七天使

 

 この地方には独特の伝説がある。尤も、伝説とは言い切れないかもしれない。何しろ実際に起こっていたのだから。
 ――十五歳の誕生日を迎えた子供の許に、なないろの親指ほどの小さな小さな天使達が舞い降りてくることがある。もちろんこれは総ての子供にというわけではない。文献によれば古くは延暦年間に一人、後は天長年間に一人、貞観年間に二人という工合に、偶然なのかそれとも運命なのかは解らないが、およそ三十年に一人くらいの確率ということになる。数字はともかくとして、天使が降りてくるだけでも幸運なことだった。昔はまだ天使と呼ばれてはおらず、妖怪の一種として考えられていおり、『ちんちろさん』など呼び方もまちまちであった。
 天使という言葉で呼ばれるようになったのは天保十四年のことである。神仏分離令により廃仏毀釈が進む折、国学者でもあったある武家の嗣子が元服を迎えた。残念ながら家名は判明していないのだが、彼の名は小楠といった。熱心な国学者であった父の意向で、小楠は道に並んでいた七体の地蔵の頸を一刀のもとに刎ねた。その時小楠は七つの光を見、そして声を聞いたというのである。その声は確かに天使と言った。それ以来小楠の心の中には天使が宿った。小楠は出家し、あらゆる村々で破壊された地蔵達を寺の中に引き取った。小楠はさらに基督教をも受け容れ、信仰に別け隔てなどは必要ないと訴えた。そんな小楠は神道からも、仏門から破門され、基督教信者からは異端視された。それでも小楠は最期の時まで幸福に生きることが出来た。それは偏に天使の力によるものだという。
 天使達は舞い降りてくると、選ばれた子供と共に二週間を過ごす。そして二週間を過ぎると、神様がその子供に一番合った天使を守護天使として付けてくれるのだ。しかし、二週間経っても付けてくれないこともあった。それはその人にふさわしい天使がいない、と神様が判断したときである。天使達はみな天界へ還ってしまうのだ。そうした場合には、その子供は生涯、苦行僧のような努力をしても、何をしても決して報われることがないという。そのため二週間が過ぎた後、天使の姿が見えないことを知るやいなや、ショックのあまり自殺した者も少なくはなかった。
 逆に守護天使が付いた人の場合、努力は必ず実り、あらゆる試練で成功を収め、そして幸福な家庭を築くことができるといわれていた。

        *

 その日も、いつも通りの気怠い日曜日のはずだった。三郎にとって休日とは何か好きなことをする日ではなく、一週間分の疲労を取るための日に過ぎない。蓄積した睡眠不足を精算するために、昼過ぎになって起きる。昼食を食べ終えると、図書館へ出掛けて自習をする。睡眠時間が長いだけで、結局は平日と何一つやることは変わらない。
 図書館から出ると、もう辺りはすっかり暗くなっていた。まだまだ寒さは厳しくなっていく。しあわせそうなアベックが三郎の脇を追い越していった。よく見たらクラスメートじゃないか。誰だったかは思い出せないが――そもそもクラスメートの誰ともほとんど会話をしたことがない。ちっとも寒そうに見えない二人に対し、三郎は分厚いコートを着てそれでも尚猫背になってガタガタと震えている。息は霧を吹くように白い。冷たいのは果たして空気なのか、それとも――。三郎は空を見上げた。悲しくもないのに、涙が出てきた。きっと寒さのせいだ――三郎は思った。そういえば今日は誕生日だった。今日で三郎も十五になる。幼い頃は愉しい誕生日だったが、今では……。
 涙をぬぐってから眼を開けると、信じられない光景が眼に入ってきた。
 親指くらいの大きさの七つの人形が、三郎の眼の前でぐるぐる、ぐるぐる廻っているのだ。
 天使……か?
 突然のことに呆然とつぶやく三郎に、紫色の天使が応えて言った。
「違うな、我々はまだ天使じゃない。見習いみたいなものさ」
 赤い色の天使が付け足す。
「あなたとの試練に合格すれば、わたしたちのうちの誰かが、本当の天使になれるの」
 桃色の天使が微笑む。
「君を守護する天使にね」
 天使達は虹のように見えた。
 七色の天使達はそれぞれに性格が異なっていた。青い服を着たのが意地っ張りのフルフル、水色が泣き虫のウルウル、緑色がくいしん坊で太っちょのファイファイ、黄色がひょうきんなアイアイ、桃色が優しいほほえみのフワフワ、紫色が議論好きのエルエル、それに赤い服を着たのがおしゃまで紅一点のランランだった。
 誰にも見つからずに部屋まで戻ろうと思ったが、母親に見つかった。母親は三郎の周りに舞っているものが天使であることに気づくと大層喜んだ。
「やれやれ、困ったな。僕は受験勉強の最中なんだけれども」
「何言ってるんだい、お前。天使様が降りてきたんだよ。受験なんて、天使様が付けば受かるに決まってるじゃないか、しっかりしなさい」
 母親の押しつけがましい言葉が、三郎の癪に障った。これまで見たいものも見ず、やりたいこともせず、行きたいところへも行かず、黙って一人閉じこもってきたのは一体何んの為だったのだ。
「試練は天使の力を調べるためにあるんじゃない。僕の実力がどの程度かを知るためにあるんだ。僕は自力で志望校に受かってみせる」
 三郎は母親と口論し合ったが、結局まとまらないまま、床に就いた。寝る前、アイアイが三郎を笑わせようと必死になっていたが、三郎はそれに一瞥をくれただけで、無視して眠った。

 翌日、学校では周囲の好奇な眼が三郎を取り囲んだ。しかし、誰一人として三郎に近づく者はいなかった。遠くからじろじろと三郎を見ては、ひそひそ友達と話すと、くすくす笑うだけだった。
 担任の教師が入ってくると、今日は臨時の全校集会だ、その代わり一限目は無しだ、と言った。やったという声と共に教室がどよめいた。集会は案の定天使のこと、三郎のことについてであった。三郎は壇上に上がってスピーチをすることになった。文面は担任があらかじめ用意していてくれた。それを読み上げると、やる気の無い拍手が返ってきた。
 集会が終わると、担任から教員室へ来るように言われた。そこでたらい廻しのように一人一人の教師から訓話を聞かされた。三郎は何も聞いてはいなかった。
 一刻も早く家に帰りたかった。終業のベルと同時に立ち上がった。今日は塾もいいだろう、酷く疲れた。少し仮眠しよう。校門を通り過ぎる時、突然一人の男子生徒が掴みかかってきた。
「どうしてお前なんだ!」
 この男子生徒に見覚えはない――いや、どうだろう。とにかく一度だって口を利いたことは無かったはずだ。
「おい、どうして黙ってるんだ。答えろ」
 しかし三郎が黙っていると、男子生徒は脱力して三郎を放した。
「俺の方が――成績だってトップなのに」
 ああ、思い出した。三郎はせいぜいがんばっても五教科四八五点が精一杯だった。欄を埋めた部分は全て正解しているのだが、いつも時間が足りないのだ。蓄積した疲れと睡眠不足のせいかもしれない。白い答案用紙を見ると、不思議と眠気に襲われるのだ。それに較べてクラスメートはいつも満点か一問間違いだけだった。しかも三郎と違ってスポーツも出来て、確かバスケ部の主将をやっているんじゃなかったか。他の部からも誘いが多くて、いくつか兼部しているそうだ。――そういえば、この男じゃなかったろうか、天使達が現れる直前、女の子と腕を組んで歩いていたのは。一体――一体これ以上何が欲しいというのだろう。
 三郎がふらふら歩き出すと、何んなんだあいつは、という声が背中から聞こえた。三郎は角を曲がった。
 家に帰ると、話を聞きつけた親戚中が押し掛けてきていた。そして口々に『しっかりやれ』だとか『一族の運命はお前の肩にかかっている』などと好き勝手なことを言った。三郎はうんざりしながらも、家にはこんなにも親戚がいたのかと内心苦笑していた。
 三郎が不快な態度を示していると、やがて親戚の口振りは変化し『何か欲しいものはないか?』とか『百科事典を買ってやろう』などと言い出すようになった。三郎が成功したあかつきには、おこぼれに与かろうというのである。
 三郎はそんな親戚連中を相手にもせず、机に向かった。
「そんなにガリガリやって、君は一体何んになろうというのかね」
 この紫の天使は心を読むことが出来る! 三郎は腹立ちと戦慄を覚えた。
「心を読んでいるんじゃない。君は独り言をしているのさ。それに、本当はそれを聞いて欲しいんだろ?」
 聞いてやっているとでも言わんばかりだ。なら、聞かせてやろう。何んだって努力することは大事だ。そうやって立派な人間になっていくのだ。それが親孝行にもなるだろう。遊んでたって何んにもなれない。さあ、何か文句はあるかい?
「そんなものは偽善だ。君はもっと自分の為に生きていい。そうすることで、君は他人を幸福に出来る。全ての人間にはその力が与えられているのだ。どうしてそれを隠そうとするんだ」
 天使らしからぬ発言だな。僕の方がよっぽど天使に向いている。
「君はあくまで一人の人間だ、天使になんてなれない」
 エルエル、お前だって天使にはなれそうもないな。
「そう、僕らだって天使になれるのはほんの一握りだ。なれなかった時は悪魔になるか、それとも人として生まれ変わるか……」
 お前には悪魔がお似合いだよ、と三郎は夜食に手を延ばした。しかし用意していた夜食はいつの間にかファイファイが平らげてしまっていた。ふざけるな。
「も う 寝 た 方 が い い と 思 う け ど な」
 フワフワがあんまりふわふわとした口調で言うので、三郎は苛立ちよりもあきれかえった。こいつらは時間感覚が狂っている。光陰矢の如し、時は金なり、多くの人間が時間に追われて苦しんでいるというのに、まったくいいご身分だ。
 エルエルはまたしても勝手に心を読んで説教を加えてきた。
「時間は有限だと思うから有限なんだ。それは実業家だけでいい。君は違う。無限だと思えば、大いなる主は君の為に幾らでもお与え賜うだろう」
 途端に宗教臭くなってきた。まぁ、大層ありがたいお言葉で。僕は普通に、真っ直ぐ生きることにするよ。ねじけた人生なんてまっぴらだ。
「君はフルフルと同じくらい意地っ張りだな。悩んだっていいし、迷ったっていいんだ。そうじゃないとゴールへはたどり着けない。悪いことは言わない、時間を惜しむな。幾らだって無駄にしても、誰も君を責めたりなんてしない」
「もう、放っといてくれ!」
 三郎がダンッと机を叩くと、堰を切ったようにウルウルが泣き出した。三郎はいたたまれなくなって、ベッドに潜り込んだ。他の天使達がウルウルを慰めている声が聞こえた。

 一週間が過ぎたところで、予告もなしに神様が降りてきた。そして、ほとんどの天使達を連れて還っていってしまったのだった。残ったのは、泣き虫のウルウル、意地っ張りのフルフル、優しいほほえみのフワフワ、それにおしゃまな紅一点のランランだけだった。
 ウルウルとランランは淋しさの余り抱き合って泣き、フワフワはそれを優しく慰め、フルフルは泣くものかと腕を組んでいた。
 三郎も、一週間を彼らと過ごしているうちに情が移っていたのか、内心では泣きたい気持ちだった。しかし、決してそれを表には出さなかった。
「口うるさいエルエルの奴がいなくなって、せいせいしたな」
 物事の核心を衝くエルエルは、確かに三郎にとって煙たい存在だった。今まで眼を背けてきたものを三郎の眼の前に突きつけてきたのだ。エルエルは三郎に悩みと惑いとを与えたのだ。受験という一つの人生の岐路にあって、天使達は三郎の全てを掻き回していった。今はそんなことをしている段ではないのに。早く忘れて、勉強に身を入れねば。
 しかし二日、三日と経つうちに、三郎はエルエルのいないことが心に大きな穴を空けていることに気づいた。強烈な虚しさのせいで、勉強にも身が入らなかった。結局何もせずにぼんやりと過ごしただけだった。気が付くと、天使の姿が足りなかった。ウルウルがいないのだ。三郎は押入の中や、箪笥の引き出しを調べたりしたが、どこにも見つからなかった。
 そしてさらに二日が過ぎるとフルフルがいなくなり、三日が過ぎるとフワフワまでいなくなった。ついに残る天使はランランだけ、残る期日も最後の一日となった。
 残る天使と、消えてしまう天使の選別はどこで付けられているのだろう――三郎は気になったので尋いてみた。ランランは少し悲しそうに微笑んで答えた。
「天使がいなくなるのは――『自分は必要ない』と思った時なの。きっとあなたは、わたしを必要としてくれると思うから……」
 そうだったのか。
 三郎は最後の一日をランランの為に過ごそう、と思った。受験勉強なんて一体何んの意味があるだろう。人や、こんなにけなげな天使達を苦しめるために存在するのだろうか。
 ランランの髪の毛を綺麗に編み、寒くないように人形から外した小さなニット帽と小さなセーターを着せてやった。ランランは嬉しそうに鏡の前でくるくる廻った。
 通り行く人達が好奇の目で三郎とランランのことを見た。三郎は恥ずかしさなんて全く感じなかった。それよりも、身体の芯から何か言葉で言い表せないほどの暖かいものが流れてくるのを感じた。
 ――これはきっと、デートというものなんだろうな。こんなにいい物なんだ。
 三郎はランランを連れて公園や街を歩き回った。ランランは喜んで色々なものに興味を示し、色々なことを三郎に尋いた。
 まだランランはこの世の何も知らなかったのだ。他の天使達にも、ちゃんと世の中を見せてやりたかった、と三郎は思った。
 ――でも一体僕は何を知っているだろうか。実は何も知らないんじゃないか……。
「あ、雪だ……」
 誰かが声を上げたことで気づいた。
「ほら、ランラン、これが雪だ」
 ランランの喜ぶ顔が見たかった。しかし、雪のせいだろうか、ランランが一瞬かすんで見えた。三郎は慌てて眼をこすったが、直らない。
 よく見るとランランはぽろぽろと粒のような涙を零していた。
「ランラン……?」
 ランランは何も言わずにゆっくりと三郎の顔に近づくと、唇にそっと触れ、霧のように消えてしまった。

 ついに全ての天使がいなくなった。いなくなった子供には破滅が訪れるのみ――伝説ではそう伝えられている。母親はそれを苦に自殺してしまった。三郎には、なぜ母が自殺までせねばならないのかが理解できなかった。父親は三郎を恨めしく思っていたが、この年齢の息子を見放すこともできずにいた。
 三郎も受験を失敗し、かろうじて自由度の高い私立校に入ることができたのみだった。そして十八になったとき、父親から家を逐われた。――これは伝説の通りである。試練に敗れた全ての子供達は十八までの間に必ず放逐されているのだ。
 三郎のルンペン生活がはじまった。浮浪者達と共に寝起きしたのだが、何しろ若かったためにアウト・ローの連中から拾われ、麻薬の密売や偽ブランド品の密輸といったきわどい仕事に手を染めていった。しかし、三郎は元々真面目で誠実なこともあり、なるべくならそうした仕事からは早く足を洗ってしまいたいと思っていた。そこで、それらを仕切っている男に相談してみたところ、ホストクラブのオーナーを紹介された。
 今度は五十歳くらいでのひどい猫背な上に香水臭い婦人を相手に、半分ヒモのような生活をはじめた。アウト・ローよりも、こちらの方が三郎にとってはずっとマシだと思えた。この時、父親に手紙を書いた。三郎は父親を憎んではいたが、それよりも憐れみの方が強かったのだ。三郎の失敗によって自殺した母親は、父親にとっては愛する妻だった。あの仕事一辺倒の父親が、妻もなしに今頃どうしているのかと思うと、胸が締め付けられた。それは今自分がヒモ生活を送っているせいかもしれなかった。
 手紙の返事は帰ってこなかった。
 五年経ったある日のこと、今度は父親の訃報が入ってきた。寂しかったのか、色々とショックだったのか、ある日ポックリと逝ってしまったそうだ。急性の心臓麻痺だった。
 結果的に、両親の死は三郎にとっては好機となった。それは両親が遺した遺産であった。それに、まだ五十半ばの父親からは多額の保険金が入った。父親は遺書も残していた。その日付は三郎が書いた手紙が着いたその日だった。
 借金やローンも相当にあったが、家も土地も売り払ってしまうと、それなりの金額が残った。三郎はそれを元手に事業を始めたのである。
 三郎はまるであの伝説と、そこから生まれた悪評をあざ笑うかのように成功に成功を重ねた。三郎のことを知るものは皆『あの三郎が!』と噂しあった。噂はやがて大きくなっていき、しまいには全国の新聞にも載るほどであった。見出しは『天使よりも大きな幸運を持つ男』だった。一地方のほんのささやかな伝説が、日本全国あまねく知られるようになった。偉い評論家の中には『三郎は特別だったのだ』という者がいれば、『三郎の問題ではない。時代が変わったのだ』という者もいた。
 三郎には数々の縁談が舞い込んできた。しかし、三郎は頑なにそれを拒んだ。生涯を独身で過ごし、事業を発展させ、余暇を知識と教養のために費やすつもりでいた。そのためには、妻も子供も足かせになると思っていたのだ。三郎はニーチェをよく読んだ。
 ――いいさ、俺は独りで生きるために生まれてきたんだ。
 ところが、ある女が突然三郎に付きまとうようになった。澄んだ瞳と綺麗に編んだ髪が印象的な、まったく垢抜けない――ほとんど少女と言ってもいい女だった。三郎がどんなに冷たくあしらおうとも、決して離れようとはしなかった。話しを聞いてみれば、女には身寄りがなかった。大方捨て児か何かで、施設から出てきたのだろう。
 三郎は女を煙たがった。今更どうして愛のある生き方なんて出来るだろうか。それに、辛い時期を一緒に乗り越えてきた相手ならともかく、全てが安定してからやってくるなんて虫が良すぎる。三郎は女に向かって「俺の為なら何んでもするか?」と尋いた。女は『はい』と答えた。三郎は女を風俗に売った。
 それでも献身的に尽くそうとする女が不気味に思えた。三郎はよりエスカレートさせていった。女はどんな相手だろうが構わず身を開く娼婦となった。
 そのうち女は身ごもった。誰の子か解らない。――少なくとも三郎の子供ではない。女が恐ろしく不潔な物のような気がして、指一本とて触れてはいないのだ。もちろん堕胎させようとした。しかし女は拒んだ。三郎は女を殴った――はじめて女に触れた。しかしそれでも頑なに拒んだ。流産させようとしてさんざん痛めつけたが、女は大事にお腹を庇った。
 女は寝床で出産した。初産であることもあって難産を極めたが、母子共に無事であった。驚いたことに、赤ん坊は六つ児だった。ふと、三郎はあの天使達のことを連想した。
 さらに数年が過ぎ、子供達の個性が見えてくるとそれは確乎たるものになった。ひょうきん者、泣き虫、頭でっかち、意地っ張り、優しいほほえみ、くいしん坊で太っちょ。間違いなく、この子供達はあの天使達の生まれ変わりに違いなかった。しかし、六つ児となると、あと一人足りない。最後まで自分の傍にいてくれたランランは――と、その時三郎はの頭の中に閃光が走った。
 三郎が慌てて妻を振り返ると、彼女は全てを肯定するかのように穏やかに微笑んだ。

 しかし三郎が感じたのは、ただ、ただ、不気味さだけだった。身をすり減らし、痩せて、それでも精一杯の笑顔で応じる女のやつれた顔を見ると、吐き気すら催してしまう。何が天使だ。何がランランだ。そんなものは全て妄想だ。気のせいだ。あの頃の事は全て夢だった。悪夢だった。俺は見棄てられたのだ。――三郎はさらに過酷な商売をさせた。その頃には女は原因不明の失血性の病に冒されていた。
 女が倒れた時、三郎は無理矢理療養所に押し込めてしまった。
 その間に六人の子供達を全て殺し、挽肉にし、腸詰めにした。それを定期的に療養所に送った。あいつが戻ってきて、食べた肉のことを話したらどんな顔をするだろうか――三郎はそのことばかりを考えて日々を過ごしていたが、女が戻ってくることは無かった。女は高熱によって死んでしまった。送った腸詰め肉は全て枕許のきれいな縁取りのされた箱の中にしまってあって、口は付けられていなかった。三郎は苛立って、死んだ女の口に無理矢理腸詰め肉を押し込んだ。葬儀も行わず、女の死体は燃やした。遺骨は動物墓地に埋めた。
 刑事達が三郎の周りをうろつくようになった。どうせ戸籍すらない子供達だ、殺したことはばれないだろう。近所の人間にも眼に付かないようにしていたし、カネもたんまりと握らせてある。
 しかし、実は刑事ではなく、地検特捜部の人間だった。彼らが調べているのは殺人事件なのではなく、不正、汚職、贈賄。……三郎の築き上げてきたものは、危機にさらされていてた。尤も三郎にとってそんなものは、もうどうでもよくなっていた。カネは充分にある、今更何を必要とするというのだ。三郎は国会での喚問で素直に容疑を認め、全ての罪を自分の身に引き受け、会長職を辞任した。ただ辞任するだけでなく、数多くの汚職政治家を叩き潰した。
 その姿勢が却って人々からは受け容れられた。人々は口々に『さすがは三郎だ、ひと味違う』と讃えた。しかし捜査は長引いた。三郎ならば保釈を要求すれば承認されるはずであるのに、三郎は保釈金も払わずに、長い勾留を受けた。これも人々を驚かせた。カネは充分にあるはずなのに。カネの力になんて頼らない――昔はアウト・ローでカネを稼いだこともあった――三郎としては、その精算の意味も含めているつもりだった。しかし、殺した女と子供達のことは心の端にすら思い出すことは無かった。三郎はそれが罪だとは一度たりとも思わなかった。
 二年間を刑務所で過ごし、三郎はすっきりとした頭と気持ちで出所した。もうすっかり罪は精算してしまった気持ちになった。カネは一人では使い切れないほどにある。これからはあらゆる人々の為に生きよう――。
 まず発展途上国を訪れると、貧困地域を自らの足で歩き、他のボランティアと一緒に泥まみれになって働いた。病院を築いては疫病の人を自ら手厚く看護し、学校が無ければ学校を築き、図書館が無ければ図書館を築いた(しかし本だけは現地の人々の力で集めさせた)。戦争が起これば食べ物と医薬品を持って配り、反戦のプラカードを掲げて先頭を歩いた。地震や災害が起これば食べ物と毛布を持って自分は震えて飢えに苦しんでも復興の為に歩き回った。
 三郎はあらゆる地域で尊敬を集め、何度も表彰を受けた。いつの間にか、三郎は人々から <エンジェル> と呼ばれるようになった。もはや三郎の名は世界的であり、ノーベル平和賞は間違いないだろうとささやかれた。
 しかし物事はいつまでも巧くはいかない。いつものように反戦プラカードを掲げて行進している三郎目掛けて、刃が突き立てられた。『三郎 <エンジェル> 、麻薬中毒者の凶刃に斃れる』――一部始終を目撃していた記者は大急ぎで見出しをメモした。彼の許には大勢の人が駆け寄った。三郎は必死に喋ろうとしたが、誰も彼のいまわの言葉を聞いた者はいなかった。なぜなら、三郎を殺した男が『奴は卑劣な殺人鬼だ、俺は知っている! 俺がミンチにしたのだ。俺はそれで肉屋を辞めたんだ』と大声で叫んでいたからだ。もちろん誰も取り合わなかった。三郎だけが、ただその言葉を耳に刻み付けた。
 三郎の死は全ての人々から惜しまれた。――まるで世界に亀裂が入ったようだった。彼を記念してコインが鋳造され、博愛精神の鑑として教科書に採り挙げられた。ダライ・ラマやローマ法王までもが三郎について語った。

 ――神は三郎をどう裁いて良いか解らなかった。天使達を三郎の傍に生まれ変わらせたのは、ほんの些細な哀れみからだった。ところが三郎はまるで悪魔を討つように個人的な感情を全て踏みつけ、その代わり博愛の精神を貫き通したのである。あの人間は善なのか悪なのか――それとも、あれは復讐だったのか――。彼から恩を受けた人々の想念は強力で、奈落へ墜とすわけにはいかない。果たして、自分のやったことは間違いだったのだろうか……。可哀想な天使達、あの子達の魂は亡者となって地の底を彷徨い歩いている――ただ一人の愛を求めて。もう、天使達を人間の子供の許へ修行に出すのはやめよう。その溜息は雨雲に変わり、地上に憂鬱な雨をもたらした。
                                     《了》


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