「責任と権限」の考察
エクソン・バルテージ号のアラスカでの漏油事故が発生したとき、エクソン社会長に対し、「日本の東芝会長が責任をとって辞任したが、あなたも辞任しますか?」と新聞記者が訪ねた。彼は、「日本の経営者のまねをするつもりはない。ここは、アメリカだ。」と答えた。その会長はいまも健在である。株主に経営を依頼されているのが経営者だとする明白な背景がアメリカにはある。だから、株主から辞任を求められない限り彼の答えが正しいし、各メディアを含め辞任を強要する人はいなかった。しかし、その翌年の株主総会で、自然保護団体などが経営者に対して責任追求をする場面があった。たまたまその直後に体験したことだが、アメリカに入国するとき、空港の移民局員が、「エクソンの社員か。ここに来るよりアラスカに行け!」と言われたときには、少々まいった。彼は、企業と個人との区別を行わず非難していることになる。なぜなら、私個人は一切漏油事故に係わっていないからだ。企業は、「企業の社会性」を考慮し再発防止のためのしくみづくりはもちろん、すべての損害を賠償する責任が生じるのは当然である。これを万全に実施する権限が経営者に与えられてると考えるのが妥当である。
かくのごとく、「責任と権限」は、ビジネスを運営して行く上で無くてはならものとされる概念として組み入れられたものであろう。いずれにしろ「責任と権限」が経営者にはもちろん、従業員にも定められなければ企業の運営は不可能であることは明確である。したがって、なんらか企業に都合の悪いことが起これば、経営者が辞任することが責任ではありえない。辞任への合理的事由がないかぎり経営者が行ってはならない行為が「辞任」である。いろいろな場面で、経営者や従業員が行ったプロセスが問題視されるべきである。すなわち、経営者の場合には、なんらかの決断をする際に本来の経営者の立場および責務を無視したことが明らかになれば、辞任も正当化される。
テレビでの話だが、日本のある銀行の頭取が、アメリカのトップと話をしていたときのことだ。アメリカの頭取が、「ちょっと時間をもらいたい。ヘッジファンドの状況をしらべるから申し訳ない」と言って席をたった。そのとき、日本人の頭取は、「えー、頭取がヘッジファンドのことまで、毎日調べるの?」と口を漏らしたそうだ。経営者の行為には、国それぞれに違いがあることは理解しても、自社の重要な案件に経営者が関わらないのは、その責務を果たしていないとしか言いようがない。
経営者の責任を俎上に載せるなら日本企業の企業倫理をも考察することは避けられない。アメリカ本国から、毎年弁護士が来て、「独禁法にふれることのないよう、このような点に気をつけてほしい。また、会計上の不正は、いっさい容赦しない。」と半日を使ってすべての管理職に説明をし、ビデオを見せる。そして、この説明会に出席したことと経営者の意志を伝えたことの確認のために各自はサインをさせらる。その意味は、もし今日説明したのに、違反したときは、解雇されることを不服としないことを承諾したことの証となる。事実、「将来は社長」とまで言われていた現職の日本人重役が自宅の新築祝いを代理店からもらったことで解雇となった。日本ではいま、いろいろ議論されてはいるが、日本の経営トップの社会倫理に対する姿勢はまだまだ低いとしか思えない。その低い姿勢が、昨今のNEC会長辞任となっただけで、当然の結果である。その間に、いったいどのように不正を防止するための行為があったかは、世間の知る由も無いことが問題である。すなわち、プロセスに正当性がなかったに同位である。
かくかくさように、日本の経営者は、「責任と権限」の概念を理解せず、企業の社会的責任も感知せず、ただただ会社を私物化しているのではなかろうか。企業を社会の「公器」とする認識が低いとしか思えない。高い倫理観はもちろん、倫理上なにか問題があれば社会が許さないという危機感も持ち合わせていないのではない.。金融業界の経営者もしかりである。