闇があった。
全てを覆い隠す、闇そのものがそこあった。なにもない……ただ闇だけがそこにあった。
と。
その、どこ、とも取れぬ場所に、変化が現れた。
初めは、とてもちいさな光の粒がひとつ、ともった。そして次の瞬間には、光の粒はふたつに増えていた。よっつ、やっつと、どんどん、どんどんと増え始め……やがて、それはある形を成し始めた。
縦長の、細長い、そこからいくつかに枝分かれしていく、心棒となる光柱から生える四本の光柱に、球状の光の塊……人だ。人の形だった。
光の粒子はその数と密度を更に増していくと、その形はより明確になり、本来の色に色づき始めた。
それは、幼い少女の姿だった。背の高さから見て10歳前後だろうか、白地に様々な飾りの着いたドレスを身にまとっている。ドレスから飛び出している手足や顔は、まるで白磁のような白さだった。
だがもっとも目立つ特徴は、頭から伸びる長大な金色の髪だった。背丈の何倍もあるように見えるそれは、今この時にも延びつつあり、身体の周りを幾重にも取り巻いて宙空を漂っている。それに加えて、まるでお人形のようにきれいに整った顔立ちに、パープルの唇の組合せがなんとも言えない不思議な雰囲気を醸し出す。
そして……目を閉じていた少女は、ゆっくりと目を開けた。その瞳の色は、唇と同じパープルだった。それが少女とは思えないほどの艶めかしさを彼女に与えていた。
少女は気怠そうに辺りを見回すと、口許を手で押さえながら小さくあくびをした。
「ふあ……あふ……あー、みんなおそいなあ……」
舌足らずな声で少女はひとりごちる。
「しょうのないひとたちねぇ。あたしがしっかりしてないとだめなんだから」
すると、蝋燭の火でもつけたように、少女の前に、もう1人の人物が暗闇の中に現れた。
暗闇の中でなぜ見えるのかわからないが、その人物は全身黒づくめだった。黒のタンクトップの上から黒のレザージャケットを羽織り、黒のジーンズに黒のスニーカー、黒の野球帽、そして黒のミラーグラスをかけている。タンクトップの首元から見える白い肌が黒装束を一層際立たせており、胸のふくらみが女性であることを主張していた。年の頃は十代半ばといったところか。
彼女は少女の方を振り返った。肩まで伸びた黒髪がそれにつれて揺れる。
「聞こえてんのよ。あたしはちゃんと時間通りだからね」
黒づくめは刺のある声でそう言った。口許は不快感からか、怒ったように歪められている。
「もっとよゆうあるこうどうしないとだめでしょ?」
少女は諭すような口調で言う。だが舌足らずなためか、莫迦にされているように黒づくめには聞こえた。
「あんたみたいに暇じゃないのよ。いーわよねー、がきんちょは」
「あたしがきんちょじゃないもん!」
ぷんぷんと怒りながら少女は叫んだ。
「"いーいー"なんかにくらべたらずーっとおとなだもん!」
「はいはい……一生言ってなさい。自分のことを大人だなんて言う奴に限って、行動が子供なんだから」
黒づくめはやれやれといった感じで、両の掌を上に向けてみせた。
「う……そ、そんなことないもん!」
顔を真っ赤にして怒る少女に、黒づくめは更に追い打ちをかけようとする。
「どこが?言ってみなさいよ?あんた、いっつもその辺うろつくばかりで、なんにもやってないじゃないのよ。その点あたしはちゃんと仕事してますからね」
「うう……あ、あたしのしごとはあそぶことだもん!だからちゃんとやってるもん!」
「だからそれがガキだっての」
「ちがうもん!」
「違わない」
「ちがうもん!!」
「違わないったら違わないっての!!」
「ちがうもんったらちがうもんったらちがうもん!!」
「うるさいわね!そういうのがガキだって言ってんでしょが!!」
しかし、問題にしていることとは裏腹に、二人の行為はまったく子供じみていた。このままではいつまでたっても終わりそうにない。が、そのとき。
「まったくもう……やめなさいよ二人とも」
突然聞こえてきた女の声に、少女と黒づくめが声の方を振り返った。
そこに立っていたのは、二十歳そこそこに見える若い女だった。目にも鮮やかな真紅のスーツに身を包んだ彼女は、背も高く、モデルのように均整の取れたスタイルをしている。軽く組んだ腕の辺りまで伸びた亜麻色の豊かな髪が、大人の女の雰囲気を漂わせていた。
女は知的だが冷たい雰囲気のする顔を二人に向けながら、金色の鋭い瞳で睨み付ける。
「ほんと、子供なんだから……」
「ほら!"いーいー"だってこどもじゃない!」
「それはあんたの方でしょ!?」
再び喧嘩になりそうになるのを見て、女は目を細め、冷たい声で言った。
「今日はそんなことさせるために集めたんじゃないのよ?」
すると二人はぴたりと動きを止め、女の方を見つめる。その表情はとても真面目で冷静なものだった。
「さて……ようやく本題に入れるわね」
女はこほんと咳払いすると、二人の顔を見回す。
「集まってもらったのは他でもないわ。今後の、行動方針についてよ」
「それは聞いてるけど……これ以上なにかやることあるの?」
黒づくめが疑わしい声で尋ねた。
「もちろんあるわよ」
女は自信に満ちた声でそう答える。
「いよいよ、次のステージに進むべきときが来たということね」
「いよいよって……まだあれから二ヶ月もたってないじゃないのよ!」
黒づくめが不満そうに言う。
「この上更になにかやらせようって言うわけ?」
「そうよ。ようやくスタートラインに立ったという所なんですから」
「でもなあ……」
「いいじゃない!」
少女は楽しげに話し出した。
「あれからずっとひまでひまで、たいくつでたいくつで、しにそうだったんだから!」
「あんたが死ぬわけないでしょ!それにあんたが退屈なのは大変結構なことなの。だからおとなしくしてなさい!」
ものすごい剣幕で怒る黒づくめに、少女は目に涙を浮かべながら女に抱きついた。
「ふええん、"らぷんつぇる"〜、"いーいー"がいぢめるよぉ」
「よしよし……駄目じゃないの。子供相手に大人げない」
少女の頭を優しく撫でながら女は諭すように言った。
「子供!?はっ、こいつが子供!」
黒づくめはいかにも心外だという口調で叫ぶ。
「確かに子供だけどさ……それもとんでもない悪がき」
「あたし、わるがきじゃないもん!」
「なにおう!?」
再び喧嘩腰になる少女と黒づくめに、女は呆れ顔で間に入った。
「まあまあ二人とも……ほんと、しょうがないわねえ。親子喧嘩はよしなさいよ」
「誰が親子だ、誰が!」
猛烈な勢いで女にかみつく黒づくめ。だが女はしれっとした顔で更に追い打ちをかけた。
「あら。あたしがママで、あなたがパパじゃなかったっけ?」
「なんであたしがパパなのよ!」
「適任だと思うんだけどなあ……」
「おもうかー!」
「ま、それは置いといて……」
「置くなー!」
「これからどうするかが問題なわけよ」
「ったく……人の話を聞けっての……」
しかし、黒づくめの抗議をさらりと受け流して、女は話を続けた。
「これからデータがどんどん増えていくわ。ユーザー数も、そして、それに伴うトラブルも。それに"TOWER"をよく思わない人たちだって……ほら、大勢いるのよ。わかっているわよね、もちろん?」
「大勢ねえ……せいぜいが自称ハッカーの莫迦程度じゃないの?」
「だったらいいのだけれど……ね」
女は少しだけ表情を曇らせる。
「だいじょうぶだよ!」
そこで突然、少女が叫んだ。
「あたしがいればわるいやつなんてこてんぱんにやっつけちゃうんだから、ぜったいだいじょうぶだよ!ね、"あれふ"?」
そう少女が虚空に呼びかけると、あらゆる方位から、その声が聞こえてきた。空間全体を震わせるような、ひどく落ち着いた大人の男の声だった。
『そう言いきれますかねえ……』
「なによー、"あれふ"までーっ!」
少女は期待通りの返事が得られず、"あれふ"と呼んだその声に抗議した。しかし、全く動ずることなく、声は言った。
『もうすこし熟慮された方がよいかと……』
「"aleph"の意見はいつも的確だわねえ」
腕組みしながら肯く黒づくめ。
「あんた、力はあるけど頭無いからねえ」
「なによー!"いーいー"だってちからづくじゃないのよ!」
少女の抗議を、黒づくめは鼻先であしらう。
「ふっ、力づくのように見えて、実の所は……」
「力づくなのよね?」
「だあ!」
女の合いの手に、黒づくめはづっこけた。そこに声が追い打ちをかける。
『そうですなあ、確かにクールとは言えないことも度々……いつぞやも……』
「あ、"aleph"までそんな言い方するなー!あたしだってちゃんと考えてるわよ!どこかのお子様じゃないんだからさ」
「あたし、おこさまじゃないもん〜」
「お前が一番子供だろうが!」
黒づくめは少女を捕まえると、頭にぐりぐり攻撃を敢行する。
「い、いたい、いたい、いたた!!や、やめてよぉ〜!」
「もう、止めなさいってば」
女の仲裁に、黒づくめはようやく少女を解放した。
「ばか"いーいー"!!」
涙目で抗議する少女を、黒づくめは軽く一瞥しただけ。
「ふん……で、これからどうすりゃいいわけ?今だって日々のメンテだけでも大変なんだよ?」
黒づくめの問いに、女は答えて言った。
「日々の監視は"aleph"に御任せよ。でも、彼が扱える範囲は、あくまでこの世界の中でのことに過ぎないし、現象としては認識できても、その背後にあるもの全てを見通せるわけじゃないわ。こちらとあちらじゃ情報の相互干渉帯域は限られているし……そもそもドライじゃ、本当の意味での情報フィードバックは無理なのよ。だからね……」
「だから、その間で、あたしが苦労すんのよね」
黒づくめは脱力しながらそう言った。
「でもそうやって情報集めて何やろうって言うの?第一、あたし一人が扱える範囲じゃ、大したもんは集まらないわよ」
「それで充分よ」
女はそう言ってにっこりと笑った。知的な感じが崩れ、無邪気な何かが表情に浮かぶ。
「幸いなことに、一番の人口密集地区だしね。サンプルに偏りはあるけど、量的に困るってことは無いと思うわ」
「はあ……簡単に言ってくれちゃって……」
黒づくめはため息をつきながら帽子に手をやった。
「今日だって莫迦共を数人処理すんのに、えらく面倒かけられてさあ。その上にデータ収集なんてしろっていうわけ?」
「だからそういうのは"aleph"に任せておけばいいのよ。それに、その分報酬ははずむわ」
「そうでもなきゃやってく気力無いわよぉ」
「うふふ……大丈夫だって。あなたの所に集まってくるのは飛び切りのネタが多いんだから」
「うれしくないわよ!面倒事ばっかりってことじゃないのよぉ〜」
「だから言ったでしょ?報酬はずむって」
少々悪魔的な微笑みを浮かべながら女は言った。それに対してさめざめと泣く黒づくめ。
「しくしく……ひも付きかぁ」
「世の中そんなに甘くないわよ」
「ねーねー、あたしはなにやるの?」
目をきらきら輝かせながら少女は女に言った。
「あんたは何もしなくていいわよ」
「"いーいー"はだまってて!ねえ、"らぷんつぇる"〜」
「はいはい……えみりーはいつも通りにしていていいのよ」
「ええ〜!?それじゃつまんないよぉ」
えみりーと呼ばれた少女は、口を尖らせて不満そうな顔をした。そんな少女の髪を撫でてやりながら、女は優しい顔で言った。
「いいのよ、ほんとうにそれで。えみりーは、まだまだ知らなきゃいけないことがたくさんあるの。だから、いろんなところに行って、いろんなことを覚えるのよ?それが、あなたのお仕事なんだから」
「おしごと?おしごとなの?」
「そうよ」
「おしごと……おしごとか……」
えみりーは何事か考え込むような表情になると、次の瞬間にっこりと笑った。
「うん、わかった!えみりー、おしごとする!」
「そう、いい子ね」
女は我が子を見るような目でえみりーを見つめ、ふたたびその髪を撫でた。
そんな二人を見ながら、黒づくめはぶつぶつ呟いていた。
……まったく……あいつに自由にされたらそれこそ大変なことになるのに……どうなっても知らないんだから。
「さて、今日はこんなところかしらね」
女は少女と黒づくめを見ながら言った。
「詳しいことは追々話していくわ。でもこれだけは覚えておいて……これからの行動が、この世界を確かなものにするため、ひいては人を幸せにするための力となることを……それだけは、忘れないで」
それを聞く少女と黒づくめの表情には、晴れ晴れしいものがあった。それを見た女は満足げに肯く。
「それじゃ、解散にしましょうか」
「うん!じゃあまたね!」
少女は元気よく手を振ると、一瞬にして光の粒にはじけ……そして、暗闇に消えていった。
「それじゃあ、あたしも……」
「ちょいまち」
女が帰りかけるのを黒づくめが制止した。そして黒づくめはサングラスをずらすようにして女の顔を見つめる。吊り目の、黒くて鋭い瞳が、女の目を射抜いた。
「なに?」
女はその視線を真っ正面から受け止めながら首をかしげた。
「もう隠し事はないんでしょうね?」
鋭い声で黒づくめは問いただす。
「隠し事?」
「そうよ。もうこの前みたいなことは御免だからね」
嫌そうに顔を歪める黒づくめに、女は微笑みながら言った。
「わかってるわよ……あれはあれでもうおしまい。これからは、あたしたちと、"TOWER"に参加する人々の問題よ。なにもかもが、これから始まるの。そしてその流れを確かなものにするためにも、これは必要なことなのよ。協力してくれるわよね、"EE"?」
"EE"と呼ばれた黒づくめの少女は、しばらく女を睨み付けていたが、ふとため息をついた。
「わかったわよ……乗りかかった船だもんね」
そして"EE"はさわやかな笑みを浮かべて言った。
「それにあたし、ここが好きだもの」
「ありがとう、"EE"」
女はとても嬉しそうに"EE"を見つめた。その視線に照れたのか、"EE"は苦笑いしながら再びサングラスをかけた。
「いいっていいって……じゃ、あたし、そろそろ行くよ。またね、"Rapunzel"!」
そうして"EE"は、暗闇の中に吸い込まれ、消えていった。
そんな彼女の消えた空間を、彼女……"Rapunzel"はじっと見つめる。その表情は堅いものだった。
『ここが好き……ですか』
"aleph"の声が暗闇の中にいんいんと響き渡った。
『喜むべきなのか、哀しむべきなのか……』
「それを判断するのはあたしじゃないわ……それは彼女自身よ」
"Rapunzel"は顔を伏せ、哀しげな目で言った。
「"EE"は、一度はあの可能性を見てしまっている。でも……それでもなお、ああ思ってくれているのなら、希望はあるのだと信じられるわ」
『なるほど……そうかもしれませんなあ』
"aleph"は何かを思い出すかのような口調で言った。
『ととの明確なる境界線の確立……どちらが無くなっても困りますからな』
「その辺りのわかってない連中のなんと多いことか!」
"Rapunzel"は憤懣やるかたないという表情で叫んだ。
「自由を履き違えた連中が多すぎるのよね……まあ、羽目を外すのはわからなくもないけど」
『確かに生き生きとしてらっしゃいますね』
"aleph"の揶揄するような声に、彼女は睨み付けるようにして虚空を仰いだ。
「なーに?言いたいことがあったらはっきり言いなさいよ」
『いいえ、言葉以上の意味はありませんが』
「……ま、いいわ」
あきらめたように髪をかき上げると、彼女は言った。
「結局の所、単なる逃避じゃないか……そう思ってるんでしょ?」
『そのためにこの世界はあるのではないですか?』
"aleph"は逆に問い返してきた。
『もう一つの自由という、可能性の世界。それが存在理由なのでは?』
「さあどうかしらね……理由は人それぞれでしょ。でも、あたしや"EE"のように必要とする者がいるかぎり、"TOWER"は存在し続ける……ただそれだけのことよ」
『ただそれだけのこと、ですか……えらく思い切りのいいお考えですな』
呆れたような感心したような、どちらとも取れるような口調で"aleph"は言った。
「あたしは直感を信じるタイプだから。何事も、ね。そうでなきゃ……こんな世界をつくったりするもんですか!」
彼女は空を飛ぶかのように両手を頭上に高々と広げた。
「すべてを感じられるこの世界を」
『成る程……世界は広いですからなあ』
「そういうこと……ところで"aleph"?」
彼女は悪戯を思いついた子供のような顔で言った。
『はい、なんでしょう?』
「ここが嫌になるときってないの?ここから出て行って、どこか別の世界へ行きたいと思ったことは?」
すると、"aleph"は憂鬱極まりないといった口調で答えた。
『私はここから出られませんので……お答えしかねる質問でございますよ、それは。それに……』
「それに?」
『私も好きですから、ここが』
わずかに笑いを含んだ声で"aleph"は言った。
『そもそもですな、私が私という存在から抜け出すということは、自殺に等しいと思うのですが、それはいかがなものでしょうか?』
「それもそうね」
"Rapunzel"は苦笑すると、大きく伸びをした。
「んーっ……でも、どうかな?新しい自分になれるかもよ?」
『過去を忘れようとすれば己にあらず、過去にこだわれば己を越えられず……難しいですなあ』
「うふふふ……そうね。難しいわね……でもその難しさが人を変えていくのだと、あたしは信じているわ。だからせいぜい、悩んでやるの」
そう言って"Rapunzel"は微笑んだ。なにものをも優しく包み込むような、そんな微笑みで。
「それじゃあまたね、"aleph"」
『お休みなさいませ、"Rapunzel"』
そうして、"Rapunzel"もまた、暗闇の中に消えていった。
後にはただの闇と静寂だけが残った。他には何も無い。
まるでそれは神々の黄昏のように……。