西暦一五七六年、イタリアのある著名な老画家が逝去した時、画友達は彼の死に嘆き、彼の死を悼むためにこぞって筆を執った。大規模な葬儀の後、工房に詰めていた弟子達はそれぞれの道を歩むことになった。既に名を成していた者は良い。しかしそうでない者は工房に残る者あり、ただ混乱するばかりの者あり、行く先も定まらぬままたんぽぽの綿毛のようにふらふらと散っていった。
 老画家の功績は荘厳な宗教画をはじめ、鮮やかな色彩の作品は数え上げるにきりがない。その鮮やかさは絵の領域を越え、本物の人の肌よりも艶めかしく、生々しかった。人間の顔は――特に眼は強調され、魔性の輝きすら持っているように思われた。お蔭で老画家自身も含め、弟子達はカンバスを前に自慰にまで耽るという始末だった。
 そんなことは頑として行わなかったカタブツもいた。彼は弟子入りした時から特にその確かな才能を認められており、百年に一人の鬼才とまで言われながらも、一流となるためには何かが足りなかった。とても素晴らしい作品を描くのだが、ただそれだけに過ぎなかった。人の心の奥底まで食い込むような決定的な魅力を、彼の絵は備えていなかった。一方彼が鈍物として歯牙にも掛けていなかった他の弟子達が見事に腕を磨き、次々と仕事の依頼を受けているというのに、彼は未だに見向きもされていないのはどういうことだろうか。
 彼は呑んだくれ、しきりに「運だ、運なんだ」と喚いてはバーテンを困らせた。彼は自分を追い越した弟子達に較べて、一体どういう理由で劣っているのかをまるで理解していなかったのである。何か不可思議な力によってか、何者かの陰謀によって自分が攻撃されていると彼は信じきっていた。
 ――名前さえ出さずに内容だけで評価されたのなら、師にだって劣るものか。伎倆という点ではまるで申し分が無い。構図や色彩とて、ルネッサンスの風に恥ずべきものではない。努力だって、人が十努力するなら十一は努力したものだ。なぜ、だめなのか。だめなはずがあるものか。ただ単に機会に恵まれなかっただけに過ぎない。故郷では両親が、弟や妹たちが自分の成功を心待ちにしている。その期待を裏切るようなことがあるのなら、世間を騙したって罪にはならないだろう。
 彼は工房を去る時、密かに師の残した未完の肖像画を一枚盗んでおいた。師が死の間際まで気にし続けていた特別な肖像画である。あまりに大切にされていたため、他の弟子達はその存在すら知らない。彼はたまたま師から絵の具の買い付けを頼まれたときにベッドの脇にひっそりと立てかけられているのを見逃さなかった。師の作品は素晴らしい。しかしもう老いているではないか。こんなつまらない構図の作品しか描けないのだ。私の筆の方が、明日に残すべき作品ではないか。
 彼は盗んできた肖像画に絵の具を上塗りし、女性は翼を付け天使に、娘は少年に描き変え、物々しい宗教画に描き直した。裏にある師のサインはもちろんそのままである。これは師の遺作として残すのだ。描き終えて、彼は一種の恍惚感に包まれた。
 ――私がずっと求め続けていたものは、これなのだ……そう、永遠だ。師の作品は永遠に残るだろう。しかし私の作品もだ。少なくともこの作品は永遠に残る!

 さて、それから四百年もの月日が流れ、ティツィアーノの「女性と娘の肖像」が復元された。「トビアスと天使」はティツィアーノの作品にしては真に迫るものが欠けており、恐らく弟子の作品に違いないと見做されあまり価値がなかった。
 しかしX線調査により重ね描きされていることが判明し、無名の弟子(レオナルド・コロナという説はあるが、細かな点で違いがあり結局定かでない)によって上書きされた部分が削り取られたのである。作業は絵を傷つけないよう、微に入り細をうがつ慎重さが要求された。その作業は優に二十年もの歳月に及んだが、肖像画は見事に復活した。復元に当たった者は喜びと感動で眼に涙を浮かべた。作業の成功によるのではなく、絵の素晴らしさに心搏たれたからだ。一方弟子の描いた部分は一つ残らず削り落とされ、靴で踏みつけられた。真のみが永遠、それに付着する泥は払われるのである。
                                     《了》
参考資料:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050917-00000056-kyodo-int


戻る