俺たちの顔を見て一瞬顔を隠した。
「あの……」
"ミッキー"がドアに近づこうとするのを俺は制止する。しばらく待つことにする。
待ったのはほんの数秒だったろうか……彼女は再び顔を出してきた。
こちらをうかがうように、伏し目がちに俺の顔を見る。おどおどした態度に、こんな店に来るのは初めてだなとすぐにわかった。見た目は悪くない。二十歳過ぎの、ごく普通の女性だ。
さてどうするか……"ミッキー"が俺にそんな視線を投げかける。
俺はこの上ない笑顔を浮かべながら彼女に一歩だけ近づき、一礼してみせると、声をかけた。
「ようこそ、お待ちしておりました。さあどうぞ」
彼女は驚いたような表情を浮かべたが、怯えたような態度は少し薄れたようだった。ちょっとだけこちら側に身体を動かした彼女は、俺を見ながら口を開きかける。
「あの……あなたは私を知って……」
俺は彼女の言い終わる前に、さっと彼女のそばに立った。
びっくりして見上げる彼女に、俺は囁くように言った。
「待っていたんですよ、さあ、こちらに」
そうして店の奥の方へ手を差し伸べる。
彼女は俺と店の奥を何度か見比べた後、決心したのか、店の中へと進んでいった。
「さあどうぞ」
俺がテーブルの一つを指し示すと、彼女は手近にあった椅子にゆっくりと腰をおろし、落ち着かないように辺りをきょろきょろ見回した。俺は彼女のそばに立ってその様子を見守る。
やがて、彼女は俺の方を見て、その口を開いた。
「あの……私、こういうところは……」
「いいんですよ」
俺は相変わらず笑みを浮かべたまま言った。
「わかっていますから……だから、もっと堂々としてください。あなたのために、この店の全てがあるのですから」
すると、ようやく彼女の口許に笑みが浮かんだ。
こういう初めての客……それも、こんな場所(俺が言うのも何だが)に来るのに馴れてない客に対するのは骨が折れる。実際、他の連中は相手をしたがらない。
だが俺は、そんな客の方が好きだ。
おそらく、知合いの中には親しい者が居ないのだろう。嫌なことがあっても打ち明けることができない。でも一人ではどうにもならない思いを、誰かに伝えたくてたまらない……そんな人間が、"TOWER"という現実とは違う場所で、思い通りのことをしてみようとする。
だがそれすらも難しい人間というのは存在する。彼女がそうだ。彼女なりに勇気をふりしぼってここまで来たんだろう。だが最後の最後で、ほんのちょっと勇気が足りなかったんだ。
だが、それをなんとか補うことができたから、彼女は今ここに座っている。
一応は俺のおかげってことになるんだろうが……俺はほんの少し手伝ってやっただけだ。それに、問題はこれから彼女がどうしたいのかによってくるしな……。
俺は笑顔を絶やさないように注意しながら接客に入った。
「飲み物はなにがいいですか?」
当然のことながら、この世界でもアルコール類はその威力を発揮する。だから現実世界と同じ制限が科せられていた。その判定はユーザー登録時の年齢で行われる。だから、いくら大人ぶっていても飲むことはできない。まあ、外観がカクテルみたいなものなら大丈夫だがな。
おっと、言い忘れていた。"TOWER"での外観情報のことを、"ペルソナ"と呼ぶ。前にも言ったが、これは自由に変更可能だ。
だから今目の前にいる彼女も、外観通りの人間では無いのかもしれない。だがそれは、俺には全く関係のないことだ。今この場にいる彼女に対して、精一杯のもてなしをするのが俺の役目なのだ。
「あ……じゃあ。、ウーロンハイを」
「かしこまりました」
俺が指を鳴らすと、奥の方からトレーにグラスを載せて"マスター"がやってきた。店のオーナー自身が給仕するってのも変な話だが、そういうことになっている。ちなみに、客のオーダーは客に見えない形で送信されている。チャットでの直接通信みたいなもんだな。
"マスター"はグラスを彼女の前に置くと、一礼して去っていった。
「さあどうぞ」
「は、はい……」
彼女はグラスを取ると、唇を湿らすように口につけた。そして顔をしかめる。
「お酒は馴れないですか?」
「え、ええ……あんまり……」
「無理はしない方がいいですよ。自分にとって意味があることならともかく、他人もそうしているからといって、合わせる必要は無いですから」
「ええ……わかっているんだけど……」
彼女はグラスをテーブルに置くと、ため息をついた。
「思うようにいかないのね」
そしてうつむいて肩を落とす。疲れきった表情。きっと根が真面目なんだろうな。
「いけばいったで、やっぱり苦労しますよ。どこかできっと、自分の思い通りにならないときが来ますから……」
俺は慰めにもならないようなことを言った。
「そう……どこまでいっても繰り返しなのよね」
また、ため息。余計落ち込ませてしまったようだが……これから本番だ。
俺は、ちょっとだけ目許を細めると、低い声で言った。
「なら、変えてしまえばいいんですよ」
「え?」
疑問と、そして期待をふくんだ目で彼女は俺を見た。よし、興味を引けたな。
ゆっくりとした口調で、俺は言い含めるように言った。
「同じことの繰り返しなら……それがわかっているなら……そうしなければいいんですよ」
「そうしなければいい……」
彼女は口許に手を当て、考え込むような表情をする。
「それは……そうですね。確かに……」
「もっとも、それがうまくいかないんですけどね」
俺はにっこりと彼女に笑いかけた。
「でもそれでいいんだと思いますよ。楽をして生きていけるわけじゃないし……でも、だからといって悩んだところでなにも変らないですしね。自分を変えていけるってことさえ気がつけば、後はなんとでもできますって。気の持ちようですよ、気持ちのね」
そう言って、俺は軽くウインクした。
「さ、今日は憂さ晴らしですよ!どうか心行くまで楽しんでいってください!精一杯お相手させていただきます。それで少しでも楽しいって気持ちを思い出せれば、つらいことも少しは耐えられることができますって!」
そう話しているうちに、最初は堅い表情だった彼女の顔が、徐々に優しくなっていく様がありありと見えた。
「憂さ晴らし、か……そうね……そうかもしれないわね……楽しくやらなくっちゃ損よね」
ようやく、彼女の笑顔が見られた。なんだ、可愛いじゃないか。
「そうですよ。それにあなたが楽しくなれば、私も楽しくなれます」
「うふふ……」
初めて声を出して笑ってくれた。うれしいね。
「そういえば……」
「え?」
「名前、まだ聞いてませんでしたね」
「あ……ごめんなさい」
「いえ、いいんですよ」
「さゆり……です」
恥ずかしそうに、だがはっきりと彼女は答えてくれた。
「さゆりさん……いい名前ですね」
「そんな……」
恥じらう表情がまた可愛い。
「さ、なんでも言ってください。ここはあなたのためにあるんですから。あなただけの、憩いの場……それが"Alexia"なのです」
結局、俺が今日相手をしたのはさゆりさんだけだった。
彼女との話がかなり弾んだからなのだが、それ以上に営業時間の問題があった。"TOWER"へのアクセス時間には制限があって、最大で二時間までしか接続できないのだ。だから"Alexia"の開店時間も一時間半くらいしかない。
ほんとうにあっという間の、つかの間の安らぎ……だが。
「今日はありがとう。ちょっとだけど、吹っ切れた気がするわ」
見送りに出た玄関先で、さゆりさんは言った。その彼女の顔は、店に来たときとは違って、少しだけ自信が戻って来ているようだった。
「それは重畳……お役に立ちまして、身に余る光栄に御座います」
「うふふ」
俺の芝居がかった物言いに、さゆりさんは明るく笑った。
そして、神妙な顔つきになると、彼女は俺を見て言った。
「また……来てもいいかしら?」
「もちろんですとも。いつでもお待ちしております」
そうして俺たちは顔を見合わせて笑った。
「それじゃあ……また」
そう言い残して、彼女は店から出ていく。その背中に俺は頭を下げながら声をかけた。
「またのご来店をお待ちしております……」
ドアの閉じる音がする。これで今日は御別れだ。いや、二度と会うことは無いのかもしれない。
だが、それでいいんだ。こんなところに来るより、誰か信頼できる人間がそばにいる方がずっと幸せだから……ここに来るのは、ちょっと現実が嫌になったときだけでいい。
「さすがだね、"ナイト"」
いつのまにか隣に"ミッキー"が来ていた。
「ん?なにがだ?」
「最初は店に入るかもわからなかったのに、すっかり明るくなってさ」
「それは……彼女がそう望んでいたからだ」
「え?」
怪訝な表情の"ミッキー"に、俺は独り言のように呟いて言った。
「そうなりたいと彼女が望んでいたからさ。俺はちょっと背中を押してみただけ。どう転ぶかなんてわかってたわけじゃない……偶然さ」
「そんな……そんなことないと思うけど」
「今日の客はわかりやすかったからな。俺にでも相手できたんだろうさ。大体俺、まだ見習いみたいなもんなんだぜ?面倒な客は御免こうむるよ」
「そういうもんかなあ……」
"ミッキー"は疑わしい目つきで俺を見る。
だが、本当に俺はそう思っているんだからどうにもならないさ。自信があってやっているわけじゃない。手探りで、ちょっとずつ、恐る恐る進んでいくんだ。
正直言って、怖いのさ。人の心に干渉することが。ちょっとのことで、望みもしないような結果をもたらすから。何気ない言葉で、人は傷つき、時には狂気に陥る……怖いことだよ、実際。
それでもこんなバイトをやっているのは……やはり、見捨ててないんだろうな……人間ってやつを、さ。
その時、店の中からにぎやかな一団が出てきた。"カオル"の連れてきた客の一団だ。店の連中の半分がついてるな。
俺と"ミッキー"は客に向かって頭を下げた。その横を客と、そして"カオル"が通りすぎていく……いや、そこで二人は立ち止まって何やら話を続けた。
「……もう、それ以上お世辞を言ってもなにもでないわよぉ」
「そんなこと期待してませんって。本当にそう思っているんですから」
「上手いこと言っちゃって」
「やだなあ。私はいつだって真剣なんですよ?」
「またまた。もういいひといるんでしょ?」
「そんなことないですよ〜。いつだってすぐ飛んでくるじゃないですか」
「それはそうねえ……」
「ね?だから信じてください」
「そぉねえ……わかったわ、信じてあげる」
「わあ、うれしいなあ。あ、ちょっといい店があるんですよ。すぐそばですからこれからいきませんか?」
「いいわよぉ、"カオル"ちゃんのお願いだったら」
……聞いてると頭が痛くなってくるな。こいつら莫迦か?……いや、俺が悪かった。こいつら、莫迦だ。狐と狸の化かし合いだ。これがホストクラブの悪しき実例というわけか。こびへつらって、お互いの歓心を買おうとする……浅ましい限りだ。ああはなりたくない。
そうして"カオル"と客が店から出ていこうとしたその時、"カオル"の奴は、俺の方を見ると勝ち誇ったような顔で笑いやがった。正直むかついたが、客がまだいるので営業スマイルは変えなかった。
そうして最後の客が店から出て行った。
「なんだかすごかったねえ」
感心してるんだか呆れてるんだか、緊張感のない顔で"ミッキー"が言った。
「ああはなりたくないなあ」
「人間、正直が一番さ。化し合いなんてのは、狐と狸にまかしときゃいいんだ」
「なにそれ」
"ミッキー"がくすくす笑いやがる。
「もちはもち屋、昔取った杵柄って奴だよ」
「くくく……ますます訳わかんないよ」
腹を抱えて苦しむ"ミッキー"に、俺はにやっと笑いかける。
「そうかい?ま、いいさ。もう時間切れだ。じゃあな、"ミッキー"」
「うん、また明日ね、"ナイト"」
「ちゃお」
そうして俺は"TOWER"から抜け出す準備に入った。なーに、準備と言っても簡単なことさ。呪文を唱えればいい。外から中に入るのには特定の場所にしか出現できないが(突然その場に湧いたら気味が悪いからな)、外に出るのはどこでもいいからだ。
「センター、イジェクト」
そう俺が呪文を唱えると、意識がもうろうとしてくるのを感じる。身体は崩れ、"ペルソナ"がそぎ落とされて、元の自分にへと帰ってく……帰る?どこへ?元の自分?そりゃなんだい?
もうどうでもいいことさ。俺は"TOWER"で死に、そして……外の世界へと生まれ変わるのだ。
さよなら、"TOWER"。
こんにちわ、世界。
そして俺は……暗闇へと落ちていった……。
……あ?
……ああ、暗いな……ここはどこだい?
……身体が動かないよ……まるで無くなったみたいだ……。
……でも、考えるのも面倒だな……どうなっちまうのかな、俺……。
……俺?俺ってなんだ?俺って、誰なんだ?俺を俺と呼ぶ俺は一体なんなんだ?
堂々巡りだ。果てしのない堂々巡り。連鎖。メビウスの環?
くるくるまわっている。いつまでもまわっている。終わらない、止まらない。
いやだ……いやだ、いやだ、いやだ。
やめてくれ。やめろ。とめろ。永遠なんて欲しくない。
伸びていく。際限なく伸びていく。おわりのないせかい。むげんのせかい。
うすまっていく……なにもかもがうすまっていく。きはくなそんざい。なにもないせかい。
そんなものは欲しくない。あってはならない。あってはならない。あってはならない……。
『くすくす……』
誰だ、笑ってるやつは?俺は必死なんだぞ。
『だいじょうぶだよ……』
なにが大丈夫だって?だれがそれを保証する?気休め言うな。
『むげんにひろがるってことは……』
無限……?
『そこになにかがうまれてくるってことだから』
なにか?なにかってなんだよ?なにが隙間を埋めていくって言うんだ?それこそどうでもいいような、なんでもないようなもので埋まっていくんじゃないだろうな?だったら同じことじゃねえか……それならなにもかも無くなっちまった方がましだ。
『だからだいじょうぶだっていってるのにぃ……』
信じられるか!だいたいお前誰だよ!?
『しんじなさいってばぁ!しんじるものはすくわれるっていうよ?』
やなこった。俺はばりばりの無神論者だ。それに、信じるだけで救われるんだったら、俺は迷わず鰯の頭を信じるね。うまいからな、あれは。
『あははは!おもしろいおもしろい!うくくくく……でもね、おにいちゃん』
やめろ、気色悪い声でそんな呼び方すんじゃねえ!
『かみさまは、ほんとうにいるんだよ』
「……はっ!?あたっ!!」
いきなり起き上がったせいでフードに思いっ切り頭をぶつけちまった。ヘッドギアがなかったらえらいことになってたぞ……。
暑苦しいヘッドギアをむしり取ると、大きく息を吐き出した。身体がぎくしゃくする……うー、いつも起き掛けはつらいが、今日のは一番つらいな。
しかし、うなされるのなんて初めてだな……うーむ、思い出せん。むちゃくちゃ不安だったのは覚えているんだが……あと変な声も聞こえたような……うーん、だめだ。忘れちまってる。
悩んでてもしゃあないな。なんか疲れてるし、さっさと帰ろう。
俺は後片づけをすると、部屋を出てカウンターに向かった。"フロント"はさっきと変らない態度で俺を迎える。
「お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま。今日はちょいと疲れたよ」
「左様でございますか。なにか不具合でも?」
ものすごく不安そうな顔で"フロント"は俺を見た。本当に心配してくれているらしい。
「いや、そうじゃないんだ。気にしないでくれ。それじゃまた来るよ」
「はい、お待ちしております」
"フロント"は俺からカードを受けとると、最敬礼で俺を見送ってくれた。
セキュリティドアを抜け、ゲーセンの方に戻ってくると、相変わらずの人で溢れかえっていた。
まだ七時前だもんな。いつもならちょろっと遊んでいくところだが、今日は腹がすいてそんな気にならん。その辺で食えばいいんだろうが、あいにくジャンクフードは嫌いなんでな。
俺はゲーセンを出ると、繁華街を抜けて家の方に向かった。
もう辺りには闇の影が忍び寄っていた。秋深し、隣はなにをする人ぞ、だな。まさに黄昏時だ。ようやく家が見えてきた頃には、すっかり日が落ちていた。
だが、そこでほっとする暇も無く、俺は本日最後の災厄に見舞われた。
「あ、櫻ちゃん!バイト終わったんだー」
げ……後ろから声をかけてきやがったのは、薫の奴だった。くそ、嫌みな"カオル"の次は、ねちねち薫のお出ましかい。
俺は振り返って薫を見た。風呂上がりらしく、濡れた赤い髪が重そうに垂れていた。タンクトップに短パンとえらくラフな、というよりかなり無防備な姿だ。いくら家がすぐそばだからって、あまりにもひどすぎる……って、なんでこいつのことをそんなに心配しなきゃいけないんだ? どうかしてるぞ、まったく。
……でもなんだな、意外と発育はいいようで……つい最近まではお子様体系だったような気がするが……って。一体いつの話だ?
ああ、くそっ。薫のことを気にしてもしょうがないのに……駄目だ駄目だ駄目だ。
「関係ないだろ」
ぶっきらぼうに俺は答えると、薫は腰に手を当ててそっぽ向きながら言った。
「あーあー、そうでしょうともそうでしょうとも!人にも言えないようなバイト、あたしには関係ないでしょうからねー」
「わかってるならごちゃごちゃいうなよな、まったく……」
「犯罪者を知合いに持ちたくありませんからねー」
「そんなあぶねえことするかよ。人を見てものを言えってんだ」
「ふん。じゃあ何で隠し事するのさ?」
「そういう契約なんだから仕方ないだろう」
「契約……ね」
薫は腕組みしながら俺を見た。厳しい表情の中に、なにか揺れるものがあった。
くそ……なぜだか知らんが圧倒される。
「なんだよ……言いたいことがあるんだったらはっきり言えよ」
「べつに……」
薫はそうぶっきらぼうに言うと、またそっぽを向いた。くそ、しゃくにさわる奴だ。
「そうかい。じゃ、さよなら」
俺は薫を無視して家に帰ろうとした。すると奴がついてくる。
「ついてくんなよ」
「方向が一緒なのよ」
「なんでお前はいつもそうなんだ?主体性ってもんは無いのか?」
「ふんだ。ちゃんと考えてます〜」
「どうだかな」
そうして玄関にたどり着く。しかし、薫も一緒に止まりやがった。
「おい」
「なによ?」
「またうちに来るつもりか?」
「そうよ」
しれっとした顔で薫は言った。
「そうよってなあ……」
「おばさまに呼ばれてるもん。櫻ちゃんは関係ないんだから」
「またかよ……」
俺は絶望のため息をつく。
薫の家は俺の家の隣にあるのだが、両親が仕事の都合で不在のため、奴が一人で暮らしている。それを見かねた母さんが時々夕飯に招くのだ。問題は、最近その頻度が高くなってきていることで……まったく、息子の気も知らんと余計なことを……。
「そういうわけだから、じゃあね」
そう冷たく言い残して、薫はさっさと家の中に入って行きやがった。
はあ……勝手知ったる他人の家か……なんか押されてるよな、俺って。
まあ、いい。無理に争うと、こっちが返り討ちにあってしまう。勝てない戦いはしないのが俺の主義だからな……待つさ。その時が来るまで。
だけど……俺にとっての安らぎの場所は、一体何処にあるんだろうねえ……それがわかる頃には、そこも安らぎの地では無くなっているんじゃないかな?
ならば……自分がいる場所全てをそういう場所にしてしまえばいいんだ。簡単だろう?そうすれば、世界中で住めないところなんてないさ。
もっとも、そうなったらなったで、こんな刺激のない場所は嫌だとか言い出しかねないが。
人とは、そういう生き物なのだ。自分勝手で、矛盾した存在。どこまで行っても変ることは無いだろう。
俺は進化なんか信じちゃいない。いつか人類は変れるなどという世迷い言を信じるつもりはない。ただ今を、精一杯、生きていきたいだけなんだ。
だが……最後くらいは平穏に過ごしたいよな。安らぎの場所……そんなものがほんとうにあるのならば。たとえそれがまやかしであっても、おとぎの国にしかないとしても。
それは蜃気楼なのかも知れない。現実の歪んだ姿。浮かび上がった理想のかたち。
でもそれでいいじゃないか。夢が現実になってしまう世界なんて、"TOWER"だけで充分だ。夢は夢であるうちが華ってことさ。
さて早く夕飯を食おう……薫の奴、早食いだからな。自分の家で食いっぱぐれるのはしゃれにならん。ひでえよなあ、まったく。
……やぱり、この世に安らぎの場所はないらしい。