ハデスに身を預けたまま、出会ったころのことに思いを馳せていたレティシアは、空気が変わったような気がして身を起こす。
「ああ、始まるな・・・」
 ハデスの言葉を肯定するかのように、ざわざわと、風もないのに草が揺れる。よく見れば、揺れているのは蔓薔薇の蕾のようだ。月明かりを受けて、静かに白く輝いている。
「見ていろ。私でもなかなか見られない光景だ」
 自分を見上げるレティシアを促し、自分も池の周りに目をやって、・・心なしか息を詰めているように見える。
 張り詰めた空気の中、池のまわりに青い光が灯る。
 ポツポツと、一つずつそこかしこに増えていくそれが、白かったはずの蕾であることにきづき、レティシアは息を呑む。
 一瞬のあと、風が草を撫でたかのように優しい音をたて、蒼い薔薇が花開く。
 自らが月であるかのように、静かに、それでいて艶やかに光り輝く蒼い薔薇が野原を埋めて行く。
 そして、数瞬のあと。
 シャリン、という澄んだ音がして、さらに蒼い光が辺りを満たす。
「月が天頂にかかった。・・・終幕だ」
 言外に見逃すなという響きを含ませ、ハデスは蒼い光を見やる。
 パリン、と。薄氷が割れるかのような音が響き渡る。
 次々と響くそれが何の音か分からず、レティシアは音のするたびに目をやるが、やはり分からない。
 やがてすぐ近くで音がして、・・・それが、薔薇の最期であることを悟る。
 亡骸を残さず、薔薇は次々と光となり、風となって消えて行く。
 泣きたくなるほどに、哀しく美しい、最期の輝き。
「薔薇の咲く日と、朔の日が一致したときにだけ見ることが出来る。・・・この薔薇は、本来は白い薔薇だが、朔の月の光を受けたときだけ、蒼く輝く。ここでしか、見ることは適わない」
 薔薇がすべて散り終えたのか、光も音も途絶え、当たりは月明かりに照らされるだけとなる。
 と、ガサガサと音がして、ずしり、とレティシアの背中が重くなる。
「ケルベロス・・・重いってば・・・」
 苦笑しながらレティシアはハデスにもたれ掛かって身体を支える。
 人間界の犬よりも遥かに大きいその体は、大きさからすれば重くはない。しかし、やはり人の子供並みには重いため、いきなり乗られるとハデスでさえ体勢を崩すといっていた。
「なかなか会えないからな。まあ我慢してやってくれ」
 やはり苦笑しながらレティシアを支え、ケルベロスの背を軽く叩くと、三つの首がそれぞれレティシアに挨拶してからようやく背を降り、改めてひざの上に一つの首が乗り、一つはハデスの手から好物の木の実を食べ、身体ともう一つの首はハデスの膝に乗って目を閉じる。
 最初は驚いたが、実はケルベロスは気に入ったものに対して無警戒になるらしく、また知能も高いせいか主に宴会での料理や酒を運んだレティシアが自分を怖がらないのを知って以来、まったく警戒心を見せなくなってしまったのだ。
 レティシアはというと、生来生き物が好きなうえにこの不思議な獣の毛並みはやはり手触りも不思議で、好きなだけ触ることが出来るのは、とてもうれしかったりもしている。
「ケルベロス。わたしも重いんだが」
 全体重をかけられた形のハデスが呟くと、ケルベロスは首をもたげる。しかし、軽くかしげると再び降ろし、また目を閉じる。
「お前なあ・・・」
 気に入った者が出来るとこの態度なのは毎度のことなのだが、実際に重いのは勘弁してもらいたいのがハデスの本音でもある。まあ、歯止めになっているし、かまわないと言えばかまわないのだが。
 月明かりは、密度を増している。それはもうすぐ、月が沈むということ。月が沈めば、アテナの結界が力を取り戻す。それからレティシアを返しに行ったのでは遅くなる。
「ケルベロス。・・・そろそろ時間だ」
 静かに呟くと、レティシアをそれぞれの首が一嘗めしてから体を起こし、去っていく。もうすぐ、冥府を満たす月の光が消える。再び闇に閉ざされたそのときには、地獄を抜け出そうとする魔物が暴れだす。ケルベロスはそれを威嚇するために地獄の門へと戻って行くのだろう。
 それを見送るレティシアを抱き寄せ、一瞬だけ唇を重ねて、そのまま立ち上がる。言葉など交わさぬに等しい短い逢瀬。その身体に触れたくとも触れてはならない、もどかしさ。そしてそれを内包する優しさと切なさに、レティシアの瞳から、涙が零れる。
「帰りたく・・・ない・・・」
 何かを噛み締めて、それでも耐え切れなくて、レティシアの声が零れおちる。
 ハデスが自分を抱き締める力を強くする。けれど、彼は言葉では応えない。
 冥府こそは彼の領地。彼の言葉は絶対だけれど、レティシアはアテナに属する者。冥府には帰属出来ない。今は、まだ。
「年が、明けて」
 片方の手が、レティシアの髪を撫でる。
「お前が故郷に戻ったら、迎えに行く」
 女神の怒りが恐ろしければ、私が守ろう。故郷の安寧も、約束しよう。だから、今だけ
 重なる唇は、涙の味がした。
 そして、涙の味と一瞬の目眩のあとに、レティシアは自分の小屋にいた。
 彼は自分を送り返すときに、けしてここまでくることはない。それは、分かっていた。けれど、レティシアの瞳から、涙が零れる。ほんの、一雫。
 それだけの涙で、自分を切り替える。
 誇り高きアテナの従者として、恋しさの涙など、見せてはならないから。

 



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