納豆研究


[1] 大豆の歴史と納豆の関係

 古くは縄文時代まで遡る事ができる大豆の歴史。今回、納豆を調べるにあたって読んだ資料の中にも、大分県の横迫遺跡から大豆らしい種実が発掘されたと書いてありました。このことからも、日本における大豆の歴史は、今から二千七百年前頃がスタート時点だと考えて、まず間違いないです。となると、大豆なくしては語れない納豆製造の歴史も縄文時代に遡れるのだろうか?という疑問が浮かびます。
 大豆から納豆を作るのに必要な納豆菌は、枯葉菌の一種であるため、ワラや草木など、身の回りの至る所で発見できます。これが蒸した大豆に付着すれば、すさましい勢いで発酵して納豆になっていく訳だから、縄文人が納豆を作っていたかどうかの鍵を握るのは、大豆を蒸す製法が縄文時代にあったかどうか、という事につきると思います。
 御存知の通り、大豆を柔らかく蒸すためには、強い火力で長時間大豆を蒸してやらねばならない事情があるため、普通に考えれば、煮炊きには問題がなくても強度に不安が残る縄文土器でこれをやろうとすると、土器が壊れてしまうでしょう。従って、縄文時代に納豆があったとすれば、それは納豆を作ろうとして出来たものではなく、土器の中に放置したまま忘れ去られた煮豆が偶然発酵したものだと考られます。
 どのような偶然だったかをイメージすると、こんな感じだと思います。

(1)家族で煮豆を夕飯に食べたが、量が多くて少し残った。
(2)捨てるのは勿体無いので、土器にいれたまま堅穴式住居の中に放置しておく。
(3)家の中は炉によって適度に暖かく、日本列島は温暖多湿気候であることから湿度もある。
(4)翌日は別のものを食べたが、再び余ったので昨日の土器の上に重ねておいた。
(5)ある日、すっかり忘れていた土器を開けたら、ネバネバの糸引き納豆ができていた。

 なんとなくありえそうな話しでしょう? 偶然だったかもしれないですが、縄文時代に糸引き納豆があったことは確実のような気がします。ここまでくると、それでは縄文人は実際に納豆を食べていたのかどうかという問題にぶち当たりますが、それは記録がないのではっきりした事はわかっていません。ただ、私は好奇心旺盛な縄文人のこと、納豆を食べてみた確率は高いと思うのですが、みなさまはいかが?



[2] 弥生時代から続く唐納豆時代

 縄文時代を経て弥生時代になると、日本人が納豆を食べていた可能性が格段に高くなります。邪馬台国の女王卑弥呼が魏の都である洛陽へ使者を送った事からも解る通り、中国との交流が盛んになっていったからです。中国では、前漢の頃より「シ」と呼ばれる塩辛納豆が盛んに食べられていたため、珍しい海外食品として当然卑弥呼の食膳にものったと考えられます。
 記録によると、この「シ」という納豆は、秦の時代には既に調味糧として中国人の食卓に上がっていたようです。「シ」は糸引き納豆ではなく、麹菌を加えて発酵させたものになるので、同じ納豆でもネバネバしない納豆になります。麹菌を使った日本の納豆には、現在でも「浜納豆」や「大徳寺納豆」などがありますが、これらの元になったのが「唐納豆」、つまりは「シ」になるので、卑弥呼が食べたのと同じ納豆と言えば、麹菌を使った塩唐納豆ということになります。
 奈良時代に入ると、「シ」は盛んに作られ、平城京の都でも市販されていたようです。このことは、平城京遺跡から出土した木簡という荷札に「シ」について記載されたものがあり、文面を解読した結果明らかになりました。
 「シ」は古代から中世にかけて盛んに作られましたが、その製法はさまざまで、家によって作り方が異なりました。また手間と時間のかかるものであったため、寺で製造されたものが、俗家で製造されたものより、味も質も勝っているケースが多かったようです。僧侶達は、夏になると「シ」を仕込み、正月になると檀家への贈答品にしていました。納豆という名前は、このように寺の納所(台所)で作られたことに由来するといわれており、僧侶が作った唐の納豆(シ)だから「唐納豆」とか「寺納豆」などと呼ばれるようになったそうです。




[3] 納豆伝説から産まれた糸引き納豆

 平安時代後期の武将に、源義家(みなもとのよしいえ)という人がいます。彼は、頼義の長男で、前九年の役で父を助けて阿倍氏を討ち、後に陸奥守兼鎮守府将軍となって東国における源氏勢力を作った歴史上の猛者ですが、義家には「納豆伝説」なるものが語り継がれていると知っていますか?
 義家は、通称「八幡太郎」と呼ばれた人です。八幡太郎と聞いてピンと来た方もいるでしょう(笑)。はて? と思われた方にざっくり説明するなら、八幡太郎義家は、馬糧大豆の中から「納豆菌で発酵した大豆=いわゆる糸引き納豆」を発見し、兵糧に採用したとされる偉大な人なのです。
 義家が使った軍路を、食文化研究家の永山久夫氏は、その著書の中で「ナットウロード」と名付けています。ここでいう「ナットウロード」とは、義家が、奥州平定(前九年の役、後三年の役)の折りに北上したとされる東山道、奥州路の古道筋沿いの街を指し、具体的に言うと、丹波、近江、信濃、甲斐、武蔵、浦和、大田原、水戸、磐城、楢葉、相馬、白河、会津、米沢、仙台、岩出山、新庄、横手、平泉、秋田の各地になります。どの街も古くからの納豆産地で、様々な名物を作り上げてきた場所になっています。
 それでは、話を戻して、八幡太郎義家が、どのようにして納豆を兵糧に採用したのかを、前記の永山氏の著書『たべもの戦国史』を参考に、順を追って説明します。

 戦になくてはならない軍馬は、酷使されるために消耗が激しく、奈良時代以前から大豆や米などの栄養価の高い飼料を与えられてきました。馬糧の量は、騎馬で一日一頭あたり三升、駄馬でも二升という消費量になるため、兵士たちよりはるかに上等な食事を食べていた事になります。通常、馬糧に利用する大豆は、煮豆したものを日干し、ワラを編んだ豆俵にして運んでいました。しかし、緊急事態が起きた場合は、煮豆を日干しする時間がとれず、豆が煮上がった所で煮汁を捨て、煮豆を俵にそのまま詰める事もしばし行われていたのです。俵のワラに付着していた納豆菌は、その熱い熱によって覚醒し、煮豆が適度に冷えた頃を見計らうように猛烈に繁殖し始めます。多くの場合、馬糧の豆俵は積み重ねて運ぶため、中の熱はなかなか下がらず、煮豆は一日〜二日で糸引き納豆へ変化します。
 ある時、八幡太郎義家は、馬糧の豆俵を兵士たちが捨てているのを目撃します。兵士たちは、糸引き納豆に変化した煮豆を、腐っているものと思い、捨てていました。八幡太郎義家は、捨てられた糸引き納豆を拾い上げて口にした所、充分食べられる食料である事に気がつきました。この時より、八幡太郎義家は、糸引き納豆を兵糧に採用することにしたのです。

 以上が、ざっくり語る納豆伝説。しかし、食べられるかどうかもわからない糸引き納豆を口にした八幡太郎義家の勇気には脱帽しますよね。はっきり言って、糸引き納豆は、見た目も臭いも強烈なので、食べられると知っているからこそ口にできる食べ物だと思うのですが‥‥‥(笑)。



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作成:2000年7月
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