三郎の死体が発見されたのは七月二十八日一六時五分のことであった。その日は快晴で最高気温は三十六度にも達した。三郎の部屋は西向きで、閉め切った部屋には強烈な西日が差し込み、室温は優に四十度を超えていた。その中で、三郎の死体はトレーナーを纏い、毛布にくるまっていたのだ。
第一発見者は大家の川崎よしゑ。家賃が引き落とされていないので、様子を見に来たのである。大家の住居は死体発見現場のアパートの向かいにある。ドアを開けると、蒲団の中に誰かが横たわっているのが見えた。はじめ、よしゑは三郎が寝ているものと思った。しかし声を掛けてもまるで反応が無い。「上がりますよ」と声を掛けてからよしゑが恐る恐る蒲団の中をのぞき込むと、人形のように安らかに眠っている三郎の顔があった。しかしこの時点でよしゑは三郎が死んでいるかどうか解らなかった。よしゑは三郎の頬に触れてみたが、何しろ部屋の温度が温度なので冷たいわけでもない。ついで息をしているのかどうかを確かめる為に鼻の下に手をやったが、暑さのせいでこれまたよく解らない。よしゑはサウナの中にいるように汗だくである。その時やっと気づいた――眼の前の人間がまるで汗一つ掻いていないことを。これだけの暑さの中、蒲団にしっかりくるまって汗一つ掻かずにいられる人間がいるはずはない。よしゑはぞくっと背筋が寒くなるのを感じた。間違いなく、眼の前の人間は死んでいる!
警察も頭を抱えることになった。死因がまるで解らない。検屍が行われたが、全身どこを見ても傷痕は無く、まるで生きている人間のように肌は艶やかで、触るとマシュマロのように柔らかな弾力があった。死後硬直も見られないこの死体は一体何んなのか。すぐさま司法解剖に廻されたが、解剖医はこれほど健康な人間の内臓を見たことが無いというありさまで、異常を見つけるどころではなかった。心臓は停まっている。呼吸はしていない。内臓は機能していない。脳波も無い。しかしそれ以外のありとあらゆる意味で、この死体は生きているとしか言いようがないのだ。おまけに、異臭一つしない。あれだけ暑い部屋の中に放置されていたのに、まるで腐らないなんてことがあるものか。
警察は、ひとまず死因については忘れることにした。ではこの死体は一体いつ死んだのだろう。もちろん、それについて死体は一切沈黙したままである。腐敗してもいなければ、硬直してもいない身体が一体何を教えてくれるというのだ。どこかに凝血した箇所はないかと解剖医も血眼で探したが、死斑一つ見つからなかった。
そこで部屋にあったパソコンの履歴が調べられた。三月二十日までは毎日のように履歴が残ってたが、その日を境にパソコンは全く起動されていなかったようだ。警察は当然携帯電話も探したが、見つからない。窃盗の線も当たったが、三郎のパソコンを調べていた署員が携帯電話を持たない主義であることを突き止めた。ブログにそう書いてあったのである。彼のブログには、彼が死んでからも延べ三千人もの人々が訪れていた。コメント欄には『生きてるか?』『ついに管理人も事故死か』『拉致かもな』というトピックが奇妙な記号絵と共に並んでいた。三郎の最後の書き込みは三月二十日二〇時時一六分。日記もやはり三月二十日で止まっている。最後にパソコンの電源が落とされたのは二一時三二分のことである。
もし他殺であった場合、何者かがパソコンのスイッチを切った可能性があるために電源の落とされた時刻は信頼しないことにされた。ブログの書き込みは文章の癖から、恐らく本人で間違いないだろうという結論が出された。そこで警察は三月二十日の二〇時十五分頃から明け方までを死亡推定時刻、及び犯行推定時刻とした。
自殺の傾向が無いかということも調べられたが、普通の人と同じくらいの悩みを持っている程度で、とりわけ病的なわけでもなかったし、また自殺予告めいたものも何一つ見つからなかった。仕事は登録制の派遣型アルバイトで、好きなときに好きだけ働くことが出来、誰一人三郎が来ないことを怪しむ者はいなかった。
自殺でもない、病死でもない、殺された痕も無い。なら、どうして死体があるのだ。事件は迷宮入りの兆しを見せた。捜査は一切進展することなく、捜査本部は解散した。残った捜査は二人の刑事に一任された。一人は昔気質の無骨な中年の係長で、もう一人は今年の四月に刑事になったばかりの新人だった。
母親の相沢久子は学生結婚で、夫の泰志と結ばれた。ひらひらしたミニスカートからのぞく眩しいほどの太股で男子学生の視線を釘付けにした彼女も今や五十八である。夫も同じ年齢のはずだが、彼女は四月生まれで泰志は三月生まれのため、ほとんど一つ違いである。泰志との出会いは、学生運動の中であった。泰志は大学紛争の折には民青や革マルで外人ゲバルト部隊を率いて内ゲバをやらかした、いわゆる職業的活動家であった。もちろんそれは過去のことで、彼は安田講堂事件よりも前にその世界からは身をひいていた。直接の原因は久子との恋愛である。うまくカメラに写らないようにしていたため、就職先にも困ることはなく、この歳までずっと同じ会社でごく普通に働いてきた。ごく最近、赤旗を購読しはじめた。確実に襲ってくる老いが、彼に若かった日々を思い出すことを強いていた。
彼らは三郎が死んだことを聞いても、悲しまなかった。「そうか、やはり死んだか」とでも言わんばかりの態度なのだ。しかし三郎の死体がとにかく異常であるこを耳にすると、彼らの眼の色が変わった。途端にうきうきしたようになり、とても息子の死を告げられた親の態とは思えない。敏感な刑事達は皆それに気づいたが、しかし何んの証拠もなく、何日か後にそのことを忘れた。
やがて世界中のニュースやWEBサイトがこぞって三郎のことを採り上げ、掲示板やブログで話題になった。オカルティストやマッド・サイエンティストは喜んだが、その他の誰もが三郎の死体の謎に首をひねるばかりであった。特に困ったのがカトリック教会である。聖人の遺体は腐らないことを説いてきた教会としては、高名な神父や法王の死体が腐り、洗礼も受けていない日本の若僧の死体が腐らないというのは侮辱以外の何物でもない。すぐさま、悪魔の仕業であるという噂が流された。
「神への冒涜である!」
途端に三郎の死体は危険にさらされる。いくつかの急進的な団体が、三郎の死体を破壊しようと続々と日本に渡ってきた。警察は殺人犯の捜査よりも、死体を護るので精一杯だった。
葬式も終わったことだし、もう火葬に廻したい、と両親は申し出た。しかしいざ三郎の死体を焼こうとすると、どこから情報を嗅ぎつけたのか猛烈な反対運動が起き、火葬場では数百人の人々が座り込みを行った。結局火葬は中止となった。反対運動を起こしたうちの誰かが裁判所に訴えたらしく、三郎の死体は司法預かりとなり、判決が出るまで手を出すことが出来なくなったのだ。判決が出るまでには何ヶ月も掛かる。もしその間に三郎の死体が腐ってくれれば判決は火葬で決着が着いただろうが、そうはならなかった。
「きっと、あしたには腐るだろう」――いい加減このトラブルにうんざりしはじめていた両親や関係者はそう願ったが、一向に三郎の死体は黒ずむ様子さえなく、頬にはほんのりと紅を帯びている。このままこの死体は人類の歴史よりも、地球の歴史よりも長生きしそうである。
秋、冬と季節は移ろい、やがて春がやってきた。判決は三郎の死体を焼くことを禁じた。いつまた蘇生するか知れないこの健康的な死体を、人道上焼き殺すわけにはいかないのである。一部の人は喜び、一部の人は妬み、一部の人はまたうんざりした。
一人、眼をぎらつかせている人間がいる。この事件の捜査を担当した新人の刑事である。彼はある直感に襲われていた。――相沢三郎を殺したのは、彼の両親ではないか。あくまで直感であって、根拠ではない。しかし毎夜毎夜、三郎を彼の両親が殺している様子を夢に見るのだ。
もしも死体が死体然としていなければ、それは死体として見られないし、殺人としても捉えられないのかもしれない。確かに死体はあるのに、そもそも死体じゃないんだ。完全犯罪、ここに極まれり。
もうすぐ、捜査は完全に打ち切りになる。その前になんとしても証拠を得なければ!――彼はありったけの精魂を込め、上司に訴えた。彼には休暇が出された。捜査も打ち切りとなった。
あれからもう三十年も過ぎた。父親の泰志は随分前にアスベストによる中皮腫で死んだ。享年六十三歳。もちろん死体はすぐに腐った。赤旗は棺に入れて一緒に焼いた。そのせいか、普通よりも火葬に掛かる時間が早く済んだ。
夫の勤めていた会社から入った、莫大なアスベスト補償金のお蔭で、久子は今日まで何不自由なく過ごしてきた。彼女は夫の死に少しだけ感謝した。そのくらい二人の仲は冷め切っていたのである。せめて泰志が定年退職まで生きて語り合う時間があれば少しは仲直り出来たかもしれないが、死んでしまってはどうすることも出来ない。まして、今更他の男によって奪われようとは……。
一昨年の暮れのことである。久子の許には、奇妙な男が乗り込んできて「あんたは息子を殺したんだ」と叫んで暴れまわった。久子はその時に腰をしたたか打ちつけた。男はすぐに通りがかった人達によって取り押さえられた。久子は取り押さえた男の一人に見覚えがあったが、思い出せなかった。それはかつての新人刑事の上司であり、相方だった。警官が来て、いくつか事情を聞いていった。精神病院から逃げ出してきたのだという。特に久子は何かを答えることもなく、聴取は終わった。
「なあ、あんた。腰打ったんだろ、大丈夫かい?」
取り押さえた男の一人――かつて刑事だった男が久子に話し掛けてきた。遠くで見ていた時は体格のせいで中年ほどだろうと思ってたが、近くで見るとだいぶ歳である。七十過ぎだろうか。
「最近は危ない奴が多いんだ。俺は若い連中の考えていることはさっぱり解らんよ」
男は何かを思い出すように、遠くを見ながら言った。彼は罪を感じていた。それが久子の心に焼き付いた。男は三輪孝と名乗った。
翌日になって、打った腰が酷く痛みはじめた。電話で誰かに助けを求めようと受話器を取ってアドレス帳を出すと、ちょうど三輪のところが開いた。久子は吸い込まれるように電話番号を押していた。
それ以来、毎日とように久子と三輪は逢っている。三輪は三郎の死体騒動の時に妻を失くしていた。久子がだいぶ齢上になるが、久子は突然若返ったように年齢など微塵も感じさせなかった。むしろ近くで見れば三輪の方が老けて見えるほどである。老いは確かに二人の遅咲きの恋を妨げはしたが、二人とも老醜を怖れるタイプではなかった。最期までの僅かな時を静かに過ごすことの出来る喜びが、二人を包んでいた。
さて、三郎の死体が何かとびきり変わった、目新しいことをしてくれるだろう、と期待していた一部の人々は、時々思い出したように三郎を非難していた。しかしそれは全世界を巻き込むことはなく、ごく一部のオタクの声として虚しく響くだけだった。何しろ、三郎の死体の居所が誰にも解らなくなったのである。
三郎は宗教者ではなかったので祀られることこそ無かったが、その替わりしばしば博物館などに貸し出された。日本全国を展示巡業する際、福岡の会場で終了間際、何者かによって盗まれたのである。ビデオ監視はされておらず一時は責任問題にまで発展したが、問題はそこではない。誰が一体何んのために、そしてどのようにして盗んだか、という肝腎なことについて全く解らないままなのだ。死体というものはかなり重たいものである。担架に載せて運ぶにしても大の男が二人必要で、まだ客がいる時間帯にそんな目立つことが出来るだろうか。もしかして生き返ったのか? まさか死体が生き返るはずはない。恐らく、死体が歩いたのではないか――そんなことがまことしやかに囁かれた。
多額の懸賞金が三郎の死体に掛けられた。特集番組が組まれ、目撃情報が多数寄せられた。しかし、中国である芸術家が『生きた死体』という名のオブジェとして展覧会に出品していた、グーグル・マップスの衛星画像に写っていた、UFOにさらわれるのを見た、インドで苦行をしていたのを見た、大リーグで日本人プレーヤーを応援しているのを見た、というありさまで、てんで無茶苦茶だった。それは久々に全世界で盛り上がりを見せたが、あまり長続きはしなかった。やはり本体がいなければ人々は飽きてしまうものである。それ以降は相変わらず、一部の人達が忘れた頃に小言を言うだけだった。
三郎の死体が再び衆目にさらされたのは実に意外なところであった。昨年、阪神優勝のお祭り騒ぎの後、道頓堀に投げ込まれているのを発見されたのである。スポーツ新聞の一面を飾った。記録が掘り起こされ、三郎も熱心な阪神ファンであったことが広く知られた。しかし、世間ではもう大きく騒がれることは無かった。皆んな忘れてしまったのだ。ほとんどの人間は死体なんぞに構っていられない。今日を、そしてあすを生きなければならない。あすを心配しなくて済むのは、死んだ人間だけである。
――今日も、三郎の死体は眠り続けている。
《了》
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