僕は長くて急な坂を下り、

 

 長くて急な坂道を、僕は地獄にでも堕っこちるように思いっきり駆け下った。いっそのこと派手に転んでしまえという想いで走っているのだが、意思とは裏腹に身体の方はしっかりとバランスを取ることに努めていた。憎たらしい。僕は僕が憎たらしいのだ。転んでしまえば、どこか楽になることも出来るかもしれないのに。
 なぜ僕がこんな投げやりな気持ちになっているかというと、――実は失恋してしまったのだ。相手は学院の中でもとりわけ綺麗な娘で、スラッとした長い四肢と、上品な表情、長くて自然な髪、それに驚くくらい大きくて、ぱっちりとした眼が印象的だった。尤も、『とりわけ綺麗』だと思っているのも僕だけらしく、友人に話してみたら「あれのどこが」と一蹴されてしまった。考えようによっては、気持ちの裏返し――つまり、友人も彼女のことを慕っていて、わざとそれを隠すために言ったとも考えられなかったが、しかし、長年の付き合いから、彼の言葉に嘘の無いことは容易に見抜くことが出来た。
 スラッとした長い四肢は少し華奢過ぎて本能的な魅力に欠けていたし、顔は整ってはいるものの、細さのせいで少し顎が尖り過ぎていたかもしれない。整髪料を付けない長い髪は少し風が吹くだけですぐぼさぼさになってしまったし、彼女の一番の魅力である眼だって、見ようによっては飛び出ているだけかもしれない。結局は、人によって受けとられ方がまるで違うわけで、――逆に言えば、だからこそ、僕は世界で最も彼女のことを慕っている人間であるということも、同時に言えるわけなのだが。
 しかし僕だって、何もただの面食いで彼女のことを好きになったわけではない。ほとんど事務的な会話しか出来なかったが、同じゼミで同じ研究をすることだってあったし、彼女と接する機会は幾らでも与えられていたのである。それに、話しをしたり、軽く打ち解けたからといって、相手のことがはっきりと解るわけではない。合同コンパなどで酒の勢いに任せて愚にも付かないことをベラベラと喋りまくったからといって、お互い心を通じ合わせたという話しを僕は一度も聞いたことがない。結局のところ、男と女との間にはどこにも橋の掛かっていない大きな崖があるのであって、その崖を渡って相手の許に辿り着くためには容易ならない努力と苦痛が伴うのだ。学生時分の僕らには、まだそんな芸当はとても出来やしない。だから、せめて相手のことをじっくりと観察するか、一方的でも呼びかけたりして、なんとか崖を渡る準備をしようとしているのだ。そして僕の場合は、特に前者の方が正しいと信じていたわけである。
 僕は何んとか観察の結果をまとめようとするのだが、彼女の行動や仕種には、どこか計り知れないものがあった。明らかに他の女性とは違っていて、――例えば僕は彼女がかしましく話をしている姿を一度も見たことがない。取り巻きの一同が、誰かをやり玉に挙げている時でも、彼女は決して愚弄と嘲りで馬鹿笑いすることはなかった。かといってネクラなのではなく、むしろ溌剌としていて花形にもなれるタイプなのだ。というのも、彼女のおとなしさは弱さによるのではなく、とりわけクールさによるのだった。これは肝腎なことで、弱さによるおとなしさは自己の抑圧だが、クールさによるおとなしさは自己の貫徹であり、アイデンティティーでもあるのだ。それが、彼女の外見的細さと巧くマッチしていて、もしも彼女が細い身体の上に、弱い精神の持ち主かったら、僕はきっと惹かれなかったに違いない。それだって、ただクールなだけなら魅力に欠けるが、彼女がふと気を許したような微笑みを浮かべたとき、少女じみた優しさと頼りなさが、何んとも愛らしいのである。
 それにしても、だいぶ勢いがついたものだ。交差点が見えてきた。このまま行くと、運が悪ければ自動車に撥ねられてしまうかもしれない。しかし、来るなら来い。運試しだ。こんなものも無事で通れないくらいなら、僕には運が無いということだ。僕はええいと一気に加速した。と、脇にある一軒の店から男が壷を大事そうに抱えて出てくるのが見えた。男はこちらを気づいていない。ああ、気づかず僕の進路上に出てしまった。これではぶつかってしまう。だめだ、こんな距離じゃ止まれない。何んだってあの男はこんなタイミングで店を出てきたんだろうか。これじゃ僕に運が無いんだか、相手に運が無いんだか解りゃしない。僕が「わあ!」と叫ぶと、男もやっと気づいて「わあ!」と返してきた。そして僕は眼を閉じてしまったのだが、それからの時間がやけに長く感じられた。ゆったりとした時間の中で紅茶でも飲みながらじっくりと物が考えられる――そんな気持ちにさえなった。死ぬ直前、人はパノラマ視現象(しばしば走馬燈に譬えられるものである)を体験するというが、僕はこれからそれを見ようとしているのだろうか。しかし、今更ふられるまでの行程を繰り返されて堪るものかと思った瞬間、僕は世界が凄まじい勢いで廻転したのを感じた。
 眼を開けると、丸い空が見えた。白くて薄い雲が数本走っていて、中央が少し薄くなって、周囲に向かって濃くなっていくグラデーションが気持ちの悪いくらいに綺麗だった。僕は今までこんな風にして空を見たことが無かった。だからじっくりと見入ってしまったのだが、お蔭で「くしゃん!」とくしゃみをしてしまった。どうしてだか解らないが、凄まじく鼻がくすぐったい。僕は起きあがって、鼻をさすった。
「鼻でもぶつけましたか」男が心配そうにこちらを覗き込んで、言った。男は無傷だった。 「こちらも不注意でしたがね。でもあなただって、この狭い歩道をあんな勢いで走るこた無いでしょう。酷いですよ。私はもう少しで大怪我をするところだった。え、私の怪我? ありませんよ。しかしあなたは何も覚えてらっしゃらない。あなたは私とぶつかったんじゃなくて、そこの、ほら、地面ですっかり砕けてしまっている、私の持っていた壷とぶつかったんですよ。私はあなたにぶつかられそうになったとき、その壷を放って反対側に避けたのです。どうです、思い出しましたか?」
 思い出したかと問われても困ったものである。何しろこちらは眼を閉じて要らぬことを考えていたのだから。しかし、僕は、男の言う通りに頷き、お詫びの言葉を二三言述べ、壷を弁償するからと申し出た。
「いえいえ、いいんですよ。あの壷は古くからうちにあったものなのですが、いい加減場所を取るので、処分してしまおうと思ってましてね。しかしもしもお金になるものだったらと思って、そこの骨董屋に持っていったのですが。どうやらこれが全く価値の無いものらしいのです。主人が言うにはね、『これには全く価値が無い。これの取り柄といったらでかいということだけだが、この大きさではかさばってしまって却って邪魔になってしまう。本当はうちでも要らないくらいですが、お客さんもこれを持って帰るのは労でしょうし、もちろんここまで持ってくるのだって、随分ご苦労なすったことでしょう。そこで敢えて値段を付けさせて戴くとしたら、そうですね、千円くらいで買い取りましょう』ということなんです。酷い話しでしょう。さすがに千円で売るのも癪に障りましたからな、もう少し高くで買い取ってくれるところを探そうと躍起になっていたのですが――ええ、実はあの店で三軒目だったんですよ――しかし、あなたがぶつかってくれたお蔭で何んだかせいせいしたような気がします。もうお礼を言いたいくらいなんですよ、ええ、これは本心から言っているんですよ。我ながらつまらないことに意地を張っていたものです。本当にあなたは空から降ってきた幸運の星のような人です。あ、立てますか? さあ、手をお貸ししましょう。ああ、こんなところにすり傷が出来てますよ。大丈夫ですか? そうですね、名案を思いつきました。私は壷を割られた立場で、あなたは怪我をしてしまった。これでお互い損得ゼロということでいかがでしょうね。尤もあなたのとしては、ご自分の怪我は千円以上の価値があるとお考えかもしれませんがね、しかし、この事故はあなたに大きな過失があるということは明白ですし、ここは一つ、お互いの為にも音便に解決しようじゃありませんか」
 男はほとんど捲し立てるような工合で、僕に話し掛けてきた。僕はといえば、ただ頷くだけしか出来なかった。まだ少し『悠久の時間』の後味が残っていて、それに酔っていたのである。男の方は話しのカタが付くと、壷の残骸を足で手早く道の脇に片づけると、そのまま去っていった。僕は暫く呆然としていたが、ゴミはちゃんと片づけなければならないと思い、壷のなれの果てを、持っていたカバンの中に放り込んだ。そしてやっと傷の手当てをするべきだという考えに行き着き、急いで家に帰った。

 アパートに戻り、僕は大変な体験をしてしまった。今、僕の目の前には貧乏神が坐っているのだ。
「失礼ですね。貧乏神なんかじゃありません。あんたは壷に激突なすって、その衝撃で壷が割れましたがな、そん時にあっしも解放されたというわけです。あっしはあの壷に閉じこめられていた魔人なんです。あんたもアラジンの話はご存知でしょう。あっしが少しばかりの悪さをして罪に問われた時、裁きの神があれに倣って、壷に閉じこめたというわけなんです。尤も、ご覧になって解ります通り、あっしは日本の神の一人です。アラビアンナイトの翻案だと思えばいいんですよ」
「じゃあ、おまえは僕の願いを叶えてくれるのかい?」
「そうです、そうです。そうすりゃ、あっしの罪は完全に償われたことになるんです。但し、あっしの罪は軽かったので、願い事は三つではなく一つきりです。しかも一週間の時間制限つきです」
「時間制限だって? ちぇ、とんでもない偽物だな。これじゃお金持ちになったってしょうがないというものだ。それじゃ何を願ったってほんの少しの夢を見るに過ぎないじゃないか」
「だったら恋愛はどうです? 恋愛沙汰は、あっしの得意分野なんですよ。壷に這入る前には、縁結びの神をしていたんです。本当ですよ。信じてませんね」
「だったら、彼女が僕のことを好きになるようにしてほしい。たった一週間でもいい思いをしてみたい」
「それは出来ません」
「なんだって、出来ないんだ。やっぱり偽物だな。とんでもない嘘つきじゃないか」
「いいえ、違うんですよ。あっしだってね、例えば黒いものを白くしろと言われれば出来ますよ。でもね、既に白いものを白くしろと言われたって出来ないんです」
「それは、どういう意味だい?」
「つまり、あんたはもう既に彼女から好かれているんで。だから、あんたを好きにすることなんて出来やしない。もちろんあんたにベタベタするように彼女の性格を弄ることは出来ますよ。でも、それじゃきっとあんたは満足なさらないし、それにあんたの願ったことは『彼女が僕を好きになること』であって、『彼女の性格を人なつっこく変える』ことじゃありませんからな、契約違反になってしまいます」
「ちょっと待った。おまえは間違っているよ。だって僕はついさっき彼女にふられたばかりなんだ」
「はっはっは。あんたはまだお若いですからな。急ぎすぎたんですよ。もっとゆっくり彼女に馴染むべきだった。何もかもが誤解だったんですよ。ただ彼女の性格が、簡単に男に落とされることを許さなかったのです。そして、彼女自身もあんたをふったという気持ちはなくて、今はとりあえず様子を見ようと思って返事をしたに過ぎないのです。それをあんたは早合点して、ご自分はすっかりふられたものと勘違いしてしまった。これが事の真相なのです」
 僕はすっかり度肝を抜かれてしまった。よくよく考えてもみれば、確かにこの魔人の言うことは当たっていたかもしれない。彼女は僕の申し出を断る時、邪険ではなかったし。僕が侮蔑の眼だと思っていた、なかなか眼を合わせようとしないあの微妙な視線も、ただ戸惑っていただけかもしれないのだ。
「お前に頼んだ願い事は、確か一週間で切れるんだったな?」
 僕は改めて確認しておいた。

 それから一月が経過した。今、彼女は僕の隣ですやすや寝息を立てている。僕は魔人を使って、見事に彼女を手に入れたのだ。僕が一体どうしたかというと、魔人に『彼女が僕のことを嫌いになるように』と願いを掛けたのだ。すると、彼女は一週間の間、僕のことを毛虫のように嫌っていた。しかし、それが過ぎると、突然彼女は情熱的に僕のことを慕ってきた。一週間の間抑圧されていた『好き』という気持ちがやっと解放されて、以前よりもずっとはっきりした形で彼女の心に顕れはじめたのだ。しかも、突然の心境の変化に、彼女自身も僕のことをよく考えてくれたらしい。そしてより一層僕のことを好きになってくれたというわけだ。
 それにしても、魔人が偽物で良かった。もしあいつが本物だったら、本当の意味での幸福を掴み取ることは出来なかっただろう。


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