それは、夜も更けたころだった。
 月も星もない、闇の夜。
 動物も人も、そして神も眠りにつく、新月の夜

 人の訪れぬ深い山の中に、目立たぬように作られた小屋。そこはとても簡素な作りで、木の寝台に干し草を詰めたクッションのようなものが置いてあるだけだった。
 普段は誰もいないそこに、寝台に横たわる少女がいた。いや、女神アテナに仕える者なのだから、乙女というべきか。
 その乙女は辺境の、貧しい村の中で育った少女で、口減らしの意味も兼ねて自ら望み、女神に使える者として神殿に入った。
 その年の新年の祭りで女神の目に止まり、神殿に使える者ではなく狩りの従者として、女神その人に仕えることとなったのは数年前のこと。
 今、乙女がいる小屋は、女神が狩りに使う道具を管理するための小屋で、人が生活する場でもあるがために外には小さな畑や井戸も整えられていた。
 かさり、と音を立てて乙女が身じろぎ、目を開ける。小屋の中に明かりはないから何も見えないけれど、闇が集う気配がある。
 ああ、と乙女は微笑った。朔月の夜闇に満たされるこの日に、女神の結界で閉ざされたこの小屋に入って来る者など、一人しかいない・・・。
 だから起き上がり、明かりを点けて床に下りてひざまづく。
 ほぼ同時に集った闇は人の姿を取った。闇がそのまま凝ったかのような射干玉の髪、身につける黒い衣と溶け合うかのように背に揺れる。
「また気づかれたか・・・」
 ため息をつくかのような声は低く涼しげで、呆れた響きも含んでいた。
 そして自分の衣で乙女を包み込む。乙女の髪一筋を寝台に残し、二人の姿は闇へと消えた。

 自分を包み込んだ闇に、乙女は身を任せていた。恐れなどないし、何よりも抱き締められる感覚はとても心地よい。
 しばし後に衣が取り払われて解放され、乙女は回りを見る。
 幾度か来たことのある、泉だった。日の差さぬ地にありながら、新月の夜にだけ、月の光に満たされる異界の地。それは冥界の奥深く、冥王の神殿よりも深いところにある泉。・・・そんなところに空間をわたることが出来るものなど、一人しかいない。
 ようやく相手の名を呼べる場所に来た。その安堵で自分から相手を抱き締める。
「ハデスさま・・・」
 冥王ハデス。それが、乙女をこの場へ連れてきた男だった。その腕が、乙女を優しく掻き抱き、そっと唇を重ねる。
「レティシア・・・お前また体を・・・」
 重ねた唇が火照っているのは、想いというよりも体調を崩しているのだと、すぐに気づく。
 もともと、乙女レティシアは身体が強くない。女神の従者とし山野を駆け巡るようになったから随分と鍛えられたようだが、生来から弱いために、身体を壊しやすい。さすがに女神はそれを知っていて、雑用のないに等しい神殿外の小屋へと住わせている。
 レティシアの返答を待たずに軽く唇を重ねて抱き上げる。そしてほんの少し場所を移り、水辺から離れた場所へ少女を降ろし、自らもそのとなりに座る。
「神酒(ネクタル)の一杯や二杯、飲みたいところだ・・・」
 自分に寄りかかるレティシアの肩を抱き、そういって苦笑する。
 レティシアは、女神の従者であるというだけのただの人間であり、神酒を飲む資格はない。
 神酒を普通人が飲めばその身は神と等しくなり、魂の持つ力を神力として使うことが出来るようになる。
 しかしそれは許された者である場合に限られる。神の妻としての座を持つに至る者や、神として末席に連なる者、時には永遠の従属を誓う従者が、それを許されることもあるけれど、彼女は期間を定められた従者に過ぎない。神の身と等しくなるとはいえ、人の身体には寿命がある。そのために神酒は不思議な作用をし、人の身体の時はある一定の周期で若返るようになる。
 だからこそ、女神は少女を人間の世界へ返すということで、あえて人のまま置いてあるのだ。
 それはたぶん、女神の厚意なのだろう。そしてレティシア自身も、自分の村へいずれは帰り、そこで女神の神殿を祭るつもりでいた。
 けれど出会ってしまったのだ、冥府の王に。



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