一
再会した里美はすっかり人間の女に化けていた。初めて出会ったときは、間違いなくゴボウのお化けだったはずなのだが。それが今となっては色白の肌に、長い髪まで被せているのだ。しかし、化け方がもう一つ足りないのかどこか欠落したところがあった。
どう欠落していたかというと、何もかもが足りないのだ。例えば言葉である。助詞が抜けるところまではいい。そういう人は大勢いる。しかし、里美の場合はそれだけではない。主語や目的語が抜けてしまうことがままあったのだ。しかも、話す内容まで抜けている。どう抜けているかというと、本来踏むべき会話のステップを二、三個端折ってしまうのだ。僕が「今日はこれからどうする?」と問うと、しばらくして「明日やるから」と返ってくる。まるでなぞなぞの世界。これでは謎解きに忙しくて、会話どころではない。それと同様のことが、一つ一つのやりとり、一つ一つの挙動、一つ一つの表情にも起こっているのだから、相手をする方は堪ったものではない。
フェリーは勢いよく波を掻き分ける。僕らは後甲板に出ていた。真夏の日光が容赦なく照りつけてくる。僕らは船室の蔭に腰掛けた。
ハンカチで顔をパタパタと扇ぎながら、里美が話し掛けてきた。
「暑いねえ、帽子被ってくれば良かった」
彼女は日焼けしたくない、と言っているのだ。
「だったらきっと、さっき甲板に上がった時に飛ばされてただろうね」
僕がそう言うと、里美は「あー、あー」と何度も頷いていた。甲板から上がる際、舷側の方のドアから出るのだが、そこは風を防ぐものが無くて、風がモロに当たってくる。着ている服でも飛ばされそうなのに、帽子ではひとたまりもない。まして、どこか抜けている里美なら、なおのことだ。それについては、恐らく自分でも自覚があるに違いない。
僕らは二人並んで影のベンチに腰掛けた。僕は何とは無しに里美を見た。里美はスクリューが起こした白いあぶくを眼で追っていた。里美の身体に視線を落とした。薄いシャツが汗を吸って、下着が透けて見えていた。それをじっと見つめる。里美は気づいてはいなかった。いや、気づいてはいるが、むしろ気にしていないだけだろう。そうに違いない。ならば、と僕は見続けた。レースの模様を見ているうちに『里美も大人になったのだな』と思った。
洗濯物の山の中に、一度母親の下着を見たことがあった。僕にはそれが奇怪な生き物のように見えた。生き物じゃないと否定するには、あまりにも生々しすぎたのだ。大体、沢山穿たれた穴がまるで目玉のように見えるじゃないか。『大人はどうしてあの奇怪な生き物を身体に付けるのだろう』と僕は思ったものだ。そして、こう結論付けた――『大人になれば、奇怪な生き物を身に纏わずには生きていけないのだ』と。
そして、里美は今同じように奇怪な生き物を肌に付けている。そいつは沢山ある眼で、僕のことをじろじろ見ているのだった。
「わ、じろじろ見ないでよ」
突然里美が服を押さえて、僕を非難した。僕はどきっとして里美の顔をぽかんと見た。心の中を読まれたのかと思った。
僕らの目的地は『島』である。目的地ははっきりとしていたが、目的ははっきりしていなかった。とにかく僕らは『島』へ行くことになっていた。里美がどうしても『島』へ行きたいと言ったからなのだが、その理由は今になっても教えてくれない。
『島』は無人島である。しかし、それは常時生活を送っている――いわゆる住民がいないというだけであって、全くの無人というわけではなかった。半日もあれば一周できてしまうような広さの土地に、記念館、子供達に体験学習をさせる為の公共・民間の施設、別荘などがあった。他にも墓地、崩れかけた無人の小屋や、破れ果てた漁網などが放置されてあった。昔、この島で人が生活を営んでいたのだということを無言で語っている。
僕は過去に一度だけそこを訪れたことがある。そこで、初めて里美と出会ったのだった。それは僕がまだ十歳で、里美が十二歳の頃だった。僕は『島』へは体験学習にやってきた。『ツバメの小屋』という民間の別荘兼施設に親子連れで一泊し、森をウォークラリーしたり、海岸の柱状節理を見学したりする。そこは里美の叔母さんが運営していた。里美は親戚の家に遊びに来ているという風だった。
偶然、僕も里美も同じ名字だったので、最初からお互いに名前で呼び合った。それが却って親近感を増したのか、すっかり意気投合し、他の子達はそっちのけで、二人して森の中を駆け回ったり、廃屋に潜り込んだりして遊んでいた。里美があまりにボーイッシュ過ぎたので、僕はてっきり男の子だと思っていた。
僕は、僕と里美の母親同士が話しているのをこっそり耳にしたことがある。
「まぁ、二人とも本当の姉弟みたいね」
「あら、『本当の』なんて変ですよ。義理の姉弟ってわけでもないんですから。むしろ、夫婦って感じじゃないかしら」
「でも、夫婦はあんなことしませんよ。恋人のうちだけ」
二人は大声で笑っていた。そのことを里美に告げたら、何を思ったのか里美は僕を廃屋に連れ行って、二人で結婚式を挙げた。僕の方は男同士結婚できるはずがない、などと酷く厭がっていたような気がする。
里美とはすぐに離婚することになった。なぜなら、『島』を離れてしまえば、二人の縁は繋がりを失くしてしまうからだ。――にも拘わらず、十年も経った今、僕は里美とこうして並んで坐っている。差詰め、よりを戻したとでもいったところか。
きっかけは一週間前に掛かってきた、一件の電話からだった。『ツバメの小屋』の帳簿に残っていた電話番号をもとに、里美は連絡を執ったのだった。電話は公衆電話からだった。その電話から、里美が二年前、火事で両親も家も亡くしてしまったことを僕は初めて知った。
フェリーが島に到着した。足を地面につけると、地面が歪んでいた。
海からの風の音に、森から聞こえる蝉の音――音は充ち満ちているはずなのだが、一向に音を感じなかった。まるで小さな部屋で里美と二人きりでいるような気分だった。きっと蝉の鳴き声が鼓膜を衝くのと、沈黙が鼓膜を衝くのが似ていたからかもしれない。
道路――といってもアスファルトではなく、細かい石を沢山敷いた砂利道だったが――を歩く先に、青紫色の光沢を放つ虫が、僕らの行く先を示すように小刻みに飛んでいた。僕らが近づくから逃げているのだろうが、必ず僕らの進行方向に逃げるため、ずっと僕らと付き合う羽目に陥っていた。それは極めてシュールな光景のように感じられた。どんなに歩いてもちっとも進んでいないのではないかと錯覚し、余計に小さな部屋にいるのだ、と感じた。
島の記念館の前を通り過ぎようとした。古ぼけたドイツ式の木造建築物で、今は開いていないらしい。角の植え込みに隣接して清涼飲料水の自動販売機があった。
「飲み物、買うんだったら最後だから」
里美は、薄紫色の花の刺繍がしてあるハンカチで汗を拭いながら言った。
僕は財布を取りだし、緩やかにファスナーを引いた。『ジー』という音が、やけにリアルに感じられて、僕は小さな部屋にいる感覚を失った。音が蘇った。強制的に正気に戻された。ちょうど顔に冷水をぶちまけられたような感覚だった。
僕は小銭をコイン口から一枚、二枚と放り込んだ。吸い込まれていくように、コインは消え『カタリ、ガタリ』と落ちていく音が聞こえた。僕は子供の頃からこの音が嫌いだった。こちらから見えないところで、何がどうなっているのかよくわからない。同じお金を入れているのに、貯金箱に入れる時の音とは明らかに違っている。自慢ではないが、僕は不可解なものに対して理不尽なほどの嫌悪感を抱いている。そしてそれを誇りに思っている。だから自動販売機も嫌いなのだ。しかし、たとい嫌いであっても必然的に行動をしてしまう時がある。人間って難儀だな。
僕は何も考えずに、自分の顎の高さくらいのボタンを押した。『ガタリ!』と一際強い音がして、取りだし口に青と白のツートンカラーの缶が見えた。再び『カタリ、チャッ』とコインが落ちる音がしたので、釣り銭口を見たが、何も無かった。紛らわしい音だ。コイン受けは二重構造になっているのだな、と考えた。牛の胃を想像する。自動販売機は『ヴーン』と、牛のような声で不機嫌に唸った。それは四秒間ほど続いた。
僕は缶を取り出すと、口のところに書いてある通りにプルタブを引いた。『プシッ』と鋭い音がすると、口から白い気体が柔らかに昇ってきた。スポーツドリンク独特の臭気が鼻を突いた。「まるで毒薬だ」と僕は軽くつぶやいた。里美は何も言わずにこちらを見ているだけだった。聞いてなかったな。僕はぐいと呷った。冷たい感覚が口中を潤し、次いで喉、食道、胃を潤していった。さらに喉を通りきれなかった分は口の周り濡らし、服と乾いたコンクリートに染みを作った。
「わ、すごい。一気だ」
里美は両手を合わせ、わざとらしく驚いてみせた。次に皮肉っぽく微笑むと、身体に悪いからやめた方がいいと付け加えた。里美は少し考えてからさらに悪戯っぽい微笑みを浮かべ「毒薬だからね」とまで付け加えた。
口が不快だ。スポーツドリンクは甘すぎたのかもしれない。舌で口蓋を舐めてみると妙にねばねばしていて、変な味がした。僕は唾を吐き捨てたが、唾は切れずに口と地面を透明な糸で結んだ。
「何やってるんだよ」
と、里美はハンカチを差し出した。さっき、里美が汗を拭っていたハンカチだった。里美はきっと無意識に拭っていたから、自分が使っていたことをうっかり忘れて差し出したに違いない。僕はそれを手に取ると、口を押さえた。息を吸うと、コロンと汗の混じり合ったような匂いが口の中と鼻腔を満たした。思わずむせてしまった。
「あ、大丈夫? あ、あ、ごめん、ハンカチ、使ってたの、忘れてた」
里美はやっとそれを思い出したのか、恥ずかしそうにしていた。僕は「ありがとう。洗って返せないけど」とハンカチをそのまま返した。
僕らは再び歩き始めた。暫く歩いていると、里美が誰に話し掛けるとは無しに言葉を発した。
「蝉の鳴き声、本物だね」
「本物?」
僕は理解できずに訝った。
「都市の蝉の声は贋物だからね」里美は続けて言った。「ミーン、ミーンってミンミンゼミのが聞き取れるんだよ。可笑しいよね。本当の蝉の声って、今こういう風に、クマゼミのだかアブラゼミのだかも解らないくらいに混じり合って全部が平板なノイズで、一匹一匹の声が聞こえたら、変なんだよ」
どうにも要領を得ない説明であったが、森や林で聞こえる、暴力的とも言える鳴き声の応酬が本物で、街路樹から聞こえるような独演は贋物だと言いたいのだろう。少々乱暴な論理だが、僕にとって解らないことはなかった。テレビなどで効果音集に収録されているような『ミーン、ミーン』という蝉の鳴き声が聞こえると、僕はいかにも作り物だと感じてしまうのだ。直線的なノイズの方が、九州の山中で育ってきた僕にとってはずっとリアルな存在なのだ。そして、それは里美にとっても同じことなのだろう。世間一般ではうるさいうるさいと言われてあまり愛されないタイプの鳴き声だろうが、そんな泥臭さがいかにも九州の山中と言えなくも無かった。
僕は里美の言葉に何度も頷いた。頷きながら、里美の影を見ていた。濃い影が淡い湯気を立てていた。
二
二時過ぎ、ようやく『ツバメの小屋』に着いた。
五、六人の子供達が庭で遊んでいた。今日が最終日だそうだ。
僕は畳の上に正座した。何も正座しなくても、と叔母さんが言ったが、僕はこの方が楽なのだと説明した。左右に体重を傾けるとくるぶしがゴリゴリと鳴って、脚の疲れが少しばかりほぐされる気がする。
ゴリゴリにも飽きてきたので、じっと耳を澄ましているとどこからともなく「キュリキュリ」という、何かが軋むような音が聞こえてきた。部屋を見渡してみると、一台の冷風扇から出ている音だった。
頭痛を覚えた。旧い記憶が頭を鉤爪で引っ掻くようだ。思わず頭を抱えて、ふらりとした。
僕はどういうわけだか、里美の父親と会ったことがある。
里美の父親は比較的シックな部屋に棲んでいた。ほとんど動かずに安楽椅子に腰掛けたままだった。部屋の片隅には木目模様の冷風扇があり、「キュリキュリ」と音を立てていた。「キュリキュリ」という音は、中のフィルターを廻転させる際に発生する。冷風扇とはタンクに水を詰めて、その水を目の粗い廻転式のフィルターに含ませ、そこを通る空気を気化熱で冷却する仕組みになっているのだ。そのせいか、部屋はやたらと湿度が高かったような気がした。
僕は好奇心から近づいて、里美の父親の顔を覗き込んだ。穏やかで理知的な表情――それにカイゼル髭が印象的であった。右手に丸い眼鏡を引っかけたままじっとしていた。起きているのか眠っているのか。もしかすると死んでいるのかもしれない。僕はじっと見つめていた。
「どうしたの?」
記憶の中を深く深く潜行していた僕を、里美が呼び戻した。僕は、里美の父親のことを話した。里美は笑って、そんなはずはないと応えた。この建物にシックな部屋があるかどうかも尋いてみたが、同じことだった。とすると、あの男は一体誰で、そしてあの部屋は一体どこにあるのだろうか。
このやりとりを聞いていたのか、叔母さんが数冊の重たいアルバムを持ってきてくれた。開いてみると、まだゴボウだった頃の里美が写っていた。入浴中の素裸の写真までもがあって、里美は耳まで真っ赤にして、慌ててアルバムを僕から取り上げてしまった。僕は仕方なしに別のアルバムを手に取り、ページを繰った。
こちらのアルバムは、建物の写真だった。建築されていく過程を詳細に撮ったものだった。中には、現実には撮影不可能ではないかと思えるような角度の写真もあったが、叔母さんが「ここは木に登って撮ったもの」とか「溝に下りて撮ったもの」と解説を入れてくれた。最後に一枚のモノクロ写真が出てきた。このアルバムでは、人物はこの一枚だけであった。これが里美の父親の若い頃の写真だという。写真に撮られることを極端に嫌った人だそうで、残っているのはこれ一枚っきりだそうだ。僕はその写真を食い入るように見た。正直、よく解らなかった。記憶の中の男とそっくりというわけではないが、まるで別人とは言い切れないようなところがあった。髭があれば解ったかもしれないが、写真では綺麗に剃ってあった。
全てのアルバムを見終わったが、結局解らずじまいだった。頸が痛くなっただけだ。麦茶を飲みながら、時折外の子供達を眺めたり、ブンブンとけたたましい羽音を立てて今にも網戸を破らんとする特大の蝿だか虻だかを見たりしてぼんやりと過ごした。そもそも何をするとも目的を持って来たわけではない。することなんて何もなかった。子供の頃だったら無意味に外をかけずり廻ったろうが、今となってはそうもできない。この島まで来るだけでも、だいぶ疲れてしまった。それに暇を味わったことがきっかけで、日頃の疲れがどっと出たのかもしれない。学校の授業が終わった後にはコンビニでアルバイトをしている。学校は今年で多分卒業出来るとは思うが……来年の僕は一体何をしているだろうか。僕は軽くあくびをした。これが一度目のあくびだったが、今回の旅の発案人である里美の方は、僕よりもずっと暇そうに何度も何度もあくびを繰り返していた。さらに、寝そべって、ごろごろした挙げ句、時々脚をバタバタやる。まるで暇を絵に描いたような光景には思わず吹き出しそうになった。
「随分暇そうだな」
「うん、いつも本読んでるんだけど、こっちには読む本が無いから……ふあぁ」
また大きなあくびをする。普通の女性に見られるような恥じらいなど影も無い。見た目にはだいぶ女になったが、やはり中身はゴボウのままなのか。僕は苦笑を抑えられなかった。
「だったら、文庫本の一冊でも持ってくりゃいいのに」
「そんな、重たいじゃない」
「たかが文庫一冊。ポケットに入れりゃ済むじゃないか」
「入らないよ。ポケットあるの、ジーパンだけだもん」
「だったら、カバンに……」ここまで言って思い出した。僕は里美がカバンを持っている姿を一度も眼にしたことがない。「お前、まさか手ぶらで来たんじゃ」
「もちろん、手ぶらだよ」
「そんな、泊まりだぞ。そこら辺にウィンドウ・ショッピングに来たんじゃないんだ。着替えとかどうするんだ」
「叔母さんに借りれば済むよ。行きと帰りだけは自分の服で。洗濯だってできるんだし」
呆れたものぐさぶりだ。
まだ何か言ってやろうと思ってもう一度里美を見ると、もうすやすやと寝息を立てていた。その気持ちよさそうな顔を見ていると僕も眠気に誘われ、並んで横になった。まるでガキだ。自分でもひどいもんだと思いながら、眠りに落ちた。
目覚めたときには、だいぶ日が落ちて空は紅く変わっていた。子供達はもう帰ってしまっていた。叔母さんと里美は夕食の支度をしていたが、もうほとんど済んでしまっていたらしく、食卓には食器が並んでいた。かったるそうに箸置きを並べていた里美が僕の起床を確認すると、外を歩こう、と持ちかけてきた。
夏とはいえ、夕暮れ時には涼しい風が吹く。特にこの島は四方が海なのだから、風には困らない。潮風は適度な粘つきがあって、却って心地よい。
歩きながら、僕は例のカイゼル髭の男のことを考えていた。あれは一体誰だったのだろうか。どうしても忘れられない。思い出せば思い出すほどモヤがかかってくるようであった。
森を抜けて歩いていくと、鳥居があった。僕らはそれをくぐった。何段もの階段を上ったところで、里美が立ち止まったので、後ろから抱き捕らえた。ちょうど僕の鼻のところに里美の頭がある。里美の汗の匂いが鼻をついた。あのハンカチから匂ってきた匂いと同じだった。
里美が歩き始めたので、僕は里美を離した。目の前の破れた建物の方に里美は歩いていった。
「お堂か」と僕がつぶやくと、里美が「お社だよ」と訂正した。
神様がお社で、仏様がお堂だった。キリスト教が教会でイスラム教はモスクだったか。神様は自由に住まいでさえ択べないのか、気の毒なものだ、と僕は思った。
「そうだ、御神木」
里美は僕の手を引いた。僕はわけも解らずに引っ張られた。
社の裏手には、大きな木があった。いかにも御神木らしく注連が張られていた。
里美はその木にまとわりつくようにしていた。両足を開いて両手で大木を抱えている姿は、いかにも可笑しな情景だった。
「ねえ、そっちお願い」
僕も里美に促されるままに大木を抱えた。かろうじて両手の先端が里美の手に触れた。
「あ、たけくらべだ」
里美は僕を片手で引っ張ると、木の一端を指差した。その部分をよく見ると僅かな疵があった。疵は一つだけで、たけくらべにすらなっていなが、その意図は見て取れる。しかし御神木にたけくらべをしようなど、バチ当たりなものだ。そんなことをするような奴の顔が見てみたい。
「懐かしいなー、これ、確か君のだよ」
僕は面喰った。そんなことは記憶にない。
「君を立たせてね、私が線を引いたの」
「そんなことして、よくバチが当たらなかったな」
「さあ、もう当たったかもしれない」
と、里美は苦笑いをした。僕は里美の両親が亡くなっていたことを思い出して、口をつぐんだ。
「ほらっ、ちゃんと立って……」
里美は僕に抱きつくようにして、身長を刻み込もうとしている。里美の息がかかる。何か飴のような匂い。――閃光のように過去の光景が襲ってくる。あの頃は里美の方が身長が高かったから、里美は小さな僕に覆い被さるようにしていた。そして確かに僕の身長はこのご神木に刻み込まれた。
「すごい、こんなに伸びたんだね」
里美はなぜ、そんなことをしようと思ったのだろう?
「なあ、里美」
「何?」
無感動というか――あっけらかんとしている里美から見つめられると、なぜか尋けなかった。僕は黙って歩き出した。里美も黙ってついてきた。
再び表に廻った。古ぼけた賽銭箱があった。中身が入っているのかどうかは知らないが、もしもここにお金を投げ入れたら、一体誰がお金を回収して行くのだろうか。不思議に思いつつ眺めていると、里美が十円玉を投げ入れた。『ガラリ、ガラリ』と二度音が鳴った。自動販売機と同様に二度鳴ったのだが、一度目と二度目の間に、御利益が出てきたのだろうか。僕は確かめようと硬貨を投げ入れてみた。しかし、御利益が出てきたのか出てこなかったのか、解らなかった。
前のめりに覗き込む僕の様子を見て里美が何を勘違いしたのか、
「神主さんはいなくても、神様はまだ住んでいるかもしれないからね」
と言って、かしわ手を打った。僕もそれに倣った。
僕らは必死で蚊を追い払いながら森を抜けて、道路に出た。もうすっかり陽が暮れていた。辺りを見渡すと、自動販売機が目に入ったので、そこが記念館のあった道であることが解った。僕はふと、この記念館を見なければならないような、奇妙な義務感に襲われた。
「ここ、這入れないかな?」
「見つかったら、怒られるよ」
里美はまるで体験済みであるかのように言ってのけた。事実そうだったのかもしれない。
僕らは建物の外側を隈無く調べたが、どこからも入れそうな余地は無かった。ただ、一つの窓のブラインドが完全には締まりきっていなかった。隙間から、僅かに中が見えた。どうやら一枚の大きな絵があるらしかったが、暗すぎてどういう絵なのかよく解らなかった。
里美にも覗かせてみたが、ダメだった。だけど、きっと見えているのは肖像画に違いない、と言った。一度中を見たとき、この島に所縁のある学者の肖像が飾ってあったというのだ。だから、きっとそれに違いないというのだった。
僕はここを訪れたことがあるだろうか、と里美に問うと、里美は黙って頷いた。もしかするとその学者の肖像がカイゼル髭の男と何んらかの関係があるのかもしれない。どうしても心に引っ掛かるものをうっちゃってはおけない。明日またここに来てもいいかと里美に問うと、里美は僕の眼を見て、再びコクリと頷いた。
三
キュリキュリという音が鳴っている。カイゼル髭の男が眠っている。片手にロイド眼鏡を引っかけている。僕はそれを取ろうと手を伸ばした。もう少しというところで、男が目を覚まし「わっ」と声を挙げた。僕はびくっと男の顔を見上げた。男の爛々とした眼が、子供のように無邪気にこちらを見ている。
はっとして目を覚ました。汗がどろどろに粘ついている。この建物にはクーラーというものがなかったので、非常に寝苦しい。自然の風に任せるしかなかった。海からの風が救いであったが、潮を含んだ粘っこいものだったので、余計に粘々した。窓は開け放してあった。タグに『白妙』と書かれている蚊帳越しに、六割ほど欠けた月が見えた。上弦だ。蚊帳には、ウサギらしきものが糸で纏ってあった。欠けた月をぼんやりと見つめていると、だんだんそれがカイゼル髭に見えてきた。ここでもカイゼル髭か、しつこいな。僕は不愉快な気分を抑え、強引に眠りに集中した。
しかし、夢のことが気になって眠れない。夢の中とはいっても、びっくりさせられたせいで眠気が吹っ飛んでしまった。少し夜風にでも当たってこようか。それに、昼間に麦茶を飲み過ぎたせいだろうか、トイレに行きたい。
用を足して戻ろうとすると、叔母さんと出会った。叔母さんはだしぬけに僕と里美の仲を聞いてきた。僕は巧く答えられなかったが、はにかんだ僕の様子を見た叔母さんは却って信頼してくれたらしく、僕に頼みがあると言ってきた。
それは里美のことについてだった。
――里美は二十歳になってから東京へと引っ越した。それは一種の逃亡のようなものだったらしい。五十代半ば、起業家である父親の残した遺産は、負債や税金を引いても相当なもので、しかも遺書などあるはずもなく、里美は一人娘だから全ての権利を持っていた。しかし、里美はその頃はまだ十八歳の少女に過ぎなかった。随分と周囲の大人達から掻き回されたらしい。
しかも事件のあった頃、里美と両親との親子仲は相当に悪かったので、親戚の間では、放火犯は実は里美ではないか、と噂されていたのだ。里美の味方をしたのは、昔から仲の良かった叔母さんと叔父さんだけだった。そして唯一の味方からも『迷惑は掛けられないから』と言って、逃げ出してしまったのだ――。
「あんなことがあって以来、あの子がお友達と一緒にいるのを見たことが無かったから――だから、あなたにはあの子の心を大事にしてやって欲しいのです。あんまり孤独で、気の毒で……」
『孤独』に『気の毒』にと、どくどくした言葉が僕の中で反響する。しかしそれは何かが違う気がする。それが一体何かは解らないのだけれども。
翌朝、朝食を終えるとまた無為な時間が訪れてきた。朝食の後片づけを手伝いながら、僕は叔母さんに、例の学者のことを尋いてみた。何んでも、あの記念館はそのままその学者の住んでいた家で、学者の死後、記念館として改築したのだという。その建物は文化遺産としての価値もさながら、何よりその学者が島の人々から愛されていたからだという。今となっては、島に住む人々はいなくなったものの、島を離れた人々が島のことを忘れない為にも、また時折島にやってくる人々にとっても、重要なものだった。
さらに情報を得ることが出来た。記念館は、繁忙期のいわゆる学休日にのみ開かれるらしい。予め連絡を入れておけばそれ以外の日でも見せてくれるそうだが、たった一人の場合では開けてくれないかもしれないということだった。
さて、これから記念館へと出掛けるとしよう。今の陽の工合なら、ブラインドの隙間からでも、肖像画を確認することが出来るだろう。僕は里美を呼ぶことにした。
里美は部屋で腐っていた。この軟体動物め。
「座敷ブタっていうんだろう、こういうの」
「ブタ、いいねぇ。ブタ。食っちゃ寝食っちゃ寝。いいものあげる。ブタさんからのプレゼント。はい、口開けて」
と言われて、僕は言われるとおりにした。
鳥のひなのように構えていると、中に一粒の飴がコツンと放り込まれた。僕はしばらく舐めてみたが、そのうち口中が苦くなってきた。何んとも堪えがたい苦みである。そんな僕の表情を察したのか、里美は「ニッキ、だめ?」と心配気に言った。僕は何度も頚を縦に振った。
「昔は好きだったのに。もったいないから頂戴」
と、あろうことか里美は僕の口に口を付けて、舌で僕の口の中の飴をすくって、そしてちゅうと吸った。僕の口からまるでよく出来た掃除機のように飴は里美の口の中に移された。
「うん、融け始めてて美味しい頃合い。あ、そうだ」と、里美は飴を舐めながら続けた。「『コーコートー』言えるようになった?」
「コーコートー?」
「忘れちゃった?」そして里美は独特の抑揚を付けながら、口上を言った。「『コーコートー、コーコートー、コーコートーの本来は、うるの小米に寒ざらし、カーヤーにギーンナン、ニッキーにチョウジ、チャンチキチン、スケテンテン……って」※
「初めて聞いた」
「昔、やったじゃない。結構苦労してて、何度もやり直してたのに。じゃあ、ウイロウ売りは?」
「知るかそんなもん」
「何もかも忘れちゃったんだね。まあ、十年前だもんね。しょうがないよね」
と、里美は悲しそうに苦笑した。
「それって、何んなの?」
「ん? 売り言葉のこと? 物を売る時に言うやつなんだよ。香具師なんかがやってるでしょ。ガマの油口上なんかは有名だよね。『一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚……』みたいに。そんなのと一緒。今だと落語くらいかな」
「落語なんて聞かないよ」
「落語、面白いのに。まあ、まだ十八歳だっけ?――じゃ演芸になんて興味ないよね」
だったら、里美と同じ二十歳になったら演芸に興味が湧くとでもいうのだろうか。
「――にしても、暑くなってきたねえ」
別に先ほどから気温は変わっていないのに、里美はパタパタと手で仰いだ。
「麦茶淹れてくる」と、里美は立ち上がったが、ふすまの前で立ち止まって言った。「ねぇ、さっきの、ドキドキした?」
「さっきの?」
コーコートーがどうしたというのだろうか。
「……もう、いいよ」
里美はぷいっと出ていってしまった。
「さっきの……さっきの……ああ」
僕は独りごちながら、先ほどの里美との口づけを思い出した。正直に言えば口にカタツムリを這わせたように生々しい感じだった。蠕動するような唇の動きから、カタツムリはあんな風にして物を食うのかなと考えた。おまけに、中に這入ってくる舌が、得体の知れない風にぬるぬるしていた。色々と考えてみたが、僕には気持ち悪いとしか結論付けられなかった。しかし、不思議と身体はふわふわとしていて、とらえどころが無いくらいに浮ついた気分だった。
僕はふわふわと宙を浮きながらも何んとか地面を漕ぎ、里美を追いかけた。そして、「記念館、記念館……」と、融通の利かないバスガイドのようにひたすら言葉を繰り返した。
台所で麦茶をがぶ飲みしていた里美は、しぶしぶながらもついてきた。いや、正確には里美は僕を牽引していた。地に足着かぬ僕は、差詰め風船のようによろよろと引かれていた。今の僕なら、里美に一生だって付いていける――尤も、里美が引いてくれさえすればの話だが。もちろん、このぐうたら娘は絶対に僕を引き続けてくれなんてしてくれないだろう。仮にしてくれたとしても、それはほんの気まぐれに過ぎないのであって、すぐに『飽きた』だの『面倒』だのと抜かしては、僕をポイと捨てやがるのだ。この薄情女め。
砂利道を里美に引かれて漂い、記念館を目指す。今日はあの虫野郎は居ない。昨日、ずうずうしくも、僕らの目の前をうろついていた薄紫の光沢野郎だ。こんど会ったら容赦なく踏みつぶしてやろう。
さあ、奴さんの家に着いた。
ブラインドの隙間から中を窺う。隙間から! この姑息にして女々しい作戦は一体何んだ!! 男たるものは堂々と正面きって物事に当たらねばならない。僕はガラスをすり抜け、隙間をかいくぐり、カイゼル男と対峙する。カイゼル男は強敵ではあるものの、僕は一人ではない。ゴボウのお化けである里美と一緒だ。里美は凄い。座敷ブタにして、僕のお抱え牽引手であり、何かが足りない、罰当たりで演芸の得意な手ぶらのカタツムリでもあるのだ。今更何を恐れる必要があるだろう!!
――僕は壮絶な闘いを経て、ついにある発見をした。そこには何も無かったのだ。ブラインドから漏れた一筋の陽光が、白くて何も無い壁を黄色く照らしていた。そこには二つの影があるだけで――僕と里美の――。いや、確かにそこには何か掛けてあった。そう、確かに、八年前までは。
八年前、カイゼル男は、めでたく里美の父となり、僕の父となった。そして僕らの結婚式を見届けた。今も家で、僕らの帰りを待っている。
僕は海岸へと急いだ。海岸にあった、あの破れた小屋。『何かが足りない』のは、何も里美ばかりではなかった。僕だって何かを失くしてしまっていた。しかし、この島は時間が停まっている。だから僕と里美が失くした物だって、きっとここには――。
あの二人の秘密の家があった場所には、一台の自動販売機がでんと立っていた。建物は取り壊され、代わりに自動販売機が据えられた。この場所は綺麗な砂浜だから、きっと海水浴場として利用されているのだ。この島でも時間は動いていたらしい。
里美と僕が結婚の儀式を挙げるに当たって、 <父> の存在は絶対であった。もちろん、本当の父親ではない。まして人間である必要も無い。しかしそれは尊敬すべき <りっぱなひと> でなくてはならなかった。そこで僕らは一枚の絵を盗み出したのだ。立派なカイゼル髭を生やした男の肖像。この島で尊敬すべき事業を行っていた者の肖像。里美は彼を秘密の家の上座に据えて、幼いながらも僕への愛を誓ったのだ。二人にとって彼はあらゆる意味で父であり、同時に牧師でもあった。僕らが結ばれる時を、見守り、認め、証人となったのだ。
だのに、彼はもう、ここにはいない。捨て去られたか、持ち去られたか、それとも立ち去ったのか。もはや証人はいない。父もいない。
僕は呆然と自動販売機の前に立っていた。
「――汝はこの者を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、生涯共にあることを誓いますか?」
里美が突然僕に語りかけてきた。僕は呆然と頷いた。
「誓いますか?」
里美は繰り返し尋ねた。
「……誓います」
「では、誓いの――」
里美が言い終わる前に、僕は里美の口を手で塞いだ。自分でもなぜかは解らなかったが、『だめだ』という声が頭の中で響いたような気がする。
四
帰りのフェリーでも、風船的感覚は去ってはいなかった。僕は何度も船から飛び出す幻覚に苦しめられた。実際、里美が支えてくれなければ、僕は海の藻屑と化していただろう。こいつめ、ここで恩を売って後々優位に立とうという目論見らしい。
「東京だよ、東京。今、東京に住んでるの」
エンジンの音に負けまいとして、里美が耳元で大声で叫んだ。
「遠いな」
むしろ耳が遠くなりそうだ。
「うん、遠いよ。電話掛けるとき、数字がどんどん減った。あんなに速く減るんだねえ」
数字というのは、テレホンカードで掛けた時に出てくる数字だろうか。そういえば、公衆電話から掛けてきたんだとか言ってたっけな。
「で、ついでに東京まで来ない?」
僕はフェリーの到着した場所から市営バスで帰れば家に着く。決してついでになどはならないだろうが。
「電車賃は気にしなくていいから。実はもう君の分のも取ってあるんだよ」
つまり、僕を誘った段階から、こんなことになるのを予想していたわけか。確信犯的とでも言うのかな、酷い女だ。こんな女の傍にいると、僕は一生いいように振り回されるのかもしれない。
夜行列車では、里美はさっさと眠ってしまった。僕は時々闇の中に明るく浮かぶ駅の光を追いかけた。別段何んでもない光景だが、妙に悲しい気持ちに襲われて、涙が溢れてきた。ヒトと時間の関係というものはこんなものなのだろう。ところどころ、明るく輝くところもあるのだが、あとはほとんどが闇なのだ。そして、僕がいくら留まりたいと願ったところで、決して留まってはくれない。時は無情にも過ぎ去り、記憶は薄れ、感慨さえ湧かなくなってくる。ああ、時が少しでも留まってくれたなら――と思っていたら、時間調整のため、二十分ほど停車するとアナウンスが流れてきた。
僕は隣で寝息を立てている里美を見た。駅からの明かりが、その顔を優しく照らしていた。寝顔が崩れないというのは、実に羨ましい限りだ。周囲を見渡せば、ほとんどが、信じられないほどに大口を開けているか、半眼で白目を剥いているかである。アベック揃って酷い面をしているのもあったが、ぐっすり眠っているのはお互いの顔を見ない為だろうか。一方の里美は見た目が良いのはともかくとしても、隙が無くて却って憎ったらしい。この女は一見ノーガードに見えて、恐ろしいほどにポーズを決めている。きっと、言葉が欠落するのも、わざとに違いない。そうやって相手に隙があるように見せ掛けておいて、安心したところをパクッと喰いついてしまうのだ。
しかし、罠に掛かっていようが、踊らされていようが、里美と時間を留めることが可能なら、そうしたい。罠にだって掛かってやるし、幾らだって踊ってやる。問題は僕にそれだけの力があるのかどうか、だけれども。
翌朝、ポリポリという音で目が覚めた。里美がポテトチップスを食べる音だった。座りっぱなしなので、腰と臀部が痛む。里美に後どのくらいか尋くと、あと一時間だと返ってきた。さっさと到着すればいいのに、どうして電車なんか使ったのだ。飛行機ならすぐだったのに。
東京駅に着いたのは、六時頃だった。丸の内口を無意味に観光したりなどして硬くなった足腰を慣らしてから、地下鉄に乗り換えた。里美の家の最寄り駅へは、それから三十分ほどで着いた。
駅前は綺麗に舗装され、街路樹が植えられた道は清潔感をアピールしていたものの、裏道に這入るに従って、薄汚れた漆喰だとか、プレハブだとか、完全に腐れている木造の廃屋だとか、だんだん景色がいかがわしくなってくる。道もぐるぐるとうねっているし、これが下町という奴なのだな。
里美の住まいは、まさに安普請という言葉がぴったりの、今にも崩れ落ちそうなアパートだった。
「あ、手すりに体重かけちゃだめだよ。崩れるからね。上はマトモだけど下の方がすっかり錆びちゃってるんだよ」
随分とスリリングな住まいだ。人間はいつから住まいに刺激を求めだしたのだろうか。住まいを択ぶ基準は安全性だ。
しかし、それ以上に、里美の部屋を見て、僕は呆気にとられた。想像していたのとまるで違ったのだ。僕が想像していた里美の部屋は、演芸のビデオやCDに、壁には落語家のポスター。本棚には本が入りきらず、平積みにして今にも雪崩寸前というものだったのだが――そこには演芸のビデオもCDも、今にも崩れ落ちそうな本もなく、ただ空っぽの本棚だけがぽつんとあった。
「変でしょ、空っぽの本棚なんて。意志はあったんだけどねぇ、無理だったんだよね」
僕が言葉の意味を理解できずにいると、『自分の物』を作るのが怖い、と付け足した。
「本、読むのも、図書館行けば済むでしょ。ビデオもCDも図書館で鑑賞できるし。だから、朝から晩まで図書館行くの。昔の有閑階級みたいだよね。ニュースだって図書館の新聞で済むし。人間っていうのは、本当に自分のものにしないとどうしようもないものなんて、本当はごく僅かなものなんだよね。それを皆んな無理して、自分のものにしたがる。それで憎みあったり、喧嘩なんて始めたりして、変だよね」
普段は無意味なことをポツポツとしか口にしない里美が、この時に限って、筋道を付けて流れる水のように喋り始めた。両親が死んでからのこと。遺産や保護者のこと。ひたすら無為な生活のこと。
「学校へは?」
「私、学生じゃないんだよ」
「だったら、バイトや仕事は?」
「してないよ。まだ、保険とか遺産とかあるから、贅沢さえしなければお金には困って無くて」
そういえば、両親が亡くなってからまだ二年しか経っていないのだ。今はまだ本人に意欲が無くなってしょうがない。しかし、いつまでもこうした生活を続けているわけにはいかないだろう。
「両親が一度に亡くなるって、僕には解らないけど……やっぱり、悲しい?」
「実はね――」里美は一呼吸置いて、半分苦笑いするような顔で答えた「それはほとんど感じてなかったんだよね。確かに最初の時は悲しいような気もしてたんだけど、それが両親が死んで本当に悲しいからなのか、それとも、これから自分がどう生きればいいのか不安で悲しいのか、解らなくなってきたの。今思えば、間違いなくあの頃は自分のことをだけ悲しんでたね。ああ、なんて悲しい境遇の私――ってね。これって薄情だと思う?」
むしろ、そういうものなのかもしれない。ただ感傷に慄えて、悲しみのポーズを取り続けてさえいれば、それが人間的だろうか。親が子を亡くすのではない。子が親を亡くした時、まず心を支配するのは自分がどう生きればいいのか、ということかもしれない。
僕は頸を横に振った。心なしか、里美が安心したように見えた。
「ウチが燃えたのも、放火のせいなんだって。全部燃えちゃって。犯人は解らないって。どこの誰だか知らないけれど、きっと私たちの家を憎んでたんだと思う。お父さん、カネカネカネの人だったから。お金って不思議なもので、貯め込むだけでも他人を不幸にしていくんだよね。でも、これで良かったんだよね。お蔭で色々なことに気づけたと思う」
ふと思った。里美の今の生き方は決して間違ったものではないかもしれない。労働し、富を増やし、生活を豊かにするうのは、一つのポーズに過ぎないかもしれない。確かに労働することは、倫理的にも必要だろうが、それが富に直結することでなければならない――というわけではないはずだ。それは人間が今ある社会を形成する上で、ある必然として生まれてきたことに過ぎないだろう。もし今の社会が崩れれば、その必然も無くなってしまう。決して普遍的な生き方ではない。特にコンビニなんてところでバイトをしている時には、そう思う。
だけど、僕は一体どうすれば――どう生きればいいのだろうか。どうやって里美を守ったらいいのだろうか。
「実はね、私、あの頃は付き合っている人がいたの。火事だった日、私はその人の部屋にいた。だから、無事だったの」
がん、と来た。
「親が焼け死んでいる、煙にむせている、その間、私は男の人に抱かれていたの」
とてもじゃないが、里美が誰かと抱き合っているところなんて想像も出来ない。わけの解らない感情が僕の中で渦巻いている。
「もちろん、もう別れたけどね。本当はその人のこと、あんまり信頼していなかったんだと思う。ただの友達同士から、何んとなく一緒にいると愉しくって付き合いはじめたんだけど……。でも、実際にはただの馴れ合いだったみたい。そういうのって平和で愉しい時にはいいかもしれないけど、本当に相手を必要とするような時には駄目なんだよね。――真剣に悩んで勝ち得たものじゃないから」
『真剣に悩んで勝ち得たものじゃないから』――この言葉が頭の中で何度も鳴り響く。僕は里美にとって一体何んなのだろう。
僕にはまだ、里美を支えてあげることは出来ない。もっと自分と向き合い、自分を知って、成長しなくちゃいけない。
「あのね、私はね……」
そう言って里美は僕の方に迫ってくる。僕の中の全神経が『だめだ!』と叫んでいる。僕は里美を遮った。――自動販売機の前でやったように、また。
「どうして?」
里美は『わからない』という顔をしている。もしかすると、僕に慰めを求めていたのかもしれない。でも、僕は里美には自分を見失わずに、強く生きて欲しい。そして、僕自身にも。もし今、里美を抱いてしまったら全てが壊れてしまうような気がする。まだ、全てが早すぎる。思えば結婚も、離婚も、再会も、皆んな早すぎたのだ。だから今、再び別れなければならないのだ。
「悪い。今晩、カプセル・ホテルに泊まるから。また明日の朝戻ってくるから。だから――」
妙に言い訳がましく感じて、言葉を見失った。しばらく黙って立っていると、里美は少しだけ微笑んで、一言だけ言った。
「わかった」
*
朝になって目覚めると、すぐに里美のアパートへ戻った。里美はドアを少し開けると、充血した眼で僕を見つめた。
二人で簡単な朝食を摂り終え、僕は家へ帰る。
駅の構内は通勤客で溢れかえっていた。勤勉そうな人達、厭々ながら通勤している人達、と様々だったが、皆一様に時間を気にして、急ぎ足で電車に乗り込んでいったs。
その中を、のんびりした二人がこれまたのんびりと歩く――それは余りにも場違いであった。他の通勤客からはいかにも『邪魔だ。迷惑だ』といわんばかりの視線を送られた。
東海道線のホームともなると、少しは落ち着いた雰囲気だったが、それでも長距離通勤者達をはじめとした人達がせわしなく移動していた。
電車が到着し、ドアが開く。暫くの間開きっぱなしなので、開いたドア越しに里美とじっと見つめ合っていた。お互いに、羞じらいだとか、恋慕の気持ちのようなものはない。ただ、心を通わせていた。
少し微笑んでから、里美が口を開いた。
「これから、どうするの?」
「これから?」
「将来」
「さあ。里美は?」
「相変わらず、かな」
発車のベルが鳴る。
その時、里美の両手が僕の頸に手を掛け、僕の唇に唇を重ねた。もう気持ち悪いだなんて感じない。僕は素直に里美を受け容れた。
唇を離した。口の中にニッキの味を覚えた。苦いけれどどこか懐かしい味。
電車の扉が閉まる。もう交わす言葉などない。電車が動き出し、次第に小さくなっていく里美の姿。里美は最後に大きな声で何かを叫んだ。その言葉はよく聞き取れなかったが、恐らく『お金に困ったらいつでもおいで!』と言っていたような気がする。
見送りの言葉にしてはあんまりだった。消費者金融じゃあるまいし、きっと二、三個の科白が抜けていたのだろう。それが何よりも里美らしかった。
《了》
註
※『孝行糖』三代目三遊亭金馬
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