月が欲しいと彼女は泣いた

 

       二 呑まれる、水

 ここに、コップに入った一杯の水があるとしよう。貴方はそれを飲むとする。貴方は水を飲んでいるつもりかもしれないが、実のところは、貴方の方が水に飲まれているのだ。なのに貴方はそれに気づかず、それを飲み干そうとする。だから、飲んでも飲んでも渇きが癒されない。すぐに喉がカラカラになってしまうことだろう。その様は、どう見ても、人間が水にまれている。

        *

 美袋はレポートに追われ、徹夜をしていた。一段落したのは、もう朝日が差し込む時間だった。腹が空いたので、近くのコンビニに行ってサンドイッチでも買おうかと、出かけた。道の途中で、一円玉を拾った。
 レポートはあくまでも一段落したに過ぎなかったので、翌日もレポートにいそしんだ。そして、同じように早朝、コンビニへ行くのだが、また同じところに一円玉が落ちている。次も、そのまた次もそうだった。しかし、普通の時間に行っても、無かった。
 また別の用事で徹夜することになり、早朝に件の道を通ると、また一円玉が落ちていた。これはまた異なこともあるものだ。誰かがわざとお金を落としでもしているのだろうか? 大方、傍にある自動販売機やら公衆電話やらが関係しているのだろうが…。しかし、労せずして現金を手に入れることができるのだ。美袋は喜んで、毎朝出向いては、拾った。
 登紀子にその話をすると、彼女は嘲るように嗤った。美袋は少し腹が立ったが、彼女に理由を問うた。
「毎朝、貴方が欠かさず一円拾うとしましょう。さて、百年で幾らになりますか?」
 美袋は可笑しくなってきた。そうだ、たかだか三万六千と五百二十五円だ。百年掛けて、やっとそれだけを稼ぎ出すに過ぎない。それに精を出すなど、莫迦げた話だ。
 そうすると、だ。人は百年生きて、やっと三万六千五百余日を生きるに過ぎない。尤も、百年など生きることは出来ないだろうし、準備期間は省きたいし、呆けしまっては何にもならない。そこで、実際には二万五千日ほど生きるという計算ができる。さらに、人が人を肉体的に愛し合うことができる期間を換算すれば、一万日かそこらが限界である。
 一万日とは何と短い日数であろうか。そのことを登紀子に告げると、彼女は笑った。
「なら、毎夜毎夜、出来なくなるまで、抱いてくださるのね…」
 美袋は喜び、早速彼女の言葉通りにした。
 一月もすると、美袋の眼も虚空を見るようになった。荒淫が過ぎて、軽いノイローゼ状態にあったのだろう。さらに登紀子という存在が、彼を急速に現実から遠ざけていった。彼女は限りなく、現実から遠い場所に居たのだ。

 美袋が学校からふらふらと帰宅していると、突然行く手を阻むものがあった。小さな社であった。
《おや、どうしたんだ。行き止まりじゃないか》
 道順は間違っていないはずだ。毎日通っている帰り道なのだから、たとい泥酔状態にあったとしても、間違えることは無いだろう。それなのに、行き止まりに出てしまうとは、どうしたことだろうか。
 仕方が無い、引き返そう、と思ったが、振り返るろうとしたその時、社に居た一対のキツネが少し動いたような気がして、思いとどまった。
《はて、今、お稲荷さんが動いたように見えたが…いや、気のせいか。それよりも、お社なんて、そこら中にある気がするが、しかし、まじまじと見るような機会は無かったな。折角だし、見ていくか》
 社には、二匹の稲荷と、その間に、一枚の鏡があった。
 鏡を覗き込むと、自分が映った。しかし、その自分の像は、普段とはひどく違っているように思えた。突然、鏡に映った自分の像が叫びだした。
「呪詛だ! 呪詛だ!」
 慌てて美袋は口を両手で閉ざしたが、相変わらず鏡の中の自分は「呪詛だ! 呪詛だ!」と叫びつづけていた。
 美袋は烈しい衝撃が身体中に駆け巡るのを、感じた。戦慄だ。戦慄を感じたのだ。美袋はその場に動くことも出来ずに、立ち竦んだ。
《しかし、呪詛とはどういうことだろうか…》
 躰はピクリとも動かせなかったが、不思議と思考は働いた。呪詛とは呪いのことであるが、魔術などと関係があるようだ。魔術といえば、否応なしに、登紀子の顔が浮かんでくる。
《あぁ、俺は恋人を疎ましく思ってしまうのか。なんてことだ、あの時誓った愛は偽物だったのだろうか。いや、待てよ。俺は一体いつ登紀子に愛を誓ったのだ? 俺は自然と、あの女に吸収されていく形だったではないか!》
 僅かな時間の間に、美袋は登紀子に対する疑心を大いに高めた。そして、それが完全なものになった時、美袋は卒倒した。気づくと、病院だった。あの社のことは、もう解らない。探してみたが、無駄だった。

 あんなことがあってから、美袋は登紀子を避けるようになった。参ったのは、登紀子の方である。仮初の恋とはいったものの、彼女にしてみれば、はじめから美袋に対して気があったのは明白なことで、彼女は電車内でたまたま見かけた美袋に強い興味をそそられたのだ。美袋から発せられるオーラのような、ある一種の印象は、一見すると平和的で弱々しくて頼りなさ気に見えるが、内側に秘められた炎のようなどす黒い感情は、余りにも強烈なナルシスムとニヒリスムに満ち溢れていた。登紀子は、他人の誰も看破することのできないそれを、直観によって見抜いていたのだ。美袋は気づいていなかったが、登紀子は電車内で、彼のことをずっと見つめ続けていたのだ。
 電車内で、偶然、登紀子と美袋は出会った。美袋はシートに座ってハードカヴァの本を読んでいた(「嘔吐」J―P・サルトル著。丁度、ロカンタンがアニーに再会したシークエンスだった)。登紀子が、体重をかけ、つり革にぶら下がるようにして美袋の前に立ったので、丁度向き合うような形になった。
「あぁ、近頃、お逢いくださらないのね。このままでは焦がれ死んでしまいそう」
 登紀子は哀願したが、美袋は素直に心を動かせなかった。黙って、本の続きを繰った。
 それから、再三に渡って、登紀子からは美袋に対して、「逢いたい、逢いたい」と切実な想いが寄せられたが、美袋はそれを悉く斥けた。
 美袋はこれらを煩わしく思っていた。一日も早く無くなってしまえばいいとすら思った。しかし、或る日を境に、ぱったりと連絡が途絶えた。彼女は慎ましい人間なので、こちらが煩わしいという意思表示をすれば、決してでしゃばらない人間だということは美袋も解ってはいたものの、ここまで淡白だと、少しばかり戸惑ってしまう。
《少し、様子を見るべきだろうか? しかし、却って不気味だ。ここは一つ、鎌をかけてみようか》
 美袋は、彼女に連絡を取ろうとしたが、自分が登紀子への連絡先を全く知らないことに気が附いた。思えば、いつも極く自然に、美袋が望んだ時に、彼女はいつも傍に居たのだ。  そこで、美袋は登紀子が居そうな場所を探して歩いた。しかし、登紀子は何処にも見当たらなかった。公園、電車、如何なる場所にも彼女の影すら無かった。突然、全身を駆け巡るかのような焦燥感が、美袋を襲った。
《参ったな。ろくでもない幻覚を信じて、大切なものを失ったかも知れないぞ》
 何かに注意を払うべく忠告されたとき、人は取り敢えず認識を改める必要が出てくる。余りにも大きなものに眼を奪われていると、今にも切りかかろうとしている、鋭い刃に気づかないことがあるのだ。あくまで白紙の心を以って自身の常識を総動員し、自らの判断力を頼りとするべきである。

 登紀子を見つけることが出来たのは、捜し始めて一週間が過ぎた頃であった。満月の夜、二人が出会った公園であった。
「あぁ、やっと来てくれた。大事な人。きっと来てくださると信じておりました」
 言い終わると、登紀子はばったりとその場に倒れてしまった。

第三章へ


戻る