新宿駅西口大ガード脇にある飲食店街「おもいで横丁」をご存知だろうか。小さい居酒屋や定食屋が軒を連ね、どこの店からも常連客の笑い声が絶えないようなごみごみした飲み屋街である。その最も駅よりの並びに「但馬屋珈琲店」がある。東口のスタジオアルタから歩行者専用のガードをくぐって抜け出た辺りと言えば、分かってくれる人もいるだろうか。実はこここそが、おぜき家が珈琲に開眼した喫茶店なのである。
時は学生時代にまで遡る。すでにつき合い始めていた2人は、よく新宿を徘徊していた。おぜき♂の大学に近く、また予備校時代によくウロウロしたことで土地勘があったのだ。余談であるが、そういう理由でおぜき家にとって、渋谷の街はいまだに歩きづらい。珈琲にはその頃から興味を持っていた。とは言っても喫茶店で飲む珈琲はオイシイねという程度。喫茶店でも店によって淹れ方に違いがあることまでは気にしていなかった。ただ、知識としてネルドリップがあるらしいということは知っていた。缶珈琲に粗びきネルドリップ方式を売りにしたJIVEが売られていたのもこの時期だったかもしれない。そのネルドリップなる珈琲の淹れ方を初めて見たのがこの但馬屋珈琲店だったのだ。
まさに感動だった。ネルの布で作った三角錐を逆さまにしたドリッパーを左手に持ち、右手にもったポットから細い糸のように静かにお湯を垂らす。するとまるで生き物のようにドリッパーの中から珈琲の粉が盛り上がり、そして三角錐の底から
珈琲のしずくが落ちる。その姿が実に格好良く、そして出された珈琲が実に香ばしく感じられた。まだ今ほど店は繁盛していなかったように思う。新宿の喧騒の中の静かな隠れ家的なこの店に、時には買い物帰りの疲れを癒すために、そしてまた待ち合わせにと、いつしか足繁く通うようになっていた。
座るならカウンターがいい。1階席と2階席があるが、2階の方がより静かな分落ち着ける。カウンターの中で行われるその見事なドリップを眺めていると、いつしか時が経つのを忘れてしまう。珈琲は全体的に深煎りで、どの珈琲も酸味を抑えた上品な苦味がある。ストレート珈琲はもちろん、ブレンドもいい。本来はブレンド珈琲こそ、その店いち押しの珈琲で、一番美味しいはずなのだ。ストレートが苦手な向きにはバリエーション珈琲や紅茶も楽しめるし、鎌倉山のチーズケーキや自家製珈琲ゼリーも美味しい。
時が経ち、おぜき♂は就職して小田原の研修所に入った。おぜき♀(この時はまだ結婚前)は都内の就職なので実家から通っていた。週末におぜき♂は実家に帰る。そして週末を過ごした後、新宿から小田急線に乗って小田原に帰る前に必ず立ち寄ったのも但馬屋珈琲店だった。小田原は遠い。せめてその遠さを紛らわせるため、いつもロマンスカーを利用していた。指定券を予約して、時間まで珈琲を飲みながら過ごす一時が、楽しみでもありまた寂しくもあった。また一週間が始まるんだね。そんな気分が2人の間に漂っていた。そんなアンニュイな気分の2人をいつも包んでくれたのも、ここの珈琲だった。
今もまだ、但馬屋珈琲店は健在である。カフェブームもあってむしろ以前より繁盛している。新宿に行ったらスターバックスに入る前にふと思い出して欲しい。おぜき家の青春の思い出が残っている珈琲屋さんのことを。