日立は石油危機時の不況もプラザ合意後の円高不況も労資一体の踏ん張りで切り抜けてきた。石油危機の時には産業界の先頭に立って一時帰休などの手を打った。円高不況でも、総合電機の持てる経営資源をやりくりしてしのいだ。本流を歩んできた先輩たちにはその体験と自身がある。
皮肉なことに、その体験も自身も今回は役立たない。ダイムラー・クライスラー、エクソン・モービルを生むような世界的な競争激化と金融システムの腐敗。流す汗の量では打開できない環境変化が日本経済を襲っている。先輩たちが平時に実行すべき構造改革を怠ってきたからこそ、後輩の金井氏は悩む。
総合力と見えたのは二番手商法の寄せ集めに過ぎなかった。自慢の資金力も果実を生まず、強大組織を維持するだけに消費されていく。かゆい背中をかき合う企業集団は金融機関の後ろ盾がいつ破たんするか分からない不安の中で、お荷物を押しつけ合う。とどのつまりが99年3月期の2600億円もの巨大の赤字見通しだ。
「あの日立でさえ、経営を変えなければ生きている骸になるだけ」。変革能力のない企業と烙印を押されては大競争の中で死を宣告されるのに等しい。日立も遅まきながらグループ全体を視野に入れた分社化・事業再編を決めた。
苦悶する日本企業に絶対的な再生の公式はない。その中で産業界に見えてきた大きな趨勢は、いわゆる日本型経営から米国企業流の経営への移行だ。しかし、米企業の拙速な形態模写では体質改善にはならない。重要なのは日本企業に刷り込まれた日本型経営の成功体験から、捨てるべき価値観と拾うべき価値観を峻別し、その上で新しい旗を立てることだ。
「働きアリの法則」。勤勉に見える働きアリの集団も、本当に勤勉なアリは20%、なまけるアリも20%、残りはどちらでもない。本当に勤勉なアリだけを抽出しても、集団を形成すると同じ分布になるという。
超優良企業でも、横並び企業でも、捨てるべき部分が20%ある。逆に固守すべき部分も同じだけあるに違いない。大部分の営みはその中間でどちらにも区分できる。
この中間部分の変革をどうするのか、経営トップは今、ここにこだわりすぎて立ちすくんでいる。そのために、企業が存在するための絶対条件、「利益を上げる」という部分までが置き去りになった。
急ぐべきは現在まで体で覚えた営みの何を残すか、20%の領域の結晶化だ。雇用、人事、製品、サービス、技術開発、何でもいい。それぞれの企業にとって残る部分にメスを入れるための経営の純化作業と言ってもよい。(途中略)
ポスト日本型経営はやはり日本型経営と、そこに純化する企業があっていい。逆に、能力主義の米企業を超える超米国型を標榜してもかまわない。「徹頭徹尾収益重視で、どこにも似ていない会社にする」という道もある。
何も捨てない経営ではにっちもさっちにも行かない。企業自身が変わる勇気を持つべきだ。そのためにも、変わらない理念を体現する経営の軸を持つ経営の競争こそが「新しい会社」への活路を開く。