2000年の年頭に思うこと

 シンガポールで品質管理の指導をするために1年半ほど生活をしたことがある。そのときの首相は、リー・クアンユーであった。首相の座は去ったが、今も上級相としてその政治力には決して衰えてはいない。シンガポールでの生活を通じて知ったことの一つは、リー・クアンユーの実行力の強さであった。昔のシンガポールは、決して今のように清潔な都市ではなかっし、観光に頼る経済が主であった。ところがいまや金融、運輸、ハイテク産業、石油産業が隆盛を極め、アジアの中心都市にまで発展した。その急激な発展は、リー・クアンユーの政治力なくしては成し遂げられなかったと私は考える。このような彼の貢献を認めないシンガポール人はごくごく少数である。いまや、日本を含め多くの先進国の指導者や企業経営者も彼の意見を無視することはできないだろう。それほど彼の世界観は卓越している。その彼が日本のことをどう言っているのだろうか。

 「日本はレゴ(組み立て玩具)のような国だ。それらは寸分の違いもなく規格化され、あまりにもがっちり組織をつくってしまう。これからは日本には難しい時代になるだろう。どの社会も個人の力を最大限引き出さなければならない。世界中の才能を使わなければならない。それらがレゴにうまく入るだろうか」

 日本人以外を「外国人」という言葉でひっくくり、日本人だけに合うレゴでできた社会では、どうしても「なれあい社会」が生まれる。堺屋企画庁長官は、これを「もたれ合いの社会」と表現した。「それはお互いがかばい合いながら組織に埋没、個性と好みを隠して共同の作業に精を出す方法、つまり規格大量生産を実現する仕組みだった。」さらに、「今、日本で起こっている変化は、規格大量生産を実現するための仕組みから、多様な知恵の時代にふさわしい仕組みへの変更、つまり『知価革命』である。」

 日経新聞、編集委員 船橋 洋一氏は、同じことを別の表現をしている。

 「日本の議論で欠けているのは、個人の力をどのようにつけるのか、引き出すのかというエンパワーメントの視点だ。」「エンパワーメントに弾みをつけるには、リスクを取ることを恐れないリスク精神を尊重し、真の能力主義と真の公平を推進しなければならない。しかし、この点、日本は極端な『リスク回避』型社会をつくってきた。それを合意至上主義と仲間外れ恐怖症と合わさり、戦後の政治文化とビジネス文化ともなった。」

 さらに、朝日新聞、論説主幹 小島 明氏は人的資源の活用について以下のように述べている。

 「資源である人を活用するには、一人一人の個性、能力を積極的に評価し、インセンティブを与え、その成果に応分の報酬を確保することである。画一化、均一化は規格大量生産の時代には強みだった。しかし知識集約、価値創造の時代にはそれは『不公正な平等』になる。二十世紀後半の産業政策上の大失敗例となった『護送船団』方式と同様、モラルハザードを醸成する。日本にとって新しい千年紀の最初の仕事は、個性を尊重し、リスクへの挑戦と成果を評価するという価値観の革命であり、諸制度のリストラであろう。」

 これらの方々が訴える意見のどれをとっても示唆に富むものである。個人的なことで恐縮であるが、昨年のある時に私自身の行動や活動は「異端者」であるから、ビジネスの上では危険性が高いと言われたことがある。そのときはそれほど深刻には考えなかった。しかし、後々になってこれが日本の時代感覚のずれを象徴していると考えるようになった。グローバリゼーションが声高らかに叫ばれても、画一化と「横並び志向」は排他されず、リスクを恐れない個人の活躍の場所は与えられていない。これでは「個性を生かし、その能力を最大限に活用する」と言う大企業の経営者を信用する若者が減少するのは当然の決着である。

 堺屋企画庁長官は言う。「あらゆる意味での差別がないこと、すべての人々が、働く者としても暮らす者としても、その好みと適正とによってのみ取り扱われることだ。」2000年版ISO9004は、このような新しい社会の実現に役立つと信じて、その普及のために千年紀の最初の一年を自分のペースですごそうと思う。

 


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