辻本夏江は、奇妙な音で目が覚めた。
ぴいぴい、というか……きいきい、というか……なにか雛鳥でも鳴いているかのような、かん高く、そしてか細い音……。
夏江は身を起こすと、枕元に置かれた時計を見た。時計のデジタル表示はまだ四時を過きたばかり。隣のベッドに寝ている夫の方を見るが、音には気がついていないらしく、寝息をたてて眠っている。
……いったい何の音なのかしら?
夏江はベッドから抜け出ると、音のする方向……天井へと目を向けた。この上には高校生になる娘の部屋があるはずだった。
……ねずみでもいるのかしら?
気になった夏江は、寝巻きの上にガウンを羽織ると寝室を出た。
そろそろ夜が明ける時間だが、廊下は暗闇に覆われている。そこで一瞬、なんとも言えない薄ら寒さを覚えて、夏江は身体を震わせた。
……もう夏だっていうのに……。
夏江はガウンの襟元をきつく締め直すと、階段の方へと歩き出した。そして階段を上って二階に上がる。
上に上がるにつれて、音がだんだん大きくなっていった。そして娘の部屋の前に立つと、突然、その音は止んだ。
……そら耳?
耳を澄ましてみたが、音は全く途絶えてしまっていた。
首をかしげながら夏江は娘の部屋のドアを見ると、少しだけ隙間が開いていて、中の明かりが漏れていた。
……しょうのない子ねえ。熱心なのはいいんだけど……。
夏江はふっとため息をつく。
最近はずっとこんな調子だった。絵画コンクールへ出展する作品が大詰めを迎えていて、いくら注意しても徹夜を止めないのだ。
「雅美、まだ起きてるの?」
ドアを開けて、夏江は部屋に入っていった。すると、煌々と点けられた明かりの下に、キャンバスを前にして椅子に座る娘の後ろ姿が見えた。
「もう、こんな時間まで夜更かしして……」
夏江は文句を言いながら娘に近づこうとして、ふとキャンバスの方に視線が向いた。
キャンバスの中に描かれていたものは、地上に舞い降りようとする天使の姿だった。
天使は白くて小さな羽を一杯に広げ、全てを包み込むかのように差し出された両のかいなは、白くて淡い光に包み込まれて、まるでそこに天使が実在するかのような、なまめかしい雰囲気を漂わせている。
そのあまりにも神々しい姿に……だが、夏江は何故かしら恐怖を覚えた。
……なんでそんなこと……こんなに綺麗な絵なのに……あの子の絵でも一番の……。
夏江は頭を振ると、娘の方に向き直った。眠っているのか、ぴくりとも動かない。
「寝てるの?まったくもう……」
夏江はあきれたように言うと、娘の肩に手をおいてゆすった。
「ほら、ベッドに入りなさい……雅美?」
何度かゆすってみるが全く反応がない。
「雅美……雅美?」
夏江が顔をのぞきこもうとしたその時……いきなり椅子から転げ落ちて、雅美は床にうつ伏せに倒れた。
「雅美!?」
母親は異常な事態に一瞬戸惑い、そして慌てて娘にしがみついてその身体をゆすった。
「雅美!どうしたの、雅美!?」
雅美の身体にはまるで力が入ってなかった。首が、あらぬ方向へと曲がっている。
「雅美!」
夏江は娘の顔を見ようと床を這った。そしてその顔をのぞき込んだその瞬間……。
「い……まさ、み……い、い、いやあああああああああああああああ!!」
あまりの絶叫に天井の明かりが揺れて、まるで生き物のように光と影が蠢いた。
夏江は絶望の波に飲み込まれながら、ただひたすら叫び続ける。
だが彼女……辻本雅美のその顔は、不思議と落ち着いた、まるで夢でも見ているような、恍惚とした表情をしていたのだった……。
夜が明けようとしていた。
地平線から漏れ出てくる陽光が、少しづつ街を浮かび上がらせていく。マンションや一戸建て、公園、道路……夜の闇から解放された人々の生活の空間が、その姿をあらわにしていく。
だが、陽光の届かぬ場所はどんな瞬間にも存在する。家の影の中に、街路樹の根元の虚ろな空間に……そしてそんな場所に、それはいた。
暗闇の中で蠢く影というべきか……人の目には区別のつかないそのものたちは、ある一点を睨み付けていた。なんの変哲もない、ごくごく普通の一軒屋を。
だが、そこから湧き起こる“気”は、禍々しいとしか形容できないものだった。
……遅かったか。
……あんたのせいよ。
……ああ、また……。
……どうしようもない。
……今度は大丈夫なんでしょうね?
……目星はついている。
……もうこれ以上は……。
……さあ、もう夜が明ける。ここにはいられない。
……そうね。
家から立ち上る“気”が消えると同時に、その存在もその場から消失した。
何事もなかったように、街並みをかきわけるようにして太陽が昇っていく。
今日一日が始まるのだ。
……ねえ、絵俐素……あたしの夢……かなうのかな?かなうと、いいな……。
……そう……もしかしたら、かなうかもしれないの……。
……あたし……このままうまくいくのかな?いっちゃって、いいのかな?
……不安じゃない?
……うまくいっちゃうって、不安じゃない?
……うまくいかないことよりも、不安じゃない?
……どうしてこんなにうまくいくんだろう?
……なのに……どうしてこんなに、怖いんだろう?
……あたしは怖い……絵俐素は、怖くないの?
……怖い……怖いのよ……望んでいることなのに……なぜか、怖いの……。
……絵俐素は、怖くないの?
……夢がかなってしまうのは……怖くないの?
……夢がなくちゃっうのは……怖くないの?
……夢を見なくなってしまうのは……怖くないの?
「……はっ!?」
羽田絵俐素は机の上から顔を上げた。正確には、机の上に置かれたノートパソコンのキーボードの上からだが。
絵俐素はほつれて顔にかかる茶色の髪をうっとうしそうに払いのけると、周りをゆっくりと眺めた。
あまりにも見慣れた光景だった。勉強机にベッド。壁際にはクロゼット。特別変わった所など何も無い。
「……ゆめ……見てたのかな……?」
絵俐素は寝ぼけた声でそう呟く。確かにさっきまで誰かに話しかけられているような気がしたのだが……何も思い出せない。
頭を振りながら絵俐素は椅子から立ち上がると、カーテンを引いて外の景色を眺めた。
もう外はすっかり明るくなっていた。遠くから雀のさえずる声が聞こえてくる。そして上空から降り注ぐ鋭い日射しは、今日一日が暑くなることを予感させた。
絵俐素はカーテンをしめると、机に戻って時計を見た。起きる時間はすっかり過ぎていた。このままでは遅刻だ。
「い、いけない!」
彼女は慌てて着替え始めた。室内着代わりのジャージを脱ぎ捨てて、クロゼットの中から制服をかけたハンガーを取り出す……。
制服に着替え終わると、絵俐素はふと机の上を見た。
机の上に置かれたノートパソコンの画面に、昨夜まで書き留めた小説の文字が羅列されている。
彼女はそれに近づくと、そっとキーボードの上に指を滑らせた。そして冷ややかに画面を見下ろす。
その目は、自らの生み出したものに対して下すような目ではなかった。
絵俐素は少し乱暴にノートパソコンの蓋をしめた。そしてきびすを返すと、鞄を手に持って部屋から出ていく。
ぱたぱたと階段を降りる音がする。なんということはない、ごく普通の、日常的な光景。
と……完全に閉まっていなかったのか、ノートパソコンの蓋がほんの少しだけ開いた。その細い隙間から、バックライトの明かりが漏れる。まるでアコヤガイの中できらめく真珠の光のように。
だがその輝きは鈍く、そしてひどく霞んで見えた……。