月が欲しいと彼女は泣いた

 

        一 陶酔境

 アルコールを摂取すると、人は酔う。しかし、もっと強烈な陶酔を得ようとするならば、麻薬の一種に、アルコールの何倍もの作用を持つものがあるだろう。しかし、アルコールや麻薬に頼らずとも、陶酔の方法はある。自然美などに接するとき、人間はそれを身に受けることがある。その度合いは、その人の気質にもよるが、受ける側の感度をコントロールすることで、麻薬をも凌駕することができるのではないか。

         *

 登紀子に出会ったのは、月夜の晩であった。七月の下旬で、昼は雨であったが、夜はよく晴れた。美袋[みなぎ]は食事の材料を切らし、コンビニへ行くために、公園を通った。公園は全長が二キロメートルを越える巨大なもので、遊歩道としての役割を果たしていた。そこに一人の女性が佇んでいた。美袋よりは幾らか年上のようである。はて、何処かで会ったことがあったような…と、美袋が見つめていると、彼女はこちらに気づくき、声を掛けてきた。
「今宵は綺麗な満月ですよ…」
 そして、彼女は柵にもたれると、足を交差し、カクリと躰を斜めにして、空を見上げた。夜風が彼女の短めの髪を緩やかに掻き乱した。
 美袋は思わずどきりとした。
「何度かお会いしたことがありますね。私、川瀬…川瀬登紀子。貴方は?」
 何度か? おかしい。確かに会ったような記憶はあるが、はっきりしない。美袋が記憶を辿ることに必死になっていると、登紀子はそれを悟ったかのように、続けて言った。
「ご帰宅の電車の中、いつも同じ時間に同じ車両に乗ってらっしゃるのね」
 そうか、思い出した。美袋はいつも出口階段に最も近い車両を選んで乗り込む。往きに関してはそれほど気にしていないが、帰りには神経質だった。小さな駅ほど、出口の数が少なく、結局歩かされる羽目になるのだ。それに、帰りはくたくたになっていて、一刻も早く家に帰り着きたい。その為に、最短たる車両を選んでいたのだ。その車両にいつも居る女性の顔と、目の前の女性の顔が一致した。
 しかし、果たして電車の中で一緒になる人間など、どの程度の人が憶えているものなのだろうか。疑問に思いながらも、美袋が名前を告げると、登紀子はうっすらと笑みを浮かべた。艶かしい。これは男を蕩かせる笑顔だ。
「そう、美袋…広大さんね。うふふ、月光は余り浴び過ぎないことです…。月光を浴びると死期が近くなると言いますから」
 イギリスのロジャー・ベーコンという哲学者は真剣に『月光を不用意に浴びたために生命を失った者が少なからず居る』と主張していた。近年の研究でも、満月の夜は狂気的犯罪が多発したりするなどと報告されている。月は人を狂わせるのだ。
 登紀子はとびきり妖艶な笑みを浮かべると、ぐいっと、美袋のもとに近寄り、囁くように言った。
「月は魔術の根源なんです。ほら…あたし、魔女だから解るの」
 初めて見るタイプの女だ――美袋はそう思った。強く興味をそそられた。
 しかし、見方によってはこれほど気色悪い女は居ない。それなのに、美袋はそういう感想を持つことができなかった。彼女の魅力の虜となり、冷静さを欠いていたのだろうか。美袋は暫く動くことも出来ずに、呆然と彼女の眼を見つめていた。
 邪視[イーブル・アイ]というものがある。見つめるだけで、人を金縛りのようにしたり、死に至らしめたりすることができるものである。彼女の眼はそれに似ていたのかもしれない。ヨーロッパやオリエント、アラブの人々は、その邪視を畏れ、サリエルという月にまつわる大天使の名前を書いた護符を持ち歩いたりした。
 登紀子は美袋から目を離し、空を仰いだ。
「月に暈がかかっていますね、明日もまた雨かもしれません…」
 美袋ははっとして月を見た。丸い月に、綺麗な暈がかかっていた。星は一つしか見えなかった。月の左下にぽつんと小さくも明るく輝く惑星があった。他の星々は余りの月の輝きに掻き消されていた。あぁ、なんて月という奴は眩しいんだろう。そして、こんなに冷たくて鋭くて…。美袋は妙に胸が晴れ晴れする気分を味わった。鬱積していたものが、全て昇華されてしまったが如しだ。一種のエクスタシィである。月は人を引き込む力がある。美袋はそれを素直に受けたのだ。
 美袋が月に夢中になっていると、登紀子が声を掛けた。
「あまり月光は浴びない方が良いと言いましたよ」
 しかし、美袋は登紀子の呼びかけに生返事を返すのみである。
「ねぇ、美袋さん?」
 彼は、月がもたらす快楽に完全に酔い、恍惚としていた。それを悟った登紀子は、静かに微笑みを漏らした。

 翌日から、美袋は電車の中で暇を持て余すことが無くなった。登紀子はどちらかと言えば無口な方だったが、その一言一言は詩的で、美袋の気を惹く。あぁ、これまで知り合ってきた人間のいかに散文的なこと。これほど面白い人間は初めてだった。
 しかし、登紀子は外見上は大した女性ではない。身体中に力が入っておらず、唇には締まりが無く、いつも寝息を立てるかのようにすぅすぅと口呼吸をしている。一見、白痴に見えなくも無いだろうか。お世辞にも美人とは言えはしまい。しかし、それらの条件を無視できるほどの異様な魅力があった。例えば、古い魔法の本の最後の一ページにある、決して使ってはならない禁忌の魔法の持つ、独特の魅力に似ていた。
 或る日、美袋は電車の中で、『あの娘』のことについて、語ってみた。美袋が月になぞらえた、片想いの相手である。彼の彼自身による自問自答の末の結論を、その動機・経緯に至るまで詳しく、しかし、筋道を立てて話した。
「そう、なるほど。ほとんど一目惚れのようなものなのですね。ですけど、えぇ、面白いですわね、貴方って」
 美袋は怪訝そうに登紀子を見たが、登紀子は気にせずに続けた。
「だって、そうじゃないですか。まだ想いを打ち明けられてもおられないのに、まるで全てのことを体験してしまったかのよう…。二人が結ばれる事がどれほど無益であるかを、的確におっしゃられておられるけど…。えぇ、その予測の的確さについては、感嘆を禁じ得ませんけど、でも、どこか興がありませんことよ。
 恋愛とはそう、理に適ったものであるべきなのでしょうか。必ずしも必然的であるべきではないと思いますわ。もっと感覚を研ぎ澄まして、感じることに身を投じてみてはどうかしら。理窟通りじゃないからと、無理に想いを捻じ曲げることも無いでしょう…」
 しかし、美袋は腑に落ちないようだった。登紀子は両膝を叩いて思い切ったように提案してみた。
「解りましたわ。では、私が証明して差し上げます。仮初の恋…とでも言ったところでしょうか…。どうせ捻じ曲がるのでしたら、その捌け口はわたくしに…」
 言い終わってから、登紀子は意味深長に微笑んで見せた。その日のうちから、美袋と登紀子の奇妙な関係が始まった。要するに、身体と身体を合わせるまでの仲になってしまったのだ。しかし、それはあくまでも捌け口に過ぎない。
 登紀子が行ったのは、美袋の精神を改革することと言っても、過言ではなかった。美袋の、理に拘泥し、それに埋没してしまった感覚というものを発掘する作業だった。
 何のことはない。大衆が見向きもしない極く当たり前のものを、徹底的に吟味するやり方だった。たった100mを歩くのに、一時間も掛ける始末だった。「あそこの一本だけ違う色の草、そう、天に向かって細い葉を真っ直ぐに掲げているディテイルの――褐色が混じり始めて、一見粗雑にも見えますけど、でも、良く見るとやさしい色だと思いませんこと? 人と同じですわね。人もまた、独りの人ほど誤解を受けて、でも、よく見れば本当に優しい、良い人なのに…」「この石はよく見ると、あそこのコンクリートから割れ出したもので、元居た場所を物憂げに見ていますわね。まるで月と地球のようですわね。月は地球から割れ出たという伝説もありましてよ」「今日の空気は、湿度があって少し重く感じられますわね。でも、水蒸気を宿した空気は柔らかくて素敵だと思いません? 空気は見えないけれど、いつでも私達にその存在を知って欲しくて、だから、こんなにもささやかに躰を撫でて行くのでしょうか」どちらかと言えば、相貌的でストレートかつ稚拙な感想ばかりである。それでいいのだ。感覚にわざわざ仮面を被せる必要があるだろう か?!
 ある月夜、美袋は独りで散策をしてみた。登紀子の努力が効を奏したのだ。夜の空気が、まるで今までのものとは、違って感じた。そのまま明け方まで歩き通した。公園のベンチに腰掛けて、休んだ。常夜灯がふっと消えて、それを期に立ち上がるのは、気分が良かった。何もかもの始まりを達観しているような…。
 家に帰り着いた美袋は少し変わった体験をした。全ての音が狂って聞こえたのだ。音楽をかけたときにそれは判明したのだが、音程が完全に狂っている。和声が和声として聞こえない。全ての音が緩んで聞こえるのだ。美袋はなんだか恐ろしくなって眠りについた。翌朝になると、すっかり治っていた。
 恐らく、それは実際に目に映っているものよりも、何倍も快楽を増幅したことによる副作用ではないか。美袋は魔術にかけられたようなものなのだ。彼はもはや登紀子の掌の上にあった

第二章へ

戻る