彗星のごとく現れ、獅子のごとくヨーロッパを征したフランツはその頭に皇帝の冠を戴いても、未だに妻をめとろうとはしなかった。彼は既に結ばれるべき相手を心に固く決めている――という噂であった。
しかし同時に『偉大な獅子は 孤高の獅子じゃ 諸侯の領土も女心も踏みにじる』という風刺歌が街では流行っていた。自然に発生したものか、それとも何者かが良くない噂を広めようとしているのか……。
――その両方だった。特に、反皇帝の勢力の筆頭として見られているケスラーは皇帝フランツとその帝位を争い、敗れ、今や辺境の領地に追いやられてしまっている。ケスラーは凡人に過ぎぬ、しかし参謀エラスムスは稀有の人。その智は海よりも深いが、主人の影に隠れて、決して表に出ようとはしない。エラスムスの存在すら知らない者も多かった。主人にとってそれに勝るものは無い。生まれついての参謀である。そのエラスムスの導きに加え、ケスラーの天性は人の意見を善く聞き入れること。諸侯からの信頼は厚く、孤高の天才であるフランツよりも皇帝としての待望論があった。
そのケスラーは今日も邸でエラスムスとブランデーを傾けていた。他にやることも無いのだ。
「先月、ツヴァイク候が領土を没収されたと聞くが、本当だろうか」
「どうやら事実のようです。わたくしめ直属の部下も報告しております。ツヴァイク候といえば、古くからの名士。よもやそのツヴァイク候から領地を没収するとは……」
正気の沙汰とは思えない、というのだ。
「そうか、ひょっとして、次は儂ということは無いだろうか」
「さぁ、どうでございましょう。随分と疑心暗鬼のご様子ですからな」
「まったく。どうしてあいつが皇帝になって、儂が皇帝でないのだ。たまたまあいつが先に先帝を倒したというだけであって、儂の方が政治手腕だって、ずっとあるのだ」
「お言葉にお気をつけ下さい。誰が聞いておるやも知れませぬぞ」
「あぁ、危ない危ない。また言い間違ってしまったようだ。しかし、他の諸侯だって、気持ちは同じだろう。皇帝を……おっと、皇帝陛下を完全に支持しているのはランドルフだけだ」
「ランドルフ伯は老獪の将でございますが、皇帝陛下が帝位に就かれたのは、あのランドルフ伯の力あってでしょうな。しかも、人望があり、苛立つ諸侯を抑える、緩衝材のような役割を果たしております」
ケスラーは小声で問いかける。
「一つ、奴を引き離す方法は無いかな」
「絆は強固なれば、並大抵のことでは難しいでしょう。事実、ランドルフを失脚させんと、讒言を用いた将が、その場で処断される憂目を負っております」
「そうか……。しかも、今度はランドルフめ、娘を皇帝陛下に嫁がせるという話しではないか。血縁まで附いてしまっては、もう手の打ちようが無いな」
「まだ決まったわけではありませんぞ。単なる妾という噂もあります。どの道正式な発表までは時間がございましょう」
「妾でも充分だ。儂の娘も皇帝陛下に薦めたのに、まるで見向きもせなんだ」
ケスラーの娘は、性格も容貌も実に父親似だった。何も皇帝でなくとも、嫌がるだろう。そのことを知っていたエラスムスは暫し苦笑していたが、ケスラーのその言葉には頭に閃くものがあった。
「おお、そうだ。いい策を思いつきましたぞ」
「ほう、策だと?」
「皇帝陛下の側近の一人にミュンツァーという男がおります。憲兵総監をやっており、そこそこ頭は回るようですが、強慾で、ライバルを悉く蹴落としております。差し詰め、讒言の巧みな奸臣といったところですな。近頃宮廷に善き人材集まらぬ理由はこれだと、もっぱらの噂でございます。そやつを利用するのです」
「一体どう利用するというのだ?」
「それは結果をご覧あそばせば、お解りになります。是非、わたくしめに御一任を」
取り敢えず、エラスムスは方々に向けてランドルフに二心有りと触れて回った。勿論これしきの噂など、皇帝の耳に入ったところで、どうなるものというわけではない。しかしエラスムスはもっと大きな企みを持っていた。
エラスムスは早速憲兵総監のミュンツァーへ向けて密使を送った。もちろん、危険なことは手紙には残さない。ケスラーほどともなれば別だが、エラスムスやミュンツァー程度の人間であれば、手紙や密使を用いるよりもまだ自らが動いた方が安全だった。いや、知名度の低いエラスムスだからこそ為し得たのかもしれない。エラスムスとミュンツァーは下層の人間の集まる薄汚い場末の酒場で落ち合った。二人とも庶民のなりをし、もちろん会話は誰にも聞かれないようにする。
「――ふーむ。陛下とその娘の間にはそのようなことが……。しかし、先ほどの件は真で御座いましょうな」
「先ほど?」
「爵位と領地の件でございますよ」
「ふ、その事か。卿が、手抜かり無く行えば篤く遇することになるであろう」
「何か、証書のようなものがあれば安心出来るのですが」
「何を言うのだ。卿はケスラー様のお言葉を信じることが出来ぬと言うのか」
「いえ、決してそのようなことは……」
「ならば、手抜かり無くやることだ。我らの理想は信賞必罰。卿が功労者となれば、名誉も資産も与えぬわけにはいかぬのだ」
「そうですか。では、万事お任せくださいませ」
(莫迦めっ。誰がお前のような奴を生かしておくものか。事が済んだら、混乱に乗じて消すまでのことよ)
アンネは一人の男性を忘れることが出来なかった。五年前、うちに半年間逗留なさっていた旅の将校さん、あれは確かにフランツだった。今の皇帝陛下で間違いないはず。その陛下のお嫁さんになれるなんて、私はなんて仕合せ者なんでしょう。
あの時、フランツ皇帝はまだ一人の名も無きの将校に過ぎなかった。諸国を巡る旅の途中で足を悪くし、数ヶ月間は安静にしていないと歩けなくなるほどの怪我をしてしまった。そこを通りがかったのが、オペラの帰りランドルフ伯とその一人娘アンネであり、フランツは運良く二人の馬車に拾われたのである。そして、フランツはランドルフの邸宅で半年もの時をアンネと共に過ごしたのだ。いつしか二人の間には淡い恋心が芽生えていた。
フランツは一つの忘れ物をしていった。一振りの短剣。柄の部分に小さく三日月の模様が彫られていた。フランツの去った後、アンネは暇さえあればそれを眺めながら、ため息ばかりついているのだった。
ランドルフといえば鬼神とさえ呼ばれるほどの戦場の猛者であり、男女の恋など解りそうもないものだが、彼ほどそれをよく理解していた者はいないだろう。男やもめの悲しさもあったかもしれない。母の愛を知らない娘、せめて愛する男性と一緒にしてやりたい、そうした気持ちがあったので、娘の変化にはすぐに気が付いた。
ランドルフはフランツの才能と人間を見抜いた上で、二人にお互いへの気持ちを確かめた。確認されると尚のこと人はその気持ちを意識するものである。アンネはより一層フランツへ想いを募らせ、フランツはアンネに想いを寄せた。
フランツはアンネへの想いを糧にして、皇帝までの道のりを一気に歩んだのである。恐るべき意志の力。しかし、それは決して二人にとって幸福なものとはならなかったかもしれない。恋はいつの世も、ひっそりと行うのが正しい。フランツはあまりに性急に、あまりに高い位置まで昇り詰めてしまった。
フランツ皇帝はまだ心若く人心の掌握が出来ない状況。ランドルフは娘アンネに是非とも皇帝の心を和ませて欲しいと頼んだ。ランドルフには事態は急を要するということが解っていた。事もあろうにツヴァイク候の領土をお取り上げになるとは。その場で命令をお下しになってしまったので、ランドルフにも止める暇が無かった。フランツは気が立っているのだ。もちろん気の抜けない時ではあるが、幾ら何んでもあれでは敵でない者まで敵に回してしまう。まして御座なりと讒言とを用いるミュンツァーを信用するなどとは一体何んということだろう。
本来ならば婚姻の儀を執り行ってから娘と会わせるはずだったが、この混乱の中では婚姻など行えるはずもない。諸侯は誰もがフランツの命を狙っている。この混乱を解消するためには、何よりもフランツが心を落ち着け、味方と敵とを正しく見極めることが大事だ。
そこでランドルフには一つの案を思いついた(尤も、先に言い出したのは娘アンネだったが)。家にとっても娘にとっても屈辱的なことではあるが、アンネを妾のように先に王宮へ預けてフランツの不安と惑いを取り除かせ(つまり閨房の中で誰が信頼出来て、誰が信頼出来ぬかをよく言い聞かせるのだ)、国内が落ち着いた頃合いを見計らって婚礼を行うのだ。
「皇帝陛下は少し不器用なところがあらせられるから、周りから誤解を受けたりすることもあるのでしょう。ですが、あの御方は純粋で、大変お優しい方なのです。大丈夫ですわ」
そう言って、アンネは王宮へと旅立った。
フランツは思い悩んでいた。皇帝の座を追い求めていた時には何も怖い物など無かった。それがいざ皇帝の冠を頭上に戴いた途端、周囲が怖い物だらけだということに気が付いたのだ。一体誰が敵で、味方なのか。ランドルフも――近頃は妙な噂を聞くが、そんなことは大したことではない。しかしあの説教臭い爺め、余がこうして皇帝となった途端に急に偉そうにしやがって。余は奴の傀儡になどなりはしない――そういえば、今晩はアンネが王宮に来るんだったか。ほとんど内密に、晩餐にも参加せずに閨で余を待つそうじゃないか。そんな話しはこれまでに聞いたことがない。これは何かの謀略ではないのか。しかし、アンネは決してそのような女性ではない。きっとこれは何か……
「……いか、皇帝陛下」
フランツははっと顔を上げた。見ると、目の前で憲兵総監のミュンツァーが恭しくお辞儀をしていた。
「ふむ。何んだ、申してみい」
「は、ご無礼をお赦しくださいませ。どうしてもお耳に入れておきたいことがございましたもので」
「ほう、一体何んだ」
「はっ。わたくしめ直属の部下が手に入れました情報によりますと、今夜陛下のお命を狙おうという不届きな計画を耳にしたと……」
「何んだと!」
*
一方、アンネは閨房でフランツが来るのを今か今かと待ち焦がれていた。憧れの男性への想いが、やっと成就するのだ。あのひとへ身を捧げることを何度願ったことだろう――考えただけで胸が高鳴ってくる。
ほら、足音が聞こえる。もうすぐ、もうすぐ……。
「あぁ、陛下…?」
アンネは、呆気に取られた。てっきりフランツが入って来るものと思っていたが、周りには白刃を構えた憲兵達が揃っていた。後ろには憲兵総監のミュンツァーと皇帝フランツが立っている。
「アンネ・ランドルフだな。叛逆の容疑で逮捕する」
ミュンツァーの鈍い声が室に響き渡る。ああ、王妃となるべき者に対して何んたる無礼な言葉。
「い、一体、何んのことですか? あなたたちこそ、この部屋には陛下と、定められた者以外は何人たりとも入れないはずです」
「陛下のお命の危うい場合は別だ。お前が陛下を亡き者にしようとしていることは既に明白。さあ、大人しくこちらへ来てもらおうか」
「そんなっ、嘘です。私はそんな恐ろしいことは……」
周囲の憲兵達の眼は、まるで死んだ魚のように白く、冷たい。その中で皇帝フランツだけが人の眼をしている。怖れ、脅え、迷う人の眼である。自然、アンネの眼はフランツへとすがりつく。
「へ、陛下。お、お調べていただければ、きっとお解りいただけるかと」
その時、ミュンツァーはにやりと笑った。
「ならば調べてやろう。おいっ」
と、顎で指示すると、憲兵達はアンネの持ち物を調べだした。すぐさま一人の憲兵がアンネの衣服の袖に、堅いものを見つけた。
「こ、こんなものを隠し持っていました!」
その手にあったのは一振りの短剣――。
「なんとっ!」
皇帝の驚きようは尋常ではなかった。信じていた女が、自分の命を奪おうとしていたとは……。まして、こんな可憐な娘が……。それよりも、ランドルフだ。ランドルフが裏切るなどとは、夢にも思わなかった。いやしかし、それも今日この日の謀叛の為に執っていた芝居やも知れぬ。――とすると、噂は本当だったのか……。
「あぁ、それは……違うのです」
「何が違うのか!」
全てに対する幻滅で心が溢れていた皇帝は思わず叫んでしまった。その短剣が五年前自分の失くしたものであるということを、思い出すことはなかった。何しろ、皇帝はそれと同じ短剣をあと二つ持っていたのだ。本来三つでひと揃いなのだが、一つは五年前の旅の時に失くし、さらにそのうち一つが今朝になって突然無くなった。ミュンツァーがあらあじめ盗んでおいたのである。もし、あの頃の事を僅かでも思い出すことが出来たなら……。
「ひっ。あぁ、お願いです。信じてくださいませ」
アンネは必死に弁明しようとしたが、フランツから一喝されたショックによって吃りのようになってしまい、ままならなかった。ほんの一言、五年前逗留なさった時の忘れ物だと言えば済むのに、殺されるかもしれないという恐怖が頭を真っ白にしていた。身体中ががくがくと震えて、衣擦れの音が響いた。
「むぅ…」
「陛下、これは叛逆罪に値しますぞ。叛逆の意思有りと発覚次第、その場で斬り捨てるという法律になっております。ご命令を!」
「しかし、余にはそのようなこと、できぬ」
「ならば、わたくしが致しましょう。斬れ!」
(ま、待て……)
皇帝がその言葉を口にし終わる前に、憲兵は白刃を振り下ろしていた。
悲鳴すら無い。無残にもアンネの頚は斬り落とされてしまった。彼女が夢にまで見た憧れの男性、そして、彼女を世界で最も愛していたであろう男の目の前で、である。斬り落とされた頸が、フランツをすがるように見ている。
「おぉ、なんということじゃ……」
皇帝は呆然と立っていた。顔面蒼白である。
「陛下。少しお顔のお色が悪いようですな。後はわたくしめにお任せになって、陛下は御自室でお休みになっては?」
「――そうだな。そうしよう……」
皇帝は力無く、とぼとぼと室を出て行った。
「ミュンツァーは巧くやったようですぞ。皇軍がランドルフ領を取り囲んでおるそうです。ランドルフは娘を殺されたと知って、徹底抗戦に出る模様ですから、間もなく戦端が開かれることでしょう。これで皇帝めは完全に孤立いたしました」
ケスラーが立ち上がる。
「そうか。では、そろそろ諸侯に号令するとしようか。しかし例の娘は惜しいことをしたな。可憐で大層美しいと聞き及んでいたが」
「いえ、これも帝国万民の為でございますれば、多少の犠牲はやむを得ません」
「むぅ、しかしのぉ。どうせなら、儂の手許に置きたかったものだ」
「閣下はいずれ帝位に就かれ、何者をも意のままに出来るようになります。美人ならば、それから探せば宜しいではありませぬか」
「それもそうじゃな」
フランツは自刃し、ケスラーは皇帝の座にまんまと就いた。皇帝となった後のケスラーはよく臣下の意見を採り上げ、これまでにないほどの善政を敷いた。
後の人々は、ケスラーのことを聖人として崇め、善き為政者の手本として後世まで語り継いだ。一方フランツは暴君として、名前から悪辣な意味の諺まで作られてしまうという始末だった。人の意見を聞き分けることができるかということは、時として、個々人の能力や人格よりも重視されるものである。
ところでフランツ皇帝は恩人ランドルフを殺した後、実際には叛乱軍と一戦もすることなく自刃したという。ランドルフの邸を攻め落とした直後だったという、兵士の証言もある。自刃に用いたのは柄の部分に月の模様の彫られた短剣だったとか。もしかすると柄の部分にある小さな模様の違いに気づいたのかもしれない。月と星と太陽と、三つの短剣はそれぞれ模様が違った。あの時、柄の模様を調べる余裕があったなら……。
《了》
|