雪が見たい…それも、せっせと雪かきでもしないと、雪の重みで屋根が落ちそうなくらいのをだ。そう思ったとき、私は既に一軒のあばら家を借り、まもなく住民票も移していた。
九州で育った私には、その土地の気候は、いささか厳しいものがあった。だが、そこでの生活は未知なる刺激というものが溢れており、私を飽きさせなかった。
その刺激は生活そのものの変化によるものではなく、見ている風景が変わったせいかもしれない。真冬ともなれば、どこもかしこも嫌というほど雪だらけであり、そして、延々と同じ風景が続いているのである。
これは雪の無い日に見ることのできる、人の手で彩られた景色とは大きく違う。雪という自然現象が、人工物で溢れかえる街並みを、白一色に覆い、私の目に天然めいたものとして捉えさせるのだ。
そんな土地での生活にも、だいぶ慣れた頃。その日は、雪がちらちらと降っていた。私は傘もささずに、雪を楽しみながら、繁華街をぶらぶら歩きまわっていた。
「(今晩辺りには、大雪にでもなるのだろうか)」
雪は昨晩から降りつづけていた。期待に躍る心を抑えながら歩いていると、ふと、道端にいかにもな裏通りをみつけた。
この町に住むようになって以来、私はこの繁華街を、時間を潰すのにもってこいとばかりに歩きまわってきた。しかし、このような裏道は一度も見たことが無い。
それだけに、私はこの裏道のことが気にかかった。
「(こういうのも、悪くは無い)」
そう思い、入ろうとして、ふと思いなおし、立ち止まった。何というのであろうか、このように知らない道に入るということは、とにかく気恥ずかしくて堪らない。
私は2〜3度ほど辺りを見渡し、他人が自分を観察していないかどうか確かめたあと、好奇心にまかせ、その道へと足を踏み入れていった。
長い一本道が続いた。ひょっとすると、隣町まで続いているのではないかと思うほどの長さだった。しだいに道も狭くなり、私の心にも不安が募りはじめる。もうそろそろ引き返そうと思ったときだった。
『あなたの日常を占います』
そんな垂れ幕の下げられた机が脇にあるのに気づき、ふと振り返る。すると、怪しげなネコ…いや、ネコとしか形容のしようがない口をした、小学校高学年から中学生くらいの少女がそこに腰掛けていた。
「あの…えっと…」
少女は自信無さげに胸のあたりで指をつっつきながら、ちらちらとこちらを見ていた。
「……」
普通は「どうしたのか?」と声をかけるのであろうが、私は生来の不器用らしい。ただ黙って、一向にさばけない少女の顔を、不機嫌に眺めているばかりであった。
「……」
「……」
長い沈黙が続いたように思えた。
「…あの」
「ふむ?」
「何か、喋ってくださらないと、困りますー」
少女は既に半泣きであった。これが表通りでの出来事ではなくて良かったと思う。
大の大人が、半泣きのあどけない少女を目の前に、どうして良いものかと、ただ苦笑しているのだ。これほど見るに堪えないことは、あるまい。
「あぁ、君は何か…あー、私に何か用でもあるのかね?」
私がやっと口に出した言葉らしい言葉の一発目が、これであった。この言葉にはさすがに少女は気を悪くしたらしく、
「もういいです…」
少女はうなだれると、「はぁ…」とため息をつくのであった。普段の私ならば、気にもとめなかったかもしれないが、今はなんとなくこの少女に興味があった。
「ほぉ、随分とお悩みのようだね」
「そうなんですっ、もうお客さんが来なくなってから、かれこれ10年以上が経ちました」
私はフフッと笑った。少女の大げさな表現も表現だったが、それよりも、こんなことなのかと呆れた。
「こんな狭く入り組んだ場所じゃぁ、客も来ないだろう」
至極当然のことだ。入ることでさえ拒まれるような通りに、露店を構える人間が、果たして、世界にどの程度居るだろうか。はなっから客を拒んでいるとしか、思えない。
「このビルが悪いんですっ! あぁ、毎日こんな忌まわしいビルの傍で、一日中座りっぱなしかと思うと、救われません」
そして、少女は立ちあがったかと思うと…
「えいっ、えいっ」
ビルの壁を必死に蹴っていた。その様があまりに滑稽であったので、私は面白半分に眺めていた。
「はぁっ、はぁっ」
疲れたのか、少女はその場にへたり込んでしまう。少女の着ている服はいかにも重そうで、先程の運動はかなりこたえたに違いない。
しかし、面白いではないか。こんな面白い出会いは、そうそう起こるものではない。私は執筆欲が湧いてくるのを感じた。
「もう、気は済んだかね?」
「あ、はい…」
私が半分笑いながら尋ねると、少女は恥ずかしそうにしながら、元の椅子に腰掛けた。
「さて、私はそろそろ行くかな…」
私は、このインスピレーションが冷めないうちに、はやく稼業に取りかかりたかった。
「待ってください!」
だが、少女はそれを許さないらしい…。まぁ良いだろう…この少女と居れば、もっと面白いことが起こるような気がする。
「あぁ、悪い…私は客だったね」
そう言ってやると、少女の顔はぱっとはなやいだ。
「そうです、昔懐かしのお客さんですっ! だから、まだ帰ったりなんてしないでくださいっ」
少女は強気だ。この強気が、なんとも言えぬ滑稽さを作り出しているのだ。まさに理想的な人材と言えよう。
「じゃ、はじめますから、そっちの椅子に、どうぞ腰掛けてください」
今までどこにあったのやら、パイプ式の、古くさい椅子が目の前にあった。私は言われるがままにその椅子に腰掛け、少女とまっすぐに対峙する。
「あなたの日常、占います。私の目をじっと見ていてくださいね…」
少女の瞳は、澄んでいて、綺麗だった。割と可愛い方に入るのかもしれない。
「にゃ」
が、少女の猫声と共に、瞳も、猫の目に…
「うわぁぁぁ」
私が叫んだときには、既に風景が変わっていた。
「さ、着きましたよ」
傍らに少女が立っており、私はすぐに少女の瞳を確かめる。
「もう、目は見なくていいですよ…」
少女の瞳は、もとの綺麗な瞳だった。先程の猫目は、気のせいだったのだろうか…。
「ささ、周りを見渡してみてください」
未だに少女の顔をじろじろと観察している私に対し、少女は頬を赤らめながら、注意した。いい加減、私も顔を上げ、言われた通りに周りを見渡してみると…
「おぉ…」
一面が雪景色であった。それもかなり深い。
「どうです、これがあなたの望んでいた風景ではありませんか?」
「だが、何も無い」
どちらかというと、砂漠に近い。一面が雪だけで何も無い。
「それは、あなたの心が虚無だからです」
私は少女の言葉が理解できずに、自身の雪に埋まった足を見る。
「それに、こんなに雪が深いんじゃ、足が雪の中に嵌って、うまく身動きが取れないじゃないか」
「身動きが取れないのは、あなたの心が何かにがんじがらめにされているからです。
ほら、見てください。私なんて、自由に動き回れますよ」
少女はちょこちょこと私の周りと歩きまわり、薄い足跡を雪の上に残した。
「なんてことだ…。それより、私は寒い。こんなに雪が冷たいのでは、凍死してしまう」
少女は悲しそうな瞳でこちらを見た。
「それはあなたの心の寂しさを表しています…。お寂しいのですね…」
そして、少女と同じ目線にまで雪に埋まっている、私の頬に手を当てるのであった。少女の手は暖かかった。思いがけず、身体中がぽ〜っと熱くなってくる。だが、騙されてはいけない。
「ばかなっ、雪が深ければ足が埋まるのも、雪が冷たいのも、全て当たり前のことだっ! 大人をからかうんじゃないっ!」
私はそのまま、少女の細い身体をがしっと掴む。
「あぁっ」
少女は怯えて逃げようとするが、もう遅い。私は体勢を安定させるべく、少女を羽交い締めにしようとする。
「いやっ、やめてぇ、そんなところ、触らないで…!」
体勢を整える際、少女の身体にだいぶ触れてしまったようだが、そんなのはお構いなしだ。
「いいか、私はこんな風景を望んでいたわけじゃない。さぁ、はやく元の場所に戻すんだっ! たっぷりとお仕置きをしてやる!」
「いや、いや、あぁ、助けてぇ…」
「馬鹿なっ、こんなところで助けを請うたところで、誰が来るものかっ!」
そのとき、私の両肩を、誰かががっしと掴んだ。そしてみるみるうちに、私は地面に押さえつけられ、身動きが取れなくなった。
「な、なんだっ」
地面から見る風景は、どことなく見覚えがあった。
「ここは…」
いつもの商店街だった。
「ほら、起きろ」
無理矢理起こされる。目の前に真四角な建物がある。
「交番のど真ん前で、少女に悪戯し、挙句、誘拐しようたぁ、ふてぇ野郎だ」
後ろでそういう声が聞こえた。私を掴まえているのは、どうやら、警官らしい。しかし、なぜここは交番の前なのか…。私は確かに裏道に入り、そして雪の中に居たはずだ…。様々な疑問が湧いてくる。
「ま、待ってください、それはあの娘が…」
なんとか弁明しようと、私は少女を目で探す。
「ふぇ〜、ふぇ〜、怖かったよぅ、犯されるかと思ったよぅ〜」
居た。他の警官に泣きついて、とんでもないことを言っている。
もはや取りつく島もない、そんな言葉が、私には似合っていた。何を言っても信じてはもらえまい…。
今夜は待ちに待った大雪…。だが、雪はもうたくさんだった。
(終)
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