「安心社会」と日本型システム
当ホームページでは、いままで日本型システムを外から見るとどうなるかをいろいろな観点から掲載を続けてきた。「日本型経営」のジョークから始まり、今年の「年頭に思う」までがそれである。しかし、今でも何か言い足らないと思い続けていた。自分が勤めている会社を「うちは」と言ったり、会社単位での行動はすばらしいが、個人となるととたんに何も言えなくなることなどはどのようなことから起こるのか分からなかった。今朝(1999年1月20日)の北海道大学教授 山岸 俊男氏の論文は、そんな疑問を払拭させるものであった。また、ISO9000で言う品質保証とはなにかを明らかにする基本的な概念を理解できる。日経新聞「やさしい経済学」ー信頼回復の視点からーを転載したい。
現在国民が感じている「日本型システム」への不信は、安定した集団主義的な社会関係のあり方が崩れつつあることの一つの現れである。これまでの日本社会では、企業のなかでは終身雇用制と年功序列性を軸にした安定した雇用関係が存在し、また企業間にも安定した取引関係が存在した。また日常生活においても、低い離婚率に代表されるように、人々の間に安定した関係が一般的に存在していた。そして我々は、これらの安定した社会関係のなかで、大きな社会的不確実性に直面することなく、安心して暮らしてきた。
しかし、グローバルスタンダードのもとでの競争にさらされはじめた我々は、これまでのように、安定した社会関係が提供する集団主義のぬくもりの中で安心して暮らし続けることはできなくなるだろう。現在我々が直面する「日本型システム」に対する不信の問題は、安定した集団主義的社会関係の脆弱化が生み出す「安心社会」の崩壊の問題であり、欧米社会が直面している信頼社会崩壊の問題とは根本的に異なった問題であることを、ここまでまず理解しておく必要がある。
集団主義社会に対して様々な定義が可能であるが、ここでは、外部に対して閉ざされた集団ないし関係の内部で人々が協力しあっている程度が、集団間で協力しあっている程度よりもずっと強い社会として定義しておく。もちろんどんな社会でも、人々が集団の内部で協力しあっている程度は、集団をこえて別の集団の人々と協力しあう程度よりも強いが、この「内部ひいき」の程度がとくに強い社会のことを、ここで集団主義社会と呼ぶ。
現在人々の不信の対象となっている社会や経済の「日本型システム」とは、実は、この意味での集団主義の原理によって構成されているシステム、つまり、特定の相手との間に安定した相互拘束的な関係を形成することで、その関係内部での相互協力を保証するシステムである。この意味で、集団主義社会は人々の間で安心を生み出す、あるいは安心していられる環境を生み出す。現在の日本人が感じている漠然とした不安感は、集団主義的な社会の構成原理が弱まることによって、相互拘束関係によって維持される安心が消え去りつつあることを反映している。
一般にはこの安心の消滅は信頼関係の弱体化を意味すると考えられているが、実際には、安心を提供する集団主義社会の弱体化は信頼の崩壊を意味するのではなく、逆に、信頼社会を生み出すための絶好の機会を提供している。次回以降は、社会的不確実性と相互拘束関係および信頼との関係を検討することで、この点について説明し、現在の日本社会の課題のひとつが、集団主義的な安心社会から、より開かれた信頼社会への転換にあることを議論する。
信頼について最も根本的で、かつ最も忘れられやすい点は、信頼は社会的不確実性の存在を前提とするという点である。ある相手を信頼するかどうかが重要になるのは、社会的不確実性が存在している状況、すなわち、その相手を信頼しなかった場合の結果よりも、信頼が裏切られた場合の結果が、自分にとってより望ましくない状況である。逆に言えば、社会的不確実性が存在しない状況、すなわち外的な条件によって相手が裏切る可能性が全く存在しない状況、あるいは相手に裏切られても何らも困らない状況では、相手を信頼するかどうかは考える必要そのものが存在しない。
社会的不確実性に直面すると、人々は多くの場合、特定の相手との間に安定した継続的な関係、しなわち相互拘束的なコミットメント関係を形成し、その内部でお互いの行動を拘束しあうことで、社会的不確実性を低減しようとあうる。この点は、ピーター・クロックに従って、東南アジアにおけるゴムと米の取引形態の違いを例として用いるとわかりやすい。生ゴムの取引は特定生産者と特定の仲買人との間の、時には何世代にもわたる関係を通じて行われているのに対して、米の取引は市場で不特定も相手との間で行われるという違いである。
この二つの取引形態の違いは、社会的不確実性の程度の違いに基づいている。生ゴムの原料は工場で処理されて製品になるまでその品質がわからず、目の肥えた仲買人でも粗悪品を売りつけられる可能性が常につきまとっている。これに対して、米の品質はその場で直ちに確認できるので、粗悪品を売りつけられる危険性がない。このことは、米の取引に際して、特に買い手にとっての社会的不確実性の程度が、生ゴムの取引の場合よりもずっと小さいことを意味する。
生ゴムの取引が、時には親、子、孫と続く、同じ農園主と仲買人の家族間の相互高速関係を通じて行われるのは、生ゴムの取引に伴う社会的不確実性のためであり、そのような社会的不確実性があまり含まれていない米の取引の場合には、せり市場で、最も有利な条件を提示する相手と行われることになる。
この例からわかるように、相互拘束関係の形成は、お互いの行動を縛り合うことによって、信頼が必要とされない、安心していられる環境を作り出すことを意味している。逆に言えば、信頼とは、外的な条件に基づく相手の行動に対する拘束が存在しない状況を前提として、相手の人間性の判断に基づいてなされる、相手の友好的な行動に対する期待である。この意味で、安心は相手の行動が相手自身にもたらす結果の判断に依存しており、信頼は相手の人間性の判断に依存している。経済学者やゲーム理論家が語る信頼は多くの場合はここでいうあんしんであり、心理学者の語る信頼とは大きく異なる。
(オーナー注:顧客志向というISO9000規格の品質保証は、顧客からの信頼を得ることであり、この論説の「相手」を顧客と入れ替えると理解しやすい。また、ISO9000的企業行動は、社会的不確実性の低減にも繋がっている。なぜなら、品質システムを相手に公開する前提があるからだ。)
前回は、信頼が重要な意味を持つのは社会的不確実性が存在している場合であること、そして社会的不確実性に直面した人々は、多くの場合、特定の相手との間に相互拘束関係を形成することで、安心していられる、社会的不確実性の存在しない環境(すなわち信頼が必要としない環境)を生み出そうとすることを説明した。このことは、集団主義的な相互拘束関係が、安心を生み出すが信頼を生み出す訳ではないことを意味している。むしろ逆に、特定の相手との間に相互拘束関係を維持することで、関係外部の人間に対する信頼が低下する傾向にある。集団主義的社会は安心を生み出すが信頼を破壊する傾向にある。
これまでの「日本的システム」は、このような関係内部での安心と、関係外部の「部外者」に対する不信との組み合わせによって特徴づけられていた。(オーナー注:海外勤務から帰国したときのことだが、会社でも自宅近隣でも「部外者」扱いをされたときのことを思い出す。また、海外では、日本人が寄り集まって住み、その中で社会的序列をつくり、日本の有名企業の海外勤務者が威張るというひずんだ世界を形成していた。まさにこれが「日本的システム」で、いま日本人が「国際化」の波の中でうろうろしなければならない元凶である。) 固定的な関係の内部でお互いの行動を拘束しあうこのシステムの一番大きなメリットは、取引費用の節約にある。取引費用とは、取引をするためにかかる費用、あるいは取引をすることで失われる利益であり、例えば相手の信用調査をしたり、契約書を作るのに弁護士と相談したりといった具合に、取引をするためにかけなければならない費用がこれに含まれる。また、取引で相手にだまされたりして失う損失も、この取引費用に含めて考えることにする。
この定義に従えば、社会的不確実性が大きな環境での取引には、大きな取引費用がかかることになる。従って、社会的不確実性が大きな社会環境では、節約される取引費用が大きいために相互拘束関係のネットワークが発達することになる。終戦直後の日本や現在のロシアのような、公権力による社会秩序の維持が困難な状況では、やくざやマフィアに代表される、排他的関係のネットワークが発達するのはこのためである。系列関係を通した日本的な取引慣行も、取引費用の節約を通して経営の効率化に貢献してきたと言えるだろう。
このように相互拘束的なコミットメント関係の形成は、一方では取引費用の節約効果を生み出すが、しかしもう一方では、機会費用を生み出す点を忘れてはならない。この場合の機会費用とは、特定の相互拘束関係の外部相手と取引をすることで得られる利益である。特定の相手との間に相互拘束的なコミットメント関係を形成することは、その外部との取引を放棄することであり、それに伴う機会費用を発生させる。(オーナー注:系列関係を切られ廃業した場合、外部との関係を通じて得られたであろう将来利益もこれにあたる。たとえ廃業でなくとも、外部の新規顧客の獲得に要する費用もこれである。) 従って、特定の相手との間の相互拘束関係の維持が賢い選択であるかどうかは、そのことによって節約される取引費用の額と、それによって生み出される機会費用の額との相対的な比較によって決まることになる。
日本社会は信頼社会である、あるいは日本のビジネス慣行は信頼を基本としているとよく言われるが、これまでの議論から、日本社会やビジネス慣行を特徴づけているのは、お互いの人間性についての理解に基づく信頼ではなく、相互拘束関係が生み出す相手の行動に対する外的な拘束が生み出す安心であることが理解できるだろう。
前回は、特定の相手との間の相互拘束関係の維持が賢い選択であるかどうかは、そのことによって節約される取引費用の額と、生み出される機会費用の額との相対的な比較によって決まるという説明をした。現在の日本が直面しているのは、この二つの費用間のバランスが、取引費用優位から機会費用優位へと変化しつつある状況である。終身雇用制や系列取引といった従来の日本的経営形態が急速に解消されつつある現状は、ビジネス場面で取引費用よりも機会費用が重視され始めていることを如実に物語っている。
機会費用の重要性の増大は、このように典型的にはビジネスの世界で見られるが、それ以外の場面でも存在している。例えば夫婦関係を考えてみても、同じ相手との間で安定した夫婦関係を続けていくことにともなう機会費用ーーー自分にとってもっとふさわしい、あるいは自分にもっと満足を与えてくれる相手がいるかもしれないのに現在の相手との関係を続けることが生み出す「損失」ーーーが増大しつつある。
この点で興味深いのは、離婚率の低い日本よりも離婚率の高いアメリカのほうが夫婦関係に満足している程度が高いという調査結果が出ている点である。既存の夫婦間帰依を維持することで日本人が支払い続けている大きな機会費用を反映するものと考えられる。現在の若い日本人たちが結婚したがらなくなってきた理由も、結婚が生み出す機会費用の支払い拒否を意味している。
相互拘束関係の機会費用が取引費用の節約額を上回る状態では、相互拘束関係を解消して、外部の機会を追求する行動が合理的であるが、相互拘束関係が提供する安心に包まれて暮らしてきた人々にとっては、そのような事態に直面しても簡単に相互拘束関係を解消できない。その大きな理由は、その内部で安心を生み出す相互拘束関係に安住しているうちに、関係外部の「部外者」に対する不信が増大するからである。このような状況で人々や企業が機会費用を支払いつつ既存の相互拘束関係にとどまっていれば、経済全体としては機会と能力のマッチングの失敗により非効率が発生する。最終回である次回には、このような状態で安心の呪縛から人々を解き放ち、桎梏と化した相互拘束関係の外部に存在する機会の利用を可能としてくれるのが、特定の相互拘束関係にない人間に対する信頼、つまり一般的信頼の役割であることを議論する。
他者一般を信頼する傾向を持つ人々には、関係外部の機会を有効に活用する可能性が与えられている。つまり、機会費用が大きな社会環境のもとでは、一般的信頼が適応的な役割を果たすことになる。各種の調査結果から、日本人よりアメリカ人のほうが他者一般を信頼する傾向が際だって高いことが示されているが、この日米差は、社会全体における機会費用の日米差を反映しているものと考えられる。
しかし、社会的不確実性の存在する状況で他者一般を信頼することは、搾取される可能性を大きくする不適応な行動ではないだろうか。これは当然の疑問であるが、筆者らが行った一連の実験研究の結果は興味ある解答を与えている。
この実験の参加者は、現金を使った取引を行い、その取引で他の参加者が実際に信頼するに値する行動を取るかどうかを予想した。参加者の一般的信頼の程度は、実験参加の数週間前に、他者一般を信頼する程度を測定するための「一般的信頼尺度」を用いて測定されている。常識的には、他人を信頼する「甘っちょろい」高信頼者は愚かな「お人よし」だと思われるが、実験の結果はこの常識に反して、他人を信じない低信頼者よりも高信頼者の方が、相手の行動を正確に予想していることを明瞭に示していた。高信頼者が低信頼者よりも他者の信頼性を正確に判断するというこの実験結果は、その後行われた合計六つの実験でも、繰り返し確認されている。
この結果は、高信頼者が優れた社会的知性の持ち主であることを示唆する者である。社会的な楽観主義者である高信頼者は、安心していられる関係にとどまることなく、社会的様々な機会に積極的に向かっていくため、社会的知性が身についてゆく。これに対して、社会的な悲観主義者である低信頼者は、安心していられる閉鎖的関係にとどまり、社会的な機会に直面することを避けるため、社会的知性を発達させることが困難で、そうなるとますます閉鎖的な相互拘束関係にとどまることで不確実性を避けようとする悪循環に陥ってしまう。
現在の日本が直面するひとつの重要な課題は、これまでの安心追求型の集団主義的社会を、機会追求型の開かれた社会へと転換するという課題であるが、この課題の達成のためには、人々を相互拘束関係の呪縛から解放する役割を果たす一般的信頼を醸成する必要がある。ただしこのことは、人々に「お人よし」になるように説得することを意味するわけではない。実験結果に基づけば、一般的信頼は人々の間には社会的知性を育成することによって高められるはずだからである。社会的知性の育成は、現在の日本における教育に求められる最も大切な課題だといえるだろう。
民間部門も自己革新を
この「かわら版」を始めたのは2年ほど前だったが、以来ややエキセントリックな発言を続けている。それは、このページだけには自分の気持ちや本音を出すように意識して掲載文を取り上げたい気持ちの現れであったが、ここにきて思うことは日本は明らかに曲がり角に来ていることがはっきり認識できるようになったことである。何十年も実務に携わってきたが、なぜか「今までとは違うぞ」と感じるときが多いのが今日このごろである。小渕首相の所信演説を云々するつもりはないが、今までの首相演説とは何か違う響きが伝わってきた。このような感覚の発現理由とか過程は分からないが、感覚自体が敏感に反応しているとしか思えない。そんなときに朝日新聞夕刊、「経済気象台」は、そんなメッセージを伝えてくれた。経済を知り尽くした彼らも叫んでいるのだ。耳を傾けようではないか。
金融安定化のスキームが整備され、過去最大規模の景気対策が実施されても、景況は依然厳しい状況にある。これは、現行の日本型システムの根本的な改革を、官民ともに先送りし続け、家計、企業ともに自己防衛的な縮み志向を強めているためだ。(参照記事:「この不況と日本人」)この低迷状態を脱し、日本経済を再生するには、行財政改革、規制緩和など政・官による構造改革の断行と、民間部門の自己革新が不可欠である。
具体的には、まず第一に、バブル期に膨らんだぜい肉を落とし、事業を抜本的に再構築するとともに、雇用・賃金体系や企業統治のあり方など旧来型の経営システムを全面的に見直すことが急務だ。
第二に、新事業に果敢に挑む起業家精神の発揮が緊急の課題だ。現在の米国経済の好調は、ニュービジネスの興隆に支えられている。ちなみに米国の新規開業率13.7%に対して、わが国は3.7%にすぎない。大企業、中小企業を問わず、リスクを恐れず積極的に挑戦する姿勢が求められる。
第三に、中小企業といえども、市場原理を貫き、弱者救済的な従来の方式はおそかれ早かれ過去のものとなるとの時代認識が肝要だ。現在、中小企業基本法の見直し作業がいま行われているが、その基本的方向は「組合」丸抱えから、新事業の開拓などの意欲のある「個別」中小企業のみ支援するものへ、と大転換するはずだ。
第四に、より基本的な問題として、国民の価値基準の進化が極めて重要だ。結果平等主義や横並び重視の価値観は、本格的なボーダーレス時代を迎えた今、あまりにも弊害が多い。創造性を重視し、成功した者が報われるという国民的コンセンサスが必要だ。
危機的状況を前にして、わが国経済が今後、再生の道を歩むのか、衰亡の谷に転落するのかの分岐は、国民の意識を含めた民間部門の対応いかんにかかっている。