騙す者と騙される者。一体どちらが悪いのか?いつも問題になることだな。
まあ騙す奴がいなければ騙される奴はいないから、騙す奴の方が悪いというのは理にかなってはいる。だが、人が全て善人だと言えないのがこの世の習いでもあるように、騙される奴が全く悪くないとは言い切れない。
ま、世間なんてものはそんなものさ。
美しい薔薇には刺がある。甘い話には裏が必ずあるものだ。
今回は、そんな話に翻弄された馬鹿な人間と、そいつらの尻ぬぐいをやらされた不幸な人間の物語だ。
今日はバイトが休みの日。放課後どうしようかと岬と相談していた時、奴が現れた。
「見てよこれ!またこんなのが来たのよ!」
薫の奴がそう騒ぎながら、携帯端末の画面を俺の目の前に突きつける。
「なんだよ、騒々しいな」
「いいから読みなさいよ!」
本来なら追い返すところだが、その後が面倒なので……今日のこの屈辱に耐えることにしよう。
で、俺の代わりに岬が読み上げる。
「ええと……千円が一ヶ月で百万円に!……ああ、SPAMだね」
SPAM。電子メールの誕生以来、いまだに存在し続けている迷惑メールの総称だ。元は食い物の名前らしいが、もはや誰も気にしちゃいない。ダイレクトメールのネット版に過ぎないSPAMだが、その内容のくだらなさ、送信側のモラルの無さ、そして爆弾の送りつけにも等しいウイルスの添付等の悪行等々により、忌み嫌われている。そのほかにも不幸の手紙なんてのもあるな。
「この程度で大騒ぎしやがって……こんなもん、誰だって日には一通ぐらいもらうもんだろう」
俺があきれたように言うと、薫は怖い顔になって俺を睨んだ。
「一通じゃ済まないのよ!三十分おきには来るんだから!そのたんびにチェックして、面倒ったらありゃしないのよ!!」
「怒るとしわが増えるぞ」
「なんですって!?」
更に物凄い目で睨み付ける薫だが、もう慣れっこなのでどうってことはない。
「気にするな。大体がだ、来るもんはしょうがない」
メールアドレスの持たない奴は誰もいないこの世の中、メールアドレスに規則性がある以上、SPAMをもらってしまうのは仕方のないことだ。集めたアドレスを売り歩く連中も後を絶たないしな。だからそんなことを気にしてもしょうがない。問題はその後の対策だ。
「そんな!」
「それにな、フィルタをかけてりゃ別に騒ぐようなことでもないだろう」
SPAMって奴は定型句が多く、また送信元アドレスにも偏りがある。そこでその両方をモニターしていらない物をはじく、フィルタ機能を搭載したメールサーバーが主流だ。それである程度は見ずに済むのだが……。
「当然じゃない!それでも来るから余計に迷惑なんじゃないのよ!」
「なるほど。すると、よっぽどよくない連中のリストに載っちまったみたいだな」
フィルタリング機能といっても万能じゃない。送信元アドレスはいくらでも変更可能だから、新規のアドレスからのメールははじくことができない。内容にしても定型パターンを外したような物もあり、一筋縄ではいかない。敵もさる者、というわけだ。
結局、SPAMを完璧に拒絶するには、メールの利用をあきらめなければならない。しかし、今どきそれは不可能だな。
その時薫の端末からメロディーが流れてくる……ラベルのボレロ。メール着信音だな。
「ああ、まただわ……まったくもう!」
端末を壊しかねない勢いで振り回す薫。
「なになに……今度は百円が一千万円か」
どうやって画面を見たのか、岬がメールの内容を言う。
「よかったな」
「なにがいいのよ!?」
「いや、景気のいい話が舞い込んで来てさ」
「良くないわよ!なんとかしなさいよ、櫻ちゃん!」
つかみかかるような勢いで俺に迫ってくる薫。まったくもってうれしくない。言い方も気に食わん。
「……その言い方は止めろ。それになんで俺に押し付けようとする?」
俺はむちゃくちゃ冷たい目で薫を睨み付けるが、薫の奴は動じない。
「どうせ暇なんでしょ?」
「お前にやる暇なんかないよ」
「なによ!人が困ってるのによくもそんな言い方ができるわね!」
「その程度で困ってるなんて言うなよ」
俺は酷吏さながらの冷徹さでもって答えた。
「脅迫的なメール、つきまとい、世の中にはもっとひどい話があるさ。ま、この程度のことはあきらめた方が、精神衛生上かえっていいだろう」
「そんなこと言ったってさ……」
拗ねたような表情を見せる薫。こういう顔してりゃまだ見られるんだが……。
「こういうのって対策無いのかな?」
岬が聞いてくる。
「ふん。本当にやり取りしたい人間とは、メール以外の手段……一対一で直接のやり取りをするのは一番確実だよ。不特定多数からの接触は絶つようにしないとな。だが、信頼できる人間なんてそんなにいるか?何人かは適当な扱いになっちまうだろ?そいつらを分けるにはそれ用のアクセス手段が必要なわけで、となると、メールアドレスは欠かせないわな。結局……どうやってもSPAMは無くならねえんじゃないのか?」
「そんなの理不尽だわよ。避けたくても避けられないなんて」
不満そうに言う薫に、俺はため息をつきながら言った。
「それがいやなら死ぬしかねえよ」
「またそんな言い方して……」
眉根を寄せながら薫が言う。
「事実なんだからしょうがねえじゃねえか」
そう、この世のことが嫌になったら、死ぬしか逃れる道はない。死ぬのが嫌なら……目一杯アンテナを張って、あらゆる危険に対処する心構えを欠かさないことだ。それができない奴は、他人の食い物にされて苦しむことになるだろう。
「そんなこと言ってるから、冷たい奴だとか言われてるのよ、櫻ちゃん」
「だからその言い方は……なに?誰が言ってるって?」
「みんな」
「みんなって誰がだ?」
「だからみんなだって」
「名前で言えよ、名前で」
「なんであたしにそんなこと要求できるわけ?さっきはあたしの頼みを拒否したくせにさ」
腕組みしながら薫は俺を見下ろす。
むう……反論できないのがつらい。
「知りたかったら、あたしの言うことを聞くのね」
得意そうな薫。だが俺は負けんぞ。
「別に、知らなくったっていいさ」
「なによ、強がっちゃって」
「そんな噂話みたいなものを真に受けるやつに用はない。こっちから願い下げだよ」
「ふうん……」
しばらく俺の顔をじろじろ見る薫だったが、そのうち興味を無くしたように、端末の画面を見ながらため息をついた。
「でもこの手の話って、本当なのかしらねえ……」
「どういう話がだ?」
「千円が百万円」
「お前、そんな基礎的なことも知らんのか?ネット接続の初歩中の初歩だろうが」
この手の話……いわゆるねずみ講の危険性については、家でも学校でも教えている……はずだ。それにもかかわらず引っかかる奴や仕掛ける奴がいるということは、人がいかに欲深いかを教えてくれるということだろう。
「だって、数字が出てくるとめんどうでさあ……」
「数字なんかどうでもいい。要は楽して金もうけするにも程があるってことだからな。ねずみ講が否定されたのには、そういう一面もある」
「楽して金もうけしちゃいけないの?」
「というよりは、そんな方法はねえんだよ。たとえ大金持ちでもさ、それを維持したりするのは大変なんだぞ。金を無くすのは一瞬だしな」
「それでもお金あった方がいいじゃない」
「そりゃま、道理だがな。でだ。ねずみ講ってのは、最初に始めたやつだけが結果的に儲かるというシステムなんだ。どうやっても、そうなる。それも元手無しでできるんだから、こんな楽な商売はねえよ」
「元手無しって……お金が要らないってこと?」
怪訝な表情を浮かべる薫。
「そういうこと……そりゃ、他人から金を巻き上げるんだからな。元手もいらんって」
「そ、それって詐欺じゃないのよ!」
薫の怒りに、俺は全くの同意を示した。
「そうだよ、詐欺さ。こうすればお金が手に入りますよってその気にさせておいて、まずお金を巻き上げる。その後はどろん、さ」
「ひどい話ねえ……でもなんでねずみ講だけ、変な名前なの?なんとか詐欺じゃなくて?」
「そりゃ歴史的経緯って奴だな。元々講って言うのは保険みたいなものだ。みんなでお金を出し合ってもしもの時に備えましょうってな。で、そのみんなで助け合いましょうみたいなことを、悪用したのがねずみ講って訳だ。最初の頃はうまく動いていたのさ。だがその内システムの破綻が見え始めて、組織は自己崩壊。それ以降は違法行為と見なされるようになったというわけだ」
「違法ねえ」
「無限連鎖講防止法……それが法律の通称だ」
「無限連鎖講?防止?」
「それがねずみ講の公式名称さ。ねずみってのはねずみ算から来ている。ねずみの増え方のように組織が枝分れしていくからだ。そのように子分を増やして、子分、その子分、そのまた子分から金を巻き上げる。すると、最初に始めたやつにはすごい金が集まってくるというわけだ」
「へえ……でもなんでそれが詐欺になるの?なんて言ってお金集めるのかも不思議だし……」
「勧誘の仕方は単純だ。まずお金を支払ったりして組織に入る。そしてその組織に子分を勧誘させると、子分からお金が入ってくる。さらに、その子分が子分を勧誘してもお金が入ってくる……そうすりゃ大金が入ってくると吹き込むのさ」
「なるほどねえ……でもなんでそれが詐欺になるの?」
「いつかは終わりが来るからさ。だから無限連鎖講防止なんだ」
「……ここで数字が出てくるんじゃないでしょうね?」
ほんとに嫌そうな顔をするな……よほど数字が嫌いらしい。
「出して欲しいか?」
ぶるんぶるん。歌舞伎みたいに首を振り回す薫。
「数字は問題を定量化、つまり具体化するのに必要なだけだ。事の本質じゃねえよ。定性的には……人口は無限ではないということだけで証明終わりだ」
「え、それだけ?!」
「そうだ。だが、数量的に言われないと詐欺だとわかりにくいんだな。中には、子供が生まれてくるから無限だとか、先に入ったやつが抜けて下に着くから無限に続くとか言う奴がいるが、まやかしに過ぎない。ただ、欲深い人間は聞く耳持たないってだけさ」
「ねえ……どのくらいで駄目になるわけ?」
「システムにもよるが、倍々ゲームの場合だと、27世代めで日本の人口を越える」
「ふうん……なんだかぴんと来ないわね」
「だから騙されるんだ。まず自分が何世代目に居るかわからないからな。最後の方だったら悲惨だぜ。さっきのねずみ講が崩壊した理由は、もらえるはずのお金がもらえないって抗議した構成員が続出したのが、直接的原因だし」
「なるほどねえ……それで違法行為になっても、まだやる奴とかいるわけね。頭きちゃうわ、ほんとに」
まったくな……でもまだそい言う行為そのものが、違法になっているだけましなんだがな。世の中には、もっと恐ろしい罠が仕掛けられていたりするのだ。
さて、今日も今日とてお客様をおもてなしする"Alexia"の面々。その中に、最近ちょくちょくやって来る一人の客がいた。
「さあ、今日もみんなパーっとやってね!」
偉く羽振りのいいこの女性、あずさと名乗っている。どこにでもいるようなおばさまだ。その回りには手すきのホストが全員集められている。
「それじゃあかんぱーい!」
店のホストのほとんどをはべらせての乾杯。さぞや気持ちいいだろう。ま、俺はその中には居ないが。下っぱの俺は玄関でお客待ちさ。
「今日もみんなに会えてほんとよかったわ。どんどんやってね」
「いつもすみませんね、あずささん」
"カオル"の奴が歯の根が浮き出しそうな調子で言う。
「いいのよ、そんな〜。みんなの顔が見られるだけでうれしいんだから」
そう言って笑うあざささん。ここまでは普通の気前のよいおばさまなのだが……今日はここからが違っていた。
「でね、今日はみんなにいい話を持ってきたのよ」
「いい話ってなんです?」
"カオル"が待ってましたとばかりに身を乗り出す。
それを見たあずささんは満足そうに肯いて言った。
「みんなが幸せになれる話なのよ。聞きたい?」
皆一様に肯く。まあこの辺りは営業テクニックみたいなもんだ。そうやって、女王様気分?とやらを醸し出すわけだな。
「これはねえ、まだそんなに知られてない話なんだけど……」
あずささんは何故か声をひそめるようにして言った。
「すっごくいい物があるのよ」
「すごくいいもの、ですかぁ」
「そ。これがね〜、とっても身体にいいものなの」
「身体にいいものって、ビタミン剤みたいなものですか?」
「それに近いけど、普通の薬局で売ってないようなものなのよ」
……いきなり話が怪しくなったな。普通の手段で買えないものだって?
「まさかやばいクスリとかじゃないでしょうね?」
さすがに疑わしそうにホストの一人が尋ねた。
しかしあずささんは明るい声で疑問を否定した。
「そんなわけないじゃない!そんな違法な物の売り込みを、こんなみんなの居る場所で吹聴してまわる人なんているわけないじゃないの!」
確かに彼女の言う通り、そんなことを吹聴する奴はいない。道理ではあるな。
みんなもそれで納得したらしい。
「それでね、今日は試供品を持ってきたから、みんなにあげちゃう!」
そう言って彼女は手に持ったサイドバッグから、目薬みたいな小瓶を幾つか取り出してみせた。
「これはね、化粧水なんだけど、お肌のしっとり感とか市販品とは大違いなのよ!まずは試してみてね」
そしてその場に居た全員に、その小瓶を渡した。ホスト稼業の連中にしてみれば、化粧のことも気になるってもんだ。みんな、期待感が顔に出ている。
「あ、当然のことだけど、"TOWER"の中だけの物じゃなくて、本当に使えるものだから大丈夫よ」
化粧品に関しては様々な規制が存在しているが、"TOWER"においても例外じゃない。特にその効き目に関しては、"TOWER"ではいくらでも偽ることができるが故に、"TOWER"内への持ち込みは厳重を極める。今あずささんが渡している物は、現実世界に存在し、なおかつその効果が忠実に再現されているということを、彼女は宣言しているわけだ。
「とりあえず使ってみてね。すぐ効き目が現れるから!また明日感想聞かせてちょうだい。約束よ」
そうして、あずささんはもうしばらく遊んでいった後、帰っていった。
もちろんその後は、例の化粧水で持ち切りだった。
「ほんとに効き目あるのかねー?」
「お前試してみろよ?」
「いいよ、後で」
「……お、意外にいいかも」
「本当か?」
「あ、ほんとだ……肌のつやとか全然違ってくるよ」
「へえ……わ、ほんとだ」
評判は悪くないな……物はまともっていうことか。それがなぜ一般に市販されないんだ?まだ開発中ってことなのかねえ……その試供品か。それともこれは……。
「あれ?"ナイト"はもらわなかったの?」
"ミッキー"が俺の方を見て言った。
「ああ……今のままで充分だからな」
「へえ、自信家なんだ、"ナイト"って」
感心したのか呆れたのかわからないような顔で"ミッキー"は言った。
「でも試してみたけど、これ、かなり具合がいいよ。"ナイト"もつけてみない?」
「いいって。それよりも……」
「え、なに?」
「いや……なんでもないよ」
油断するなよ、とか言いかけて俺は止めた。まだ、確証があるわけじゃない。変に不安がらせることもないだろう。
そんな俺を、"ミッキー"は不思議そうに見つめていた。
「まったくもう!どうなってるのよ!?」
昼休み、岬と話していると、またうるさいのが割り込んできた。薫だ。相変わらず怒っている。
「またかよ……今度はなんだ?」
「ビジネスチャンスがどうたらこうたら……まったく、うざったいったらありゃしない!」
「MLMのお誘いか。見事にパターンにはまってるな」
「MLM?なにそれ?」
「要するにマルチ商法だな」
「マルチ商法?あの、がらくた売りつけて高い金巻き上げるやつ?」
うさんくさそうに薫は言った。変にずれてるな。
「そりゃ押し売りとか詐欺だろう。マルチってのは、昨日のねずみ講の合法版ってとこだな」
「合法?犯罪じゃないの?」
「ああ。一応はな。普通の物品販売だからな」
「ふうん。じゃ、問題ないんだ」
「いや……そうでもない」
「え?」
「確かに普通の販売方法と変らないけどな。問題は販売組織だ」
「組織?」
「普通なら、製造会社があって、卸問屋があって、小売店がある、ってのが普通だろう?」
「うん」
「マルチじゃ、それが無限に広がっていくってのが、普通の商売と違うところなんだ」
「無限に広がっていくって……ねずみ講みたいじゃないの」
お、薫の奴、さすがに馬鹿じゃねえか。勘はいいんだよな。
「そうさ」
俺はにやっと笑う。
「ねずみ講の特徴は、金だけが動くことだ。だからこそ非合法化された。だが、物の売り買いでは特別な制限はないからな。それを突いたのがマルチ商法って訳さ」
「なるほどね……じゃ、やっぱりお金とるの?」
「そうだな、加盟金とか会費とかいう形で法外な金をとったりとか、割高な商品を在庫させられたりするとか……どっちにしろ、下っぱは苦労するようにできてるのさ」
「ひどい話ね」
「浜の真砂は尽きるとも、世に盗っ人の種は尽きまじ、ってな。仕掛けるやつは永久にいなくならんと思うぜ。ま、うまい話には軽々しく近寄らんことだな。気をつけろよ」
そう俺が言うと、薫の奴、突然にやついた顔をして言った。
「へえ……心配なんてするんだ……へえ」
「なんだよ。なにか変か?」
「いつもは邪魔者扱いするくせに……なにか変な物でも食べたんじゃないの?」
「うるせえ。俺は本来優しい人間だからな。心配ぐらいしてやるさ」
「ふうん……」
もの珍しそうに俺を見回す薫……くそ、俺は見せ物じゃないぞ。
と、その時。薫の携帯が鳴った。
「また……」
顔をしかめながら薫は端末を取り出し、メッセージを見た。が……えらく神妙な顔でそれを見つめる。
「どうした?もっとひどい奴でも来たか?」
「え!?ううん、なんでもないわよ。じゃ、じゃあね」
ひどく動揺した顔で薫はそう言うと、そそくさと俺たちから離れていった。
「どうしたんだろう……大丈夫かな?」
岬が心配そうに言う。
「さあな。俺が今言ったことがわからないほど馬鹿じゃねえだろう」
「へえ……櫻らしくない発言だね」
岬の奴、変ににやついた顔で言った。
「あん?なんだよ、それ?」
「いやさ、いつもならどうなっても知らないって態度とるじゃないか」
「あ?べつにどうでもいいと思ってるが。騙される方が馬鹿なのさ」
「じゃあ、葉さんのことを信用してるって訳だ」
「さあどうだか……どうでもいいよ、そんなこと」
俺はそう言って立ち上がった。
「どこ行くの?」
「トイレ」
そう言い残して俺は席を立った。
くそ、岬の奴……なにを言いたい?俺はただ推測しただけなのに、それ以外になにか意味があるって言うのか?気に入らねえ……。
そうして教室から出てすぐのことだ。
突然、後ろから誰かに追突された。
「うわ!」
「いたーーーっ!」
なんとか倒れずには済んだが、背中がめちゃくちゃ痛い。
「だれだよ、まったく……って、なんだ、薫じゃねえか」
薫は痛そうに肩をさすっていた。くそ、ショルダータックルかよ。
「たたた……痛いじゃないの!どこ見て歩いてんのよ!?」
「それはこっちのセリフだ。大体なんでこんな見通しのいい所で……」
が、俺の文句も聞き終わらないうちに、薫は走り出した。
「あ、おいこら!」
「ごめん、またね〜」
なにがまたねだ……たく、なにを急いでいるのやら。
しかし……さっきと全然態度が違うな。一体なにがあったんだ?
ま、俺には関係ないことだが。
さて今日も、当然のようにあずささんは店に現れた。
俺はその時も別の接客で彼女とは別の島にいたが、そっと聞き耳を立てることにした。どうもあの人には引っかかるものを感じるんだ。杞憂だといいのだが……。
手すきの者が彼女に群がるようにして現れた。話題はもちろん、昨日の化粧水のことだ。
「どうだった、使ってみた感想は?」
「すごくよかったですよ!全然突っ張らないし……」
「すべすべ感が長持ちしていいですね」
「これだったら毎日使いたいですよ」
うむ、好評この上ないな……やはり、物は悪くない、と。
「でしょ?あたしに言ってたこと間違いなかったでしょ?」
あずささんは自信満々に言うと、みんなは肯かざるを得ない。
「でも、誰かが言ってたけど、毎日使いたいわよね、こういう基礎化粧品は。でもねえ、効き目がいいぶん、お値段が張っちゃうのよ」
「どれくらいなんですか?」
「200ミリリットルで一万円位するの」
それを聞いて、さすがにみんな黙り込んだ。このサイズだと二週間くらいで使いきりそうだし……、節約しても月に二本は使ってしまいそうだ。
「あ、でも大丈夫よ」
彼女はそう言ってにっこりと笑った。
「その値段はあくまで、一回だけ使ってみたい人用の値段なの。ちゃんと安く買える方法があるのよ」
「どうすればいいんですか?」
「教えてくださいよ〜」
ホスト連中が我も我もと詰め寄る。それをあずささんは満足そうに見て言った。
「まあまあ、そう慌てないで。教えて上げるから。うんとねえ、いくつか方法があるんだけど、一番簡単な方法は、うちの会員になることね」
なに?会員になる?
俺はお客との会話をそっちのけで、こっちの話に集中することにした(仕事は当然こなすさ、もちろん)。予想通り、怪しい話になってきたな。
「会員って、なんていう会なんですか?」
「緑林会っていう団体なんだけど、化粧品とかを扱ってるのね。で、会員を集めてみんなでいいものを買おうっていうのが目的なの。いいものを買う分お値段は高いんだけど、大勢集まればその分安くできるので、それでいろんな人に紹介してまわってるのよ」
「その会って、会費とかとるんですか?」
「年会費で一万円よ。でも入ればさっきの化粧水が半額になるんだから、お得でしょう?」
「は、半額ですか!?そりゃお得ですねぇ……」
"カオル"がしたり顔で肯く。
馬鹿野郎。見事に話にはまってやがるな。どいつもこいつも化粧水の効果に幻惑されて、元の値段の高さが吹っ飛んでる……おいおい、"ミッキー"もかよ。あいつだけは違うと思っていたんだが……他の連中は別に構わないが、"ミッキー"はなんかほっておけないんだよな……しょうがない。
俺は"ミッキー"に直接交信を試みた。チャットで特定の相手にメッセージを送るのと要領は同じだ。"TOWER"じゃ通称"肩たたき"と読んでいる。だが、接客しながらやるのは結構きつい技だ。
『おい、"ミッキー"』
「!?」
一瞬驚いたような雰囲気が伝わってくる。
『馬鹿、普通にしてろ』
『"ナイト"!?なんだよ、接客中に』
『騙されるなよ』
『え?な、なに?』
『今の話に騙されるなよ』
『今の話って、化粧水の話?』
『そうだ。とにかく一度断れ。それからでも遅くはない』
『で、でも、なんでそんなこと……』
『いいから、言う通りにしろ』
そして俺は一方的に会話を打ち切った。
向こうでは、いよいよ最後の誘い水がやって来ているらしい。
「みんなもよかったら入らない?もちろん入らなくてもこれは買えるけど、入会すれば他の製品をもっと安く買えたりするわよ。それもたったの一万円で!みんな、どう?」
あずささんはそう言って、みんなの顔を見回した。
「もちろん、入りますよ!あずささんの折角のお誘いなんですから!」
そう声を上げたのは、案の定"カオル"だった。ああ、お前はそう言う奴だよ。
すると周りの奴等も遅れじと、次々承諾してしまう。馬鹿め……知らねえぞ、俺は。
そうだ、"ミッキー"は?
「あら、"ミッキー"ちゃんは入らないの?」
あずささんは一人返事をしない"ミッキー"を見て言った。
「え!?あ、いや、僕は、もう少し考えさせてください」
そうちょっと慌てた感じで"ミッキー"は言った。ち、まずい。
「あら、そんなに考えることかしら?あんなにいいものを半額で買えるのよ?」
「いやあ僕、あんまりお小遣い無いもんで……」
あ!余計にまずいことを!
「大丈夫よぉ。更に安く買える方法だってあるんだから!とりあえず入ってみてから考えればいいのよ。もし、途中で止めたくなったら、一年目の会費は戻ってくるんだから。ね、安心でしょ?」
そう来るか……こりゃ、駄目か?
「ええまあ……」
「こういうことはすぐに始めないと!続けて使わないと効果が無いんだし……ね?」
くそ。向こうの術中にはまったか?もっとちゃんと断るように言っておくんだったぜ。
が、しかし。
「いえ、お給料がまだですから。ほんとにピンチなんですよ」
"ミッキー"は目許をすこし潤ませながら言った。
「あ、そ、そうなの」
その姿に心打たれたらしい(?)あずささんは、引き下がることにしたらしい。
「わかったわ。でも、説明会には来てくれるでしょう?決めるのはそれからでもいいんだし、ね?」
だあ。そっちの手があったか……"ミッキー"にはこれはかわせねえな。
「は、はあ……」
「じゃあ決まりね!明後日緑林会の説明会があるのよ。月曜日だからみんな、お仕事は無しでしょ?みんな来てくれるわよね?」
今度はさすがに誰も拒否はしなかった。
うーむ、何事も無ければいいが……って、そりゃ無理な相談か。
店がはねた後、俺は"ミッキー"に更衣室で声をかけた。
「すまん、"ミッキー"。説明が足りなかった」
「どういうことだよ、一体?!」
"ミッキー"はすっかり困惑した表情で俺を見た。
「"肩たたき"なんかしてさ!なんだって言うのさ!」
「まあそう怒るなよ。ちゃんと理由があるんだ」
「本当だろうね?折角おもしろ話を聞いているところに……」
「おもしろい話なんかじゃないぞ。どっちかっていうと、怖い話の方だ」
「え?ど、どういうことさ?安く買えるくらいのどこが怖い話なのさ?」
怪訝な表情の"ミッキー"。
さて、どう話したもんか……俺の勘でしかないからな。しかし、ちゃんと説明しないと納得しないみたいだし……。
「物が買える云々は本当だろうさ。でもその後に落とし穴が待ちかまえているとしたら?」
「落とし穴?なんだよ、それ」
「良くある話さ。更なる勧誘が待っていて、余計に金を使わされる羽目になるかもしれないんだぞ?その危険性をちゃんと考えてたか?」
「え……えっと……それって……まずい商売ってこと?」
さすがに不安そうな表情で"ミッキー"が言った。
「確証はないけどな。だが、注意は必要だと思うぜ……」
「そんな……お客さんを疑うだなんて」
「金を落としている間は客だ。だが……店の外に出たら、客でも何でもない」
「そ、それはそうかもしれないけど……」
「なんだなんだ、お客様になんという不調法なことを言ってるんだ?」
突然、"カオル"の奴が会話に割り込んできやがった。
「失礼も程があるぞ。大体あの人の話に疑わしいところなんて何も無いのに……ははあ、わかったぞ。自分が誘われなかったもんだから、その腹いせに嫌がらせをしようとして……」
ふん、勝手に話を進めやがって。自分だけの妄想に浸ってやがる……これだからナルシストは嫌いなんだ。
だが、俺は努めて冷静な表情で奴を見た。口許には微笑みを忘れない。
「まあ、俺には関係ないことなんで……直に体験して報告してもらえませんかね?」
「な、なに?」
"カオル"は呆気に取られたような表情で俺を見た。
「いや、自分の目で確かめてきて下さい、ってことですよ。それなら、何を言われたって文句は言いませんよ」
「く……ふん、後でどうなっても知らないからな」
そう捨てぜりふを残して、奴は去っていった。
「"ナイト"……いいの、あんなこと言って?」
"ミッキー"が不安そうに聞いてくる。
「なあに、どっちに転んでも、あいつの俺に対する評価が下がるだけさ」
「そんな……」
「それよりもだ、その説明会とやらになんとかして潜り込まなけりゃいけないな」
「え、"ナイト"も行くの?興味なかったんじゃ……」
「化粧品なんぞに興味はないさ。その、緑林会の方に興味がある。俺の想像が正しければ、そいつはマルチ商法の組織だ」
「マルチ商法!?」
"ミッキー"は驚く。
「そんな……そんな風には思えなかったけど」
「まだ確証はないが、入会して安く物が買えるとか言ってただろう?それに、もっと安く買える方法もあると言っていた。大量の商品の一括購入なら確かに単価が安くなるが、一人当たりの消費量なんて大したことないし……大体、そんなに多く売れるようなものだったら、普通に売った方が儲かるはずなんだ。でもそうしていないってことは……悪徳商法の匂いがぷんぷんするぜ」
「なるほど……言われてみると確かに不自然だね。でもなんで気がつかなかったんだろ?」
「ま、それをうまくごまかすのが勧誘員の腕の見せ所さ。なんにせよ、その説明会を聞きに行けばわかることだ。ただ……」
「ただ?」
「ただ……俺の想像通りの組織だった場合、無事に説明会から帰ってくるのは難しいかもな。さっきの"ミッキー"のような応対じゃな」
「そっか……断れそうな雰囲気でもなかったしね」
「何事も無ければそれでよしだが、用心に越したことは無いさ。世の中、うまい話なんてのには裏があるもんだからな」
日曜日。学校は当然休みだし、バイトまではまだ時間があるし、ちょっと外をぶらついてこようかと、俺は街の方に向かった。
相変わらず街には馬鹿どもで溢れていた。気色の悪い化粧のしている奴、似たような服を着ている奴……それで自己表現だのファッションだの気取っているんだろうが、ふん、周り中で同じことしておいて、なにが個性だ。それで格好いいと思っている辺りが、踊らされていることを気がつかない馬鹿の証明ってところだな……くそ、気分が悪くなってくる。
どこか別の場所へと移動しようとしたとき、前の方からよーく見慣れた人間がやってきた……薫だ。それもかなり怒っている。まずい。面倒に巻き込まれないうちに……。
が、遅かった。
「櫻ちゃん!!」
街の往来で、大声で俺のことをちゃんづけで呼びやがった。そしてずかずかと俺に近寄ってくる。
「ちょっと付き合いなさいよ!」
そしていきなり俺の腕を掴んで歩き出した。ものすごい力だ。
「わ!よせ!放せ!」
とはいってみたものの、ここで抵抗すると余計にひどいことになる。俺の経験がそう告げていた。
仕方なく、俺は親に運ばれるハムスターの子供のごとく薫に引っ張られて、やって来たのは街から離れた公園だった。
「はあはあはあ……まったくもう……」
息を切らしながら薫は愚痴る。
「あたしが馬鹿みたいじゃないのよ……」
馬鹿じゃないのか……と突っ込んでやりたかったが、それをやると命がなくなりそうなので止めておく。
「一体なにがあったんだ?」
俺がそう水を向けると、薫は俺をきっと睨み付けた。
「聞いてよ、櫻ちゃん!」
「あ、う、ああ……」
「昨日メールが来たの」
「まさか、あの昼休みのか?」
「そう……って、なんで知ってるのよ!?」
「わ、そう詰め寄るな!あの時のお前は変だったから、それでそうじゃないかと……それにあの後、俺にぶつかったろう?」
「そう……そうだったわね」
ちょっとだけ怒気を押さえた薫は、ぼそぼそと話し出した。
「あれ、呼び出しのメールだったのよ。大切な話があるって……」
「大切な話?誰からのだよ?」
「別のクラスの男子。知らない人だったんだけど……」
「なんだ……呼び出しは呼び出しでも、告白話かよ」
俺はくだらなさそうにそう言った。
「それで、なんでそんなに怒ってるんだ?」
「怒りたくもなるわよ!!」
薫はものすごい声で叫んだ。どこかで鳥が飛ぶ音がしたくらいだ。
「呼び出されて会いに行ったら、なんて言ったと思う!?」
「さ、さあ……」
「いいビジネスチャンスがあるんだけど、君も一緒にやらないか、だってさ!!SPAMと一緒じゃないのよ、まったくもう!!」
「そりゃまた……直に勧誘されるとこまできたのかよ。それで返事は?」
「ノーに決まってるじゃないのよ!!あー、頭来ちゃうわ!!」
ふう……そこまで馬鹿じゃ無かったってことか。
「なによ、その目は?」
薫は俺の顔をじろっと睨み付けた。
「あたしのこと、馬鹿にしてない?」
「してねえよ。なんでそんな風に思うんだ?」
「……目よ」
「目?」
「馬鹿にしてた……そう見えたもん」
薫は余計に険しい目つきで俺を見た。いや……なにかにすがるような目に、俺は見えた。
「馬鹿、そんなこと思ってねえよ」
「今馬鹿って言ったじゃない!」
「今のは違うだろうが。誤解するな」
「じゃあなんなのよ、さっきの目は!どうせ会いに行くのが馬鹿だとか思ってたんでしょ!?」
う……なんでわかるんだ?確かに、のこのこ会いに行く程度には馬鹿だと思ったが……変なところで勘が鋭い奴だ。
「ま、まあ少しは……」
「ほらやっぱり……どうせあたしは馬鹿よ!」
そう言って薫はその場にしゃがみ込んでしまった。
おいおい……まるで俺がいじめたみたいじゃないかよ。あ、くそ、こっちを見てる奴がいる。あらぬ噂でも立てられたらかなわん。
「おい、止めろよ。さっさと立て!」
「……おいなんて名前じゃないもん」
顔を伏せながら文句を言う薫。まったく……こうなるとてこでも動かなくなるからなあ。仕方がない。
「薫、悪かったよ……お願いだから立ってくれ」
俺は努めて優しい声で言った。しかし、返事はない。くそ。
「わかった、なにか買ってやるから……機嫌直せよ、な?」
「……なにかってなに?」
不機嫌そうな声で薫は言った。
「なにかって……買える範囲の物なら、まあ、なんでも……」
「なんでも……くっくっく……」
「あ?」
「なんでも買うって言ったね……聞いたよ……うっふふふ」
奇妙な笑い声を上げる薫。そして急に立ち上がると、実にうれしそうな顔で俺の背中に飛び乗ってきやがった。
「逃がさないわよ〜!」
「わ、馬鹿、よせ!!」
「さっき新しい服見つけたんだ!あとそれに似合う靴も!」
「そんな高いの買えるか!」
「バイトしてるんだからいいじゃん。それにぃ……」
俺の首に回した腕に力を込めながら薫は言った。
「さっき言ったよね?なんでも買うって」
「買える範囲だって言っただろうが」
「聞いてないわよ、そんなこと」
「ええい、都合のいいとこばかり聞きやがって……」
「さあさあ、早くしないと無くなっちゃうわよ!」
俺は薫に背中をどつかれながら街の方へと進んでいく。
まったく……いつものこととは言え、気が乗らねえな、このやり方。物でつってるみたいで……いや、実際そうなのだが。
昔からこうなんだ。ちょっといじめただけで拗ねやがって、それをなだめるのに結局なにか買ってやらないと駄目なんだよな。ガキの頃の小遣いじゃこれが大変でさ。それがほとんど毎日だったからなあ……でもなんで、毎日あいつのことをいじめてたんだ?
覚えてねえな、そんな昔のことなんか……それよりも今は、気になることがある。
「なあ薫」
俺は後ろを振り返りつつ聞いた。
「なあに?」
「その勧誘したって奴の名前とクラスを教えろ」
「え?なんでよ?」
嫌そうな声で言う薫だが、答えてもらうよりしようがない。
「いいから教えろ」
「わかったわよ……二年A組の渡瀬って奴。これがまじめそうな顔してさ……」
「そんなことは聞いちゃいねえ」
「むう〜」
「そいつ、会社の名前とか言ってなかったか?」
「ううん、ただ一緒にビジネスをなんたらかんたら……」
「ふん。それからな、学校の連中で、MLMのSPAMがをもらってるやつってどれくらいいる?」
「んー、一杯いるわよ。あたしだけじゃないみたい」
「なるほどね……」
「なんでそんなこと聞くの?まさか自分でやる気じゃ……」
「馬鹿」
「馬鹿とはなによー!」
「いたた!背中を叩くな!あのな、あれだけ警告してやったのに、その俺が胴元をやるってのか?冗談じゃない」
「あ、それもそうね……手の内明かしてるようなもんだもんね」
「そういうことだ」
「でもどうするの?そんなこと聞いて……」
「お前が気にすることじゃねえよ」
「またそんな言い方……」
薫は急に立ち止まって俺を睨み付ける。
「いつだって櫻ちゃんは……自分勝手に話を進めるんだから」
「あのな……俺のやることに一々構うなよ。やりにくいだろうが」
俺は冷たく言い放った。
別に、薫に含むところがあるわけじゃねえ。あいつは熱くなりやすくて話をこじれさす可能性が高いから、首を突っ込ませないようにしているだけだ。そうさ。ただ、それだけだ。
「なにがやりにくいよ!」
殺気を含んだ目で薫は俺を見た。
「やましいことしようってんじゃないでしょうね?!そんなこと絶対させないからね!」
「おいおい……今さっき胴元にはならねえって言ったばかりだろう。悪いことなんかするもんか」
「じゃあどうすんのよ?」
「なに、ちょっとした気晴らしだ」
「気晴らし?」
「そうだ。バイトでおもしろくないことがあったからな。その腹いせだ」
「腹いせねえ……」
「だから気にするんじゃねえよ。個人的な気晴らしなんだからよ」
「そう……」
薫はつまらなさそうな顔をしたが、すぐに破顔一笑、また俺の背中を押し始めた。
「じゃ、あたしも気晴らし!早く行かないと売り切れちゃうよ!」
「くそ、忘れて無かったのか!」
「忘れないよーだ!さ、早く早く」
……結局その日は、初めてバイトに遅刻した。くそ。泣きっ面に蜂だぜ。
翌月曜日の昼休み。俺は、物陰である人物の到着を待ちかまえていた。
その人物は時間通りに現れると、辺りを見回して人を探すような仕草を見せた。
「岸さん……来てますか?渡瀬ですけど……」
そう。こいつが薫をひっかけようとしていた二年の渡瀬だ。確かに薫の言う通り見てくれはいいようだが……ここに来たということは、欲惚けのアホたれということだな。
よし、一丁揉んでやるか。
「よぉ、渡瀬さんよ、待ってたぜ」
俺は樹の影から奴の前に現れた。
「な、なんだ、君は?」
意外な登場人物に、戸惑いの表情を見せる渡瀬。
「なんだはないよなあ……岸だよ、岸」
「岸!?君が!?そんな……だってメールをくれたのは女の子じゃ……ま、まさかネットオカマか!?」
馬鹿野郎、人を指さすんじゃねえ。
「うるせえ、黙れ。お前にそんなこと言われる筋合いはない。ちょっとひっかけメール出しただけで寄ってくるようなアホにはな」
「な、なんだと!?ひっかける?」
「あんた、いかがわしい商売してるだろう?ネタはあがってんだよ。それでちょいと聞きたいことがあってさ……カマかけてみたわけだ」
「いかがわしいとはなんだ!僕はそんなことしてないぞ!」
勇ましいセリフとは裏腹に、渡瀬の奴、顔が青ざめている。
「僕はただ、いい話があったからみんなに知らせたくて、それでメールを出していただけだ!」
「ほう。いい話ねえ……いろんないい話を知ってたみたいだな。物が安く買えるとか、少しの出費でお金が一杯稼げるとか……」
「そ、そうだ。き、君もやってみないか?今がチャンスなんだよ!今を逃したら一生平凡なままで終わるんだ!そんなことでいいのか?もっといい生活ができるんだよ?ほんの少しの出費でそれが可能になるんだ!こんないい話を放っておくなんて愚かしいことだよ!」
必死になって俺を説得しようとする渡瀬。嘆かわしい限りだな……自分のやっていることがいかに愚かなことか、まったく気がついていない。これじゃ、自分から積極的に人を騙す奴の方がまだしもだ。
しかし……ふん、相手が悪かったな。
「愚か者はてめえだ」
俺は冷酷な死刑執行官の如く、冷たく言い放った。
「そうやって、他人を踏み台にして金もうけする奴は大嫌いなんだよ」
「な……僕はそんなつもりは……」
「大体がだ、そういう勧誘行為そのものが違法なんだよ。射幸心を煽り、てな。ま、引っかかる奴も悪いが、引っかけようとする行為はより悪いってことだ。あんたのやってることを警察に知らせたら、そんなつもりは無かったなんて言い訳は通用しないぜ」
「そ、そんな……違法だなんて、そんなこと言われなかったぞ!」
言われなかった、ねえ……なーにが、いい話があったから、だ。他人にそそのかされてやってるだけじゃねえか。
「そりゃ、自分から違法だなんてばらすやつなんていないぜ。それに説明も不十分だ。簡単に儲かるまっとうな商売なんかあるかい。あんただって、儲けるのにはかなり苦労するってわかってるんだろ?」
「そ、そんなことはない!本当に誰にでもできる簡単なビジネスなんだ!」
まだ言い張るか。じゃあ、これじゃどうだ?
「だったらさあ、なんで勧誘するんだよ?」
「なに?」
「そんなに簡単に儲かるんだったら、なんで他人に持ちかけるする?自分だけでやった方がずっと儲かるじゃねえか。違うか?」
「そ、それは、みんなに幸せになってもらいたいからで……自分だけが儲かるなんて自己中心的すぎるじゃないか!そうだよ、そうなんだ!みんなで幸せになるためにこのビジネスを成功させなければならないんだ!」
うーむ、ついに宗教じみてきやがったな。そこまで自分を追い込むってことは、よっぽどやましいことがあるんだな。この手の手合いは始末におえんわ。やーめたっと。
「ああ、わかったよ。ぜひとも成功させてくれ」
なげやりに俺が言うと、渡瀬はなにを勘違いしたのか、うれしそうに元気よく返事した。
「も、もちろんだとも!き、君もやらないか?君にはもっといい情報を……」
「名前はなんていうんだよ?」
「え?」
「あんたの参加している会社の名前さ」
「あ……ええと、緑林会というんだ。自然環境に優しい天然由来の製品を提供することを目的に設立された会社で、これが安くて品質のいい健康食品や化粧品なんかを販売していて……化学合成された物は一切使用していないから身体にとってもいいんだ。そんな製品がとっても安くてに入るし、斡旋販売すれば売った分だけバックマージンがもらえるんだ。だから売った分だけもうけになって、これ程やりがいのあるビジネスは無いんだよ。それで……」
「ああ、もういい、馬鹿野郎!」
突然の怒声に、渡瀬は呆気に取られる。
やっぱり典型的なマルチ商法じゃねえか。その手の口上は聞き飽きたぜ。
「おい、岬、撮れたか?」
俺は背後にそう声をかけると、茂みからビデオカメラを構えた岬が現れた。
「ばっちり撮れてるよ。勧誘しているところもね」
その声を聞いた渡瀬の顔から血の気が失せた。
「や、や、やめろ!」
「もうおせえよ。それにな、違法じゃないんだったらなにをうろたえる必要がある?勧誘の格好の素材じゃねえか」
「い、いや、それは……」
「ま、安心しな。誰かに見せたりしたりはしないが……その代わりといっちゃなんだが、お前さんの上の連中の名前を教えろ」
「え!?だ、だめよ、それは!上から止められてるんだ、会に入ってないのにそう言うことを教えるのは……」
「あのさあ……」
俺は酷薄な表情を浮かべて渡瀬を睨みつつ、言った。
「今のお前の立場は、勝手言える立場じゃねえんだぜ?折角見逃してやろうって言うのに……馬鹿な奴だ。じゃ、勝手にしな」
そう言い残して俺は去ろうとした。すると渡瀬は情けない声でしゃべり出した。
「わ、わかった!いう、いうよ!だからこのことは誰にも……」
「そうこなくっちゃな」
俺は極上の笑みを浮かべながら言った。
……そうして奴がしゃべることを記録して、俺たちは渡瀬を解放した。奴は頭をへいこら下げながら消えていった。
「ありがとよ、岬、面倒かけたな」
「そんなことないよ。でもどうするの、これ?」
岬はカメラを指差しながら聞いた。
「もちろん有益に利用させてもらうさ。後でデータでくれ」
「いいけど……これからどうするんだい?」
心配そうな顔をする岬に、俺は自信たっぷりの顔で言った。
「もちろん、ぶっつぶしに行くのさ、その緑林会とやらをな」
「ちょ、ちょっと待てよ!そんなことして大丈夫なのかい!?」
「心配するなって。色々と手は打つさ。負ける戦いはしない主義だからな」
「でも……」
「なーに、理論武装は完璧。あとは度胸と舌先三寸口車ってね。今日、決着をつけてくるよ……"TOWER"でな」
"TOWER"に流れる人の群れ。それは現実のものと何一つ変らない。欲望渦巻き、あの手この手で他人を陥れようとしている……鵜の目鷹の目、弱肉強食の世界さ。そんな世界で生き抜くためには、慎重に慎重を重ね、全周囲に注意を向けていなければならない。
だが、えてして人は世界をそのように捉えてはいない。現実世界ですらそうなのだから、自分という存在が不確かなものとなる"TOWER"では、そんな警戒心はどこかへ吹っ飛んでしまう。
そこへつけ込もうとする不逞の輩……変らんよな、現実と。本当に変らない。
さて……その不逞の輩の総本山へと乗り込みますか。
と、その前に、駅前で待ち合わせをしていた"ミッキー"と落ち合う事になっている。
"ミッキー"は、店の時とあまり変らないスーツ姿で俺を待っていた。
「よお、"ミッキー"」
「あ、"ナイト"!……って、その格好は何!?」
「変か?」
俺は自分の姿を眺めてみた。俺もスーツ姿には違いなかったが、ビジネスマンみたいなグレーのスーツにYシャツにネクタイと、硬そうな雰囲気でまとめていた。おまけに髪型はオールバック、黒縁の眼鏡をかけていた。
「い、いや、ごく普通の格好だけど……普通すぎて"ナイト"らしくないよ。それになに?その眼鏡は?」
「似合うだろ?って、一応変装のつもりさ」
「変装?なんで?」
「"カオル"や他の連中に見つけられたら面倒だからな」
「そ、そう……まあいいけど」
「それじゃ行こうか。場所はどこだ?」
「うんとね、サハリンホールって言うらしいんだけど……」
「サハリンホール?貸しホールとかあるところか」
「そうなの?」
「詳しくは知らないが……いよいよくさいな」
「なんで?貸しホールなんて珍しくもないじゃない」
「ま、行けばわかるさ」
そうして俺たちは、そのサハリンホールとやらまで歩いていった。
サハリンホールはいわゆる多目的ホールという奴で、色々な広さの部屋を貸してくれる所だ。全体の大きさは十階建てのビルくらいかな?もっとも"TOWER"で外観上の大きさがそんなに意味を持つとは思えないが。
「へえ、結構大きいんだね」
「ああ……」
確かに圧倒されそうになるが……要するに、はったりか?
「さてと、説明会場とやらはどこだ?」
「うーんと……あ、あそこに案内があるよ!」
ホールの入り口に立て看板があり、そこに『緑林会・大成果会』とでかでかと書かれていた。大成果会だと?えらく大仰な……。
「えっと……大ホールってなってるよ、場所!」
"ミッキー"が驚きの声を上げる。
そりゃまた……えらくふっかけやがるじゃねえか。
「僕、もっとこじんまりした会だと思ってたのに……」
普通そう思うだろうな、あのあずささんの口ぶりじゃ。だが、これで俺の疑惑はますます深まった。
「さ、中に入ろうぜ」
「う、うん……」
すっかり度胆を抜かれた"ミッキー"を促して、俺たちはホールの中に入っていった。
ロビーには大勢の人でごった返していた。これは多分、大成果会とやらの参加者だろうな。大ホールより小さい部屋での会合のために、こんなに大勢は集まらんだろう。
それにしてもいろんなやつらがいるな。男は大抵ビジネススーツ姿、女はひどく派手な服装が多い。あちこちでグループを作って話をしている。へこへこ頭を下げているところを見ると、偉いさんへの挨拶周りって感じだな。
で、その偉いさんの派手派手しいこと……服は最上級品、装飾品も色々高そうなのが一杯つけている。成金趣味丸出しだね。その成金共に向かってへいこらしているその他大勢……浅ましいねえ。人間、ああなっちゃおしまいだな。
だがそんな連中が集まるってことは……俺の想像は見事的中ということらしい。気合いを入れていかにゃ、こっちが食い物にされるぞ。
「あら、"ミッキー"じゃない!来てくれたのね!」
「あ、あずささん」
ふん、子ねずみのご登場か。あずささんは、これまたえらく着飾っていた。馬子にも衣装……いや、猫に小判だなこりゃ。全然似合っていない。
「あら、こちらの方は?」
ふう、どうやら俺だとは気がつかないらしい。
「初めまして、岸と申します」
俺はにこやかな表情で偽名を名乗った。源氏名のもじりだが、結構気に入っている。
「こちらの彼におもしろい話があるからと聞きましてね」
「あらあらそれはそれは、ようこそいらっしゃいました。今日は楽しんでいってくださいね。それじゃまた後で……」
そう言って彼女は離れていった。
「ばれなかったね?」
「ああ。さて、乗り込むとするか」
それから俺たちは受付を済ませると、大ホールの中に入っていった。
「はあー……す、すごいねえ」
"ミッキー"は呆れたような感心したような、複雑な声を上げた。
数百名は入ろうかという大ホールの中は、人、人、人で埋め尽くされていた。これは、この俺もさすがに想定外の人の入りだ。
そしてステージの上には、これまた派手派手しい飾りつけがなされ、開幕を今や遅しと待ちかまえているようだった。
「こんなにすごいだなんて想像もしなかったよ」
「ああ、俺もだ」
そうこうしているうちに大ホールにどやどや人が入ってきた。どうやら始まるらしい。
一瞬抜け出してやろうかとも思ったが、これだけの人の流れに逆らうのは無理だと判断する。それに……出口には、ちょいといかついお兄さんたちが待ちかまえているようだしな。ここはおとなしく聞くしかねえか。
「そこに座ろうぜ」
俺はホールの中ほどの席を指差した。中央通路横の、中段程の席だ。
俺たちが席に座ると、それを待っていたかのように、ホールの照明が落ちた。人のざわめきが納まり、妙な静寂が辺りを支配する。
その時、突如として派手派手しい音楽がホールに鳴り響いた。真っ暗だったステージの上では目も眩むようなライトの乱舞。まるでアイドルのコンサートみたいだな。
そしてステージのそでから司会者らしい若い女が出てきた。こちらはそれほど派手な服装じゃない。
「みなさんこんにちわー!」
ヘッドセットマイクを使ってみんなにそう呼びかけた。えらくハイテンションな声だな。
しかし次の瞬間、
「こんにちわ〜!!」
と、周り中が大声を上げ出した。
びびる俺と"ミッキー"を尻目に、司会は更なる攻勢を仕掛けてきた。
「元気ないですね〜。もう一度……こんにちわ〜!!」
ええい、やかましいわ。
が、しかし。
『こ・ん・に・ち・わ〜〜!!!』
先程を上回る音量……マイクに音が回って余計にひどいありさまだ。
「はい、皆さん元気そうですね〜」
お前がそうさせたんだろうが、ぼけー!かわいそうに……"ミッキー"の奴、目を回しちまってるぜ。
「これも緑林会の製品のおかげですね!この健康をもっと多くの皆さんに分けて上げましょう!」
ホールを割らんばかりの拍手、拍手、拍手……はん、分けて上げましょう?それも健康を?……ますますもって怪しい。
「本日は、ようこそ大成果会へ!」
普通の司会モードに戻って女は言った。
「今日もまた、輝かしい成果を達成した人達が大勢登場いたします!皆さんもはやく追いつけるように頑張りましょう!ではその前に、緑林会会長、木下正好氏よりお言葉を頂きたいと思います。それでは会長、どうぞ!」
すると、ステージのそでから男が現れた。年の頃は五十代半ば、えらく恰幅のいい奴で、見るからに不健康そうというか、よく栄養が行き渡っていると言うか……。
そいつは壇上に立つと、マイクを握りしめてもう片方の手を高々と突き上げ、そして叫んだ。
「みなさーん、健康ですか〜!?」
ぐあ!
「ひっ」
あまりの大音響に、"ミッキー"はたまらず悲鳴を上げた。俺も耐えるのが精一杯だ。
が、周りの連中は気にもならないのか、半ば身を乗り出すようにして叫び反した。
「元気でーす!!」
「健康でーす!!」
くそ、なんだこりゃ。
と、思う間もなく、木下某はまた叫んだ。
「みなさーん、健康ですか〜!?」
ばかか。そんなこと何度も聞くんじゃねー。
だが、会員の連中は俺たちなんぞお構いなしに、叫び反した。
「元気でーす!!」
「健康でーす!!」
「調子いいですー!!!」
……ああ、ああ、そんだけ大声出せれば健康だろうよ、元気だろうよ。
そんなやり取りが何度か繰り返された後、ようやく木下某は普通にしゃべり出した……と思ったが、声のでかさは大して変わらねえな。テレビならボリュームを絞るところだが、"TOWER"の中ではそうもいかん。
ここには自由があるのだ……行動する側の自由が。拒むのなら、この場から立ち去るか、耳をふさぐしかない。だが、それをいまするのは目的に合致していない。今は耐えるのだ。
「みなさんが、健康であることを、私は誇りに思っております」
奇妙なまでにさわやかな表情で木下某は言った。
「それは我々が提供している製品がすばらしいことを証明しているだけではなく、みなさんの普段の普及活動もまた素晴らしいことなのだと考えるのであります!でもですね、あなたの知らないところには、もっと大勢の、不健康な人たちがいるはずです。そして、皆さんのすぐそばに、そのような人たちがいるならば、もはや一刻の猶予もありません。みなさんに与えられている力を使って、その人達に健康をもたらすのです!それをみなさんが行うのです!そうすることでみなさんも、みなさんに勧められた方達もともに幸せになれるのです!こんなにすばらしいことはありません!そして、我々の健康に対するチャレンジはまだまだ発展途上であります!今後もよりいっそう努力し、みなさんが幸福をつかみ取ることができるよう、共に歩んでいこうではありませんか!!それこそが、我々に科せられた義務なのであります!!」
すると……なんとも表現しがたいどよめきが会場を埋め尽くした。
それは実に感動的な光景だった。会場のほぼ全員が、立ち尽くし、拍手し、腕を上げ、叫び、歓喜の涙を流していた。これを感動的と言わずしてなんと言おう!映画もかくやという感動的な場面……いや、茶化しているわけじゃない。正直、本当に感動している。
これだけの人間を集め(数百名はいるだろう)、一つの崇高な目標に向かわせ、そしてそのことに何の疑問も抱かせない卓越したカリスマ……完璧だね。いっそのこと、周りの連中と一緒になって叫び出したくらいだ。
だが……それはできない相談だな。他人に義務を説くような奴は信用できない。それに、その義務と対になっているはずの権利を手に入れるために、どれほどの犠牲を払わねばならないのか……俺はそれを調べるために、ここにいる。
「な、"ナイト"……」
引きつった顔で"ミッキー"は俺を見た。
「なんかすごいところだったんだね……」
「ああ。でも……本番はこれからだぜ」
「え?」
その後は、似たような講演が何人も続いた。健康がどうの成功がどうのという奴だ。どれも代わり映えのしない内容で、とんと覚えちゃいない。
そうして大成果会は大盛況のうちに閉幕した。
「やっと終わったね……」
"ミッキー"はふらふらしながら歩いていた。
「一体どうなるかと思ったよ。これで帰れるね」
「いや……それはどうかな?」
「え?」
「ほら、あれ見ろよ」
俺があごで示した先に、あずささんともう1人、男の姿があった。
「あずささんに……あの人誰だろう?」
「さあな」
あずささん他一名は俺たちの前に立つと、優しげな笑みを浮かべた。
「"ミッキー"ちゃん、どうだった、大成果会の感想は?」
あずささんはそう尋ねた。
「え、ええ、ほんとうにすごい会でした」
「そう、それは良かったわ。あの、岸さんはどうでした?」
「ええ、感動的な会でしたね」
俺は心にもない笑みを浮かべながら言った。
「それはよかったわ。あ、こちらは私の先輩で田上さんというの」
「よろしく、田上です」
好青年然としたその男は、安心させるような笑みを浮かべながら言った。
「大成果会を気に入っていただけてよかった。どうです、これからもう少しお話しませんか?もっと会のことを知って欲しいのですよ」
お、来たな。
「そうそう、お二人にはぜひともお話ししておきたいの。いいでしょ?」
あずささんもそう問い掛けてくる。
「ええ、まあ……」
煮え切らない返事をする"ミッキー"。そして俺の顔を見る。
俺は肯き返すと、二人に向かって言った。
「ええ、構わないですよ」
「よかった!じゃあ私の知っている喫茶店に行きましょう」
そうあずささんは言い、俺たちは会場を後にすることにした。
「あ、あれ……」
その途中、"ミッキー"はなにかを見つけた。
「どうした?」
小声で俺が聞くと、"ミッキー"の指の先に、"カオル"達の姿が見えた。俺たちと同じく、多分緑林会の会員に連れられてどこかに行こうとしていた。
『大丈夫かな?』
"肩たたき"で"ミッキー"は言う。
『ほっとけ。明日話が聞けるだろうさ』
「どうかした?」
俺たちの様子に何かを感じたのか、あずささんが振り返った。
「いえ、なにも」
俺はしれっとそう答えた。あずささんは変な表情を浮かべつつも、再び前を向く。
さてどうなるかな?"カオル"達に警戒心があればいいが……ま、知ったことじゃないか。別に命までとられるわけじゃないし。大人なんだから、切り抜けてくれるさ……多分な。
これで楽しみが増えたってことで……さあ、今度は俺の番だな。
俺たちが連れられてきたところは、ごく普通の喫茶店だった。俺たちはその奥の、外からは見えない席に連れていかれた。
「さあさあ、奥の方へ」
あずささんがそう勧める。俺と"ミッキー"は壁際に行かされ、奴等が通路側に座った。俺の隣は田上だ。
くそ、定石通りのやり口だな。簡単に席を立たせないための策略だ。ますます俺の警戒レーダーは激しく反応する……。
しばらくしてウェイトレスが注文を取りに来る。
その時、俺の視界に不思議な客の姿が映った。二人連れらしいその客は、妙に周りの連中から浮き上がって見える。
一人は全身黒づくめの服装の女。俺と大して違わない年格好だが、なんともいかつい雰囲気を漂わせている。なにかにむかついてるような、むっつりとしたその表情はまるで昔のやくざが不良みたいだ。
もう一人は対照的に、真っ白できらびやかな印象を与える女の子で、かなり幼い感じがする。幼稚園児みたいにも見えるが、もっと歳は上だろう。白いドレスがなんともかわいらしいが、より印象深いのが、とてつもなく長い金色の髪だった。まるで毛布でもかぶっているように、半分身体が髪の中に埋まっていた。
一体どういう関係だろうか?不良な姉を持った幼い妹ってところか?
「……岸さんはなににします?」
「え?」
あずささんが声をかけきたせいで、思考が中断された。いかんいかん、他の事に構っている暇なんかなかったな。
各人各様に飲み物を注文し終えた後で、真っ先に話を繰り出したのは、田上という若い男の方だった。
「緑林会の製品はご存じですよね?」
「ええ、お店で見せてもらいましたから」
"ミッキー"が答える。
「岸さんはどうです?」
「一応話だけは聞いています。なんでもものすごく効くとか?」
俺は『効く』にアクセントをつけながら答えた。
「ぜひとも試してみたいものですね」
「まあ、それについてはいくらでも……ですが、我々の製品はそれだけではないんですよ」
「へえ。そりゃ健康関連の製品で?」
「はい、その通りです」
満面に笑みを浮かべながら田上。
「あの会場での発表の通りです!見たでしょう?みなさんのとても健康そうな顔を!あれが我が会の製品の力なのです!」
お……いきなりテンションアップか。
「それはすごそうですね」
「お二人も使ってみればおわかりになると思います」
「田上さんの言うとおりよ!」
若干感きわまった感じのあずささんが叫んだ。
「私もお肌が弱かったんだけど、田上さんに勧められた化粧品にしたら、これがもうすごくよくって……それをみんなに伝えたくて会に入ったのよ」
「そんなに効いたんですか?」
"ミッキー"が興味津々といった感じで尋ねた。
「ええ、そりゃあもう!この前試してもらったのなんかそうよ。みんな気に入っててくれたでしょう?」
「ええ、ほんとに具合がよかったですね」
「でしょう!?それでね、他にもまだまだ種類があるのよ!だから他のも試して欲しいの。でもね……」
「でも?」
「うん、あのね、あの化粧品も結構お値段するでしょう?」
「確か、一本一万円……」
「そう。一ヶ月だと結構な出費よね?他の化粧品も物はいいんだけど、普通に買うとなるとお値段もそれなりなの。でも安心して。ちゃんと安く買える方法があるのよ」
このトークは……いよいよ巻き取りに入ったな。まずは"ミッキー"から落とすつもりか。
「安くって……会員になるってことですよね?」
"ミッキー"が恐る恐る言った。俺の忠告が効いていたからだろうか?
しかし、あずささんはそんな不安を吹き飛ばしてしまうような勢いで話し始めた。
「でも年会費で一万円だし、それで一万円の製品が半額になるから、二本も買えば元がとれちゃうわよ!後は使った分だけお金が浮く形になるから、それで他の物も買えるでしょ?だから全然問題ないわよ」
「そうですよ。我が会にはまだまだたくさんの製品があります。どれもすばらしい物ばかりです。それらを全て特別価格で手に入れられるのです。こんな機会は滅多にありませんよ!」
「そうよ、"ミッキー"ちゃん!今入らないと順番待ちになっちゃって、次はいつになるかもわからないの。ほんんとうにこれが最後のチャンスなのよ。ね、いいでしょ?」
「え、ええ……」
"ミッキー"は混乱の極みという表情で田上とあずささんを見回した後、俺の方を見た。困惑しきった、すがるような目……そろそろバトンタッチといくか。
俺と"ミッキー"が視線を合わせるのを見た田上は、俺の方を向いて話し出した。
「そう言えば、岸さんはどうなんです?健康に不安はありませんか?」
俺相手には健康食品かなにかで攻めてくるってわけだね。結構、受けて立とうじゃないか。
「そりゃ不安はありますよ。普段健康そうでも、いつなんどき病気になるとも限りませんからね」
俺は多少弱気なところを見せつつ言った。
「それだったら、こういうのがありますよ」
そう言って田上は懐からなにやら袋を取り出した。内容物は緑色をした粉末状のなにか。
「これはいわゆる緑黄色野菜を粉末状にした物でしてね。他にも様々な栄養素を配合したものなんですよ。これを毎日一袋飲んでおくんです。すると身体の切れというんですか、生き生きとしてくるんですよ。これは健康派の方達に人気がありまして……」
「へえ、本当、だったらすごいですね」
本当、にちょいとアクセントをきかせると、田上は再び懐から小さな筒上の物を取り出し、俺に差し出した。
「これを使ってみてください。どういう感じかわかってくると思います」
奴が俺に見せたのは、感覚シミュレータ用のデータキューブだった。つまり、誰かが体験したことを記録し、それを他人も体験できるという、"TOWER"ならではの物だ。
しかし、言わば感覚の濃縮スープみたいなものを、自由にやり取りするということは許されていない。もしそれが、例えば死の恐怖みたいなものだと本当に死んでしまいかねないからだ(と、言われている)。だから必ず管理センターが事前にチェックし、ランクづけして、問題ないレベルの物しか持ち込むことはできないのだ。またそれを受け入れるかどうかは、受け取る当人が決めることになっている。
この辺りの、なにを受け入れ、なにを拒絶するのかということを決める尺度になるのが、接触レベルというものだ。デフォルトでは、握手したり肩を叩いたりする程度。それが双方の同意があれば、肩を抱いたり、真っ正面から抱き合ったりできるようになる。この辺りは現実世界も同じだな。だが、一方が無理やり接触レベルを変更させるようなことは、"TOWER"ではできない。つまり、殴りかかったり痴漢をしたりできないようになっているわけだ。
今の俺と田上との接触レベルはデフォルト、すなわち握手をする程度の仲。物の受け渡しすら行うことはできない。で、渡される物の接触レベルはわかるので、このデータキューブを受け取るかどうかを判断できるわけだが……ふむ、特に問題なそうだな。
俺は一時的に接触レベルと変更すると(田上がキューブを差し出した段階で変更申請がだされており、今俺がそれにこの時だけ同意したということだ。これは、人が日常的に行う判断そのものだ)、キューブを受け取った。そしてキューブをひねりつぶすと、ぎゅうっとその残骸を握りしめる。
……ああ、感じてきたぞ。ふむ、ぽあぽあと暖かい感じがなんとも言えないな……確かに気持ちいい状態ではある……いいだろう。悪い物じゃないらしいな。まあ、その程度のことは最初からわかっていたが。
「どうです?」
「ええ……いい感じですね」
相手の期待通りの言葉を言ってやると、田上は軽く肯いて話を続けた。
「でしょう。これは保温効果やリラックス効果を狙った物でして、他にも様々な効果を得ることができる製品がいっぱいあるのです。ここで全てを紹介するわけにはいきませんけど」
「そりゃそうでしょうね」
「まあ、それについてはおいおい試していけばいいと思います。でもですね、お試し品だけでは効果を感じ取りづらいと言うこともありますし、こちらとしても、こう言ってはなんですが、全て無償というわけにも参りません」
お、そろそろか……。
「非会員の向けにお安く提供するのも、会員の手前そうそうできませんから、まずは会に入っていただいてですね、一年くらい様子を見て頂ければよろしいかと思います。ああ、途中で退会したければその分の会費はお返ししますので、特別リスクがあるわけでは御座いません」
「だからとりあえず入っておいて、色々試してもらいたいの。ほら、こういうのって、使ってみないと効果がわからないでしょう?」
あずささんが畳みかけるように言った。
「そうですね……考えてみようかな?」
俺は多少気を持たせるようなことを言った。そうしておいて、俺は連中が話し出すよりも先に質問をした。
「でも、なぜみなさん熱心なんですか?確かにいい製品で、美容や健康によく効くというのはわかったのですが、会場の熱気はそれだけじゃ理解しにくいのですが?」
「それは簡単なことです」
田上は気の置けない笑みを浮かべながら言った。
「ほら、なにかいい話を知ったら、友人や知人に話したくなりませんか?そしてそのおかげでその人達も恩恵を受けたとしたら、あなたは嬉しくありませんか?自分のしたことで、他の人が幸せになるのですから!」
「それはそうかもしれませんね」
「会場に集まった会員さん達は、それを生きがいの一部にしている人達なんです」
「私もそうなのよ。会った人には必ず勧めているの。"ミッキー"ちゃん達に使ってもらったのもそのためなのよ」
ふうん……人のため、か。ボランティア精神は結構だが……ほんとうにそれだけか?
「そうだったんですか」
すこし感心したような表情で"ミッキー"は言った。
「あれ、とってもよかったでしょ?」
「ええ、確かにそうでした」
「それで、岸さんにもお話したのよね?」
「ええ、まあ……」
「そういうことなんですよ、岸さん」
田上は身を乗り出して言った。
「そうやって人の輪が広がっていく……それがあの会場での熱気の理由なのですよ。彼らは自分の幸せを他の人達に分け与えているのです!そうすることでみんなが幸せになれる。それこそが、我が会の目的なのです!!」
田上の大仰な物言いに、あずささんは少し目頭を熱くしているようだった。田上をうっとりとした目で見ている。
なんとも感動的なことで……しかし、もう話を聞いてるのがかったるくなってきたな。これ以上続けても同じことの繰り返しで、根負けさせて入会させようってんだろうが、そこまで長くやられちゃたまらん。
よし、そろそろ反撃と行くか。
「なるほど……それならよくわかりますよ」
俺は非常に納得した表情でそう言った。
「よく、わかりますね」
「それは良かった!どうです、岸さんも始めてみませんか?人生が楽しくなること請け合いです」
「そうですよ!今始めないと次はいつになるかわかりませんよ。ね、岸さん?」
"ミッキー"が心配そうに俺の顔を見た。大丈夫?そう、聞いているようだった。
「そうですねえ……でもなあ……」
「まだなにか疑問があるんですか?」
田上はちょっとだけ不安そうな表情を浮かべた。
「いえ、大したことじゃないんですけどね……」
「言ってくださいよ。なんでもお答えしますから!」
「……なんでも?」
その時初めて……俺の表情が崩れた。人のいい、物分かりのいい紳士から、本来の俺……いや、本当にそうかはわからんが……いたずらっ子のような俺へ。
「ええ、どんなことでも」
「そうですか……なら尋ねますが、他人を幸せにしているだけで、本当に自分も幸せになるのでしょうか?」
「え?そ、それはどういう意味ですか?」
田上は想定外の質問に、動揺の色を隠せなかった。
「自分が健康になれば幸せですよね?おまけに知合いも健康になればその人も幸せだし、それになんの疑問があるというのですか?」
ふん、自分達は間違っていないってわけか?普通ならここで引き下がる所だろうが、そうはいくか。
「もしそうなら、まるで宗教みたいですね」
俺は冷たく言い放った。
「あの熱狂は、そうでなければ説明できない。健康教とでも言えばいいのかな?」
「それは考えすぎですよ」
田上は元どおりの笑顔でそう言った。
「みなさん、真面目なだけですよ。ちょっとばかり熱心なだけです」
「そんなもんですかね……しかし……」
「まだなにか?」
「そんなにみなさんの支持を集めているような製品であれば、なぜ広告とかを出さないんです?その方が手っ取り早いでしょうに」
「いや、それはですね……」
説明しようとする田上を制して、俺は畳みかけるように言葉を浴びせた。
「それになんで定価がそんなに高いのです?会員になるくらいで半額にしてたらコスト割れしませんか?しないのなら、やはり定価が高い理由が分かりません。ああ、原価が売値よりずっと安いことは知っていますが。それにですね……」
「いえ、ですから……」
俺は更にまくし立てた。奴等の反撃は許さない。
「口コミだと広がる範囲が狭くはありませんか?それで本当に広まっていくのですか?効率悪くありませんか?そこまでして口コミにこだわるのはなぜですか?今のこの時代に、そんなことでやっていけると思っているんですか?世界中の人間に情報発信できる時代に、しかもいい製品を広めようというときに。ああ、広告のコスト云々なんて話は通用しませんからね。私には無駄なことをやっているようにしか思えませんね。それとも……なにか理由でもあるんですか?そうしなければならない理由が?」
ようやく俺は息を継ぎ、連中の反応を見守った。
ああ、呆然といった顔してるな。無理もない。本来ならこんな疑問が出るわけないんだ。入会云々まで話を持ってくるところで、そんなことを疑問に思わないように誘導しているからだ。だがその努力を、俺は無にしてしまった。
さあ、どう反撃する?
「あの……あまりに疑問が多すぎるもので……いまこの場で説明するのは無理だと思うんですが……」
何の疑問があるんだとか言っておきながら、できる返事がその程度か。ふん、やっぱりその程度のことだったんだな。俺を丸め込めないとわかったか?逃げの体勢だな。
「場所を変えて続けませんか?」
なに?
「我が会の集会所が近くにあるのです。そちらであずささん以外の人達ともお話すれば、納得していただけると思うのですが、どうでしょう?まだ時間はあるはずですが?」
そう田上は言って、笑った。
くそ、こいつ……まだ説得できると思っているのか?いや、違うな。俺の疑問に答えるというのを口実に、更に大勢で責めたてるつもりだ。最悪俺に逃げられてもいいと思っているに違いない。"ミッキー"の方は攻めやすそうだから……。
ああ、もう、やめてくれ。俺が悪かった。はっきり言おう。今この場で。鬱陶しい、目障りだ、消えろ。
「時間の無駄ですよ」
「いえ、それでは我々が困ります。誤解されたままでは会の名に傷が付きます」
「そうですよ!まだ会の製品の説明だってあるんですから!そんなこと言わないで来てくださいよ」
「……俺は、知合いを金づるにするような真似はしないんだ」
剣呑な声音で俺はそう言うと、ずいっと奴等の方に身を乗り出した。
「そして、自分が食い物にされるのも御免こうむる」
「な……なにを言っているの?」
あずささん……いや、女狐は、冷や汗で額を濡らしながらうめくように言った。
「そんな会じゃないんです!そんな説明しましたか?どうしてそんなことが言えるんですか!?」
かたや、田上の方は完全に沈黙してしまった。ふん、さすが親ねずみだけあって、わかっているらしいな……俺が何か知っていることを。よし、じゃあ、決定的な証拠を出してやるか。
「それはあなたが一番よく知っていることでしょう」
「わ……私が!?なにを知っているというの!」
「さっきの大成果会がきれいごとだってことですよ。あそこに集まってる連中は他人のことなんかどうでもいい、自分のことだけ考えているのばかりだ。更に言えば、自分の金のことしかない頭に無い連中だってことだよ」
「なんて……なんてこというの!?侮辱するにも程があります!!」
あずささんは噛み付きかねない勢いでそう叫んだ。
「あそこにいる人達はほんとうに人の幸せを考えている人たちですよ!?それを……それをそんな言い方するなんてあんまりです!すぐ謝ってください!!」
ふん。演技か本気かしらんが、どっちにしてもえらい勢いだな。これがマインドコントロールってやつか?
「へえ……よくそんなこと言えますね」
「な……なにをですか!」
あずささんは混乱したような表情を浮かべる。
「そうそう、口コミに頼る理由が分かりましたよ。まあ、金がかからないというのが表向きの理由だけど、それよりも、情報を制限できるという意味合いの方が大きいようだね」
「制限?な、なにをですか!?」
「例えば価格への疑問。市販価格よりも高い物を売りつけられることになぜ疑問を抱かない?理由は、そう思わせないようにしむける奴がいるからだ……誘った連中さ。いいものだからこれくらいして当たり前だとかいい、ここでしか手に入らないという。しかし、そういわれた奴は客観的に物事を判断できないような状況に追い込まれているんだ。自分が騙されるはずはない、これはいいものなんだ、会社の言うことは間違っていない、間違っているのは世間の方なんだと……人の精神的な防衛衝動を巧みに利用しているのが、あんたらマルチ商法なんじゃないのかい?え、緑林会のアップのお方たちよ?」
そう俺がたんかを切ると、あずさはいきりたって叫んだ。
「マルチ商法ですって!?あんなのと一緒にしないでください!さっき説明したでしょう!?年会費で一万円ですよ?それのどこがマルチなんですか!マルチって言うのは勧誘するのが目的で、物を売ることなんて二の次の悪徳な手段のことなんですよ!うちの会はそんなのとは全然違います!うちはちゃんと物を広めるために活動しているんです!なんて失礼な!私達のようなのは、MLMというんです!よく覚えておきなさい!!」
あずさは勝ち誇ったような顔で俺を睨み付けた。
それに向かって、俺は大口をあけて笑った。
「ははは、もちろんMLMは知ってますよ。そう呼びたいって言うんだったら、それでもいいけど……それにしたって、重大な欠点があるけどね」
「け、けってん!?」
「そう……結局どうやったって、一番上の連中だけがもうかるようになってるんだ。だからピラミッド構造をとるんだろう?なあ、アップの田上先輩?」
そう俺が言うと、田上は苦々しげにあずさを見た。
「MLMってのはそういう構造にならざるを得ない。一般流通だって階層構造になっているが、MLMってのは、さすがマルチレベルなだけあって、大勢の人間が多段階に構成されるようになる。なぜか?そうすることで効率的に集金するためさ。製品の拡販だったらそんな複雑な構造を取る必要はない。大勢のユーザならまだしも、そんなのが多段階になっている必要は無い。商品管理だって、そんなに手番を踏むようじゃ時間がかかりすぎるだろう。これのどこが流通革命なんだ?笑わせるな」
すごむ俺に、なおも反撃しようとあずさは言った。
「MLMはそんな単純な物じゃありません!もっと崇高な目的があるのです!これに参加することは義務なのです!だから私はこの活動に全てをかけているのです!」
理性で勝てなくなったら感情で勝負かい。まったく……これだから馬鹿は困る。
「ふうん……あくまで、緑林会は金の亡者じゃない……そうおっしゃる?」
「当たり前です!!」
「じゃ、これでも見るんだな」
俺は懐から小型モニターを取り出すと、やつらに向けて再生ボタンを押した。
『……で、会員になったんだけど』
情けない声がスピーカーから流れてくる。すると、あずささんは顔面蒼白になって画面を凝視した。
『最初は物を買っているだけだったんだ。だけどそのうち講習会に連れていかれて、もっといい話があるんだと誘われたんだ』
『それでなんて言われた?』
変調された男の声……俺の声だ。そして、画面の中でそれに答えているのは、かわいそうな渡瀬だった。
『こんなにいいものが世間に広がらないのは間違っている、だから君も他の人に広めろとか。そうすれば君も幸せになれるんだぞって』
『幸せってのは、具体的になんだ?』
『それは……広めれば広めただけお金が入ってくるって。でもその前に君が会費を払えって言われたんだ』
『会費?また払えって?』
『そうなんだ。五万円払えって言われた。そうすれば、一人広める毎に一万円入ってくるって言われたんだ。それでその広めたのを更に広めると二万入ってくるって。それから広めた人間が物を買う毎にバックマージンが入るって言ってた。そうすればいつか月収一千万になるぞって言われたんだ』
『それであんた、しきりに勧誘メール出してたってわけだな。ラブレターもどきなメールで?』
『そ、そうなんだ……ああ、頼むからだれにも言わないでくれ!お願いだからさあ!』
『ちゃんと答えてくれたらな。で、その組織って、なんて名前だ』
『りょ……緑林会だよ』
それを聞いて田上はそっぽを向いた。あずさはまだ画面を睨み付けている。
『緑林会だぁ?間違いないな、それ?』
『間違いないよ!!な、も、もういいだろ?』
『まだだ。あんたを勧誘したやつの名前は?』
『あ……』
『あ?なんだって?』
『あずさって、女の人だった』
『どこの人間だ?』
『し、知らないよ。"TOWER"で遊んでいるときに声をかけられたんだ』
『それって……こんなのか?』
『そう、それだよ。そいつだよ!!』
画面に映し出される写真。どこか店の中でお酒を飲むその姿……それは今俺の目の前にいた。
その瞬間……あずさはがくっと首を垂れた。"ミッキー"は心底驚いた表情をあずさに向けていた。
俺はモニターのスイッチを切ると、懐にしまった。
「"ペルソナ"が同じ、別人だなんて言うなよ?いい加減、そういう言い訳はうんざりなんだ」
そう言って、俺は立ち上がり、二人を見下ろした。
「なに、告発しようなんて思っちゃいないさ。ただ……もう"Alexia"には来るんじゃねえぞ。ただ、そう言いたかっただけさ」
俺はそう言い残して"ミッキー"を立たせると、うなだれる二人の前を通って通路に出た。
「じゃあな、せいぜい頑張れよ」
そう一声かけて、俺は歩き出した。途中、さっき気になった二人連れのいた席のそばを通ったが、すでにそこはもぬけの殻だった。
ま、どうでもいいか……。
「"ナイト"……すごかったね」
"ミッキー"は店を出るなりそう言って目を輝かせた。
「どうやって調べたの、あんなこと?」
「あれはたまたまさ。リアルワールドでも流行ってたんで、調べてみたらビンゴ!ってわけ」
「へえ……そんな偶然あるんだね」
「偶然かどうかはしらんが、なんとか撃退できてほっとしてるよ」
「え、なんで?」
「連中もうまく予防線引いてたからな。あの女が切れてくれたおかげでうまくいったよ。ビデオの中でしゃべってたろう?一旦会員にしてから獲物に食らいつくんだ。法外な加入料なんてのがいきなり出てこないようにしているのさ。一旦自分の意思で入会したと思い込んだやつは、自分を否定したくないからちょっとくらいおかしい話でも信用してしまうんだ。月収一千万なんて与太話をさ」
「ふうん……でもほんとに儲かるのかな?」
「なあ"ミッキー"」
「なに?」
「人にもうけ話を教える馬鹿がいると思うか?」
「え?それとどういう関係が……」
「もうけ話なんてのは、そんな話を持ち出してきた人間がもうかるってことさ。賭け事だって胴元がもうかるようになっているんだ。そういうことも考えたことも無い人間が、ちょっと儲かる話を持ちかけられてのぼせ上がったところを、かすめ取っていく……マルチ商法やマネーゲームってのは、そういうシステムなんだよ」
「ふうん……なんだか面倒な話だね」
「そうか?この世の中には金持ちと貧乏人がいて、そのトータルがどこまでいっても同じって話なだけだぜ?誰かがもうければ、誰かがその分貧乏になる……ただそれだけのことなのさ」
「やっぱり……わかんないよ」
"ミッキー"は苦笑いする。
「でも……」
「なんだ?」
「格好良かったんだ、"ナイト"って」
うー、女殺しの微笑を俺に向けるな!
「よせよ。ちょいと知識があったてだけさ」
「それでもすごいよ。まるでドラマみたいだった」
「ああ、もういい、帰るぞ。今日は疲れた」
「そうだね……あ、あれ!」
"ミッキー"が指さす先に、喫茶店があった。その奥の方の窓際で、数人が話をしていた。
「なんだ……お、"カオル"たちじゃねえか」
「別の勧誘の人と話してるのかな?」
「多分な」
すると"ミッキー"がその店に向かって駆け出そうとした。それを俺は呼び止める。
「おい、待てよ!」
「え?だって止めないと……」
「いいからほっとけ」
「そ、そんな!」
「奴等だってガキじゃねえんだ。自分のことは自分で決めさせろ」
「そんなぁ……見過ごせるわけないじゃないか!」
"ミッキー"の抗議に対し、俺は薄く笑って言った。
「大丈夫だって。多少は痛い目を見るかもしれないが、しばらくすれば元どおりになってるさ」
「そ、それってどういうことさ?」
不思議そうな顔をする"ミッキー"。
「なに、すぐにわかるさ。さ、早く帰ろうぜ、"ミッキー"」
俺はそう言って"ミッキー"の背中を叩くと、先に歩いていった。
「あ、待ってよ!」
"ミッキー"が追いかけてくるのを背中に感じながら、俺は目を閉じた。
……さあて、明日には結果が出るかな?
"Alexia"は今日も大盛況だった。団体客が入ってきたおかげで、いつもより多く仕事をこなさなくちゃならない。
下っぱの俺は給仕係だった。客を捌くのは、"カオル"が主役だ。少なくとも、ホストとしての能力は高いからな。
「……でね、この化粧水がとってもいいんですよ!」
奴は得意げな顔で例の物を自慢……いや、宣伝していた。
「へえ、そうなんだ」
「僕も使ってるんですけどね、すごく調子がいいんですよ。一回試してみてくださいよ」
「うーん、"カオル"ちゃんが言うんだったら、試してみてもいいかなぁ」
「ほんと、効き目がすごいんですから。他の人もどうぞどうぞ!」
「わぁ、ほんとにぃ?」
「あたしもあたしも!」
まるで餌に群がる鯉みたいに、お客は"カオル"から試供品を奪っていく。それに向かってにやけた笑顔を向ける"カオル"。
うーん……こうして見てると、ホスト稼業ってのは、ほとんど詐欺だな。だがマルチ商法との違いは、ホストという存在がかりそめのものであるということを、お客が知っている……ということだ。誰もが騙されにくる場所……まさに、騙すなら素敵に騙して、だな。
「でもこれっていくら位するの?高いんでしょ?」
「普通に買うと高いんですけど、安く買う方法もあるんですよ」
「ええ〜、教えて教えて!どうするの?」
「製品モニターってわけじゃないんですけど、その会社の会員になると安く購入できるんですよ」
「そうなんだー」
「だからまず使ってみてくださいよ。それで肌に合うようだったら考えてみてください」
「それはそうね」
「今から試してみようかしら……」
うーん、まずいな。こうなることはわかっていたんだが……連絡はまだなのか?
その時、メールの着信を示すシグナルがセンターから送られてきた。俺はそっとその内容を確認すると、店長に目くばせした。
店長は肯くと、俺から受け取った情報を店内に流し始めた。
『……"TOWER"からの緊急情報をお知らせします』
「あら、なにかしら?」
「さあ……なんでしょうね?」
『本日、"TOWER"内で不法行為を行っているユーザーグループに対して、退会処分が下されました。ユーザーグループの名称は緑林会といい、行き過ぎたマルチ商法的行為を繰り返したとして警察の捜査を受けています。"TOWER"側としましても、このような不法行為を看過することはできず、今回の退会処分となりました。この緑林会から勧誘を受けて入会し、活動しているユーザについても、その活動内容の如何によっては永久退会処分となりますので、以後一切の活動は行わないようにお願い申し上げます。詳しくは最寄りのセンターまでご相談ください。以上、緊急情報でした』
「あらー、嫌な話ね……あら、"カオル"ちゃん、どうしたの?」
「あ、いえ……な、なんでもありませんよ」
"カオル"は必死の企業努力も虚しく、奴の笑顔はひきつっていた。昨日説明を受けていた連中も同様だった。
「ねえ、もっと他のものは無いの?」
「い、いや、無いこともないですけど……」
「はやく紹介して〜」
「そうそう。明日もまた来るから〜」
「期待してるわ〜」
そうエールを送られる"カオル"の顔は、ひどく落ち着きのない、情けない顔になっていた。
ふん。おだてられて正規の会員にでもなってたんだろうな。まあそれくらいじゃ警察に捕まらねえが、いい教訓になったことだろう。
"ミッキー"は俺の方を向くと、見事なウインクをしかけてきた。
『こういうことだったんだ、"ナイト"』
"肩たたき"で"ミッキー"は言った。
『君の差し金?』
『差し金とは人聞きの悪い……元々緑林会はマークされていたのさ。それでちょっとお手伝いしたってわけ』
『まったく、教えてくれたっていいじゃないのさ!』
『敵を欺く前にまず味方から、ってね』
俺は"ミッキー"にウインクを反す。
『これで奴等も頭が冷えたろう。これで一件落着といけばいいけどな』
『でも"マスター"、どうするつりなのかな……』
『なーに、心配するな。ちょいとお灸を据えるだけさ』
『そうだといいけど……』
『さ、仕事だ仕事。連中使い物にならないから替わるぞ』
『うん!』
そうして俺と"ミッキー"は、邪魔な"カオル"達を押しのけ、接客に勤しむのであった。
バイトも終わり、俺は家路についた。
"カオル"達はまだお説教くらってるとこだろう。ま、当然の報いだ。
それにしてもうまくいったぜ。あのビデオだけじゃ証拠が薄かったし、喫茶店での会話記録でもかなり難しかったが、情報提供経路がしっかりしていたおかげで警察も信用させることができた。その提供経路ってのは、親父だけどな。ネットワークじゃかなり信用されているらしい。家にいるときはとてもそうは見えないが……。
ああ、腹減った……はやく晩飯食わなきゃ身がもたん。もうこんなにあたりが暗く……。
「あ、櫻ちゃん!!」
うわ!出た!
「か、薫!?」
俺は背後の暗闇から出てくる薫を睨み付けた。
「いきなり声をかけるんじゃねえよ!」
「あら〜?あらららら〜」
薫はからかうような声を出して俺に近づいてきた。街灯に照らし出されたその姿は、制服姿じゃなかった……なんだ、俺が買わされた服じゃねえかよ。帰ってからわざわざ着替えたってのか?暇な奴だな。
「もしかして、お化けとか思った?」
「元から化物じゃ……」
「なんですって!?」
ほら……そうやって睨む顔が怖いってんだよ。
「なんでもねえよ!なんだ?また俺んちに食いに来るつもりなのか?」
「櫻ちゃんには関係ないんでしょ〜?」
小憎らしく薫は言うと、ツンと上を向く。
「ああ、そうかい。そりゃよかった」
俺は薫を無視するように、家に向かって歩き出した。奴は当然のようについてくる。
「ねえ、聞いた?」
背中から薫が声をかけてくる。無視だ無視。
「なんかマルチ商法やってるのが捕まったんだって」
「……」
「あたしを呼び出したあいつも色々聞かれたらしいわよ。いい気味よね。退学とかにならないかしら……」
「……」
「もしかしてさ……櫻ちゃん、なにかした?」
「……」
「ねえ聞いてるの!?櫻ちゃん!!」
薫はいきなり俺の前に立ちふさがった。
「なんだよ?」
「あたしが聞いてるの!まったく、ちゃんと話聞きなさいよね!」
薫は腰に腕をかけ、前かがみで俺を睨み付ける。
「聞こえてたぞ」
「そんなのわからないじゃない!」
「じゃあなにか?一々返事せんといかんのか?」
「当たり前でしょう!人が折角話しかけてるって言うのに……」
「それはお前の勝手だろう?俺は別に話なんか聞きたくないぞ。しかももう知ってる話なんか聞きたくない」
「だったらそう言えばいいでしょう!なによ、自分勝手なのは櫻ちゃんの方じゃない!!」
俺が?自分勝手だって?
……冗談じゃない。そっちから話しかけておいて、なんで俺の方で気をもまなきゃいけないんだ?ばかばかしい……いつだって薫の言うことはそうだ。何で俺が、他人のために自分を犠牲にしなければならないんだ?おまけに薫なんかのために……。
なに?薫なんかのため、だって?
……なんで俺がそんなにあいつのことを意識しなけりゃならないんだ?くだらん、ばかばかしい。いつもそばをうろちょろしやがって、面倒ばかり引き起こす……もういい加減うんざりだ。
今回のことだって、のこのこ知らないやつに会いに行きやがって……その挙げ句に俺は服まで買わされて……ああ、その服だよ、その服。まったく、いまいましい……。
……だがそのせいで、緑林会をつぶせたんだよな。まったく、一寸先は闇だな。いや、怪我の功名か?どっちにしろ、一応は役に立ったのか?ふん、ばかとはさみは使いようってか……それよりも、転んでもただでは起きないってとこかな?
「ちょっと、聞いてるの!?」
薫がずいっと迫ってくる。
俺はそれを憮然としてそれを睨み付けると、ぼそりと言った。
「……馬子にも衣装ってか」
「え?」
呆気に取られる薫の横をすり抜けるようにして俺は再び歩き出した。
しばらくして、薫がものすごい声を上げた。
「馬子にも衣装って、どういうことよ〜!?」
俺がそれを無視すると、大声で叫びながら薫が走ってきた。
「また無視して〜!!ふんだ、櫻ちゃんの分まで食べてやる!!」
そうして薫は俺の横を風のように走り去っていった。
その後ろ姿を眺めながら、俺は呟く。
「……スカートなんて柄じゃねえよな」
そう……あいつに買わされた服は、あいつらしくないスカートがついていた。ま、あれでも一応女だからな……しかし、女ってのはよく分からんな。どうでもいいことでぎゃーぎゃーわめきやがる。なんでも思い通りになるとでも思ってるのか?まったく、気楽でいいよな……。
さて、早く帰らないと本当に食い物が無くなるぞ。今の俺には飯抜きは拷問もいいところだ。
くそ、絶対に負けるもんか。いつかきっと勝ってみせる!……って、くぅ、情けない。そんなことで勝った負けたと……。
何はともあれ早く家に帰りつこう!勝負はそれからでも遅くない。うん、きっとそうだ。
俺は薫に負けないくらいの勢いで走り出した。全力疾走は久しぶりだ。
ああ、余計に腹減りそう……でも頑張るのだ。今日の屈辱を明日の勝利に結びつけるために!
ぐぅ。
……最後までなさけねえなぁ……とほほ。