水出し珈琲

 もう一つ、おぜき家思い出の喫茶店を紹介しよう。二人の実家からほど近いところに柳生園というゴミ処理場がある。そこの廃熱を利用した公共の温水プールがあって、かつて水泳部だった僕らは、浪人時代、時々そこに行っては焼け石に水程度の運動不足解消をしていた。その近く、滝山団地の大きな商店街の一角に「ゾーンリフツ」という喫茶店があった。実は名前がおぼろげで自信がない。確かドイツ語で太陽の光という意味があるとか何とか、店の説明書きにあったような気もするのだが、それももう忘れてしまった。僕らの中では「水出しの店」で通じていたからだ。

 その店は、お湯を使わずに、水を使って時間をかけて抽出する水出し方式、別名ダッチコーヒーを売り物にしていた。店の入り口には理科の実験で使うフラスコのような大型の水出し機械が並んでいた。水出し珈琲を出す店でも、よくあるのはバリエーション珈琲の一つにある程度。この店のように全てを水出しで提供する店は珍しい。水出し珈琲は、お湯で抽出したときのような雑味が少なく、澄んだ味わいになるのが特徴だ。アイスで飲む方が合うのだが、沸騰直前まで温めて飲んでもよい。ただし抽出時間に数時間かかるので、飲む量を見込んであらかじめ抽出しておかねばならない。珈琲を注文して品切れだと断られたのは、後にも先にもこの店しかない。

 水出しの味をしめて次第に足繁く通うようになって、店の人とも話をするようになった。オーナーはおそらく年配のおじさんなのだが、店の切り盛りのほとんどは、僕らのお姉さん位の年齢の女性が店長よろしくやっていた。バイトの教育もしっかりして、気持ちのいい店だった。お姉さんは陶芸の買い付けも手がけていて、店の中に素敵な焼き物のカップが並んでいた。カウンターに二人で座り、その店名物のじゃがいも丸ごと一個が乗っかったカレーを食べながらお姉さんと話しをするのが、僕らの楽しみになった。僕らは仲が良いけどいつ結婚するのだと、よくお姉さんから聞かれて返事に困ったものだ。

 しかし所詮は雇われ店長。ある時、もうじきお店をやめるのだと聞かされたとき、ショックを受けたことを覚えている。今から思えば店の運営方針がだんだん変わって来ていたので、それも仕方がなかったのかもしれない。お姉さんがやめる前に今まで見るだけだったペアのコーヒーカップを買おうと、かみさん(もちろんまだ結婚していない)と約束をした。

 お姉さん最後の日。僕らはいつものように店に行ってカウンターに座り、あのカップを買いたいと申し出た。しかしお姉さんは最後だからプレゼントすると言って、奇麗に包んでくれた。その代わり、いったい何時になったら結婚するのか教えて頂戴と、ちゃめっ気たっぷりなところは最後まで変わらない。お互いに相手のことを詳しく知ったわけではなかった。何となく気さくに話をして、そして別れの時がきた。幼なじみや同級生とは違う。かと言って友達でもない。何回も会ったけれど、一期一会に近いような、不思議な関係だったと思う。

 その後、オーナーが再び店を切り盛りするようになり、一応営業は続いていた。しかし並んでいた陶器は無くなり、出す珈琲もだんだん水出しからサイフォン式に変わり、しかも教育のなっていないバイトが増えてきたので、僕らもいつのまにか足が遠のいてしまった。さてその店は今もまだ営業しているのだろうか。

 お姉さんの察しの通り、僕らはまもなく結婚した。その時貰ったコーヒーカップは、もちろん今もおぜき家で活躍している。中はその当時の思い出が詰まったまま。

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