ISO取得で生き残り

 神奈川県の地場中堅中小建設会社が生き残りをかけて品質管理の国際規格ISO 9000シリーズの取得に相次ぎ乗り出している。紅梅組は12月上旬に建設部門でISO 9001を取得する見込み。馬淵建設や工藤建設も早期取得を目指す。収益源の公共工事減少などで建設業者の損益は悪化しているため、受注競争で遅れをとった中堅中小会社はISO取得を機に技術力を売り物にして営業攻勢をかけたい考えだ。

 (途中略)

 各社とも取得を急ぐ背景には建設不況の深刻化がある。民間発注工事の減少による受注競争激化でゼネコンからの下請け工事は「採算割れが相次いでいる」。比較的採算が良いとされる公共工事も発注量が縮減傾向にあり、建設業者の財務内容は急速に悪化している。

 (途中略)

 中堅中小の建設業者がISO取得に走るのは企業存続の危機感の現れとみられる。「現状では充実している自己資本も今後どうなるか不透明」。各社ともISO取得を機に工事の質をアピールし、売り上げを伸ばし改善させる狙いだ。「将来はISO が公共工事の受注条件になるとみられ、動きを先取りする」との声もある。

以上は、朝日新聞の記事であるが、読んだとき違和感を感じた。その原因は何だろうと考えた。まずISO は万能薬ではないと言いたい。売り上げを伸ばすことには役立つだろうが、一方で取得初期にはキャッシュ・フローが悪くなる場合がほとんどである。特に、建設業ではISO 9000の仕組みを取り入れたとしても効率は悪くなるのではなかろうか。少なくとも余分な文書類が増え、それらに関わる人件費はコストアップ要因となる。さらに、もっと深く懸念しなければならないことがある。以下は、建築家、内藤 廣氏の意見である。

 建設会社では、ISO という資格制度がおおはやりだ。我も我もと取得に奔走している。取得していないと、海外の仕事の受注に支障がでるからだ。建物を造る過程を細かく文書化し、全体の透明性を上げ、品質管理の向上を目指す、という。

 一見聞こえはいいが、これは、建設業をいかに管理中心の業態へと変えていくか、という圧力にほかならない。建設業の官僚化といってもよい。簡素化と実業回帰という時代の趨勢に逆行している。

 我が国の建設業の素晴らしいところは、発注者との深い信頼関係を基礎に、細かい要求をしなくても、密度の高い仕事をするところにある。契約を超えた品質管理に対する暗黙の合意がある点にある。本当は、これこそ文化と呼ぶべきだろう。

 建設の現場では様々な人たちに出会う。少なからず何がしかの事情を抱えている人も多い。管理化された世の中に、反発した人たちだ。建設の質的な水準の多くは、こうした人たちの「こだわり」によって保たれている。おそらく、彼らはISO にはなじまないだろう。

 建設という文化の中で、制度や資格が残って、足元の現実を支えている実体を失う、ということもある。

 内藤 廣氏は、現場で出会ったこの人たちの実例を前文の多くを使って記述され、本当に胸を打たれた。個人としても昔のことではあるが、あるダムの建設現場で似たような経験があり、そのときの体験で高所恐怖症はいまだになおらない。ISO 9000の仕組みが、この人たちの「こだわり」を切り捨てていくならば、取得は、害こそあれ益にはならない。だから、よほど精緻で、しかも柔軟なしくみづくりがなされなければ、「ISO取得で生き残り」はなしえないであろう。ただし、建設業も今日まで規制によって保護されてきたがために、体質は金融業と同じである。いまから外資系建設業の参入に備える心構えは必要だろう。

デジュール標準とデファクト標準の違い

 このホームページでも時々「デジュール標準」や「デファクト標準」の話がでるが、その違いがよく理解できなかった方も多いと思う。私自身も何となく分かっているようなそうでないような気がしていた。「標準化と品質管理」、1998 No.10で明解な説明があったので、転記したい。

 
デジュール標準(公的な標準)
de jure standard
デファクト標準(事実上の標準)
de facto standard
定義標準化機関によって制定された標準標準をめぐる競争が市場で行われ、その結果、標準が事実上決定されたもの
特徴1  策定プロセスが透明で標準内容が明確でオープン
2 原則的に単一標準が提供される
3 メンバーシップが比較的オープン
1 策定プロセスの速度が迅速
2 標準の普及と製品の普及が同時
3 標準の一本化は市場での競争に委ねられる
4 自規格を標準化できた者が市場を独占できる
欠点1  標準開発の速度が遅い
2 標準の普及と製品の普及にタイムラグが存在
3 技術のFree rideの発生
1 情報公開が不完全策定
  全インターフェイスの公開保証なし
  技術情報の未公開のための複数方式の比較が困難
  開発企業による競争限定的な囲い込みが行われ、追従企業が不利な立場に置かれる懸念
2 メンバーシップが閉鎖的になりがち
3 改正手続きが不透明

 さらに、説明が加わっているので、一般知識として以下に追加しておく。

 英語のstandardを「標準」叉は「規格」と訳し場合に応じて使い分けているため、国際標準と国際規格という二つの言葉が一部の方にとり混乱する原因となっているようです。両者の違いは、国際標準が「デジュール標準」や「デファクト標準」を含む概念であるのに対し、国際規格は「デジュール標準」のみを指す概念です。

 かくかくさように、言葉の定義をきちんと行わないで議論するのは危険である。特に、ISO 9000の監査の後で行われる最終ミーティングの席上で、監査員がそれをしないで不適合の説明をしたり、改善事項を指摘することによる混乱が見受けられる。したがって、被監査企業の当事者は、監査員の言葉の定義を確認してから答える態度を身につけることが賢明であることを指摘しておきたい。「それは、私の言葉ではこうですが、よろしいでしょうか?」といって、監査員が「そのとおりです」と言えばすむことである。

プロジェクト・マネージメントの品質規格ISO 10006のJIS規格制定

 ISO 10006(Quality Management-Guideline to quality in project management)は、1997年12月15日に国際規格として発行された。この規格は、品質管理および品質保証の国際規格であるISO 9000シリーズを開発しているISO/TC 176(品質管理及び品質保証)により開発されたものである。TC176では、プロジェクト・マネージメントは広範な産業分野で用いられるにもかかわらず、これまで品質管理においてプロジェクト・マネージメントの概念を考慮指定なかったことから、品質を達成するために実行するプロジェクト・マネージメントの指針を規定することとし、TC 176(品質システム)/WG 8(プロジェクト・マネージメント)で標準化の作業が行われた。

 プロジェクト・マネージメントは、1960年代に米国国防省が開発し、そのメリットが確認されたことから種々の業界で用いられるようになった。現在では、建設業界、エンジニアリング業界、情報技術関連業界はもとより、サービス業、金融業、製造業等あらゆる業界で適用されてきている。我が国はプロジェクト・マネージメントの後発国であったが、その適用が次第に広がりつつあることから、本ISO 規格をJISとして制定する要望が強く起こり、国際一致規格(JIS Q 10006)として1998年11月20日付けで制定することとした。

 以上は、「標準化ジャーナル」1998.12 Vol 28からの抜粋である。またまた、新JIS規格が制定された。1998年12月18日に日本規格協会は、この新しい規格の説明会を東京で開催することを報道している。規格の概要を以下に転載する。

 本規格は、プロジェクト・マネージメントにおいて品質を達成するために実行することが重要な、また品質の達成に影響を与える、品質システムの要素、概念および実践に関する手引きを提供している。具体的には、プロセスアプローチを採用し、プロジェクト・マネージメントのプロセスにおける品質の手引きを扱っており、プロジェクトの製品に関連するプロセス(設計、製造及び検証などのプロジェクトの製品だけに関連するプロセス)における品質の手引は、JIS Z 9904[品質管理及び品質システムの要素ー指針(=ISO 9004-1)]で取り扱われている。プロジェクト・マネージメントそのものの手引書ではないことを理解しておく必要がある。

 規格本文では、このプロジェクト・マネージメントのプロセスを10のグループ(戦略、相互依存のマネージメント、範囲、時間、コスト、経営資源、要員、コミュニケーション、リスク及び購買)に分類し、その実施内容を規定している。

 筆者は、「今後の課題」として以下のように述べているが、ISO 9000への対応が遅れた理由を「日本社会の特殊性」にあると言っている。それは一種の責任転化であって、筆者が所属する政府機関(工業技術院)の「先見性」に欠けていたことが大きな原因と考える。

 プロジェクト・マネージメントは歴史ある手法であるが、これまで我が国では積極的に導入されてこなかった。その理由に、ISO 9000シリーズへの対応の際にも指摘されている、日本社会の特殊性(各従業員の責任範囲のあいまいさのためのプロジェクト・マネージメントを実施できなないなど)があると言われている。しかし、世界経済のグローバライゼーションの進展に伴い透明性、公平性のある世界標準の導入が求められるようになり、ISO 9000シリーズ同様プロジェクト・マネージメントについても導入の必要性が高まってきている。

 モービルとの合併で話題となっているエクソンは、すでに10の重要要素である戦略、相互依存のマネージメント、範囲、時間、コスト、経営資源、要員、コミュニケーション、リスク及び購買をプロジェクト・マネージメントに適用している。新規格の意図を理解するために、事例の一端を紹介したい。

 「プロジェクト管理はわれわれの業務全てにとって絶対必要ですが、それに携わる人は非常に大きな責任を負います。エクソンの上流部門マネジャーにとってプロジェクト管理とは、費用が十億ドル(約1300億円)以上にもなる巨大な施設の設計と建設の管理を意味します。投資額が莫大でプロジェクトの規模が大きいために、これらの企画と実施には細心の注意が要求されます。ごくわずかな工程を改善しただけでも十数万ドル節約できる場合があるのです。」

 「このシステムは、上流部門全体に共通するプロジェクト管理の原則に基づいています。そしてそれはベスト・プラクティスを基にしたものです。私達は手段、プロセス、管理システムなどを統合するための整合的かつ体系的な方式を開発し、プロジェクト・チームを結成するための方式を決定しました。また、新たなベスト・プラクティスを確立しシステムを維持するため、継続的な改善方式をまとめました。」

 「このシステムで有益なことの一つは、適任者を集めてくれることです。システムがあるだけでは不十分です。業務を遂行する人々が成功の鍵を握っているのです。最高レベルのプロジェクトを行うためには、プロジェクト管理機関は施設を設計し建設するために必要な技術者をタイミングよく、適当な人数集めなくてはなりません。エクソンの従業員だけでプロジェクトを行うことはほとんどありません。コントラクターやサプライヤーなどの第三者と効果的に協力することがプロジェクトを成功させる鍵です。」
 「エクソンのプロジェクト・マネージメントでは、ごく小数の熟達してエクソン従業員を活用し、外部スタッフを結束させます。外部スタッフには販売員やエンジニア、建設労働者などが含まれます。彼らに専門技術を指示することはほとんどありません。私達の仕事は、安全性、信頼性、迅速性、費用効果性、全般的な企業目標の達成などにプラスの印象をもつよう、必要に応じて管理し、指示し、影響を与えることです。」

「静かな革命」

 朝日新聞の「大磯小磯」にリスクマネージメントの本質と題して、金融機関のリスク・マネージメントを押し進めるには性善説では難しく、性悪説が役立つとし、しかも世代交代を促進させる意見を述べている。偶然ではあるが、ISO 9000は、経営者の世代交代に役立つのではとする私の意見と合致している。では、その部分を転載する。

 性善説に立ち現場の自主的な判断・行動を第一とする組織、各部署の平等を重んじ合議を重視する組織を例にとろう。社員一人一人の権限が大きく働きがいがある、議論が盛んで風通しがいい、相手の立場を思いやるなどの社風を保持する一方、性悪説に立ち、規律を重視し、権限と責任を細かく明確にする組織に比べ、リスクマネージメントという思考プロセスが浸透しにくいのではないだろうか。このような観点からの冷徹な認識がなければ、本当の意味でのリスク管理、危機管理は実現されないように思われる。

 最近、カンパニー制による社内分社化、執行役員制度導入、持ち株株式会社など、会社経営の枠組みを大きく変革する動きが目立つ。こうした機構改革の行き着く先は、それを意図しているかどうかにかかわらず、旧来のシステム、カルチャーを抜本的に変え、リスクマネージメントに即した体制を築くことだ。

 このような動きは、必然的に、既存のシステムに慣れ親しんだ層から、若い新しい層への世代交代を促進させる。また、それは一度だけでなく、絶えず新陳代謝を繰り返すことが求められる。これがまさしく「静かな革命」にほかならない。

 私はいつも「ISO 9000は性悪説に立ったシステムである」と説明してきた。それが一番日本人には理解し易いと思っているからだ。このような説明の仕方を欧米人にする必要は一切ないが、日本人には「心地よい」ように見えるからでもある。すなわち、ISO 9000は、「悪」と連想するからであろう。

 リスクマネージメントでは性悪説に立たないと何もしなくてよいことになり、その必要性すら理解してもらえないだろう。なにせ「空気と安全はただ」と思う国民だからだ。若い世代は、何かは分からないが未来に不安を感じとっている。リスクマネージメントが必要なことだけは身をもって知っているに違いない。最後に、性悪説に基づくシステムは日本人に必要のないことだと論理的に説明してくださる方をお待ちしています。

日本企業は生まれ変わりを模索している

 日立製作所の業績不振をどのように立て直すのか注目を浴びている。日経新聞「新しい会社」テーマに日本企業の実体を連載していた。今日は、その最終回で示唆に富む内容であった。要点を転載する。

 日立は石油危機時の不況もプラザ合意後の円高不況も労資一体の踏ん張りで切り抜けてきた。石油危機の時には産業界の先頭に立って一時帰休などの手を打った。円高不況でも、総合電機の持てる経営資源をやりくりしてしのいだ。本流を歩んできた先輩たちにはその体験と自身がある。

 皮肉なことに、その体験も自身も今回は役立たない。ダイムラー・クライスラー、エクソン・モービルを生むような世界的な競争激化と金融システムの腐敗。流す汗の量では打開できない環境変化が日本経済を襲っている。先輩たちが平時に実行すべき構造改革を怠ってきたからこそ、後輩の金井氏は悩む。

 総合力と見えたのは二番手商法の寄せ集めに過ぎなかった。自慢の資金力も果実を生まず、強大組織を維持するだけに消費されていく。かゆい背中をかき合う企業集団は金融機関の後ろ盾がいつ破たんするか分からない不安の中で、お荷物を押しつけ合う。とどのつまりが99年3月期の2600億円もの巨大の赤字見通しだ。

 「あの日立でさえ、経営を変えなければ生きている骸になるだけ」。変革能力のない企業と烙印を押されては大競争の中で死を宣告されるのに等しい。日立も遅まきながらグループ全体を視野に入れた分社化・事業再編を決めた。

 苦悶する日本企業に絶対的な再生の公式はない。その中で産業界に見えてきた大きな趨勢は、いわゆる日本型経営から米国企業流の経営への移行だ。しかし、米企業の拙速な形態模写では体質改善にはならない。重要なのは日本企業に刷り込まれた日本型経営の成功体験から、捨てるべき価値観と拾うべき価値観を峻別し、その上で新しい旗を立てることだ。

 「働きアリの法則」。勤勉に見える働きアリの集団も、本当に勤勉なアリは20%、なまけるアリも20%、残りはどちらでもない。本当に勤勉なアリだけを抽出しても、集団を形成すると同じ分布になるという。

 超優良企業でも、横並び企業でも、捨てるべき部分が20%ある。逆に固守すべき部分も同じだけあるに違いない。大部分の営みはその中間でどちらにも区分できる。

 この中間部分の変革をどうするのか、経営トップは今、ここにこだわりすぎて立ちすくんでいる。そのために、企業が存在するための絶対条件、「利益を上げる」という部分までが置き去りになった。

 急ぐべきは現在まで体で覚えた営みの何を残すか、20%の領域の結晶化だ。雇用、人事、製品、サービス、技術開発、何でもいい。それぞれの企業にとって残る部分にメスを入れるための経営の純化作業と言ってもよい。(途中略)

 ポスト日本型経営はやはり日本型経営と、そこに純化する企業があっていい。逆に、能力主義の米企業を超える超米国型を標榜してもかまわない。「徹頭徹尾収益重視で、どこにも似ていない会社にする」という道もある。

 何も捨てない経営ではにっちもさっちにも行かない。企業自身が変わる勇気を持つべきだ。そのためにも、変わらない理念を体現する経営の軸を持つ経営の競争こそが「新しい会社」への活路を開く。

 「経営の品質」ページで、「コア・コンピタンス」とはなーに?という話をしたのは、去年のことである。それは「競争戦略を考える決め手として業界の中での自社の強み、弱み、そしてどこにどんな機会と脅威があるかを分析して、自社のとれる戦略を決定すること」であると指摘した。「新しい会社」への活路は、まさにこの概念を実行することである。来年は、日本企業の多くできっと何かが変わるとしか思えない。日経の記者は、日本企業に対して大きなエールを送っている。それに答えられない経営者は、企業の社会的責任を考えるなら早く引退すべきである。

日本の金融界の責任

 今夜(1998年12月11日)NHKのテレビ番組で、世界恐慌が起きても不思議ではなかったあの「ブラック・マンデー」の裏で何が行われ、誰が何をしたかを知った。たまたま、あの夜はニューヨークのど真ん中で深夜まで酒を飲んでいた。その時に会った女性が「今日の暴落でワォール街のやつらにざまーみろと言いたい」と言ったのを覚えている。今夜、その気持ちの中身をしっかり気づいた。

 日本の産業界に携わっている人たちは、汗を流してモノづくりに励んできた。私達の年代の苦労を語るつもりは毛頭ない。モノ作りに携わる人たちは、毎日毎日考え、少しでも良いモノをつくることに心を注いでいることだけは確かである。今の日本は、その人たちの汗の結晶である。これからも日本のモノ作りは、同じことを続けることには間違いないと確信する。

 一方、世界の金融の仕組みは通常では信じられないほど変革していることだけは確かなようだ。一瞬の投機チャンスを逃すとあっと言う間に一銀行の資本金を超える損害を被るという莫大な資金が「市場」で動く実体を今夜知った。いくら汗を流して良いモノをつくり、そこからの得た付加価値も為替相場や金融商品によって一瞬に消えてしまう金融業の正体を見た。最近でも円高による影響で有名企業の利益が大きく低下したことが報道されている。我々モノ作りもスピードが重要であることは、つねひごろ実感させられている。しかし、金融界のスピードは、秒単位である。これは産業界ではあり得ないことだ。新しいモノをつくり出すには、何年とかかかることもある。最近は、一年以内で新しい自動車のモデルを開発する時代になっていることは承知している。一歩譲っても新しいモノの創造時間単位は、早くても月単位以上である。他方、金融界では、それが秒単位、長くても時間単位である。

 日本の豊かさはこのような汗から生まれてきた。にもかかわらず、その豊かさが多くの人に感じられないのは、こんな「しくみ」が働いていたからだ。「汗で稼いだ富み」を金融界の「ばかども」がうかっとしていたために失ったと言いたい。金融界に身を置くものは、日本人の本当の「偉さ」を知って、いま何をやらねばならないかを認識してほしい。しかも、スピード、早くだ。

「物づくり」にこだわり

 金融界の責任を追求したら、朝日新聞にこんな記事があった。同じような気持ちを持っている方がいるようだ。

 自動車が、家電が、鉄鋼が、長期不況の中でもがいている。バブル時代に過剰に増やした設備や人員を削るのは、仕方がない。でも、かって米国人が驚いた、ホワイトカラーとブルーカラーが同じフロアーで働き、同じ食堂で昼食をとる一体感は、いまでも残っているのだろうか。銀行員や証券マンが、物づくりの人間をはるかに上回る収入を手にする。もらう人が悪いわけではないが、どうも「逆転」を感じる。

 資源のない国でも、独創的な技術やアイデア、商才で稼げるのならば、「物づくり」が衰退しても豊かな社会を築いていけるかもしれない。だが、アングロサクソン流の激しい応酬や、華僑のようなしたたかさを本当に身につけた新・新人類の時代など、まだまだ想像できない。

 「物づくり」という中進国型の経済を大事にしていく。それが、やはり「身の丈」に合った生き方ではないのか。「大和」の故郷が、そう語りかけている。

 昔、英国人の経営するオーストラリアのタイア工場を訪問したときのことだが、昼食は、まるでバーのような豪華な部屋で管理職が昼食をとっていた。そのときに、「日本の企業では、すべての従業員は同等で、食事はもちろん、工場の風呂まで一緒に入る」と言ったら、「それはここでは当分できないだろう」と言っていた。日本の無階級社会は大きな資産であることは本当である。

日本株式会社は世界では通用しない

 『私の友人で、日本でベストセラーになった「ジャパン・イズ・ナンバーワン」の著者でもあるエズラ・ボーゲルは、同著の中で@優秀な産業政策(超一流の霞ヶ関エリート官僚が産業政策をたてる)A日本株式会社の下、政官財が目標達成のために力を合わせるBいい労資関係C高い勤労意欲D高い教育レベルE高い貯蓄率ーをあげて、これを全部合わせると、われわれみたいに個でやっているシステムはもしかしたら競争に勝てないかもしれない。アメリカもこれらの点を少し組み込む必要があると指摘しました。

 これらの項目のうち、霞ヶ関という非常に有効なシステムは、日本を取り巻く状況変化の中で制度疲労を起こして、いまや日本の足を引っ張るシステムになっている。そして日本株式会社というのは、非常に内向きなものですから、経済大国になったいまは、日本株式会社は通用しません。

 しかし、この二つ以外は全部残っています。だからシステムさえ変えればいいんです。倒幕のときに日本はシステムを変えました。江戸時代、日本の経済レベル、教育レベルはともにヨーロッパより高かったんです。いま日本にも、まだこれだけの資産が残っています。

 幕末に日本が何をやったかというと、結局は幕府を倒して新しいシステムをつくり、開国と近代化を実行しました。いま日本には攘夷の論客が多すぎると思います。危機に直面すると、だれでも相手のせいにするところがありますが、いま日本に必要なのは開国です。』

 テレビ出演しているフィールズアソシエイツ 代表取締役ジョージ・フィールズ氏は、このように、いまの日本のシステムを変えられなければならないと指摘している。品質システムの内容を中小企業の経営者に話をするときのはじめに、表現はすこし違うが、この意見と同じことをいうことにしている。この現状認識がなければ、ISO 9000システムを理解できないからだ。「開国」するとは、異文化を取り込むことであり、それには痛みを伴うから経営者の覚悟がどうしても必要となる。ここのところを社員全員に理解してもらうことができなければ、品質システムは機能せず、いずれ崩壊する運命をたどるとするのが私の論点である。


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