デジュール・スタンダード(公的な標準)で日本は苦しい立場
欧米各国政府は、世界標準が自国産業の販路を拡大する武器であることに注目し、自国技術の世界標準化を目指す戦略を採用した。21世紀の主力産業に自らの技術を反映させられるかどうかが、国際競争力を左右し、雇用にも響きかねないからだ。
日米欧ともさまざまな開発・実験の成果をISOなどの場に持ち込み、標準に採用してもらおうと、駆け引きを繰り広げている。
欧州は、官民の共同作戦では先行してきた。デジタル携帯電話の規格では90年代初め、欧州、日本、米国の三つの方式が提唱されていたが、いち早くアジア地域などの政府に採用を働きかけた欧州方式が、技術的に優れているされた日本方式をしり目に、百カ国以上に普及。欧州の通信機器メーカーは世界市場で優位に立った。
なにより、欧州の標準化戦略を際立たせたのは、87年にISOで制定され、90年代に世界中に広まった品質管理システムの規格「ISO 9000」だった。
これは、製品やサービスが一定以上の品質が保てるよう企業や工場が組織的にきちんと管理されていることを示す規格で、もとは英国の国内規格だった。それをISOで世界標準に昇格させるとともに、欧州統合を控えた各国の政府調達の条件にした。
それがアジアや東欧など他の地域にも入札や商談の基準として波及。米国や日本の企業も、自社のシステムをISO 9000に合うように変更せざるを得なくなった。
危機感を背景に米議会技術基準局は、92年、「米国の規格開発が機能しなければ、米産業界は打撃を受ける」との報告書をまとめた。「世界標準づくりに関与することの重要性は、急速に認識されるようになった」と、米商務省標準技術局もマリー・サウンダーズ部長は言う。
この十年間、米国はISOで分野ごとに設けられている委員会で、標準化の作業を左右する幹事国に次々と名乗りを上げた。ITS(高度道路交通システム)を担当する技術委員会の幹事国も、米国だ。
(注:1997年時点の米国が幹事国として引き受けた新しい国際規格の数は、532である。一方、日本は、わずかに103に過ぎない。ドイツ、英国はおおよそ450、フランスでさえ290である。いかに日本が立ち後れているかが分かる。ただし、幹事は、技術委員会、分科会、作業部会の合計数。)
先行する欧州と巻き返す米国に挟まれて、日本は苦しい立場に追い込まれている。
次世代テレビと言われる高品位テレビ(HDTV)の開発競争では80年代末、NHKのハイビジョンが世界に先駆けて実用化された。ところが、日本勢に市場を奪われることへの警戒感などから、欧州も米国もハイビジョンを世界標準とするを拒否。ハイビジョンは日本でしか通用しない規格となってしまった。
「日本製の品質を示すデータを出しても少しも議論が深まらず、多勢に無勢で欧州勢に押し切られてしまった。」
コンドームなどのゴム製品メーカー、オカモトの石渡幹夫・茨城工場長は悔しがる。
ISOは、エイズ問題の広がりを受けてコンドームの規格を制定し、厳しい検査基準を導入した。日本メーカーは薄くて丈夫な製品を作る技術にかけては世界一。だが、検査基準が厳しくなれば、薄さにも限度がある。日本国内で販売する製品を含め、それまでの0.03ミリから0.06ミリにせざるを得なくなった。
「日本人はいつも思想はそとからくるものだと思っている」
司馬遼太郎の「この国のかたち」はこんな引用から始まる。日本工業標準調査会の国際部会は、昨年11月の答申で、このくだりに触れ、「文中の思想が標準と書き換えられてはならない」と指摘し、国際標準への積極的な関与を呼びかけた。
以上は、9月19日付け朝日新聞の「世界システムの行方」からの抜粋である。この記事を受けて国際電気標準会議(IEC)副会長 東迎 良育氏がコメントをしている。以下に、一部を転載する。
IECやISOと欧州の標準化機関は、作業の重複を避ける必要があるので、時には欧州の標準化が優先する場合がある。これが欧州に有利になっている面は否めない。
決して欧州を優遇していはいないのだが、欧州は陸続きの先進国が集まっており、伝統的に話し合いによる共通化の土壌がある。ルール作りに優れているうえ、欧州統合という追い風もあって、標準化の分野でも世界をリードしている。
これに対して、日本はルールやシステムを自ら作り上げるのは苦手だ。せっかく、世界に冠たる品質管理(QC)運動の実績を積み上げていながら、それが個別企業レベルにとどまっている。
ISO 9000については「品質で世界最高のモノを作る国が、こんなルールに振り回される必要があるのか」という議論すら、国内にある。しかし、相手が「ISO 9000でなければだめだ」と言えば、それに合わせざるを得ない。
言葉の壁はあるが、産業界や社会のニーズをいち早く標準化に結びつけて、国際機関の場で主体性を発揮すべきだ。そして技術力で他を圧倒するのではなく、世界の共通財産を構築する意識を持ち、特に、アジア地域の標準化に協力していくことが、日本に求められている。
東迎氏の言っていることに全面的に賛同したい。アジア地域の国々で日本人が「俺はリーダーなんだ」という態度をとりながら、お金と遅れた技術をすこしお裾分けすることしかしていない。これでは、尊敬されるリーダーにはなり得ない。たとえば、東迎氏が言っているように、国際標準化でアジア代表とどうどうと欧米と渡り合っていただきたいと思っているのは、私だけではなかろう。
この不況と日本人
このようなホームページを発信していると、いろいろな方と情報交換ができる。そのこと自他を楽しんでいることもあるが、ひとり考えさせられることも多い。ISO 9000が世間で騒がれているが、その背景は何かが分からなくなることがある。経営者もしかり、推進者も本当の目的を理解しているのだろうかと疑問になることがある。この気持ちの整理ができなくていた時に、今日の朝日新聞の夕刊の記事が目に入った。評論家、加藤周一氏の「夕陽妄語」からの一文を転記する。
それにしても不景気の日本社会が、迫り来る恐慌に危機を感じていないようにみえるのは、何故だろうか。たしかに誰もが先行きに不安を感じてはいる。しかし一部の失業者を除けば、現在の状況がわるいわけではない。円が弱くなっても、海外旅行者の数は減らない。失業者は増加しているが、急激にではなく、その比率は好況の米国のそれを超えず、ヨーロッパ諸国においてよりもはるかに低い。またジャーナリズムに危機を強調する論客が居ても、大衆が彼等の言説を信用しないということもあるだろう。彼らこそはしばらく前に「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」踊りを踊った人々にほかならないからである。日本経済は世界最強ではなかったが世界最低でもなかろう。たしかに金融業は支離滅裂だが、製造業には強い足腰がある。不況が底をつけば、また立ち上がる時があるだろうーーと敗戦直後の荒廃からたちなおった経験をもつ国民は考えているらしい。
しかしおそらくそれだけではない。明日を思い患うこと少なく、今日を愉しもうとする態度は、遠い他界を考えず仲間内の此処に関心を集中する習慣と共に、長い日本文化の伝統である。故に明日の世界恐慌よりも今日此処での暮らしに係る。政治家は当面の政争に、役人は予算の分捕りに、週刊誌は毒殺事件に、女性雑誌は、今すぐいかにして痩せるかに、NHKは台風が今どこへ向かっているかに。そういう関心のあり方には、たしかに一種の生活の知恵がないとはいえない。しかしその限界もあるだろう、と私は思う。
台風と不況はちがう。台風の進む方向を変えることはできないが、不況に対して有効な手を打つことは、条件次第ではできるかもしれない。此処に上陸した台風は、他国に影響しないが、今日の世界では、日本の不況は他国の経済にさまざまな影響を与える。当然国際的な責任問題が生じ、「今此処」主義に徹底するのはむずかしくなるだろう。
日本人は、長期的な戦略や国際的な行動には不向きであるといつも思っていたが、そのように考える方がいることを知って少し安堵している。あまりにも国賊的意見で、過去には苦い思いをしたことがある。いまやっと口にすることができる時代に来たように思うが、いずれ忘れ去るのが、また日本人である。