すごく・いいもの
「ねえ、お願いしますよ。本当に気分悪くて出らんないんですから」
受話器からわざとらしい掠れ声が聞こえてくる。前に同じ理由でシフト入れ替えをしてから、お前さんが派手な男と一緒にいるのを街で見掛けたという目撃証言はあがっているんだ。まあしかし、休みたいと言っている人間を無理に駆り出すわけにもいかない。それにさっきから客が待っているような気がする。別にカウンターをこづいているわけではないのだが、カウンターの近くを行ったり来たりしているのは、電話で忙しいこちらに気を遣ってのことだろう。
冬場というものはなぜだか人手が少ない上に、この店自体の収益も下り坂になっているらしく、かつては一日当たりの総売上が六十万以上、来客のべ千人以上だったのが、今ではその半分程度になっている――と、オーナーがぼやいていた。確かに、入荷の絶対量も減っていて夜勤も随分楽だ。せいぜい雑誌の入荷が腰にくる程度。楽なら楽で一人でいいじゃないかということで、今夜は私一人っきゃいない。尤も一人の方が給料も少しは勉強してくれる。普段はお国が定めた最低賃金ピッタリに深夜手当を加えたものなのだが、一人の時なら時間当たり百円をおまけしてくれる。大の大人が百円ごときで一喜一憂するのである。まあその分、私一人でレジ係と掃除係と入荷係とさらに電話番までしなければならない。とてもじゃないが同時並行は無理だから、早いとここの芝居臭い電話を終わらせて、小売店の本分であるレジ業に戻りたい。私は身体を気遣う言葉を二三言述べると、相手の返事を待たずに切ってしまった。私は電話が嫌いだ。一人しかいない時に限ってよく掛かってくる。お客から作業を中断させられるのはまだいい。それは仕事のうちだからだ。しかし、よく解らない電話にまで作業を中断させられていたんでは、やるせない。
お客は電話が終わったことに気づいたようだが、すぐにこちらへやってくるというわけではなかった。遠慮しているのか未だに弁当のオープンケースから、缶ジュースの並ぶドアケースの間を行ったり来たりしている。よくよく見れば、お客はその一人きりだった。十九歳から二十代頭といった感じの女性で、おとなしい――ということは無いのだが、眼鏡をかけているうえに、あまり櫛梳かれていない髪と、雑に結ばれた髪の毛から、地味な印象を受けた。こういうのはよくないな、はっきりしなきゃ。来るなら来るで駆けてきて欲しかったよ。俺はこの後にまだまだ仕事があるんだ、深夜の店員なんてね、暇だって思っているんだろ? そうじゃないんだ。入荷した商品を片づけて、おでんと肉まんの什器を綺麗にしたら、今度は床をピカピカに磨き上げ、小休止。すると今度は惣菜の入荷が来る。さらに雑誌の入荷が終わりインクや埃で黒くなった手を綺麗に洗ったら、今度はおでんの仕込みに入る。肉まんあんまんピザまんを、場所を間違えないように丁寧に入れるんだ。それから、最後にパンが入荷してくる。これは時間が遅れることが多いので、注意する必要がある。大急ぎで片づけてしまわないとならない。それが終わった頃には、朝の通勤・通学途中の客がどっと押し寄せてくる。新聞なんてレジに打ち込んでいる暇はないよ、お金を別に受けとっておいて、後から逆算して打ち込む。そうじゃないと、新聞だけを買うお客なんて、勝手にカネを置いて、出ていってしまうからね、処理できなくなってしまうんだよ。一つ一つの作業は大したことはないかもしれない。しかし、積み重なればなかなか大変なものだ。一人で仕事を片づけてしまえばそれで終わりというわけではなく、何よりお客という第三者のあることなので、予定外のこともあるわけだし。
彼女はよしっとガッツポーズを作ると、新発売のジュースに手を取った。なんだ、ただ迷っていただけなのか。おっと、その新発売のジュースはついさっき俺が必死で棚を作ったばかりのやつじゃないか。もしかすると、冷えてないかもしれない。大丈夫かな。まあ、そんなことは自分が手に取って解っているはずだ。そんなことまで店員が気にしたって何んにもならない。私はそのことを気に掛けていたが、彼女は別段何を気にすることもなく、ジュースを手にレジ前までやってきた。私はなぜかおどおどして、接客を開始した。何もジュースがぬるいというだけで怯えることも無いのだろうけれど――これはもしかすると、私が中学校時代にパシリをやっていたということと関係があるのかもしれない。『何々を買ってこい』と使役に出すあの使いっ走りのことであるが、何も強制されたパシリ行為ではなかった。どうにも、私の血には誇り高き召使いの血でも混じっているようで、なぜか全て自主的に行っていた。或いはもしかすると子会社のワンマン社長のようなものかもしれない。何もかも自分でやり、自分の眼で確認しないと気が済まない。他人の買い物でも、自分がやってやらないと気が済まないというわけだ。
まあ、ぐだぐだと要らぬことを考えたお蔭で、ジュースのことはすっかり忘れて接客をしていたのだが、袋に入れようとして手に持った瞬間に思い出して、一応、彼女に尋いてみた。「あ、大丈夫です」とにこやかに微笑んでくれた。こんな時に鳩が豆鉄砲を喰らうような顔をする人は、醜い。逆に微笑むことが出来たなら、多少容姿に自信が無かったとしても、充分に魅力的なのだが。
彼女は最後に「ありがとう」と爽やかな笑顔を残して出ていった。バックヤードのスピーカーから「ピンポーン」という音が聞こえてくる……。何んというか、気分がいい。何もアラームの音が良かったわけではない。確かに――エモーションとでも言えばいいだろうか――私の感情を絶妙なタイミングで、巧い工合に表現してくれた。しかし、あんな安っぽい電子音の如きに、私の感情を表現されたとあっては――何も沽券に関わるというわけではないが――ただ、こう、悲しい。
さて、気を取り直して仕事に戻ろう。
問題は日勤のT嬢が明日来られないということだ。時刻を見ると……、十一時半か。オーナーは十時頃に帰っていったから、幾ら何んでもまだ起きているだろう。何かあった時には一応連絡をしておけと言われていた。別に電話するまでのこともないだろうが、小言を言われたのではかなわないからな。
オーナーの携帯電話にかけた。……が、出てきたのは無機質な声の女性で『電波が届かない地域にあるか……』と一方的に話しかけてきた。そうか、オーナーは夜釣りだな、と思った。普段ならオーナーは朝早くに出てきて発注をするのに、今日に限っては夜に発注をしていった。つまり、明日の朝来られないようなところに行くということだ。それに、店の前にはいつもの埃だらけの軽乗用車ではなく、綺麗に洗車された大きなランドクルーザーがあった。間違いない。戻ってくるのは昼頃になるだろうか。昼までいたなら、また釣ってきた魚をおすそわけして貰えるかもしれない。今度は何を釣ってくるのだろう、またクロ(クロダイ)かな? いや、あれは夏だったかもしれない。まあいい、食べられる魚だったら何んだって歓迎だ。ああ、久しぶりに包丁を使うような料理が食べられる。出来合いの食事には、丁度飽き始めた頃だ。俺も嬉しいが、包丁のやつもきっと喜ぶぞ。
おっと、喜んでもいられないか。日勤は誰がやるんだ。シフト表を確認してみると、明日の日勤の欄には一人しか名前が書いていない。これは、オーナーが明日の午前中に来てくれることを祈るしか無さそうだ。いや、もう一人に電話して頼んでみようかな。日勤は全部で三人のアルバイトで廻している。自称フリーター(フリーターってのは本来フリーライターのことなんだが、もちろん彼女は自由人という意味で使っているのだろう)のT嬢と主婦のNと、あと私だ。私は普段は日勤なのだ。だが、人の入れ替わりが多くなってくると、このように夜勤でも何んでもやる。例えば今週は火曜日から土曜日まで日勤をやって日曜日夜勤、という工合だ。ユーティリティと言えば聞こえはいいが、要するに足許を見られているというだけで、いいように扱われているだけに過ぎないと言われればそれまでだ。私は早速Nに電話をしてみようと思い立って、ふとメモが目に入った。どうやら奴さんは旅行中らしい。今日の日付で国元の高知へ行くと出ていやがる。三日後には帰ってくるらしい。Tはそのことを知っていたのだろうか。メモをよく見ると、時刻が書いてあって、二十時とある。そういえば、今日はNの出勤日ではない。だったら今日はT嬢とも会っていないはずだ。日勤は夕方六時で終わる。で、私が出勤した九時から十時くらいまでオーナーはまだ発注をしていたのだから、Nは直接オーナーに休暇を頼んだのだな。何か急な用事でもあったのだろうか。国元だから、身内に不幸があった――ってとこだろう。いや待てよ、直接オーナーに頼んだのではなく、Nは電話でオーナーに頼んだのだ。よく見れば、メモの走り書きはオーナーの筆蹟だ。なるほど。だったらTが知らなくても無理はないな。しかしだからといって、突然休むのがいいということではない。もし男と遊ぶ為に休んだとしたなら――いや、多分間違いなくそうだろうけれども――こっちとしてはやりきれないな。私が言うのも何んだが、若さを謳歌しているといったところだろうか。まあ、いいか。奴だって、彼氏とはいつまでも仲睦まじくしていられるわけじゃない。今が春なのだろう。今のうちにせいぜい遊んでおくがいいさ。冬がやってくる前にな。
「納豆をくれ!」
突然――本当に突然、白髪の紳士がドアをがばっと開けてやって来た。いや、これは紳士ではなくただの酔っぱらいと呼ぶべきなのかもしれない。
しかし、残念ながら納豆は無かった。普段ならあることもあったが、すぐ側に大型スーパーがある上に、周囲は小中学校に囲まれている環境なので、あまりそういうものは入荷しないのだ。どうせ売れずに廃棄処分となるだけなのだから。
「いいや、ある! 知らんなぁ。コンビニには納豆があるもんなんだ。お前じゃ話しにならん。解る奴を連れて来い!」
私が今一人だけしかいないことを告げると、彼は私のことを頭のてっぺんから足の先まで二度三度と見下ろして「そりゃあ大変だ」と天を仰いで見せた。
まったくいいご身分だ。社会人の癖に月曜の朝から酔っぱらいやがって。お前さんがどこの何様かは知らないが、今ここは俺の城なんだ。勝手なことなんてさせるものか。
私はこの酔っぱらいのことは適当にあしらって、後は無視することにした。酔っぱらいと寝言の相手はしちゃいけない。どうせ、言葉が通じたとしても話しは通じっこないのだ。そういえば、寝言の相手をすると相手が夢の世界の住人になってしまうことがあるという迷信めいた噂があるのだが、酔っぱらいの相手をしていると相手は酔郷の住人にでもなってしまうのだろうか。酔った状態で他人とコミュニケーションを執ることにより脳が刺激を受け、それ専用のシナプスが形成され、最終的にそれ専用の人格が形成される、というわけだ。何かのはずみでそれが倒錯すれば、立派な多重人格であるし、立派な酔郷の住人の誕生というわけだ。
酔っぱらいは何事かを高らかに口にしながら店内をぐるぐると旋回していたが、やがて私が彼を全く無視していることを知ると、不満そうに出ていった。
さて、これでまた仕事が出来る。
明日――おっと、もう今日か――の日勤について問題があるというのであれば、今のうちに床の掃除をやっておかなきゃならないな。先に棚にハタキをかけておいた方が良いかもしれない。一人で夜勤の時にはやらなくても構わないのだが、日勤でもやらないとなれば、話しは別だ。これだけのお客が出入りすると、一日に三回はモップがけをしないと、床が薄黒く濁ってしまう。商品だって一眼で解るくらいに埃っぽくなってしまう。夜勤に掃除せず、日勤でも掃除をしなかったら、店はなかなか大変な状態になってしまうだろう。こういう時こそ、店の為に少しでも役に立っておきたい。何より今やっておかなければ、苦しむのは自分自身かもしれないし。
傍目から見れば深夜のコンビニなど、ほとんどの時間においてお客がいないように見えるかもしれないが、しかしお客のいない間にしか出来ない仕事を捌こうと思えば、これがまた実にほんの僅かな隙にしか感じられないのだ。
せっかく雇って貰っているわけだし、こうやって仕事を出来るということは、実に素晴らしいことだと思う。労働の悦びというものだ。他のアルバイト達はそうは思わないかもしれないけれども、私はほんの僅かの間でも自分の身を削って、少しでもこの店の役に立ちたいと思っている。
掃除といっても、本腰を入れてやればなかなかの重労働だ。よっぽど重たいものはともかくとして、軽いものならいちいちどかさなければならないし、モップ掛けだって腰を入れてやれば冬場でも汗を掻いてしまうほどのものだ。最後のワックス掛けだってなかなか神経の要ることだ。箒、ダスタクロス、モップ掛け、ワックス掛けの四つの行程なのだが、これも一人でやるとなるとなかなか大変で、二時間くらい掛かってしまった。それが終わった頃には雑誌が入荷する。返本しなければならない雑誌を抜き去るのに三十分、新しい分をきちんと並べるのに三十分。気が付くと、あっという間に朝になってしまった。
朝になると、前述のように通勤通学途中で昼食や、或いは朝食を買いにやってくるお客で店は溢れかえる。一人でこれだけのお客を捌かなければならないわけだから、考えている暇などはない。スーパーみたいに沢山レジがあれば、少しくらい考える余裕もあるんだろうが、何しろここは一つっきゃない。何かトラブルが起きようものなら、その間にレジの前には長蛇の列が出来る。しかも、朝なのでお客も随分と気が立っているのである。私は二度目のバイトの時には既に一人でやらされたものであるが、その時は不慣れな作業を一人でこなしたがため、長蛇の列を作ってしまった。しかもその列はちっとも減らなくて、むしろ時間が経つにつれて伸びていくのだ。全員不愉快な顔をしながら。あんなに精神的に辛いものは無い。あの時の大変な思いをしない為にも、条件反射でのみレジ打ち作業をする必要がある。というか、同じ作業を何度も繰り返す為に、段々と感覚が麻痺してくる。こんな精神衛生上良くないことがあるだろうか。ちょうどチャップリンのモダンタイムスのようなものだ。私の両腕はこんな下らない作業をするために作られたわけではあるまい。しかし、そうすればお客一人当たり三秒以内に終わらせることが出来るし、慣れてくればうつらうつらしながらでも間違えることなくレジを打つことさえ可能になる。
しかし、それでも不慮の事態はやってくる。レシートが詰まったとか、レシートが切れたとか、レジ袋が無くなったとか、突然風変わりな客がやって来たとか、まあ色々だ。特にレシートはくせ者で、こちらが捌くスピードに較べると、出てくるのが圧倒的に遅い。そのせいで、慌てれば慌てるほどに紙詰まりを起こす。レシートが出ないとレジを使えないという仕組みになっているので、紙詰まりを起こすとこれがなかなか大きなタイムロスなのである。しかも、慌てて詰まった紙を取り除こうとすると、誤ってカッターで指を切る羽目にも陥り兼ねない。あまり深くは切れないように出来ているのだが、それでも客商売において指先を切るということは、何かと厄介なことである。幸いレジは二台あるので、頭さえ使えば何んとかなるが、一旦停止した思考を呼び戻すのは難しい。それに、こちらがレジを移動すると、そのたびに行列が右へ左へと動くのだ。端から見ればきっと異様な光景に違いない。
レジ袋は無くならないように、あらかじめ多めに補充しておく。それでもラッシュが終わった頃には底突きはじめるのであるから、なかなかの数のお客が来ていることになる。こうやって大量のレジ袋、容器、割り箸、と猛烈な勢いで消費していく様を毎日見ていると、心がすさむような気分だ。何んでこんなに消費しなくちゃならんのだろう、と思う。無駄というよりも、無意味だ。かといって、ここで私が『無意味な消費を抑えるべきだ』とゴネてみたところで仕方がない。それに、無意味といえば、私がこうして働いていることも無意味だし、人生だって無意味だし、或いは人間の存在そのものが無意味だ。だから、別に無意味な消費があってもいいのだろうけれども、ただひたすらに莫迦らしくて悲しくなる。莫迦らしいことに肉体を虐め、精神を虐め、一体人類は――いや、私はどこへ行こうとしているのだろうか。一生こんな心配や動作を繰り返すだけなのだろうか。
実はオーナーから『店長にしてやる』と言われている。しかし、私は明確な返事をしていない。明らかに私はこの商売には向いていないだろう。その自覚があればこそ、だ。私は一生をこんな動作で費やすことを目標にして今日まで生きてきたわけではない。こんな仕事は商魂溢れる人間に任せればいい。私みたいにうだうだと要らぬことに思考を巡らすような人間は、商売において不必要だ。『商いは莫迦になれ』と言う。私の言いたい意味とはもちろん違うのだが、しかし、私は莫迦になることが出来ない。莫迦を演じられるほどには巧く出来ていない。不器用なのだ。そのくせして、ありとあらゆる意味で私は莫迦なのだ。本当に莫迦に、莫迦を演じることが出来るものか。
朝のラッシュが終わると、店内はがらんとしてしまった。次はファーストフーズのポテトとチキンを油で揚げなければならないのだが、やる気がない。蟀谷をキリで穿たれるような感覚が走っている。何もそんな体験をしたことはないのだが、両側から何かをぐりぐりと押し込まれているような錯覚と、聴覚検査の時に用いるサイン波のような耳鳴りがする。店内ではCSラジオが鳴っているはずなのだが、私には聞こえない。いや、実際には聞こえているのだろうが、音を意識するという作業をすっかり忘却してしまったようだ。それだけでなく、全身の感覚が鈍麻していて、妙に重くて、怠くて、おぼつかない。しかし、痛みだけはしっかりと感じるようだ。特に酷使された右肘がずきずきと痛む。テンキーを打つという作業は、意外と肘に負担を掛けるようだ。そういえば、野球選手は利き腕の肘を痛めるとサインに応じなくなるんだよな。何もスポーツ選手に限ったことではあるまい。身体が資本の労働者はもちろんのこと、肘を痛めれば握力が激減してペンを握ることさえ辛いのだから、文化系の――例えば作家や漫画家でも特に肘を商売道具として大事にしているだろう。他にも、顔を洗えないとか、雑巾しぼりが出来ないとか、影響を受ける日常的な動作は数限りない。手が使い物にならなくなるということは、脚を痛めることよりもずっと深刻かもしれない。何しろ、歩けなくても出来る仕事は沢山あるが、手が不自由な場合にはどんな仕事が残されているだろうか。物を持てなければ、道具も思うようには扱えない。たかが腕の一本と思うのだが、その価値は計り知れないものがあるのだな。人間は脳だけで生きるものではないということだ。
もう既に八時を回っている。ひどく腹が減った。何か食べておいた方がいいのかもしれない。腹は減っているのだが、食欲が無い。妙な言い方になったが、食べたくないのだ。胃は空腹の余り痛いくらいだし、身体全体が栄養を求めていることは体感できる。ビタミンの関係からか、体中の筋肉が硬くなっている。特に頸の付け根あたりがガチガチになっている。先月の食費は六万だった。この話しを聞いたある同僚は、この話しを持ち出しては私のことを『莫迦だ』と蔭口を叩いているらしい。一体そいつが大学へ行く金を幾ら親から出して貰ったかは知らないがな。しかし、月六万なんていうのは一日二千円使ってしまえばでアウトだ。特に最近は無理矢理身体を動かすために、高い栄養ドリンクを飲んでいる。これで三分の一は飛ぶ。以前はカフェイン錠剤で済ませていたが、効かなくなった――というよりも、確かに眼は覚めるのだが、身体の強烈なしびれと怠さを取り去ることは出来ない。レスラーみたいに身体を鍛えている人間なら別だろうが、私みたいな貧弱な人間は、ちょっとの無理でも堪えるものなのだ。特に夜勤と日勤の切り替えが頻繁になると、身体が慣れるということが無くて、身体の回復速度が異常に遅くなってしまうようだ。残りの三分の二は、私の体重に原因がある。今、私は猛烈な勢いで痩せている。少し前までは身長百七十センチに体重五十四キログラムと、決して太い方ではなかったが、今では四十六キロから四十七キロくらいしかない。そうしたことの焦りで、とにかくカロリーの高い食べ物を択んで無理矢理にでも胃に放り込んでいるのだが、ちっとも太る気配さえ見えない。テレビ番組を参考に、なるべく多彩な食材を執るようにもしたのだが、全くだめだった。そうしたことで、食費は一気に膨れあがってしまったのだ。
しかしまあ、食っても太らないなら食わなくても同じか。このままではエンゲル係数がとんでもないことになってしまいそうだから、なるべく節約できるものならしておいた方がいいのかもしれない。だったら、飲み物だけにしておこうか。どうせなら、水がいい。濃いものばかり食べたり呑んだりしているから、少し薄めた方がいいんじゃないか。血液がむやみやたらに濃くなっているかもしれない。消化器官も莫迦になっているのかもしれないし。
私は水を自分で買って、レジとバックヤードとを結ぶドアのところに寄っ掛かると、がぶ飲みした。息が詰まるような――というよりも、身体の内側を締め付けられるような感覚する。一気に血圧が上昇したのかもしれない。あまり意識はしていなかったが、喉がからっからだっただ。そこへいきなり水を流し込んだものだから、身体がびっくりしてしまったわけだな。しかし、命の水とはよく言ったものだ。何んだか身体が軽くなったような気がする。頭もすっきりした。尤も、それは急激な水によるショックのせいかもしれないが。まあ、すっきりした頭で考えてみた。
とにかく、店をカラにするわけにはいかない。誰かが必ず店番をしていなければならない。オーナーが昼までに帰ってくることを祈っておこう。そうだ、それよりも今すぐに電話をしてみよう。通じるかもしれない――と思って電話をしてみたのだが、相変わらず電波の届かないところか電源が――待てよ、もしかすると電源が切れているだけかもしれない。自宅の方へ電話してみよう。よっぽどのことが無い限り、あまり自宅の電話へは電話しないように言われているのだが、この時間なら他の家族へも迷惑がかからないだろうし、何よりも店がカラになる危険があるのだ、一大事じゃないか。仮にオーナーがいなくても、奥さんが出てきてくれるかもしれない。私はもう既に解決したものと思い込んで電話を掛けたのだが、呼び出し音が虚しく鳴るばかりで、誰も出なかった。
一体どういうことだろうな。まさか家族一同揃いも揃って夜釣りへ出掛けたわけじゃあるまい。旅行だったら何か言い残して行くだろうし、まさか夜逃げしたわけじゃないだろう。何かあったのだろうか。まあ幾ら考えてみても埒が明かない。誰か来るまで残業するしか無いようだ。
問題は、もし昼を過ぎても誰も来なかった場合だ。午後二時過ぎまでに精算業務と釣り銭用の両替を終えなきゃならない。今日の売り上げを精算し、本社の口座へ振り込まなくてはならないのだ。銀行が三時で締まってしまうので、その前に精算を済まさねばならない、というわけだ。おまけに銀行の方も業務が詰まっていると、三時に間に合ったとしても翌日付けにされてしまう。銀行員というのは、よっぽど偉いのだろうな。せっかく『間に合った!』とほっとしたところで、本社から電話で『入金されていないじゃないか』と愚痴を聞かされる日には、腹の立つよりもがっかりしてしまう。だから銀行へはなるべく早くに行った方がいい。しかも、今日は月曜日である。土日の売り上げ金がそのまま残っている状態なので、それらもまとめて入金しなければならないのだ。釣り銭だって十円玉が著しく足りない状態だ。お客次第随分変わるが、恐らくあと半日分も無い。だから、何が何んでも間に合わせなければならない。オーナーの話しによれば、まだ開店したての頃、従業員不足でオーナー一人しかいない時に、お客の隙を見て銀行まで駆け込んだという。あのおっさんに出来て、私に出来ないということがあるだろうか。
日中の仕事は、私にとってみると夜勤よりかは少し気が楽だ。入荷も多少はあるのだが、弁当とパック飲料が中心なので、全く大したことはない。他には、飲み物や雑貨品の発注、金庫周りの作業、新しい商品を置くための棚を空ける作業、或いは場所をごっそり入れ替える作業といった、どちらかといえば頭を使う作業の方が多い。何しろ、一番身体を使うの作業が掃除という位である。しかし何んと言っても、メインはやはりレジである。昼のラッシュ時は朝のそれよりもずっと烈しいものだ。体育祭なんてものがあった日には、店内は大変なことになる。
日中の客層というのは、夜の客層とは大きく違う。主立った面々は、爺さん婆さんに主婦と幼児。次いでは労働者や学生。そして、なぜか何時間も立ち読みしている小学生から高校生くらいまでの子だ。こんな時間に、そうした子供達が沢山いるというのが、どうしても不思議で堪らない。学校へは行かなくていいのだろうか。それとも、これが有名なエスケープというものなのかもしれない。一度尋いてみるといいのかもしれないが、近頃の子供は物騒だっていうからなあ……なるべくかかずらいにはなりたくないものだ。ああ、でも、一度万引きしたところを捕まえたことはある。しかし、オーナーには報告せずに黙っておいてやった。普段我が物顔で歩き回っている中学生が、万引きを咎めた瞬間に顔面蒼白になって『お願いです、見逃してください』と言うのだ。ちゃんと悪いことをやっているということを自覚している何よりの証拠じゃないか。つまり善悪の分別は付いている上で、やっていることなのだ。だったら、今更善悪について頭で教え込んだって全く意味がない。これから先、その少年がやらなければ良いというだけの話しであって、その少年の未来を潰して、進路を絶ち、グレる以外の道しか残さないようなことは愚行以外の何物でもない。そして何より、毎日コンビニで店員をやっているような人間でも、そう簡単に『告げ口』なんて器の狭いことはしないということを、理解してくれれば何よりも良いことだ。もちろん、それは未来ある子供に限ったことであって、相手がおっさんやおばさんであれば遠慮するつもりは無い。
他には、時々養護学校の生徒が数人でやってくることもある。聴覚障害の子とコミュニケーションを執る時には私も商業スマイルではなく、本当の笑顔になってしまう。補聴器をしているのだから、ちゃんと言葉も聞き取れるのだが、敢えて表情とボディランゲージで会話をしてしまう。例えば袋が要るか要らないかの確認なんていうのは言葉で尋くよりも相手の眼を見て、手振りで合図をすればそれで充分だ。むしろ、言葉で確認する方がよっぽど混乱してしまうし、冷たい印象がある。言葉が無いから、本心から笑顔になってしまう。ただ、それは子供に限ったことだ。相手が女の子だったら、相手も気持ちの良い笑顔を浮かべてくれる。私が男だからというせいもあるが、男の子が笑いかけてくることはほとんど無い。その辺りはジェンダーの必然とでもというか。まあ、男というものはへらへら笑うべきものではないから、それも良しとしよう。
さて、まあそのようにして正午が過ぎたが、結局オーナーは現れなかった。一時が過ぎ、二時が過ぎたがやはり店の関係者は誰も来なかった。私は五分の四はイライラ、残りはワクワクしながら精算業務を済ませた。あとは銀行へ駆け込むだけである。巧く信号が変わる瞬間を狙ってダッシュしなきゃならないな。一人だったせいで精算業務にやたらと時間を食ってしまった。可能な限り急がなくてはならない。私はお客の様子を窺った。その時だ。
「お疲れさまです。オーナーいませんか?」
実に都合の良いところで、夕勤のS嬢がやってきて、バックヤードを覗く仕種を見せた。こんな日にオーナーを捜しているということは、多分給料を貰いに来たんだろう。今は月の前半だけれども、月末に貰い損ねた人がたまに来ることがある。給料はオーナーから直接手渡しなので、シフト入りしてようが、巧い工合にオーナーと出会わなければ給料を貰うことが出来ないのだ。
もちろん私は銀行へ行く間、彼女にレジを頼んだ。Sは戸惑っていたが、それが僅かな時間であることと、どうしてもままならないのだということをお願いすると、やっと聞き入れてくれた。説得と準備の為にだいぶ時間を食ったが、それでも一人で行くよりかはずっとマシだろう。何んとか間に合いそうだ。売上金の詰まったバッグが、ずっしりと重たい。
銀行へはギリギリセーフで間に合った。銀行員の方も、いつも来る人間がなかなか来ないものだから準備してくれていたのかもしれない。普段よりも捌けていたような気がする。ありがたや、である。
ほっとして小走りに店に戻ると、そこにはオーナーがいた。オーナーは電話をしていた。私は狐につままれたような気分に襲われた。オーナーの方も随分と驚いたらしく、きっと私がしているであろう顔をしていた。
オーナーはSに頼んでおけばいいものを、電話を保留にしてすぐさまSに給料を手渡すとすぐに帰してしまった。そして私には一言も無いまま、また電話に戻り、何やら厄介事の話しをしているようだった。
やはり何かあったのだな、と思いながらも、私は憤りというものが湧き上がってきた。もちろん、私が考えているよりもずっと悪いことが潜んでいるかもしれないという、警告めいたものが私の心には起こっていたのだが、疲れのせいで先のことを見越してまで感情をコントロールするような芸当は出来かった。ただ、さっさとオーナーが私に話しかけてくるのをイライラしながら待っていたのである。
やがてオーナーが電話を終え、怠そうに伸びをし、そして一喝するかのように私の名前を呼んで手招きをすると、私は飼い犬のようにのこのことオーナーの許へ駆け寄った。
どうにもオーナーは話しづらそうにしていた。オーナーが『一体どういう事なんだ?』と尋いてきたので、私は一部始終を話した。私が事情を説明するのに一つ一つ答える形で、オーナーもまた事情を説明してくれた。
どうやら昨晩は奥さんの実家へ行っていたらしい。なるほど、奥さんは実家にいて、だから家に電話しても誰もいなかったわけだ。銀行へ行く時間までには戻ることをTと約束していたらしい。時間ぎりぎりだったのは車の渋滞で少し遅れてしまったらしい。それはそれで電話の一本でも欲しいところだが、こともあろうにオーナーの携帯電話の調子がここ最近良くないのだそうだ。数日前にテーブルの上で充電中に落として以来なのだそうだが。それでも昨日はずっと快調だったのに、車で出てからおかしくなってしまったらしい。オーナーが私にその携帯電話を手渡したので、私が見てみるとなるほどバッテリーと本体とを接点が歪んでいるだけだった。私は直した上で、返した。莫迦げてる。昨日見せてくれれば何も問題は無かったし、誰も苦しまなかったのだ。調子の悪い携帯電話ほど、持っていて意味の無いものはあるまい。
「おお。直ったよ。凄いね。さすがだね。でも、それはそれだ。まあ、今回はしょうがないよ。俺も悪いんだ。時間が無くて慌てていたのと、お前さんが夜勤だったから、安心していたんだ。しかし、さっきのあの子はもう辞めた奴じゃないか。そいつにレジをさせるなんていかんよ。俺が認めた奴以外は、絶対にレジに立たせちゃいかんのだ。え、勝手なことはするな。勝手なことをするような人間にはもうレジを任せられんよ。そんなことをしたら、部外者をバックヤードに入れるなんていうマネをせんとも限らんだろう。店を離れている間、俺は不安で堪らないんだから」
そういえば、先月のいつごろからかSの姿を見ていない。Sが既に辞めていたなんて、全く気づかなかった。てっきり未だに夕勤に精を出しているものかと思っていた。夕勤はそうそう人手不足に陥ることが無いので、私が夕勤に代打で出ることは滅多にない。だから、夕勤とは引継ぎの時にちょっと会話する程度であって、一緒に仕事をするなんていうことは滅多に無いのだ。新しく這入ってきた人があれば一応知っておこうかとは考えるかもしれないが、辞めていく人間のことなんて全く気にする必要がない。
「ところで、話しは変わるよ。今、電話で聞いたんだが、お前、本部の奴にとんでもないことを言ったらしいじゃないか。夜、お前の働いているのを見たそうだが、とても失礼な対応をされたそうだ。たまたまということはあるよ、俺の見ていないところでお前がどういうことをしているか俺は知らないわけだからな。氷山の一角という言葉を知っているか? つまり、今回のことはそれではないかと――まあ疑心暗鬼を生ずという奴だな。ちゃんと言葉は解るか? まあ、そんなことはどうでもいいんだ。お前は俺が雇っているんだからな、本社の人間がどうこう言うことじゃない。しかし、お前は知らんだろうが、お前は俺が雇っている他の人間にも迷惑をかけているんだ」
本社の人間というのは、もしかするとあの酔っぱらいのことだったかもしれない。実は酔っぱらってはいなかったのかもしれないし、酔っぱらっていたことで勢いづいて私への非難の言葉を爆ぜさせたのかもしれない。
そして、オーナーは机の引き出しを開けて、手紙の束を取り出した。
「これは何んだと思う? お前への苦情だよ。中身は見せんよ。(そしてオーナーは手紙を一つ取り出して眺めながら)お前さんは少し自分勝手が過ぎるんじゃないかね。確かにお前さんはよう働くよ。少なくとも俺の見ている時にはな。でも、ちゃんと他の奴らにも接しなきゃならん。バイトさんっていうのはお客さんでもあるんだから、お前はお客さんに失礼なことをしているのと同じことだ。その責任をどう取る? お前みたいなのには取れないだろう。どんだけ働いても、そこが出来なかったら全く意味がないんだぞ。
同僚からそこまで非難されているとは知らなかった。もちろんいい印象を持たれているだなんていうことは全く想像すらしなかったことだ。尤も、私が彼らを好いているわけではないのだから、まあ仕方がないのだ。別に嫌っているわけでもない。要は何んとも思っていない。よく言えば中庸、悪く言えば無視。ニュートラルということは、誰だって悪い方に解釈する。世の中、笑顔で挨拶をしなかったというだけで、無礼だと責められるものかもしれない。笑顔を作るということは、恐ろしくエネルギーを必要とすることだ。私は毎日酷く疲れていたし、お客への最低限の商業スマイルだけで精一杯なのだ。だいたい、そんなことじゃロシア人のようなタイプとは交流を持つことは出来ないぞ。へらへら笑ってさえいれば世界で通用すると思っていたら、大間違いだ。――まあ、そんなことは想像すらしていないだろうがな。
もちろん、彼ら同僚を好きになれというのは、私には無理な話だ。私とはあまりにも懸け離れているような気がする。一体何んの話しをしろというのだ。お駄弁りで時間と体力の無駄遣いをするつもりは無い。かといって、あまりに有益な話しをしようもんなら、きっと相手は五分ともたないだろうな。もしかすると怒り出すかもしれない。彼らとウマが合わないということは解り切っている。もしじっくりと話し込んだなら、喧嘩になってしまうだろう。それが解っているから、はじめから触れないことにしているのだ。しかし、触れなければ、無愛想だとか、厭な奴だとかなってしまうわけだ。どっちを取ってもハズレというとんでもないクジだけれども、人生というのはそういうものかもしれない。だから、生きることは苦しみなのだ。二者択一でどっちかがハッピーだったなら、そんなものは苦しみでも何んでもない。選択をさえ間違えなけ大丈夫――なんていうのは、よっぽど仕合わせな家庭に生まれ育ったか、或いはよっぽど自信家なのか、だ。まして、後悔して『あの時ああしていれば……』と思うようなことは傲慢極まりない。その時どうしていたとしても、その人がその人である限り、どうすることも出来ないものなのだ。唯一の方法はアイデンティティを失ってでも、人格を変えてしまうより他に無い。しかし、そんなことはおいそれと出来ることではない。だから、私がこうして叱責を受けるのも、必然的なことなのだ。もし私が彼らと仲良くしていたならば、事態は却って危険なことに陥っていたかもしれないのだ。そもそも、あんな手紙を送りつけているだなんて、やり方があまりにも汚い。同じ立場同士の同僚なのだ。裏でこそこそとせずに、自分で言えば済むじゃないか。少なくとも、いい大人のすることじゃない。しかし、こういう理窟は女性には当てはまらないものかもしれないな。永らく正面切って物を言えないような文化があったことは、確かに事実ではある。
「もうここまで来たら、お前さんを庇うことは出来んよ。これだけの証拠が出てきてるんだもの。愚痴じゃない。物的証拠だよ。まあ、人間だから合う合わないはあるさ。だけど、バイトさん同士のことで、こうして何人もの人間がこうして手紙を書いてきたなんていうのは、初めてだよ。空前絶後だ。意味はわかるか? 後にも先にも無いってことだ。もしこれから先もここで働きたいんだったら、そういうところは直して貰わないと困るよ」
私は一体いつ庇って貰ったことがあっただろうか。必要以上に追い立てられた記憶しか無い。それに私は勝手なことをしていたわけではなく、状況を打開する為に最前の努力したまでのことだ。もし、私がオーナーから命令されたことのみを正確に実行する人間であったなら、私は役立たずと罵られていたことだろう。まぁ、結果はどちらでも同じことだったのだから、役立たずの方がずっと良かったかもしれないのだが。
いや待てよ、もう既に役立たずと罵られていたではないか。それはまだここで働きはじめてからまだ間もない頃――そうだ、ここで働き初めてから三日目のことだ。もうだいぶん前のことだからか、それとも私がそうしたかったからからかは解らないが、すっかり忘れていた。
――あの日も寒い冬だった。二月頃だっただろうか。高校を中退することを決めた私は、歳を一つ誤魔化してこのアルバイトをはじめたのだ。夜勤は十八歳未満には出来ないからだ。初日は先輩から教わったものだが、突然急用が出来たと言って、二日目は私一人でやらなければならなかった。オーナーはその日の朝の惨状を見て『まだ一人じゃ無理みたいだな』と、次にもし相方がいなければ、自分がやってくれると言ってくれた。そして三日目も先輩は来なかったので、代わりにオーナーが私と一緒に夜勤をすることになったのだ。
その日の未明、外ではなぜか野良犬がずっと坐っていた。うす茶色の雑種で、いかにも昔から日本にいます――というような顔つきの犬だった。ま、言うなればしょうゆ顔だな。後になって、お客がおでんのちくわを与えているのを見たことがあるので、それを当てにしてやってきたのだろう。その犬も心得たもので、決して店の中には這入ろうとはしなかった。じっとドアの前でおすわりをして待っている。それがお客の心を搏つのだ。尤もこの店は自動ドアではないから、ただ単に這入ろうにも這入りにくかっただけなのかもしれないが。
オーナーは私に向かって『ああいう犬を何んていうか知っているか?』と尋いた。私は大真面目に考えては何と何の雑種だろうかと知っている犬種を挙げたものだったが、オーナーは頸を振って半分にやけながら『ああいうのは負け犬というんだよ。お前さんと一緒。さっさといなくなればいいのに、いつまでも居座っているだろう』と言った。恐らく、若さをアテにして(或いは単なる人手不足だったのかもしれないが)私を採用したのに、あまりの動きの悪さにあきれ果てていたのだろう。何しろ、本来ならもうすっかり入荷品を片づけて休憩しているような時間なのに、店内にはそれらがたっぷりと散乱している有様だった。先輩の急用の原因もこれ以外にあるまい。私はといえば、とにかく仕事を覚えるのに必死で効率的な動きなんて知るわけがないし、売り場だってまだ覚えてはいなかった。それだって、鍛え抜かれた肉体があればさっさと片づけたものだろうが、脆弱な私にとってコンビニといえどもなかなかの労働で、使い慣れない筋肉が思うように動いてくれなかったのだ。
しかし、私はむしろ徹底的に負け犬に徹することにしたのだ。どんな無茶なことでも『はい』以外の科白は吐かなかった。もしも時間内にやり切れなかった作業があっても、サービス残業をして徹底的に終わらせるまで帰らなかった。その態度がオーナーの気に入ったらしく、私は随分と眼を掛けて貰えることとなった。まさか自分の負け犬発言が引き金だったとは、知る由もあるまい。尤も残念なことには、幾ら慣れても私の作業は決して速くはならなかった。だから、他の人と同じだけの作業量を手に入れるために、ずっと無理を続けなければならなかった。しかし、本当に私は遅かったのだろうか? 幾ら遅いといっても同じ一般人に過ぎないのだから、動きのスピードそのものが異常に遅いはずはないのだ。恐らく負け犬に徹していたがために、手抜きという高等技術をマスターすることが出来なかったのだろうと思う。負け犬には常に劣等感が付きまとう。それを払拭せんがために、完全な仕事を自分に求めてしまったのだ。
もしもこの店に居続けようと思うなら、私は永遠に負け犬であり続けなければならないし、無理も続けなければならないかもしれない。何も、私はここで犬のようにくたばってしまうために生きてきたわけではない。しかし、今この仕事をいきなり辞めれば、私は飢えることになる。貯金なんて大して無い。何しろ、エンゲル係数が高いもんだからな。私は身体の工合が良くないことを訴えてから、週に二回か三回のシフトに変更して欲しいと申し出た。オーナーは私の良い点(もちろん前述した私の負け犬の様を、であるが)をいくつか挙げた上で、受け容れてくれた。何しろ今は人手不足の時期だから、オーナーだって今ここで私に辞めて欲しくはないのだ。もちろん現実的な算段だけではなく、オーナーの人柄だってある。この人は愚痴を言うときや、雷の落ちる時は烈しいのだが、一旦吐き出してさえしまえば後はスッキリと忘れてくれるタイプなのだ。
とりあえず、週に二、三回だったらしばらくは体力回復に努めることも可能だろう。少し体重が戻ってから、先のことを考えた方が良さそうだ。
着替え終えてから、もう店を出ていこうとした時、突然オーナーから呼び止められた。振り返ると、執えどころの無い顔をした内気そうな女子中学生とオーナーとが、開封されたパンの袋を挟んで立っていた。近寄って見てみると、中身がすっかりかびてしまっている。もしかすると、今朝私が売ったのかもしれない。だが、気づかなかった。何しろ朝のラッシュ時はオートメーション化しているのだから、何かあったって判断を下すことが出来ない。夜勤は夜の十時頃に賞味期限の確認をするのだが、あのパンは他のものに較べると賞味期限が長いために、あまり調べられることがないのだ。私も定期的に夜勤をしていれば、きちんと調べるのだが、日勤から夜勤への切り替えのせいで、身体が怠くて省略してしまった。気になってはいたのだが、ちょうどその作業中にオーナーがいて、その相手に忙しかった。オーナーがいると、何かとうるさくて仕事にならないのだ。加えて、日曜日の夜はそれなりに忙しくて、レジと売り場とを何度も何度も行き来する羽目になる。挙げ句に電話の相手までしたわけだし。他の夜勤がこんなものを調べるわけがないし、何よりオーナー自身が『そんなものいちいち調べなくても良い』と言っていたのだ。お蔭で、私が仕事に就くときには彼らの尻ぬぐいをせねばならない事が多々あった。一度改善すべきこととして、ノートに書いて訴えたが、皆んな私のことを『阿呆だ』と言っただけに終わった。賞味期限のことを気にする私が阿呆なのか、それともバイト如きで真面目に働く事が阿呆なのかは知らないが、ともかく、実際に不幸を味わうのはこうした不運なお客さんだ。自分で賞味期限までチェックしてくれればいいのだが、まあなかなかそんな人はいない。やはり売る以上は店側がちゃんとしなきゃならない。
オーナーは女子中学生を適当にあしらって、返金処理だけをして帰した。オーナーは、相手が中学生だからナメて掛かっているのだ。かわいそうに。もし彼女が立派な社会人であったなら、オーナーは菓子折を持って謝りに行ったかもしれない。『お客さん』と一括りにはしているものの、そこには随分と格差があるものだ。
「ちょっとこっちへ来い。今朝買っていったパンだそうだが、ほれ、まるで緑青がしたみたいになっているじゃないか。レジを打つ時には、こうしたことも気を付けてチェックしなければならないし、昨日はお前さんが夜勤なんだから、気を付けて見なければならないじゃないか。さっき氷山の一角と言っただろう。もしかしたら、お前さんの売っているものは、皆んなこんな風になってやしないかと心配になるのだ。俺一人で全てを見られればいいけど、俺の身体は一つだから、見ることが出来ない。その代わりをバイトさんにやってもらっているわけだから。本来、お前さんは模範になるくらいじゃないといかんのだ。そこのところを気を付けて、これから……」
何んというか、虚しい。何が週に二、三日だ。そんなことをしてまで引っ掛かって一体何んになるってんだろう。そこのオープンケースで、蛍光灯にしがみついている蠅と同じようなもんだ。そのうち動けなくなって、抵抗することも逃げることも出来ずに、紙で包まれてゴミ箱行きだ。
まだオーナーが話し終わらないうちから、もう明日からは来ない、とだけ告げると廻れ右をして店を出た。もう何も知るもんか。私は無理してまで雇って貰っているわけではない。対価を貰って労働を提供しているに過ぎないのだ。確かに、今のところ私はここの稼ぎ以外に食べていく方法は無いし、何より力も無ければ学問も無いのでどこへ行ったって相手にもされないだろうが、だからといって犬のように無様に生きなければならないということは無いはずだ。いや、犬以下か。ちくわを狙って待ち伏せをしている野良犬の方がよっぽど高等かもしれない。ましてや、飼い犬なら尚更のことで、今は人殺しをさせてでも愛犬を紐で結わえないという時代だ。犬にも人権というものがあるらしい。不思議だ。
それはともかく、そもそも犬だから無様だと思うのは、日本語にしろ英語にしろ慣用表現に過ぎず、我ながら何んとも陳腐なものである。私はきっと小説家――少なくとも純文学作家にはなれないな。文学に慣用表現だなんて――使った時点でそれはもう文学としてやる意味が無いに違いない。残念だな、中学生の時に試みに職業適性検査をやってみたら、作家と出ていたものだが。どうにも、独りでねちねちやるような職業の方が私には向いているようだ。小説がだめなら、他に何があるかな。噺家なんてどうだろう。まるで私の状況は三代目三遊亭金馬の『死神』の噺みたいだから、ふっと思いついてしまった。色んな噺家がやっているものだが、私は金馬のやるのが一番好きだ。そういえば、ある噺家は『独りでやるのが好きだから』という理由で落語への道を歩んだというじゃないか。それに、あれなら力も学問も要らないだろう。必要なのは、努力と熱意と才能――つまり己の資質だな。声の通りは悪くない。しかし、熱意――言い換えれば情熱がもう一つだな。いきなり師匠の処へ押し入って、土下座して弟子入りを嘆願するようなマネは私には出来ない。
さて、これからどうやって生きようかな。こういう時には自分が人間であることを呪いたくなる。人間は雑食で大概のものは何んでも食べられるのだが、実際にはそこがネックで、何んでも食べられるということは、つまり何も食べられないのと同じことだ。色んなものを食べなければ生命を維持できない。そこら辺の草さえ適当に食っていたら生きていけるようになればいいのいに。もっと良いのは光合成だ。あれさえ出来ればな。そしたら路頭に迷うことはないのに。それだけじゃないぞ。きっと世界は平和になるし、地球の温暖化だって緩和されるに違いない。無理して食い扶持を稼ぐ必要も無いだろうから、消費も減るし生産だって減る。生産が減れば、それだけ地球を汚さなくても済む。地球が汚れなければ、それだけ人類は長生きが出来る。何んで神様はそんな大事な機能を付けてくれなかったんだろうな。緑の顔だなんてものは、お気に召さなかったのだろうか。産めよ増やせよだなんてことを言っておいて、人類が人口過多によって滅んだら一体どう責任を執ってくれるんだろうな。まあ、私はその神様とは契約してないからな。契約していない以上はレジにも立たせて貰えないか。
*
さっさと家へ帰って寝ようと思っていたのだが、思うように脚が動かない。身体がワンテンポ遅れて反応する。軟体動物にでもなった気分だ。今、現時点で私みたいに歩いている人間が一体何人いるもんかな。――などと考えていたら、向こう側の歩道を、辛そうに歩く若い女性を見た。辛そうにと言っても、私と同様で、どこかこう――身体の反応が遅いように見えるのだ。浮かない顔をして――そう思ったのは彼女の切れ長の眼のせいなのだが――怠そうに歩いている。
私は彼女に見覚えがあった。日勤の時、昼飯時に何度かお客として来たことがあった。買っていったのは大抵おにぎり一つだけだった。十九になるかならないかの娘さんで、彼女はいつも鼻と口をマスクで覆っていた。そして、今日も着けていた。きっと身体が悪いのだな。彼女が私の視界にある時、私は彼女のことを意識せずにいられない。それはマスクのせいかもしれない。そのせいで、彼女の切れ長の眼がぐっと印象づけられて、私の注意を惹くんじゃないだろうか。
私は妙に彼女のことが気になって、後を付いて歩いた。こういうのを世の中ではストーキングとでも言うのかもしれない。そもそもが『忍び寄る』という意味なのだから。何も下心があるわけではない。ただ、やたらと興味がある。しかし、興味があるだけでそこから先に何も無いというのが問題だ。『話したい』だとか、『お茶にでも誘いたい』という明確な目的があるのであれば実行に移すまでなのだが、困ったことに、本当に何も無いのだ。ただ、もしこの人と接点を持つことが出来なければ、人生の十分の九は損してしまうのではないか、という妙な焦燥感が私の精神に作用している。別に損したって構いはしないのだが、もしこの機会を逃せばもう二度と巡っては来ない――というような強迫的な衝動が頭と身体を支配しているようだ。
私は彼女の後ろ姿を眺めた:一眼見て解ることは、まずやたらと身体が細いということ。近頃は無茶なダイエットの流行(皆んなガンディーにでも憧れたのだろうか)だとかで、細い人は沢山見慣れてはいるのだが、度を越して細い。普通の女性であれば土偶のような体型になるのだが、彼女の体型は一直線だ。黒い髪は肩胛骨のあたりまで届いていて、先の方で少しウェーブがかかっている。
あの細い肩に、後ろから優しく手を添えてあげられたなら……。『――してあげたい』なんて傲慢が過ぎるが、しかし、私の嘘偽り無い感情だ。少なくとも私は救われるし、もしかすると彼女だって救われることも――ないことは無いかもしれない。ただし、それは私と彼女が仲良くなってからの話しだけれども。そうでなければ、ただの逸脱行為以外の何物でもない。
彼女は大きな総合病院へと這入っていった。私もその後へ続いた。
病院というのは、異質な空間だ。人は大勢いるのだが、空気が停滞している、というか、時間が留まっているような錯覚に陥る。どうにも、私にはこの空気に馴染むことが出来ないようだ。私は明らかに浮いてしまっている。特に用も無いのに病院へ来ているような人間は、見渡してみたって私だけだろう。怪しまれたらどうしようか。その時には健康診断でもしておこうかな。もしかすると、仕事を探す上で必要になるかもしれない。
彼女は何度もこの病院に来ているようだ。私とは正反対で、彼女は自然と溶け込めているような気がする。
彼女は受付へ診察券を出すと、待合室の黒いシートに座った。
私は彼女の顔が見えるように、その向い側に坐った。特に、植木の隣を択んで坐った。そうすると安心できるかな、と思ったのだ。彼女の顔をよく観察してみる:どことなく疲れたような印象がある。髪の毛も細くて元気が無く、やはりどこか身体が悪いに違いない。最初からある印象のように眼は切れ長だが――マジック・アイズとでも表現すればいいだろうか――瞳は大きめで引き込むような魅力がある。眉は端が少し薄くなっていて、苦労性といった感じ。見るからにすっぴんで、少女じみているといえばそうなのだが、素朴でいい。何も舞台に立つわけではないのだから、化粧なんかしなくったって構わない。
彼女もこちらの視線に気づいたのか(或いはそれまで気づかないふりをしていたのかもしれないが)、こちらを見た。モロに眼が合ってしまった。使い古された表現で言うところの、眼と眼が交わった――というやつだ。私は一瞬身体が岩のように硬くなった。彼女もまた一瞬動きが止まった。そして、彼女は目線を上方の虚空に向けて、パチパチと二度まばたきをした。私はといえば、ガチガチに緊張した上、頭の中が真っ白になってしまった。心臓が烈しく搏っている。
なぜこんな気持ちにならなければならないのか解らない。頭が真っ白? こんなに判断力が失われるのも不思議で堪らない。もしかすると、この原因不明の感情というものは、世に言うところの『好き』という気持ちなのかもしれない。しかし、そんなこと解るもんか。何しろ、一言だって言葉を交わしたことが無いのだから。一言交わした途端に『はい、さようなら』ということだって考えられる。一瞬で芽生えたものは、一瞬で消え去る運命にあるものだ。
それでも、彼女の所作とか、雰囲気とか、何か確信めいたものを私の心に喚起する。あんな風にきしっと背筋を伸ばして、脚をぴったりくっつけて、今時こんな出来た娘さんはそうそういない。よっぽど躾られて育ったのか、或いは本人の趣味が素晴らしいのか、だ。 昔だったら、上品な身のこなしなんてものは甘やかされてきた証拠となるだろうが、現代では違うかもしれない。現代となっては、駅のホームで下品な恰好を公衆の面前で晒し、大声でけらけら笑い、好き勝手なことをしている方が、ずっと甘やかされていることになるんじゃあないか。元来なら、経済的に貧しい人間が陥る世界に、中流家庭のおぼっちゃんまでもが陥っている。そうかといって、本当に貧しくてアウトローの世界以外に生きるべき世界の無い人間も大勢いるのだから、もうわけが解らない。今の時代というのは、本当に無茶苦茶なのだ。これが多様化って奴なんだろうか。ともあれ、そんな無茶苦茶な時代の中で、この時代の垢にまみれていない人が、ふっと目の前に現れたりなんてすると、どうしても眼を奪われてしまうもんだ。
これが恋だというなら、きっとこれこそが最も純粋な形の恋であろう。友人関係から発展するものや、思想、趣味、経済力といった利害関係から生じた心地よさとは根本的に違う。しかし、アナクロニズムに充ち満ちている。今時、こんな恋が許されていいものだろうか。世の人の曰く、純粋な恋とストーキングは紙一重なのだそうだ。つまり、理窟で言い表せないような気持ちというものを世の人は認めたがらないし、相手だってどうしたらいいかその術を見失っているということだな。あくまで利害関係が成立したものでなければ、怪しげな目で見られるのがオチというものだ。要するに、古くさい表現で言うところの霊感的な恋というものは、昨今の社会においては容れる余地が無いということ。もっと言えば、現代において恋は死んだのだ。今は自由恋愛が許される時代となったが、それが結局恋を殺してしまったのだ。
はて、若い看護婦が彼女の方へ近づいて行く。彼女と看護婦とは顔見知りのようだ。愉しそうに話しをしはじめた。こちらからはその横顔が見える。よく店に来た聴覚障害の女の子の笑顔と似ているな。笑顔ってのはいいもんだ。話しをするだけで、あんな風に彼女を笑顔にすることの出来る人間になってみたい。私には笑顔にするといっても、嘲笑を買うくらいのことしか出来ない。彼女のへの字になった眼にはほとんど黒い瞳の部分しか見えない。あの瞳はもしかすると私を映しているんじゃないかという、たあいのない期待が一瞬心をよぎる。
私は耳をそばだてた。
か細いけれども、芯があって少し気の強い感じがする。しかし、全体的には可愛い声だ。そういえば、はじめて声を聞いた気がする。買い物の時に声を出すことは無かったらしい。まあ、友達と会話するのならまだしも、店員に向かって声を掛ける人間なって、ほとんどいないか。で、彼女がマスクをしているせいもあって会話の細部は聞き取れないが、『すごくいいもの』がどうのこうのと言っているようだ。
ふむ。『すごく』か。最近は老若男女揃いも揃って形容詞を副詞的に――形容詞や動詞――すなわち用言へと懸ける場合には、語尾を『――く』と連用形に活用すべきところを、そうしない。大概の人は『――い』と、形容詞の語尾を活用せずに気楽に遣っている。その中で、形容詞の活用を出来る人を発見するということは、ごたごたした住宅地に綺麗な湧き水を見つけるようなもんだ。それだけで、気分がいい。別に正しいとか間違いだとか拘るわけではない。そんなことはどっちだって構わない。もしかすると方言なのかもしれないしな。ただ単純に美しい、というだけだ。気楽な人の方がいいか、美しい人の方がいいか――。綺麗な水よりも、下町の水の方が好きな人だって大勢いるわけだし、それと同じようなものだよな。私は綺麗な水の方が好きだ。仮にそれが濁りやすかったとしても。その方が護り甲斐もあるってもんだ。
それより『すごくいいもの』って何んだろうな。彼女は一体どんなものを良しとするんだろう。興味がある。人間、趣味ってのは大切な要素の一つだ。どんなチョイスをするかによって、人間の価値ってものは月にもスッポンにもなる。ところでスッポンってのは悪いものなんだろうか――? そもそも月だって良いものなのかどうかすら疑問が残る。タロットだって、月のカードはあまり良い意味を持っていない。まあしかし、ともかくもどえらい差のあることだけは確かだ。それはともかく、彼女の外見から察するに、それは少女めいたものかもしれない。まったく、まるで彼女は少女と形容するにそのままだ。素朴で、現代的で、脆くて、あぶなっかしい。現代的といっても、何もけばけばしいわけではない。ただ、若さの故だ。美しい愚かさとでも表現すればいいだろうか。
こういう娘は付き合う相手次第でどうにでも転ぶものかもしれない。いわば澄んだ水のようなものだ。濁る時には案外あっけなく濁ってしまうだろうし、いい相手に巡り会えたならばきらきら光り輝くだろう。出来れば後者であって欲しいものだ。さてものもし私が彼女の相手だったとしたらどうかというと、それは限りなく前者に近いかもしれない。優しくしたいとかいう気持ちは傲慢さ以外の何物でもないし、私の持っている優しさなんてものは弱さ以外の何物でもない。こちらの弱さは相手にとっては甘さとなり、それは最終的に相手を破滅へ追いやる可能性もある。アメリカなどでは、一部の良識者から『ドラッグによってこの国は滅びるだろう』などと予言されているが、ドラッグなんて物質的なものよりも、精神的なものの方がずっと心配だ。なぜなら、それは誰の眼にも見えず、そして誰の手によっても破棄することが出来ない。
もしも、私がまだ十代の中学生だとか高校生だとかであれば、彼女へ気さくに話しかけ、知己を得るためにあらゆる努力を惜しまなかったかもしれない。つまり、オーナーに言えば私は善きサマリア人となることも可能だったのだ。しかし、私は決してそうはしない。私には『他人の厭がることをしない』というだけで精一杯だ。そうした消極性は、大人になるということと同義かもしれない。そういう消極的な大人を見て、子供は『ズルい大人』と呼ぶのだから。だったら善い大人とは何んなんだ。貫禄がありながらにして、子供の心を忘れない大人なのかもしれない。大体善きサマリア人だって、子供そのものじゃないか。道ばたに倒れている人間を助けるなんていう正義感にしろ、なけなしのお金を見ず知らずの人のために使うなんていうことにしろ、普通の大人なら決してそんなことはしない。なぜなら、それはあまりに純粋過ぎる行為だからだ。人は成長するに従って、純粋ではなくなっていく。純粋なままに生きていくことは不可能と言っても過言ではない。もし全人類が純粋を望み、穢れることを恐れたら、世界は極左か極右が支配するか、或いは自殺者で溢れかえり、それこそ人類は滅びてしまう。しかし、純粋でないから世界から戦争も殺し合いも無くならなし、人類は自らを疑い、苦しめずにはいられない。真実とは常に逆説的なものだな。
それにしても、一体何が私の純粋な気持ちだろうか。積極的に関わり合いになりたいのだろうか。そうだな、彼女のこれからの人生を私によって手助けすることが出来たら、どんなにか良いだろう。一度でも人生を無意味だと感じてしまったら、自分の為にのみ生きることなんて堪えられない。たった一人でも大事な人を仕合わせにすることが出来るなら、どんなに無意味なことだって、有意へと変わるかもしれない。いや、本当はそれすらも無意味なんだろうが、錯覚でも何んでもそういう気持ちになる――ということが大切だ。もしも救いだとか救済だとかいうものが実存するとしたならば、それはきっとそういったものに違いない。
突然、私は私と関わった動物達のことを思い出した。留守中に外へ出てカラスについばまれた鳩に、嵐の晩に餌をやり忘れて死んだその雛、為す術も無く死んでいった、まだ眼も開かないような仔猫、車に轢かれたらしい仔猫。
特に最後の仔猫は、私に向かって哀願の声を上げていた。あれに抵抗できるものがあるだろうか。いや、大勢いたらしいが――ともかくも私は一撃で仕留められた。
疵は頭部に僅かあるだけで、まだ助かる見込みがあるように思えたので、近所に新しく出来た獣医院へ連れて行った。しかし獣医が厭そうな顔をしながら、点滴を施しただけで、疵の処置さえもされることもなく、必要事項を記入し、治療費を払って獣医院を去った。つまり、助かる可能性はほとんど無い、この仔猫の生命力いかんだということらしかった。
『明日も――、来てください』
何度も来るようなことなら、疵の処置もしてくれるというのだろう。尤も猫族に限らず動物の自己治癒力は素晴らしいから、栄養補給さえ続けていれば疵の処置など却って脚を引っ張ることになるのかもしれない。思えば、私の幼少時分、共に過ごした老猫は、治療ための麻酔によるショック死だった。治療なんて迂闊に受けない方がいいか。
仔猫はその晩、突如として狂ったように部屋中を駆け廻り、壁に何度も頭をぶつけながら、最後的にはよろよろと倒れて、それからカッカッカッカッと細かく痙攣すると、牙を剥き、息絶えてしまった。鼻から血が出ていた。内臓か。いや、血が気管に詰まったのだな。
猫は飼い主のいないところでこっそりと死ぬという。ひっそりか。どっちでもいい、とにかく死に際を見られることを極端に嫌うらしい。私が飼い主として、この哀れな三毛嬢から認識されていたかどうかは定かで無いが、とにかく私は猫族諸氏から最も嫌われるようなことをしてしまったわけだ。厭われるくらいなら人間界でさんざ味わってきたことだが、嫌われるのは堪らないな。厭うの意味は受け身的で、嫌うの意味は能動的なように感じる。だからもう、動物は私の手では飼わない。特に猫は。
ともあれ、それらの残したものは蚤だとかが大部分で、あとは私の健康診断の要(伝染病の危険があった)と、精神的打撃だけだった。そして、それらは決して幸福とは言えなかっただろう。
動物と人とは同じではあるまい。しかし、結果が限りなく近いものになる可能性は高い。動物だったら、死んだら埋葬してやればそれで済むけれども、他人の人生について責任なんて持てない。まして、私のように世間から総スカンを喰っているような人間は尚更だ。何をしてやることも出来ない。無いものはどうしようもない。
大体、自分達だけ仕合わせになろうという了見が、我ながら許せない。これから千年もしないうちに、人類は人口爆発なりなんなりで、男女が会うことすら許されないかもしれない。地球にとって、人間の男女の恋愛はとんでもない悪行と化すわけだ。或いは逆に人口が激減する場合も考えられるが、それだって決して幸福なことじゃあないだろう。無理矢理相手を決められ、多産を強いられることになるかもしれない。それだというのに、私のように、こんな平和な国に生まれた人間が恋愛ごときにうつつを抜かしても許されるものだろうか。ただひたすらに労働をして、ぼろぼろになって死ぬことが正しいのかもしれない。いや、違うか。労働をするということは、それに比例して地球の生態系を脅かすことになりゃしないか。何よりも私が働けば私が働いた分だけ職にあぶれる人間も出てくるわけである。多大な税金を納めることも心配だ。カネを持て余した政府が過った公共事業に手を染めるとも限らない。残されるのは奉仕くらいなものだが、奉仕することで不幸になる人間も大勢出てくるのではないかと心配になる。――となれば何もしないことが一番のようだ。或いはさっさと死んでしまうことだ。今の地球において、生態系に組み込まれ得ない、人間という異常な数を占める種が死を択ぶということは、これから先、この上ない善行と化すかもしれない。人というものはしきりに倫理だ宗教だとアノ手コノ手の言いわけを発明するが、さらなる新しい哲学というものを発明しなくちゃならない。自らの手で、人口をきちんと管理出来るだけの、全く新しい哲学を、だ。それさえ出来上がれば、安心して恋愛というものに打ち込めるのだけれども。
まあ、こんな当てつけみたいなことを言ったってどうしようもない。後世の奴らのことなんて知らんとでも割り切ってしまわないことには、人間は生きていけない。まあ、だから近頃の子供はマセた挙げ句にグレてしまうんだろうけれども。親の世代の自分勝手の全てを蒙るのは皆んな子供だからな。グレない方が変だ。逆に『はい、そうですか』と何んでも言うこともきいてしまうような優等生の方が、よっぽどこれから先が思いやられる。言われたことを素直に聞く奴ほど、自分で答えを持ってないし、本当に解っているのかさえ疑わしい。まあ、奴らのほとんどは独善的だから、同情の価値も無いのだけれども。
だったら、私は独りで生きて無様に死んでいくしか、私の良心なるものを満足させる術は無さそうだ。そう考えると、不思議と胸が痛む。なぜこれほどまでに胸が痛むのか、不可解だ。
ここは病院だ。私は病気なのかもしれない。そうか。もしかすると、私には何か大切なものがごっそりと欠落してしまっているのかもしれない。小学生の頃、ある経験をした。カンニングだ。随分肝の据わったもので、テストの開始と同時に行った。まだ誰も問いにさえ眼を通していなかったが、支障はなかった。私の知りたかったのは名前だったからだ。名前蘭に何を書けば良いのやら、さっぱり解らなくなってしまったのだ。
右隣の生徒が慣れた調子で名前を書いていく。よくもこう、すらすら行くもんだ。私はそれを写した。『小川ゆう子』と。小川という名前は実に簡単でいい。縦に六本線を引けばそれでいいんだから。ただし、『ゆ』という字はどうにも定まらない。私は何度も書き直して、やっとそれらしいものが書けた。しばらく得々と自分の字に見入っていたのだが、大変なことに気が付いた。幾ら何んでも女の子じゃまずいだろう。というわけで、私は急いで名前を消すと、左隣に眼をやった。左隣は男子なのだ。
席は必ず性別ごとに縦に区切られていた。男女男女男……という工合にだ。しかも、かならず二人一組で、男子女子で席をくっつけ合うのだが、その時は男子が左で女子が右だった。くっつけ合うのだから、席替えの当たりはずれは実に大きい。厭な奴の席は露骨に争われる――皆んな厭がるのだ。逆にモテる子の隣の席は、表向きに争われることはない。きっと裏では確執があるのだろうけれども。
好きな子の隣を取ることが出来なかったら、今度は斜め後ろなど、視線の通る場所を択ぶ。好きな子のことはずっと見ていたい。何も欲情せんとして見ようってわけじゃあない。ただ、見ていたい。それでほっとすることが出来る。私は中央のやや後ろの方の席に陣取った。私の好きな子は、運動場側の窓際の席に坐っていた。それに、ここなら、気持ち一つでどこでも見渡せる――よっぽど座高の高い人間がいるなら、別だけれども。
――で、左を向くときに、桂馬飛びをした場所で、その好きな子が陽光を浴びているのが眼に入った。よく櫛梳かれた髪がプリズムのように虹色に輝いていた。その子は瞳の部分の多い大きな眼を半眼にして、テスト用紙に向かっていた。その細い眼がなぜかとても魅力的に思えて、私の頸と眼は見事なほどにその子の方へ固定されてしまった。
以前その子へ後ろから抱き付いたことがある。その日が寒かったせいだ。教室には一切の空調や暖房機器も無かったので、仲の良い者同士は男女を問わずひっつき合っていることが多かった。教室には二人きりで、私たちは帰り支度をしていた。何か取り留めのない会話をしていたのだが、会話の流れに乗って、後ろから両肩に手を掛けた。なぜなら、それが少しふっくらとしていて――それは毛糸のセーターのせいだったかもしれないが――いかにも柔らかそうで、そして暖かそうだったからだ。もちろん期待を裏切らずに心地よかった。その子も振り返って笑顔を送ってくれた。
その子をモデルに絵を描く機会が与えられたことがある。しかしよりにもよって版画であったために、それは酷い出来となった。水彩だったらクラスの誰よりも巧く描いてやったのに。――というのも、母親がいわさきちひろのささやかなファンで、部屋に印刷されたものを飾ったり、自分でも画材道具を引っ張り出してきて水彩画を描いたりしていた。私もそれに触発され水彩画を嗜んでいたので、少なくとも、義務でしか水彩を愉しむ機会の無いような人よりは描ける自信があった。
その子も私の版画を見て、非常にがっかりしていた。――ということは、私は大変期待されていたということである。これが他の女子だったら、私はハナッから期待されていなかったに違いないし、今までこうした機会があっても、同様で――というよりも私から描かれることをそもそも厭がっていたのだから。
まあ、その子は恐らく容貌に自信を持っていいタイプだから、可愛く描いて欲しいという願望というものはあって当然だろうが、それを差し引いても少しお釣りが来るような気がする。私に対して悪い印象を抱いてはいなかったろうし、たとい博愛のようなものであっても、こちらに対して良い印象を持っていてくれたのだろう。嬉しいものだ。
だからといって、これといって特別な感情があったわけではない。何しろ、子供の頃のことだ。正直なところ、犬や猫に対する愛情と大して変わりは無かったかもしれない。アイドルや女神様に抱くような気持ち――それは憧れというが――ではなく、同格や目下に対する愛着に似ていた。ただ、愛玩とまで言ってしまうと違和感がある。態度で示すことはできても、言葉では示すことのできない微妙な感情があった。
私は名前蘭にその子の名前を書き入れた。私はこの行為に不思議なエロティズムを感じはじめていた。他人の名前を使ってテストに臨む――名前という一個人に与えられた聖域を、私は侵しているのだ。
私はそのままテストに取り組むことにした。この一字一字がその子を犯す。テスト中にこんなに緊張したのははじめてだった。この快楽とスリルは、カンニングなんてささやかな過ぎる悪事では体験のしようもないだろう。
やがてテスト時間は終了し、恍惚の時は過ぎた。もしこのまま提出したら一体どうなるのだろうか。一名余分で一名不足しているのだから、誰が大ポカをしたのかはすぐに解るだろう。心ある教師ならこっそり忠告してくるだろうが、教師歴三十年のベテランにそんな細やかな気遣いができるはずもなくて、ホームルーム中に話しのネタにされるのがオチだ。そうなったら私はともかく、その子に対してひどく迷惑がかかるような気がした。
だからいざ提出する段になると、私は臆すと同時に醒めてしまい、名前蘭をまた消しゴムでこすった。ああ、私は所詮小悪党だった。大きな悪事を働くとなれば、紅くなるより蒼くなってしまうのだ。これは普通の感覚なのかもしれない。――とすると一般人と小悪党は小心という点で酷似しているということになるな。
そんなことをうだうだと考えていたら、最後尾の人がテスト用紙を勝手に持っていってしまった。名無しの権兵衛はよくある話しだから別にいいか。
それにしても、これだけ露骨にきょろきょろしている生徒がいたというのに、担任はまるで注意をしようともしなかったのは驚きだった。もしかすると全く気づいていなかったのかもしれない。細い眼をしばたたかせながら、よく解らない本を熱心に読んでいた。後日盗み見てみた感じでは教育に関係した雑誌のようだった。彼は嫌われ者の教師だったから、それを打破しようとしていたのかもしれないが、残念ながら教師という仕事――特に小学校教諭なんてのは、知術ではなく仁術だろうから、努力はまったくの無駄になっていたかもしれない。知にしても、知識ではなく知恵が要求されるはずだ。目の前の出来事から目をそらしたって、何も見えやしないだろうに。
考えていたら脳神経が活性化されてきたのか、自分の名前は自分の筆箱の名前蘭を見れば解るという、至極簡単なことに気づいた。莫迦みたいなことだが、あの当時私はまだ子供だったのだからしょうがない。しかし、物から名前を教えられるなんてどこか気が利かない。そこには私のイメージではなく筆箱のイメージしか無い気がする。
それにしても、その筆箱はテストの間中ずっと私の目の前にあったし、名前蘭は大きくとってあって視界に這入らざるを得なかった。見えすぎるということは見えないことと道義なのか。いや、それとも名前の所有権を筆箱ごときに奪われたのかな。まるで陳腐にして安っぽい童話の世界だ。ああ、書き割りの背景が見えてくる……。
他にもこんな経験がある。高校を辞める少し前くらいの頃だ。少しだけ恋愛めいた――決して恋愛とは呼べないものであろう――経験はしたことがある。ただ、その時の相手とは、二週間程度しか付き合うことはなかった。尤も、付き合うといっても一度たりともデートなんてしたことはなかった。ただ手紙のやりとりを数回やって、それから二人きりで会ったことが二度三度と、プレゼントを交わしたことが一度あるだけだ。合理的かつ現実的で、忙しい現代人にはふさわしい付き合い方かもしれない。今なら手紙の代わりに電子メールだろうか。写真だって携帯電話一台だけで済む。気にくわなくなったら、DELETEボタン一つで即消去。プレゼントも通販サイトで購入して宅急便で時間指定。どんどん安っぽくなっていくな。
話を戻そう。相手は一学年上の部活の先輩で、簡単にイニシアティブを執られることとなった。そのお蔭で口づけという貴重な体験をすることができたが、しかしそれはなんとも生臭いもので耐えられなかった。所詮私は精神ばかりを重んじる脆弱な本好きに過ぎず、肉感的な世界に対しては嫌悪感しか抱くことができない。
その体験の後、相手が私の背後から抱き付いてきたのだ。私の目の前には丁度置き鏡があって、私はといえば自分の顔を見ながら考えに耽っていた時のことで、思いもよらず、私は自分が他人を睨み付ける時の眼というものを見てしまった。抱き付いてきた相手の方は慌てて私を放し、謝りながらたじろいでいたが、あんな冷徹な一瞥を当てられれば当然のことだろう。何より、私本人がぞっとしてしまったのだから。
どうやら、後ろから抱きしめるという動作は、私にとっては特別な行為のようだ。人間というものは後方が死角であるから、特別警戒してしまうものなのかもしれない。もしも警戒されないとしたら、つまりそれだけ心が許して貰っているということになる。
ああ、彼女を後ろから抱きしめたい。
しかし、全体私の細い腕で彼女を護ることは出来ないし、どこかへ連れて行ってあげることはおろか、欲しい物一つ買ってやることは出来ない。自分独り生きていくために生という苦しみに喘ぐんじゃない、自分の大切な者のために生きるのだ。その為には、肉体的な力、そして或る程度の社会的な力――即ちお金というものがどうしても不可欠になってくる。それが無いからといって、一昔どころか二昔以上も前のマルクスボーイみたいな言いわけをするのは決して良いことではない。理想として追いかけるならともかく、それが信念無き妄想であるならば、気づいた時には犬のように生きるか、或いはアウトローに生きるかの道しか残されてはいないだろう。
何んとか、彼女を後ろから抱きしめられるような存在になることは出来ないだろうか。それにはあらゆる意味での力が必要だということは解っている。それらを手に入れるには、恐らく自分自身を鍛錬し直すしか無いだろう。しかし、そんなことが可能だろうか。人並みに働くことすらままならないような屁垂れに。
しかし、どうして何んの努力もしないままに、負け犬でなければならないのだろうか。負け犬になる前に何か、やるべきことがあるんじゃないだろうか。幸いなことに、私はまだ若い。世の中には十代で自殺してしまう人間もいるが――それは大抵はイジメなるものが原因のようだが――私はどんなに苛められようが、いびられようが、殴られようが、石を投げられようが、相手のことを心の中で嗤っていたものだ。なぜなら、それを支えるだけの自信があったからだ。尤も、その自信にはあまり根拠は無かったが、しかし、生きていく上で最も必要なものは自信ではないか。そして、それが若さの特権というものだ。子供めいていたっていい。むしろ大人は子供っぽいくらいがいいのだ。その子供じみた自信をもって、私は喜んで相手の罠に飛び込んで行ってやろう。受け流したり、避けたりなんてのは、姑息だ。学歴だろうが、資格だろうが、力だろうが、才能だろうが、一体何んだってんだ。全てを受け止めた上で最後にはフォール勝ちを奪ってやる。
まずは高校へ行こう。やり直すんだ。今からでもきっと遅くはない。通信制ならそんなに費用も掛からないし、仕事をしながらでも通うことが出来るだろう。身体も鍛えなきゃ。通信制じゃまともな部活も、ろくな体育の授業も無いことだろうし。陸の上でやるような運動よりも、水中での運動の方がいいかもしれない。プールにでも通おうか。プール代なんて月六万の食費に較べれば屁みたいなものだ。それに、身体が鍛えられれば、少しくらいの労働だったら妙な薬に頼らなくっても身体が自然と堪えられるようになるだろう。
しかし、惜しいな。もう彼女とは二度と会う機会は無いだろうな。あれだけいい娘なんだ、私が人生をやり直している間には誰かとくっついてるかもしれない。いや、もしかすると今でも既にくっついているのかもしれないが。まあ、そいつは碌でもない虫である確率が高いだろうがな。もし再会出来た時にそうなっていたなら、奪うまでだ。そのくらいの力と情熱が無くては、人生をやり直す意味も無い。望むらくは、今すぐに私が彼女を一生護り続けることだけれども、現在の私は世界で一番碌でもない虫――もとい負け犬だからな。今までこんな簡単なことに気づくことの出来なかった私自身が一番悪いのだ。
まさか、あの細い両肩のお蔭でこんなに考え方が変わるなんてな。弱さというのは、強さと紙一重なのかもしれない。問題は負け犬であるか、そうでないかの違いだ。彼女は肉体は弱いが、その分精神が強いのかもしれない。そうでなければ、私の心にこんな変化が生じるはずは無い。
私は奥へと消えていく彼女の後ろ姿を静かに見送ると、立ち上がった。帰ろうと思って廻れ右をすると、後ろで警備員が怖い眼で私を睨んでいた。
≪了≫