女神に見いだされて、初めての新年の祭り。何度もそれを経験している乙女たちに教えられ、レティシアは必死に務めをこなしていた。
 女神に仕える少女は毎年のように入れ替わる。理由はさまざまだけれど、入れ替わるもののいない時はないといっていいだろう。
 だから新年の宴では、新しく入った者たちが神々の席を廻ることになっている。むろん、それだけで人数が賄えるはずもなく、アテナの従者だけではなく、他の神々の従者も同じで、不慣れながら、神々の宴にいるということに緊張しながら酒を継ぎ、食べ物を運ぶ仕事をこなしていた。
 自分が何をすればいいのか分かってきて、どんな瞬間に動けばいいのかがわかってきたとき、ふとレティシアは人の近づかない一角に気づいた。
 さほど離れていないそこには決まった者がいないのか、空になった気配の葡萄酒のビンと、残り少ない食べ物のカゴがある。そしてそこに、不思議な獣も。
あれは・・・ケルベロス・・・?」
 冥府の番犬といわれ巨大な犬。その三つの頭は怒れば炎ですべてを焼き尽くす、そう言われるほどの恐ろしい存在だけれど、今はおとなしく、寝そべっていた。そして時折り傍らに座する黒い衣の男の手から何かを食べている。
 ケルベロスは気が荒く、他の神にすらなつかないと聞いたことを思い出し、誰もそこへ行かない理由も理解した。
 けれどこれは新年の宴であって、そんなことで蔑ろにされていい存在ではないことも確かだ。あのケルベロスが手ずからものを食べるのであれば、それは彼らの主である冥王ハデスに違いないのだから。
 怖くはない、とレティシアは思う。おとなしくしているようだし、何より主がそこにいるなら止めてくれるだろう。そう考えて、まずは小さい酒の樽を運ぶ。
 思った通りケルベロスは起き上がる気配すらも見せない。そのことに安堵して空き瓶を持って一度下がり、次は食べ物のカゴを取り替えた。
 彼の少々驚いたような顔に微笑って見せて、そのまま下がる。
 その後は他の人間たちの驚いたような顔を受け止めつつ他の席も廻り、時折り冥王の席へも巡ることにした。
 やがて宴に用意されたものが尽き、一人また一人と神々は帰り、従者もそれに従って帰って行く。いつの間にか、冥王の姿も消えていた。
 レティシアの主は一度いなくなっていたが、帰る気がないのか、猪を仕留めて帰ってきていた。それを元に新たな料理が作り出され、それはいまだ残っていた従者たちにも少しだけ振る舞われた。
 それを運んでいるときに、自らが仕える女神から休むようにと告げられ、従者たちの眠る部屋を教えられる。そこは宴のときだけに使われる部屋だから他を気にすることはないと言われ、そんなに自分は疲れが見えているのだろうかと思いながら宴を後にする。
 通り行く中にあった庭に、水音がしてついそちらへ足が向く。
 そして、冥王と出会ったのだ。

『冥王・・・!?』
 水音は、ケルベロスが泉の中で遊んでいる音だった。それを微笑いながら見ているのが冥王ハデスで、同じ席にいた女神はいなかった。先に帰ったのだろうか。
 何故にわざわざこの神殿で遊ばせているのかは理解出来なかったが、ともかくそこを離れようと後ずさる。
「誰だ」
 鋭い声が、レティシアの動きを止める。音を立てたつもりは無かったが、気づかれてしまった。一瞬、逃げ去ろうかという想いも頭を過ぎったが、相手は神だ。それも大神ゼウスと同等の力を持つとさえ言われるほどの。
 逃げても無駄と思い直し、恐る恐る足を踏み出す。
「・・・お前か」
 思ったよりも優しい声で、レティシアは以外に思い、その顔を見上げる。
「宴で私の席にきた娘だな。・・・まだ残っているということは、アテナの従者か?」
 レティシアがうなずくと、災難だったな、と微笑う。泉から少し離れ、水飛沫がかからないあたりに座って、レティシアを招く。
「お前、怖くないのか?」
 自分の傍らに座らせた少女は、まったく恐れる様子がない。多少気配が堅いのは、恐らく緊張であって、おびえているわけではなさそうだから、不思議でならない。
 冥府の王は冷酷無比、どんなに懇願しても願いを聞き入れぬ断罪者。
 自分が人間界においてそう言われていて、それが嘘ではないことを知っているから。
「・・・怖く、ないです」
 細いけれどはっきりした声でレティシアは答える。確かに彼の放つ神気は鋭いし威圧感もあるけれど、恐ろしいという類いのものとは違う。言うなれば、畏怖に過ぎないのだろう。
「そうか。・・・珍しいな。私の席に来るものなど、久しぶりだった」
 そして機嫌を良くしたのか、静かな声のままでいろいろとしゃべり続けた。
 ケルベロスをつれて歩くことは滅多にしないけれど、この泉が気に入っているらしいので連れてくることや、不思議とこの神殿の中ではケルベロスがおとなしいこと、共にいた女神は争いの女神と言われるエリスであること。
 そうして、話し疲れたのか話すことがなくなったのか、ハデスが黙り込む。レティシアは口を開こうとして、親しんだ気配に気づき、振り返る。
 こちらに気づいているのかいないのか、という距離に、アテナがいた。共にいるのはアルテミスか。
 そこまで認めたときに、不意に視界が遮られた。それがハデスの纏う衣で覆われたからだと気づくが、ほぼ同時に口をふさがれており、息を呑むことしか出来なかった。そして彼女の反対側、つまり女神たちが見える側に重みがかかる。濡れたような感触と適度な重さで、それがケルベロスだと見当を付ける。
『動くな』
 囁きのように頭の中に響くそれは、心術と言われる以心伝心の術。双方が会得していなければ成立しないと言われる術なのだが、さすがにオリンポス十二神の一人ともなるとそれは関係ないらしい。
『あれらは自分の従者が私と拘わることを嫌う。制裁を受けたくなければそのまま動くな』
 ・・・それは、初めて聞くことだった。
 けれど確かにそうかもしれない、とも思う。
 彼の女神たちは処女神で、男というものを受けいれることはない。それが何故かは知らないけれど、事実女神の住居に男は入れない。神といえど許しなくば立ち入れぬ結界が張られている。
「ハデス、帰ったのではなかったのか」
 いつの間にか近づいて来たらしい女神の声に身をこわばらせるが、動かないように必死に心を静める。
「ああ、帰るつもりだったのだがな」
 そうしてたぶん、びしょ濡れのケルベロスを示したのだろう、女神たちの苦笑が聞こえる。
「お前はいつも、これに甘いな。・・・私たちはこれから狩りに出る。いつもの部屋に従者たちを休ませているから、近づいてくれるなよ?」
「ああ、分かってる。体が乾いたら帰るところだ」
 ばさ、とケルベロスの尾が振られて、女神たちの気配が遠ざかって行く。
 そして唐突に神気が消え、ようやくケルベロスの重みから解放される。
「驚かせたな。もう大丈夫だ」
 自分を覆っていたローブも取り払われ、ほぅ、と息をつく。
「さて、女神たちに帰ると言ってしまった手前、帰らない訳にはいかないな」
 ブルブルと身体を降り、ケルベロスは水気を切っている。
「ああ、せっかくだ、これを持って行け」
 そう言って、ケルベロスの首飾りから、石を一つ、千切って渡す。
「・・・これ・・は?」
 牙の形をした石。繋いであったものだから、穴が空いている。
「ケルベロスの牙だ。弱い魔物なら近づけもしない。・・・これも気に入ったようだしな」
 いつのまにかレティシアの足元に、ケルベロスが座っていた。自分を見上げる三つの首をそれぞれに撫でてみると、普通の犬よりもやわらかく、艶やかな手触りだった。
「何か聞かれたら、ケルベロスが渡しに来たといえばいい。これは時折り、気に入った相手に贈り物をする癖があるのを皆知っているからな」
 そう言って、撫でられるがままになっていたケルベロスを促して立ち上がる。
「あ、あのっ」
 手の中の牙を見つめていたレティシアは、不意に重要なことを思い出したかのように声を上げた。
「わ、わたしレティシアと言います、あの、ありがとうございますっ」
 少々面食らったような顔をしていたハデスだったが、すぐに微笑んだ。
「・・・冥王・ハデス。そしてこれはケルベロスだ」
 必要もないのに名乗られ、首をかしげそうになり・・・そのまま硬直する。
 つまり、名を呼んでよいという許しを与えられたのだということにきづいたのだ。
「いずれまた会うことになるだろうからな」
 人前では呼んでくれるな、と言い添えるハデスにうなずき返すが、声は出ない。そんなレティシアに苦笑しつつ、ハデスはケルベロスを連れてその場を去っていった


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