1999年版「マルコム・ボールドリッチ賞」
米国国家品質賞「マルコム・ボールドリッチ賞」は、1999年版として装いを改め、さらに事業業績の優位性を強化した。数千もの米国企業が総合力を評価、強化するために採用している1999年版ボールドリッチ・クライテリァは、形態と内容面で今までと比較し画期的に変化した。ボールドリッチ国家品質プログラムは、「以前以上に今年は、企業の総合実績、競争力、市場での成功を支援することに焦点が当てられた。」とHertzは語っている。
1999年版ボールドリッチ・クライテリァは、新しくなり、使いやすいフォーマットを採用した。七つの主要領域、すなわちリーダーシップ、戦略的計画、顧客と市場への焦点、情報と分析、人材への焦点、プロセス・マネージメントと事業業績の審査形式となった。審査には、以下のような質問が含まれている。すなわち、
組織の「価値観」、業績面での期待、顧客とその他の利害関係者に対する価値を創造し、バランスを取ることへの焦点、をどのように経営幹部は、確立し、コミュニケートし、展開しているか?
購買決定の要因や顧客要求を明確にするために、現存する、以前の、そして将来の顧客に対し、どのように意見を聞き、学ぶのか?
マネージャーや管理職は、従業員の能力を開発し、発揮させるためにどのように従業員に意欲を出させ、動機づけをしているか?
財務収益、もしくは経済性の価値の総計指標を含み、財務上の業績の指標・計測値の現在のレベルと将来傾向はどうなっているか?
このように、「マルコム・ボールドリッチ賞」はますます顧客志向と事業業績を重視し、人材開発や従業員の意欲にまで審査の焦点が当てられ、受賞企業は、世界的な競争力を有することを誇ることができるようになった。
さて、ここで「価値観」という言葉が出てきた。現役のとき、世界の最高経営責任者が、全社員に対し、「これが我が社のValuesである」といくつかの企業の姿勢を示したのだが、どうしても適当な日本語が頭にうかばなかった。それが今や米国企業では当然のごとく使われている。「マルコム・ボールドリッチ賞」もしかり。では、どう意味だろうか?朝日新聞のEnglish Conversation(山崎静光)を引用したい。
「むかしは価値観ということばは使いませんでした。30年くらい前、同僚が初めてこのことばを使うのを聞いたとき、「価値観?価値感?けったいなことばやなあ」と思いました。今や誰でも使います。人生観、世界観の類推でだれかが言い始めたのでしょう。「〜観」はドイツ語のanschauungの訳語として哲学者が考えたものです。
しかし、人生観は「人生を見る見方」。とすれば価値観は価値を見る見方のはずです。ところが、今の用法はそういう意味ではなく「それによって価値をはかるモノサシ」という意味で使っています。ドイツ人にWertanschauung(Wertは「価値」)と言ったら理解されないでしょう。だから「価値(判断)基準」というのが正しいはずです。
では英語で何というのでしょうか。criteria of valuesということばを見たことがあります。これこそ価値基準です。different systems of values(価値体系)とも言えます。でも普通は単にvaluesです。
"We trust your values, not equally but uniquely, and we don't like having to choose which one we would sacrifice to save another."(我々は価値を等しいものとしてでなく、それぞれ独自のものとして取り扱う。価値の一つを救うために他のどの価値を犠牲にすることを迫られるのは好まない)。だからvaluesと複数形なわけです。
こういう意味の「価値」ということばの用法は、抽象的思考の苦手な日本人が使う日本語にはまだないようです。」
いま政治倫理とか、経営者責任とか、企業の社会的責任とか、グローバル・スタンダードとか世間ではいろいろ議論されているが、いつも空虚に感じるのは、ここであるように思う。基本的なvaluesの意味することが日本ではあまりにも軽視されていないのではなかろうかと言いたい。
日本語にはない「価値観」を海外から否応なく一気に押しつけられた、あるいは押し寄せてきたのだから、日本で慌てふためくことが起こるのも理解できる。ここは、じっくり頭を冷やし、考え方を切り変える必要がありそうだ。