月が欲しいと彼女は泣いた

 

       四 路地裏にて

 

 街は昨日の晩より降り続いた雪で、ささやかな雪化粧をしていた。今でも、柔らかなぼた雪が、聞き取れないほどの音を立てながら、地面に積もっては消えていた。美袋がふらふらと路を歩いていると、路地裏にて中学生とおぼしき黒い学生服の少年と、灰色の仔猫を見た。少し様子がおかしかった。仔猫は怯えていた。

 近頃、猫を虐待して、殺している不届きな輩が居るという。ボウガンのボルトに貫かれた猫の映像を見たことがある。美袋はその学生服の少年を力いっぱい殴り飛ばした。少年は「痛て!」という声を撥し、振り返り、こちらを頭から足先までおどおどとした眼で見ると、舌打ちをし、ぶつぶつと呪いの言葉を吐きながら、去っていった。もしも彼が集団で居たら、逆に美袋が袋叩きにされていたかも知れなかったし、また、仕返しが無いとも限らない。しかし、相手は大人しそうで、いかにも優等生という風だった。ストレスのせいで、魔が差したのだろう。特に仕返しが出来るとは思えない。

 仔猫は、灰色の毛をしおらせ、弱っていた。やせ細っていた。介抱してやった。飼い猫ではなかった。野良猫である。ノミが酷かったが、薬を使わずに、手で一匹一匹丁寧に取ってやった。一応獣医にも見せたが、特にこれといって問題は無かった。

 なぜ、たかが野良猫にここまでしてやったのか。登紀子を失った傷はかなり深く、誰かに愛情の押し売りをせずには居られなかったのだ。

 野良猫は一週間ほどで元気になった。そしていつの間にか居なくなった。笹身ばかりでは躰に悪いだろうと、キャットフードを買ってきた、その日のことだった。

 仔猫の眠っていたダンボールを前に、美袋はただただ呆然としていた。

 

 

 美袋は、既に、夢と現実の区別がつかなくなっていた。街を歩いていても、水の中を歩いているような、奇妙な錯覚に陥る。空気は冷たく、鋭いはずなのに、新鮮な空気を吸っても、一向に頭が冴えることは無い。

《なんだ、呆けてしまってはしょうがないと言っていたのに、俺はすっかり呆けてしまったではないか…。昨日今日の記憶がハッキリしない…。それに、何だ。ちっとも真っ直ぐ歩くことが出来ないではないか。あぁ、俺の人生は終わったも同然なのだろうか》

 美袋は、かつて登紀子が訓戒を垂れた、あの一円玉の件を思い出していた。

 こんな状況にあってすら、美袋の思考力は衰えることは無かったのだ。いつでも自分に客観的評価を下すことができる。

 美袋はまた、ふらふらと路地をさまよ彷徨い歩いていた。

 ふと、ビルとビルの僅かな隙間…路とは呼べぬ細い裏みち径が眼についた。怪しげな雰囲気である。美袋はどうしても、そこを通ってみたくなった。

 こういった道は独特の引力を持っているように思われる。小さな隙間に入ってみたい。譬えば、天井板が落ちかけて、少し天井裏が見えるとしよう。その先がどうしても気になって眠れないようなことが無いだろうか。

 何か得体の知れないものに突き動かされるように、美袋は歩いた。暫く歩くと、行き止まりになった。そこには、人が居た。

「こんにちは」

 一人の年端も行かない少女が正面に向かうように座っていた。十二支十干の書かれた丸い図、ペンタグラムや、陰と陽の太極図などが、彼女の机の上に置いてあった。彼女自身も、オリエンタルな格好をしていて、道教の坊さんを思わせた。

 美袋が何をしているのかかと問うと、うらない卜を営んでいるという返事が返ってきた。こんなところで客が来るわけはない。きっと頭の弱い子なのだろう。きっとどこかの施設に預けられていて、時々抜け出してはこんなことをしているのかもしれないと解釈し、美袋は不憫に思った。

「久しぶりのお客さんですから、無料でサービスしますよ。そうですね、貴方の心でも卜って差し上げます」

 心を卜うなんて、変な話だ…と、美袋は思いつつも、興味があったので、頼んでみた。たとい妙な事が起こっても、この少女が相手なら、なんとかなると思ったのだ。美袋は頷いた。

「あはっ。では、そこの椅子に座ってください。私の眼をしっかり見てください」

 少女は本当に嬉しそうに満面の笑みを湛えて、美袋を腰掛けさせた。そして、じゃらじゃらと卜の道具を弄ったりして、最後に美袋の眼をじっと見つめた。その時である。

「うにゃ!」

 一瞬、少女の眼が鋭くなり、瞳が金色の縦長になったように見えた……と思った瞬間、周囲が眼も眩むばかりに真っ白になってしまう。美袋の心臓が飛び出さんばかりになったのは、言うまでも無い。

 

 ……ここはどこだろうか。白い地面だが、雪ではない。砂と岩石のようだ。辺りは余りにも広漠としている。一体何百km続いているのだろうか、はっきりとした地平線が見える。どうやら、ここには大気が無いようだ。先ほどから耳が強烈に痛い。あまりの静寂によるものだろうか。美袋はそんな荒涼とした場所で、ぽつんと椅子に座しているのだ。

「ここは、貴方の心を顕した、空間です」

 少女が、いつの間にか、隣に立っていた。美袋は慌てて少女の眼を確認したが、つぶらな瞳が二つきらきら輝いているだけだった。

《さっきの眼は…? 見間違いだったか…、まぁいい。そんなことよりも、今居るこの場所の方が問題だ。まるで月面のようだが、地球は見当たらないし、そもそも星が見えない…》

 その時、地平線の彼方から、眩しい光線が降り注いだ。

《太陽か? やはりここは月面だったのか? 待て、莫迦げている、落ち着いて考えよう。大気の無い月面で、どうして生身の人間が平然として居られるのだ?!》

 しかし、太陽とおぼしき光線は、どんどんた高くなって、美袋を照らした。

《あぁ、太陽の光線が眩しい。これでは太陽の放射線にやられてしまう!! 何か、何か身を護るものは無いだろうか?!》

 しかし、辺りは広漠としているばかりで、身を隠すことの出来る場所すら無かった。強いて挙げるならば、今美袋自身が座しているこの椅子だけだ。

「それは、貴方の心が荒んでいて、そして剥き出しだからです。そして、太陽は貴方自身。火の鳥の炎は自らを焼いてしまうのです。可哀相に、今までひさし庇となって貴方を守っていたものは、今はもうこの世に無い…」

 少女はまるで自分のことであるかのように、胸に両手を当て、哀しそうに俯いた。

「さぁ、まだです。まだ、ご自分を見つめてください。こんな荒涼とした空間でも、きっと必ず、何か庇があるはずです。ご自分の庇を、見つけ出してください」

 美袋は、少女の言うことが理解出来なかったが、しかしこのまま黙って座っていても、事態は何も解決しないように思えたので、美袋は立ち上がった。と、その瞬間、美袋は世界がぐるりと廻転したような気がした。美袋は地面に足を取られていたのだ。

《これは砂だ! 硬い地面では無かったわけだ。だめだ、埋もれてしまう…。このままでは、呼吸ができなくなる》

 助けてくれの一言も言えないままに、美袋は頭までみるみる砂に埋もれてしまった。

 美袋の助けを求める手が虚しく砂から出ていた。それに、手が差し伸べられた。華奢で白い手。少女の手だった。

「掴まってください。私が、助け出してあげます。私が、庇になってあげます…」

 美袋は、少女の手をしっかりと掴んだ。少女の手は驚くほど暖かかった。美袋の手が冷たかったせいかもしれない。美袋は、子供の頃、雪遊びをした後に、石油ストーブに手をかざしたことを連想していた。じんじんと電気のような感触が走った。そして、少女の手に力が入り、ぐっと引き上げられるような感じがした。そうすると、今まで美袋の眼に映っていたものは嘘のように消えてしまった。元の径に戻ってきていた。美袋はまるで震える子供のようだった。いつまでも少女の手を離すことが出来なかった。少女は歳に似合わぬ慈愛に満ちた顔で、美袋を抱いていた。

 

 美袋はいつしか、少女の許へ通うようになっていた。少女の心は暖かく、温もりに満ちていた。明るく健気で、まったく慾というものが無い。そして、眼は慈愛に満ち満ちていた。少女は登紀子を失った悲しみを癒してくれた。まだ幼いこの少女を、美袋は愛するようになっていた。まさか抱くことは出来なかったが、それ以上の快楽を美袋は享受していた。この少女無しでは生きられない。美袋はそう思うようになった。

 

 

 暫く経ってから、美袋は、自身の躰の失調に気づいた。覇気が無いのは、登紀子を失って以来、いつものことだったが、それとは何か違う。何やら、熱病のように突然高熱を出したりするのだ。医者に見てもらってもさっぱり異常が無い。恐らく精神的なものではないかという意見もあったが、美袋は納得が行かなかった。即ち、原因不明なのだ。

 何件目かの医院から帰宅する際、美袋は、山伏のような格好をした男と出会った。不思議と、辺りは霧がかかったかのように真っ白で、他に人は見当たらなかった。降っていたはずの雪も、止んでいた。

「おや、そこのお前さん。そう、お前さんだよ。だいぶ当てられとるのぁ」

 当てられる? 一体どういうことなのだろうか。

「『瘴気』に、じゃよ。ふぉ、ふぉ、ふぉ…。」

 瘴気とは、自然などにある、熱病の原因となる悪気のことである。妖怪のようなものからも、瘴気は発せられており、人がそれを浴びると、死んでしまうこともある。それが一体美袋にとってどういった意味を持っているのかは解らなかったが、奇病にかかってしまったかのような状態にある美袋にとって、気にならない訳がなかった。

「この短刀を持っていなされ。よくないものを断ち切って、お前さんの身を守ってくれる」

 美袋は短刀を受け取り、それを見た。だいぶ年季の入ったもののようだった。柄の部分は所々黒ずんでいた。顔を上げると、山伏の男はもう何処にも見当たらなかった。周りは雑踏で溢れ返っていたし、雪もしんしんと降っていた。

 こうした現象は世界各地で実に数多く報告されている。謎の人物(大概、宗教的な格好で現れるようだ)が、ある人に特別な意味のある物品を授けて(或いは、預けて)いくのだ。ここにある問題は、謎の人物が存在する/しないの如何では無く、その物品を与えられた本人の経験の奇妙さこそに、問題は起因する。経験は必ず理窟に勝る。

 

 歩きながら、美袋は山伏の言葉を何度も思い返していた。あまりに悩みながら歩いていたため、どういう道順を辿ったのかは解らないが、いつの間にか、少女の処まで来ていた。美袋はいつものように、椅子に腰掛け、少女と向き合った。この時にも『瘴気』という言葉が、美袋を支配していた。美袋は少女にその事を相談してみた。途端に少女の顔には陰りが見え始めたが、決心したように立ち上がり、美袋の前に対峙した。美袋もつられて立ち上がった。少女は机にもたれると 足をちょんと揃え、カクリと身体を斜めにして、上目遣いで美袋を見上げるようにした。そして口づけを求めてきたのだ。

 その時、美袋のバッグから、ぽとりと人形が落ちた。登紀子の血と髪の毛を縫いこんだ、人形…。持ってきたはずは無い。大切な形見である、枕許に大事に飾っていたはずだ。しかし、美袋はこのことについての思考を深めることは出来なかった。なぜなら、それを見た少女の様子が、途端に急変したからである。

 少女は苦しみ悶えながら、美袋に助けを求めるかのように、すがりついた。しかし、美袋は悲鳴をあげた。少女の瞳は金色で、蛇のように縦長になり、まず人間のそれではなかったのだ。

 正体、見たり。美袋は無我夢中で件の短刀を抜くと、少女の眉間に突き立てた。

「ひぇー!」

 少女は血飛沫を上げながら、その場に倒れた。鮮血が雪を朱く染めた。美袋は振り返らずに走って逃げた。走り去る途中、ずっと少女の悲鳴が耳にこだましていた。

《早く消えてくれ、早く消えてくれ…》

 

 翌日、同じ場所に来てみると、灰色の仔猫の死骸が転がっているだけだった。机も椅子も、卜の道具も、そこには無かった。仔猫の死骸を転がしてみると、眉間には短刀がしっかりと突き刺さっていた。灰色の毛には、茶色く乾いた血痕がびっしりと附いていた。

 美袋は絶叫した。

 

 猫は一般に怨恨の深い動物と云われている。よく祟りの原因として列挙される。気ままで自由な彼らにとって、人の根底にある社会的、或いは封建的な性質は合わないのだろうか。しかし、一度見初めた相手が居ると、なんとかして得ようと試みるかも知れない。

 猫は歳を経ると霊力を得るというが、この猫はまだ未熟だったらしい。年端もいかない少女の姿で現れたのは、霊力の低さからだったと推察できる。日本に古くから伝わる妖怪や物の怪の類は、霊力が高ければ高いほど、歳を経た姿をしており、極まったものになれば、老人の姿をしているものである。

 そうすると、いじらしいものである。そのいじらしい相手を一刀のもとに刺し殺したのである。美袋はとんでもない業を作ってしまった。

 

 美袋は逃げるように走り去った。

《俺はどうかしていたのだろうか。いや、たしかにあれは現実だったような気がする。しかし、おかしいではないか。まさか、そんな猫がだぞ。あり得るはずがない。どうした、俺は狂ってしまったのか? あぁ、あぁ、そうかもしれないぞ。登紀子が死んでから、ろくに食事も摂っていないし、ついに脳がやられたのかもしれん。精神的に落ち込んでいるところに、ビタミンが足りなくて、脳が物理的におかしくなってしまったのだ。熱だって出したじゃないか。だから、あんな幻覚を見たんだ。リアルな幻覚を見たんだ。そうだ、幻覚だ! 幻覚なんだよ!!》

 自宅に帰り着くと、美袋は水を求めた。そして、水を飲むと、そのまま気絶してしまった。