感想・批評(アンリ・ルソー「蛇遣いの女」)

 

   アンリ・ルソー「蛇使いの女」

 Henri Rousseau (1844-1910)。日本語だとへび使いの女とかヘビ使いの女とかへびつかいの女とかなってしまって検索するのにも困ってしまいますが、原題は"La charmeuse de Serpent"。原題で検索すれば、あっさりと画像にありつけます。
 ルソーの絵や、ルソーの存在自体は以前から知っていましたが、『へー、珍しい描法する人だなー』って程度のイメージに過ぎませんでした。独特の空間感覚なんですよね。遠近法が用いられていないので、遠近法に慣れた人間だと歪んでいる、と違和感すら感じるそうです(私は全然そのように感じません。これも慣れですね)。もちろん現代では同じような絵柄に挑戦している人が沢山いることは確かで、そういうものを知っている以上、そこまでのインパクトしか受けなかったのかもしれません。
 ところが、その世界の良さに惹かれだしたのは、片想いの相手が「蛇遣いの女」の見事な模写(1/4)を展示してからです。がーんと衝撃が頭に走りました。やっぱりポスター印刷や画集で見る程度ではダメで、たとい模写であっても、絵の具で描かれた≪本物≫である必要があった。そこには描いた人の気持ちが宿っていて、文字で言うなら≪言霊≫が宿っているのですよね。だから、見る人の心を搏つことが出来る。幾ら本物を撮影したものであっても、ポスター印刷からでは感じることが出来ない。(その子はオリジナルも幻想的な作品なので、大いに意識していることは間違いないと思う)
 あの葉の一枚一枚が素敵で、私は『亜熱帯植物園みたいだな』と思ったものです。ただそれも意外と間違いではなくて、ルソーはジャングルを描いたわけではなく、実際にはパリの植物園に通って描いたのだそうです。楽園は意外と近い場所にあったわけですね。むしろ実際にジャングルを見て空想するよりも、植物園から空想を羽ばたかせる方が、芸術家としてはずっと一流だと思います。
 私は絵の方は大したことありませんが、むしろ文章の方で根幹から揺るがすほどの大事な影響を受けました。今の私の文章があるのは片想いの相手と、ルソーのお蔭ということになりますか。
 絵と文章は切っても切り離せない関係にあると思う。小林秀雄のエッセイはまさにその好例ですね――文章を読むだけでまるで眼の前に絵があるかのような錯覚を受ける。星新一は一コマ漫画の蒐集が趣味だった(『進化した猿たち』全三巻・絶版)といいますが、あのショート・ショートの鮮烈な切れ味は、芸術的なほどの鮮やかさを持つ一コマ漫画から培われたのかもしれません。文章でも芸術でも、最も必要なものは感受性です。絵を愛する心の無い感受性に乏しい作家は、せいぜい客に媚びた下らないものを書くのが限界ではないでしょうか。

 ――この「蛇遣いの女」はルソーの代表作中の代表作で、レコード・CDのみならず、テレビ番組(テレビ東京『美の巨人たち』)でも採り挙げられているので知っている人は多いと思います。本物は今、オルセー美術館が所蔵しているのでしょうかね。
 ルソーについて色々調べてみるとこれがまた面白い。ルソーの好感を持てるところは、断じて天才などではなく、天然であったということですね。幻想を描こうとして描いたなら天才、アカデミックを目指して描こうとしてああなってしまったのだから紛れもなく天然です。もし、天才が意図してあの幻想的な絵を描いていたとしたら、それはそれで怖かったかもしれない。ポール・ゴーギャンのように文明から逃亡することになっていたかも。世の酷評にも堪えられなかったと思います。ルソーの成功は天然あってこそ。天才は決して天然には勝てない。

 さて、片想いの相手には感動を伝えきれないままに、それっきりです。≪言霊≫を信じる私ですから、やっぱり感動も自分の口から直接伝えたかった。だから、ゆっくりした場所でお話ししたい、と手紙に書いたのですが……。そんなことよりもむしろ『あなたの絵を買いたいです』(本当に欲しい)くらいのことを書いた方が良かったのかもしれません。今の世の中では真正直な言葉よりも、数字やお金の方が信頼されるでしょうから。それでもまだ、起死回生は信じていますけどね。それくらい、真剣にショックを受けました。

参考資料:
岡谷公二「楽園の謎」新潮選書


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