一時期よりは落ち着いた感があるが、世の中どこもかしこもエスプレッソブームで、今やファミリーレストランでも泡立ちコーヒーを出すようになった。自分にとってエスプレッソとの最初の出会はドトールコーヒーだったと思う。正直なところ、量が少なくて“ケチくさい”コーヒーだと思った。その次の出会いは「雑記帳」で、そこで飲んだエスプレッソはドトールのものとは別物だった。
美味しいエスプレッソは日本のお抹茶よろしく表面にきめ細やかな泡の層ができている。ドトールや簡易型のエスプレッソメーカーではそれが作れないのだ。ポイントは3つ。芯まで火の通った新鮮な豆。細かく挽けるグラインダー。そして、高い圧力で抽出するエスプレッソメーカーである。「雑記帳」では自家焙煎の豆を専用のミルで細かく挽いて、イタリア製の大型のエスプレッソマシンで抽出していた。さすがはイタリア。デザインも洒落ていて、真鍮?に塗られた円筒形のボディーのトップに羽を広げた鷲の塑像が飾ってある。サイズもでかく、値段もかなりするそうだ。しかし、その昔「雑記帳」でも家庭用でも使われるようなエスプレッソメーカーを使っていたとのこと。正面にレバーがあって、それを押し下げるようにして淹れるんだと教えてくれた。
自宅でエスプレッソを飲みたいと真剣に考え始めていたその頃。それは面白いとそのエスプレッソメーカーについてあれこれ聞いた。パボーニ社から売り出されているらしく、業務用でタフに使うには耐久性に不安があるが、家庭用なら十分以上に使えるとのこと。夢はどんどん膨らんだ。そして実物を初めて見たのは近所のコーヒー豆専門店。忘れ去られたように埃を被って棚の上の方に置いてあった。値段を聞くと21万円と言われた。なるほど、それを買う人はめったにいないだろうし、自分達もさすがにそこまで投資できるような贅沢はできない。さすがにこの話は諦めざるを得ないと思っていた。
結婚した時の二人の夢は、モナコでF1レースを観ることだった。それが実現したのはまもなく結婚1年を迎えようとする年のGW明けのことだった。その頃はまだバブル時代の余韻がかろうじて残っている時期で、観戦ツアーなるものが数多く企画されていた。僕らが選んだのはフジテレビの11日間のツアー。まずドイツに入って、バスでイタリアまで移動しながら最後にモナコに行くというもの。観光とレース観戦のどちらも楽しめそうなツアーだった。モナコはフランス領の独立国だが、ツアー中はイタリア滞在が長い。その話を「雑記帳」でしたところ、イタリアで買えばパボーニが格安で手に入るよと鈴木さんの何気ない一言。えっ、、、もしかしたら。
買い物ツアーではないので、どれだけ自由な時間があるのか分からない。でも、もしかしたら本当に買えるかもしれないね。がぜん話は盛り上がってきた。さらに鈴木さんから、観光で立ち寄る予定のミラノにはコーヒーカップで有名なジノリの店もあるはずなので、そこも寄ると良いとのアドバイスも貰った。当時雑記帳で使っていたカップはジノリ製が多く、僕らはそれも欲しいと思っていたのだ。
さて、ツアーは最初ドイツのフランクフルトに入り、ミュンヘンに移動して丸一日の自由時間を得た。繁華街を散歩しながらデパートに入ると、なんとそこには早速パボーニが売られているではないか。日本円に換算すると約8万円。国内品よりは安いもののまだまだ高い。そこではぐっと我慢して店を後にした。しかしもうこの時点で、買えたらいいねという気持ちはすでに、絶対に買うぞと変化しつつあった。
その後イタリアに移動してからミラノでわずかな自由時間があった。有名なドゥォーモ前広場で解散し、ツアー客は思いの方向に散って行った。ちなみにこのツアーはF1観戦ツアーであるからして、メインのイベントはレース観戦である。ブランド品の買い物に全く興味が無い人もいる。そういう人たちはオペラ座やドゥォーモなどの観光に時間を費やしていたようだ。僕らはまたデパートに入った。もちろんそこにはパボーニが売っていた。さすがにドイツより安くなって5万円。これなら買いだと思ったが、先にジノリのコーヒーカップを見に行こうと売り場を後にした。初めて歩いたミラノの街は分かりにくい。地図を片手に店を探したものの、ジノリの店にたどり着かない。迷子になりかけて街の人に「ドゥォーモはどこ?」と尋ねてみても、発音が悪く理解して貰えない。それでも何とかジノリの店にたどり着き、素敵なカップをいくつか物色して免税の手続きや頑丈な梱包をして貰っていたら、あらもう時間がない。悔しいことにパボーニを目の前にしてまた買うことができなかったのだ。
つづく