モ・ラ・ト・リ・ア・ム

 

 佳乃子が仕事を終え、くたくたになって帰宅している途中のことだった。いつものルートを通って角に差し掛かったところで、ガン! という星のきらめきと共に、佳乃子は世界が廻転するのを感じた。

 気づいた時には、世界は小さな部屋に変わっていた。部屋は薄暗かったがどこからか光が射しており、行動に支障は無かった。壁も天井も一面コンクリートで出来ており、自分は今ベッドに横たわっている。起きあがって周囲を見渡すと、一つの窓が四角く穿たれており、鉄格子が縦に走っていた。光はそこから射していたのだ。それは日光でも月光でもなく、人工的な光であることが直感的にわかった。しかし、どうしてコンクリートの部屋に鉄格子の窓? 刑務所に入れられるようなことをした覚えはない。それにまずは留置場からだ。

 佳乃子は立ち上がって周囲を見渡した。部屋の隅には洋服掛けがあり、佳乃子が着ていた上着が掛けてあった。その下には自分のバッグと段ボールが置いてあった。佳乃子は段ボールは無視して、バッグの中を確かめてみた。何か無くなっているのではないかと思ったが、何も無くなっているものはなかった。

 佳乃子は携帯電話を取りだした。液晶画面の隅にアンテナが一本だけ立っていた。しかし、それさえも時々消えてしまっていて――どうやら電波はかろうじて届いているようだった。佳乃子はどこに連絡するのが適当だろうかとしばらく思案したが、とりあえず弟に電話を入れることにした。いきなり警察に掛けても、何をどう喋ったら良いのか、見当も付かなかったからだ。弟なら、もしかすると警察と話す時のイロハまで教えてくれるかも。あいつなら、マニアックな方面だって頼りになる。

 呼び出し音が何度か鳴り、相手が出た。しかし、相手の声が割れていてまるで聞き取れず、――恐らくこちらからの声も届いていないようだった。電波が弱すぎるのだ。佳乃子は周囲を見渡し、鉄格子付きの窓を見た。あそこからなら電波が届くかも。佳乃子は窓の近くに寄り、手を伸ばしてみたが、窓が高すぎて、背伸びをしてやっと届くか届かない工合で、これでは受話器に声が届かない。そこで、ベッドを引きずって窓の下に動かすと、その上に乗った。

 窓から上下を見ると、ここが何んらかの高い建物の四階くらいであるということが解った。明かりは、通りを挟んだ向かいのビルから射し込んでくるものだった。佳乃子は少し安堵した。なぜなら、どこか郊外に閉じこめられたわけではなく、そのまま街の中に閉じこめられたらしかったからだ。これなら助かる可能性もぐんと増すというものだ。

 それはともかく、今は連絡を執ることが先決だ。いつ自分をここに閉じこめた人間が現れるか解らないわけで、何んとしてもその前に誰かと連絡だけは執っておきたい。佳乃子は携帯電話を窓の傍に近づけてみた。しかし、アンテナの本数に変わりはなかった。そこで、手を鉄格子の隙間から通してみた。すると、アンテナの本数がにわかに増え、二本になった。

 これなら通じるだろう。さすがに頸を鉄格子の隙間から通すわけにはいかなかったが、弟にメールを送ればいいのである。佳乃子はほっとして手を引っ込めた――が、あろうことか引っ込める時に鉄格子に引っ掛けて、携帯電話を手から落としてしまった。一斉に冷汗が身体中から――特に背中から吹き出してくるのを感じた。下の方で、がちゃんとプラスティックがアスファルトと激突する音が聞こえた。この高さから落ちたのだ、まず無事ではあるまい。佳乃子は鉄格子の隙間から下を見た。夜のせいだろうか。広い通りになっていたが、誰も通る者はない。携帯電話そのものが落ちた箇所は解らなかったが、少なくとも誰かがすぐに拾ってしまうという心配は無かった。

 佳乃子は自分がここから出られるとまでは考えていなかったが、しかし大急ぎで、下へ向かおうと反射的に行動した。部屋に一つあるドアを開けると、暗くて細い通路になっていた。佳乃子はそこの突き当たりのドアを開けた。閉じこめられているのだ、まさか開くとは思っていなかったのだが、とにかく開いたのだ。

 しかし、佳乃子を出迎えたのは、出口ではなく便器であった。手入れが行き届いており、薄暗がりの中で、いかにも清潔そうに光沢を放っていた。佳乃子は一瞬立ちくらみを覚えた。窓から射す光を反射する便器というものは、あまりに神々しい。佳乃子はバタンとドアを閉じ、ノブは握ったままで通路の側に振り返り、後ろ手にノブを持った格好でハァと息をついた。正気を保たねば。

 次に左隣のドアを開けた。そこはバスルームだった。その向かいのドア――すなわち、トイレに向かって右側のドアを開けると、そこはダイニング・キッチンになっていた。立派な流し台、冷蔵庫、多機能電子レンジ、食卓(その中央には花が生けてあった)、それに椅子が二脚あった。ダイニングもバスルームも、両隣のビルから漏れる明かりで随分明るかった。夜遅くまで仕事をしているのか、それとも人が住んでいるのだろうか。人がいるから明るいのだろうけれども、こんな離れたところまで明るく照らすなんて、人間の発明は恐るべしである。いや、エネルギーの無駄か。

 そこから一つ奥のドアを開けると、むせるような臭気が鼻を衝いた。何事かと思ったのだが、本の背表紙の金文字が暗がりの中でもくっきりと見えたので、書斎だということが解った。鼻を衝いたのは古本の匂いに違いない。書斎だなんていかにも――といった趣がある。ああ、江戸川乱歩が読みたい。

 佳乃子はさらに向かいのドアを開けた。他の部屋よりも一段と暗くてよく解らなかった。暗闇の中には異様な不気味さが漂っていて、とてもじゃないが手探りで調べる気にはなれなかった。もしかするとここが出口かもしれないとも思ったのだが、そうでないことは空気から解った。そこからは押し入れのような匂いがしたのだ。恐らく、今までの部屋にあった窓がなく、恐らく出入りするためのドアも無いのだろう。ドアはそれでおしまいだった。

 ――困った。

 佳乃子はこれは一体どういうことなのだろうかと自問した。もう一度ベッドのある最初の部屋に戻ってみた。見廻してみたが、ドアは一つしかない。つまり、通路へのドアだ。しかし、通路にあるドアは、どれも出入り口には通じていないのである。こんなおかしなことがあるだろうか。大体出入り口が無いのでは、自分を運んでくることすら出来なかったに違いないのだから。

 そこで、今解っている部屋をくまなく調べてみることにした。

 まず、この最初の部屋……天井はともかく、床や壁を掌でペタペタと触ってみたが、何も変わったところは無かった。こんな往年のアドベンチャー・ゲームみたいなこと、やるのは私くらいか。

 ところで眼に付いたものは段ボールだったが、中にはサーチライトが一つと、単一アルカリ乾電池の四十本入りお徳用パックが数セット入っていた。サーチライトはがっちりとしていて、防水加工も抜かりなく、非常用として最適だ。百円均一のような安物ではない。安心感がある。スイッチのゴムのこぷこぷ感が何んとも堪らない一品だ。電池も信頼感あるアルカリ。しかも『水銀0%使用』だ。それにしてもこれはどういうことだろうか。0%は使用できない。だったら使用していないんじゃないか。ああ、頭が痛い。久々に頭を使うと、思考が妙な方向へ行く。

 そういえば、ここには一つも電灯というものが無かった。特に台所に関しては文明の利器というものがあれだけ揃っていたというのに、どうして電灯だけが存在しなかったのである。よっぽどエジソンが憎かったのか。最後に見た真っ暗な部屋は除いて、どこも各部屋にある鉄格子の窓から採光されていて、――別に意識的に採光しているわけではあるまいが、ともかく窓からは街明かりが射していたのだ。それだって暗がりに慣れていればこそ見えるもので、普段の佳乃子だったら、どこも真っ暗だと感じたかもしれない。

 ともあれ明かりを得ることが出来たのは収穫だった。これで暗がりでも詳しく部屋の様子を隈無く調べることが出来る。佳乃子は早速サーチライトを手に周囲を見廻してみたが、やはりこの部屋には特に変わったところは無かった。

 佳乃子は、次に正体の解らなかった最後の部屋から調べてみようと思った。一番手前の左手のドアを開け、中に這入った。サーチライトを向けてみると、様々な衣類が眼に飛び込んできた。ここはどうやら衣装部屋らしい。少し趣味の悪い服ばかりがハンガーにぶら下がっていた。床には衣装ケースが何個か置かれていたので、座り込んで調べてみると、大量の下着類が出てきた。その一つを手に取ってみた。サイズは自分にぴったり合っているようだった。佳乃子は、自分をここに閉じこめた人物が、気絶している間に寸法を調べたのだと思った。佳乃子は身震いしながら、性犯罪の危険性を心配した。

 しかし、いくつかを手にとって見ているうちにはっと気が付いた。ここにある衣類は、全て自分のものじゃないか。どうりでサイズが合っているはずである。先ほどは趣味が悪いと思った服も、サーチライトの光の中だったからそう思ったに違いなくて、通常の光の中だったら、間違いなく自分の服だとすぐに気が付いたはずだ。佳乃子は驚いて周囲を見廻した。自分はこんなにも服を持っていたなんて知らなかった。何しろここには自分が箪笥の肥やしにしてしまったものでさえもあったのだから。いや、むしろ箪笥の肥やしだったものが、ここでは主役となって、ゴテゴテしたした色彩の波を投げかけてくるのだった。思わず宙を仰いだ佳乃子は、この部屋にも窓があることに気が付いた。ここの窓からは光が射していなかった。窓に近づいてみるとなるほど隣のビルの丁度壁のところに窓があって、光が射してこないのだった。

 佳乃子は衣装部屋を出て、今度は書斎に這入った。しかし、そこは書斎ではなかった。では何かというと、物置であった。ムードを除けば、大した違いはなさそうだが、問題は中身である。生活に必要なものから不必要なものまで、雑多なものが、無造作に置いてあった。本だと思っていたものは金文字のあしらわれた濃緑のケースであり、古本の匂いだと思ったのは単なる埃の匂いであった。

 尤も、本も無いこともなかったのだが、漫画雑誌や情報誌といった類のものであって、書斎にあるような本ではなかった。そして佳乃子はここにあるものもやはり自分のものだということが解った。どうやら、佳乃子をここに閉じこめた人間は、佳乃子の部屋にあったものを一切合切ここに運んだらしかった。

 物置を調べ廻っていると、通路へのドアとは別に、もう一つドアがあることが解った。もしかすると――という想いで佳乃子はそのドアを開けた。しかし、ひどく落胆する結果となった。ドアの先に続いていたのはダイニングだったのだ。ドアの位置を考えてもみればこれは当然のことだった。佳乃子は身体から力が抜けていくのを感じた。

 佳乃子はそのままダイニングを調べることにした。電子レンジ、テーブル、棚の中にある食器類に至るまで、間違いなく自分の所有物だった。特に電子レンジには、無意味に貼ったプリクラのシールが付いていたので、間違いようがない。プリクラには私の顔が――ぼやけてはいるものの、写っている。自信をもって言える――これは間違いなく私だ。引っ越しに際して、住民票の写しを貰った時には、果たしてそれが自分自身を証明してくれるものだとは自信がもてなかったが、これに関しては、たとい私が記憶喪失になったとしても、間違いなくこれは私の所有物であり、私のことを証明してくれる確かな物になるという気さえした。

 ところでキッチンには佳乃子の所有物でないものもあった。まず流し台。次に冷蔵庫と、冷蔵庫の中身である。冷蔵庫は綺麗に壁のくぼみに埋まるように据え付けられていた。それも、銀色のさえない光沢を放つ業務用のもので、佳乃子一人ではとても用のある代物ではない。冷蔵庫を開けると、中には、新鮮な野菜や魚、それに新しい卵や牛乳の手頃な量が入っていた。暗い部屋の中から、まるでホログラフのように輝きを帯びて浮かび上がってくるそれらを見ると、佳乃子は自分が今置かれている状況も忘れて、腹が鳴った。そこで、簡単な料理を作ることにした。

 料理を作りながらつまらないことを考えたはじめた。今晩愉しみにしていたバラエティ番組を見逃してしまった。今日は無人島サバイバルの最終回だったのに。あんまりバラエティ番組は観ないのだけれども、たまたまやっていたものをちらりと観て以来、先が気になってずるずると視聴しているのだけれども。ああ、残念。

 ここには大抵のものは揃っているというのに、どうしてテレビだけが無い。それにしても無人島のサバイバルは辛そうだ。どうしてあんなことをしようだなんて考えたのだろう。でも、自分は無人島どころか、牢屋のようなところに閉じこめられているのだ。嘘みたいだけれども、人ごとではない。――いや、もしかすると、これもテレビ番組のドッキリ企画か何かで、数日もすればディレクターが出てきて「ばあ」と言うのかも。そうするとここにテレビが無いということについて、綺麗に説明がつくというものである。……だとしたら、佳乃子がやることは決まっている。

 ――人からみっともない姿を見られないこと。

 これは小中高と学校で徹底的に叩き込まれた概念であり、恐らく佳乃子が学校生活から得た最も有用かつ即物的な教訓だ。これだけは社会に出ても充分役に立つ。上から下から横から槍でつつかれないためには、これさえ気を付けておけば、大体問題がない。

 佳乃子は実に見事な料理を作り上げた。それはあまりに手が込みすぎていて、普段自分で食べるようなものではなく、明らかに他人に出すようなものだった。そして作法通りに食事をし、テキパキと片づけをはじめた。それが済むと、今度は物置で永らく積ん読をしていた――確か中学生の頃、読書週間にタダで貰った――文庫本を探し出し、僅かな光を頼りにしながら――ああ、これが螢雪の功というものかと納得しながら、ベッドの上で眠気が襲ってくるまで、ヘッセの『車輪の下』を読みふけった。

 

 

 翌朝、佳乃子はがばりと跳び起きた。夢から醒めるような想いで起き上がったのだが、部屋は相変わらずのコンクリで、窓には鉄格子が嵌っていた。窓から漏れる陽光の明るさと高さからして、もう昼過ぎのようだった。佳乃子は昨晩寝る前に執った愚かしい行動と、自分の判断の迷走を振り返って、恥ずかしい気持ちに襲われた。何がドッキリだ。

 佳乃子は外を見た。通りには人がぽつぽつといて、下校している子供達や、買い物帰りの主婦や老人などが見請けられた。助けを呼ぶなら、今だと思った。子供でもいいから、自分の声を聞きつけて、誰かに報告してくれれば良くて、――そうすれば、やがて警察がやってきて、自分を救ってくれるだろう。佳乃子は思いっきり息を吸い込んで、大声を出そうとした。

「誰か、助けてー!」

 しかし、これは佳乃子の声では無かった。下で遊んでいる子供達が、ふざけて大声を出しているのだった。きゃあきゃあと金切り声も混じっていて、聞きようによっては本気と釈れないこともない。もちろん、本当に恐怖に追いつめられた声だったら、誰かの注意を惹くことも出来ただろうが、佳乃子には追いつめてくれる恐怖さえ無くて、何者かによって監禁されているのだろうけれども、それさえも自信がない有様で、そんな声を出すことは不可能に思えた。佳乃子は吸い込んだ息を戻した。それは嘆息となって部屋に散っていった。

 だったら、別の方法はどうだろう。声以外の何んらかの方法で、下の人達とコンタクトを執るのだ。そこで、佳乃子は自分のバッグから口紅を出し、昨晩寝る前に読んだ文庫本のページを破いて、そこにメッセージを書いた。『鉄格子のある建物に閉じこめられています。助けてください』――そしてそれを折って紙飛行機を作ると、鉄格子の隙間から下へ向かって飛ばした。紙飛行機はぐるぐると空中を廻転しながら、静かに地面に降りた。

 そういえば、携帯電話のことをすっかり忘れていた。昨日、この窓から下に落としてしまったのだ。思えば、あれだって充分に希望を託すことができる。恐らくもう既に誰かが拾って――そう、それはきっと良心的な人だと思うが――交番に届けられ、持ち主の身元が調べられているだろう。もちろん捜索願いが出されており、その人物と一致することを警察は知る。これはただごとではないと考えた警察は、すぐさまこの携帯電話が発見された場所の近辺を調べ、そしてここをつきとめるだろう。そうなれば、もう自分は助かったも同然なのだ。

 さらに、仕事先だって心配するに違いない。これまで真面目に働いてきたスタッフが突然無断欠勤をしたのだ、心配したオーナーか店長が家まで訪ねて来てくるなんてこともありえるじゃないか。そうなれば、佳乃子の失踪はまず明るみになり、捜査は迅速に進展するのだ。これといった借金も無いので、誰も夜逃げしたとは考えまい。大丈夫、何も心配なんてすることは無い。事態が好転することを信じるしか無いのだ。何しろ、自分は囚われの身であり、――そう、まるでお姫様のように、外から助け出されるのを待つよりほかに、出来ることなどは無いのだから。

 落ち着いてくると、お腹が減ってきた。そしてまた冷蔵庫を開けてみたのだが、佳乃子は愕然とした。昨日使ったものに関しては補充がなされ、また生ものに関しては全て新しいものと入れ替わっていたのだ。なんて悔しいことだろう。佳乃子をここに閉じこめた本人――或いはその人物に頼まれて食事の補充をしている人物は、佳乃子が眠っている間に堂々と食料の入れ替えという芸当をやってのけたのである。静かなこの部屋のことだ、少しでも物音がすれば、恐らくベッドまで聞こえるはずである。――にも拘わらず佳乃子はぐっすりと眠っていて――ドッキリショーの夢を見ながら――気づかなかったのだ。

 まあしかし過ぎたことを悔やんでみても仕方がない。差し当たっては食欲を満足させることが先決である。佳乃子は簡単な料理を作り、食べた。食べながら、先ほど思い出したアルバイトのことを考えた。本当に自分のことを心配してくれるだろうか。もしかすると、急に来なくなったことに腹を立てるだけ立てて、代役を見つけて終わりということにはなるまいか。そして昨日まで働いた分の給料を出さなくてもいいことを喜んでいるだけなんてことはないだろうか?!

 佳乃子はレストランでウェイトレスの仕事をしている。仕事とはいってもアルバイトなのだが、水曜日を除いては――それは閑散日であることを考慮して、自分の株を上げるつもりで休日と決めていたのだが――毎日出勤していたし、実際それで食べていたのだから、ほとんど正社員といっても差し支え無いくらいであった。ただし、残業をしてもサービス残業扱いで、決して残業代を出してはくれなかったために、どうしても稼ぎが足りなかった。ただでさえ少ない収入は税金や保険によって見るも無惨に刈り取られ――尤も後でお釣りが来るものもあったが――他に簡単なアルバイトを掛け持ちする必要があった。

 きちんとした就職先を探していないわけではない。しかし、事務仕事はどうしてもやる気が起こらなかった上に、それは佳乃子には向いていない仕事だった。そんな向かない環境で不本意な仕事をするくらいなら、実際に身体を動かしてお金を得られる仕事がしたいと思っていた。その条件がウェイトレスにぴたりと当てはまっているというわけでは無かったが、一番はじめに択んだ仕事がたまたまそれであったことと、身体を動かした結果としてお金の流れを眼で確認できるというのは、机の上だけで何かをして、数字の上だけの金額を追うような仕事に較べれば、遙かに優越感を感じることが出来た。

 ところでウェイトレスやウェイターといったホールスタッフというと、アルバイトの中では比較的華やかに聞こえるかもしれないが、実際には地味な仕事なのである。仕事中はほとんど立ちっぱなしだし、たとい機嫌の悪い日であっても、お客に対しては愛想良くしなければならない。妙な客からじろじろ見られるようなことがあっても、厭な顔一つ許されない。また、掃除もなかなか大変なもので、家でやる掃除とは違って、疲労の度合いが大きい。力の要るような仕事は大抵男性がやってくれるのであるが、時には様々な事情から、彼らのなすべき作業をやらざるを得ないことがある。そして、そうした場合であっても、一切の手抜きはしなかった。尤も、学生で小遣い稼ぎ程度なら、おざなりな仕事をしただろうが、それで生計を立てるとなると、話しは別なのである。馘にでもなろうものなら、明日には飢えを味わう憂き目にも遭いかねない。

 しかし、実際馘になる例はまず無い。どんなアルバイトでも、皆自発的に辞めていった。尤も、それは表面上のことであって、実際は自発的に辞めるように、オーナーや店長といった人達で、工作をするのである。悪くもない落ち度を見つけだしては、ことあるごとにくどくどと説教を垂れたり、怒鳴ったり、厭味を言ったりするのである。すると、相手の方から望んで職場を去っていくのだった。社会的には間違ったやり方であったが、しかしそれはいずれ来るべきことをただ早廻ししているだけであって、何も店側で工作をせずとも、去っていった人達はやはり辞めていったことだろう。これらは必然的な流れの中にあったのだ。また、それで辞めない人もいたが、そうした人達は決して不幸ではない。それだけの逆境にあっても耐えていけるだけの精神を持っている人であるならば、その長所がオーナーの心を搏ち、本来は彼を挫く為に考えられた工作が、彼がより高い地位を得るきっかけともなるのであった。

 佳乃子の店での立場はどうだったかというと、微妙なところであった。よくヘマをやったものだ。お釣りを間違えるのはいつものことであったし、皿を割ったりもした。あれでなかなか注意力を酷使する仕事なので、間抜けな人間には出来ない仕事なのである。しかも、血色が悪く、覇気が無いので、上の機嫌が宜しくない時は、よくそれを理由に叱られていた。それは何も生まれつきのものだけではなく、なぜならば家計が苦しくても、将来の為に月二万円の貯金だけは維持するようにしていたので、その分をよく食費や雑費から差し引いたのだ。どんなにまかないがあろうが、他の二食が粗末なものになれば、覇気も無くなるというものである。ウェイトレスというものははきはきしていなければならないので、疲れ顔のウェイトレスなどは言語道断であり、仕事でミスをするよりも、むしろこちらの方が問題であった。ましてや、容姿が美しければそれで救いもあろうが、骨張っていて男性のような体つきなので、あまり制服が似合わない。都会的な雰囲気の店からすると、随分場違いな存在であった。そう、例えば、居酒屋くらいの方が似合っていたかもしれない。しかし、居酒屋のホールスタッフという仕事は、少なくともレストランのウェイトレスよりかは数段辛そうである。それに、あの油臭さというか、店全体に漂うむっとしたような空気が、どうしても佳乃子には好きになれなかった。少しばかり場違いでも、やはりレストランだ。

 できることなら、今の職場を移りたくない。その為には、一刻も早くここを出ることが最優先課題である。もちろん、放っておいても自分は助け出されるに違いないが、しかしせっかく身体を自由に動かせる上に、食べ物が充分なお蔭で頭だって普段よりもずっと働きがいいのだ、自力で出る努力をしてみなければならない。それに実のところ、何もすることがなくて、暇を持て余していたのだ。出る為には、出口を探すことが最良なのだ。

 佳乃子はこの建物の構造に想いを馳せ始めた。この建物の出入り口は未だに不明のままである。出入り口だと思ったところにはトイレがあるだけであった。それぞれの部屋には窓が一つずつあるのだが、その窓は鉄格子が嵌っている上に、どれも小さすぎてとても人の通れる大きさではない。

 まず、一番おかしいのはトイレの位置である。あれはどう考えても出入り口のあるべき位置であって、トイレのあるべき位置ではない。他に出入り口のある可能性として考えられるのは、浴室とダイニング、それにベッドのある最初の部屋だけである。しかし、そのどの部屋の窓からも、近接した両隣のビルか、下に足場さえもない何もない空間が見えているから、必然的に出口はトイレの方角にのみ限られる。しかし、浴室に外との出入り口があろうはずはないし、見たところここダイニングにも無さそうである。とすると、一体どこにあるのだろうか。まさか何かのスイッチを押すと、トイレがスライドして出入り口に代わるのではあるまい。

 他に何か変わった部屋は無かっただろうか。そういえば、ここダイニングと物置の間だけ、他の部屋に較べるとドアが一つ余分に多い。どうしてこの部屋は物置と繋がっているのだろうか。食料を物置に保管……そんなわけはないか。保管するならこの部屋にも充分なスペースがある。それとも――ああ、解った。本来は物置の方がダイニングで、こちらの方は、キッチンとしてのみ使っていたのかも。

 もちろん、部屋が持っていた本来の機能などというものは、知ったところで意味の無いことだ。しかし、『誰が』も『何んの目的で』も解らないまま突然こんなところに閉じこめられた佳乃子としては、どんなことでも知りたいと思った。自分は何も知らないのだ。いや、知らなさすぎる。もし、この建物の由来について書いた文献があったなら、佳乃子は涙を流して読みふけったことだろう。しかし、そんなものは夢に願っても得られるものではあるまい。お蔭で消化不良を起こしたみたいに、気持ちが悪かった。尤も、実際の食欲は充分過ぎるほどにあったのだが……。ともかく、佳乃子は救出が来るまでの日々を建物の調査に充てることに決めた。

 

 

 かれこれ二週間が過ぎた。未だに建物の謎はつかめず、消化不良のまま。もちろん警察もやって来ず、窓下では相変わらず子供達が平和を満喫していた。しかも、佳乃子へのあて付けのつもりなのか、子供達は紙飛行機で実に愉しげに遊んでいた。どうやら佳乃子の飛ばした紙飛行機は、子供達にブームを起こしたらしい。少なくともあのメッセージ入りの紙飛行機は、理解ある人の手には渡らなかったようだ。または、ヘッセだったのがいけなかったのかもしれない。シムノンかアガサ・クリスティーにでもしておけば良かった。

 佳乃子は他にも色々なことを試みしてみた。徹夜で犯人をを待ち伏せしようともしたが、相手はちっとも現れない上に、光源がサーチライトの光だけでは、眠気を抑えることが難しかった。かろうじて夜明かししても、それをあざ嗤うかの如く、冷蔵庫にはいつものように食料が補給されていた。ある時には隣のビルの人間とコンタクトを執ろうとして、要らないものを投げて窓をこつこつやったこともあったが、誰も出てくることは無かった。世の中は、何一つとして佳乃子の思ったようには進展してくれないのだった。しかし、佳乃子の方は少しずつ変わっていった。

 佳乃子は、ここの生活が極めて『自由な』ものであることを感じはじめていた。確かに思うままに外を出歩くことは叶わないのだが、ここには新鮮で充分な量の食料が毎日届けられる上に、一日のうちの全ての時間を自分だけの為に持つことが出来るのだった。何んの不自由なことがあるだろうか。それに自分の持ち物だって、全てある。そうした意味で、ここはまるで自分の家と変わりがないのだ。まして、自分の家といったって、一人暮らしだから意味的にはここと変わりがない。むしろ、がらんどうになってしまった部屋になんて、帰りたいとも思わない。

 そして佳乃子はじっくりと自分のことを考えはじめた。こんなことは、普段の生活では考えられないことだった。何しろ、は朝六時に起きて軽くシャワーを浴び、朝食を作り、天気予報目的のニュースを見ながら食べ終えると、後片づけをして蒲団を干す。八時十五分前には出勤していないとならないので、余裕をもって七時には家を出る。昼のラッシュが始まる前に一時間の休憩に入り(しかもまかないが貰えた)、午後五時には仕事は終了する。しかし、すぐ帰れるというわけではなく、なんだかんだで十五分から三十分くらいは残っていることが普通である。それから、日にもよるのだが、掛け持ちでやっているアルバイトが午後六時から午後十時まである。そんな日はへとへとになっているので、帰ってくるとすぐに買ってきた夜食を食べ、シャワーを浴びたら眠ってしまう。そうでない日は、帰ってきてから一時間ほどの仮眠を執る。それから風呂を沸かして、その間に少しドラマを観て、沸いたらさっさと這入って、髪が乾くまでバラエティ番組を観る。眠気が襲ってきたらそのまま寝てしまう。休日はというと、友人からの誘いでどこそこへ出掛けたり、そうでなくとも昼過ぎまで眠ったら、今度は部屋の掃除をしなければならない。一週間に一度、きっちり掃除したとしても、髪の毛や綿埃は、どこに隠れていたのだろうかと驚くくらいにわんさと溜まってしまう。掃除の後はくだらないワイドショーやバラエティ番組を観て過ごし、いつの間にか休日はお終いである。無為な時間を過ごすだけの余剰があるように見えるが、とんでもないことだ。無為に過ごしたいのではなく、無為に過ごさざるを得ないのだ。肉体と精神が悲鳴を上げているので、それを和らげるためのごくごく生理的な時間なのだ。だから、とてもじゃないが、自分のことをじっくりと考える余裕などは無い。むしろ、考えまいと努める。少しでも考えようものなら、明日からの生活の不安が小波のように押し寄せてくるのだ。ウェイトレスはあと何年続けられるだろうか。ここが馘になったら、次はコンビニで、その次はスーパーのレジ……。いっそのこと、どこかに就職でもしようかしら? でも、ろくな学歴を持たない自分が、一体ろくな会社に勤めることが出来るかどうか…。今時は競争率も厳しいという。それよりも、いい男を見つけて、専業主婦にでもなろうか……。でも、いい男の面を被ったろくでなしだったらどうしよう。ドメスティック・ヴァイオレンスも怖い。仮にいい男でも、今時はいつ馘を切られるとも知れない社会事情である。『結婚は人生最大の賭けである』という言葉は、まんざら嘘でもなかった。そして佳乃子はいつでも賭け事が苦手だった。地味に働いて稼ぐのが好きで、しかも、馬車馬のような自分の姿を見ては悦に入るタイプなのだ。

 さて、そんな堂々巡りのような不安や自己分析はさておき、佳乃子は自分が本当にやりたかったことは何んだっただろうかと考えてみた。……自分はずっとイラストを描く仕事がやりたかった。できれば、その準備としてイラストやデザインの勉強のできる学校に入りたいと思っていた。しかし、それは叶わぬ望みだった。それは佳乃子自身の不勉強によるものではなない。

 父親が再婚してからというもの、父親は継母の言いなりだったし、継母は継母で佳乃子を邪魔者としか考えてはいなかったようで、――再婚の際には、幾らかは好意的のような風だったのだが。そしていつでも父親は継母の味方で、佳乃子とその弟の味方なぞしようとはしなかった。継母の厭がらせは連日続き、またエスカレートしていき、二人は精神的にも肉体的にも痛めつけられていた。強く憎んだ。あの二人を殺して、自分も弟と一緒に死のうとさえ思った。だから、佳乃子は半ば飛び出すようにして家を出たのである。

 実の母親も、遠い存在であった。彼女は佳乃子を棄てた人間であるし、それに関して言い訳は聞きたくない。お互いかかずらいにならない人生なら赤の他人も同然で、そんな女に頼ることなんて、どうして出来るだろうか。ある意味、両親を同時に失くしたのと同じことだった。

 このコンクリートの牢獄に来てから、佳乃子は孤独感をまるで感じていないが、それが実の母親――とは言っても、佳乃子にとっての実の母親は一種憎しみの対象でもあるのだが、一般的、いや、無いものねだりとしての母親がすぐ隣の部屋にいて、家族の為に夜なべでもしているのではないかと錯覚させるような奇妙な落ち着きがあった。それは恐らく誰からも責められないということと、外界から遮断されたこの建物の持つバリアのようなものがそう錯覚させるのだろうけれども。

 それは、かつて佳乃子が熱望し、そして極度に嫉妬し憎んだものであった。住宅街を歩けば、家々は各々のバリアで明るく輝く。

 夜遅くまでくたくたになるまで働いて帰宅する途中、にぎやかな家庭から漏れる明るい光と、子供と大人が一緒になってはしゃぐ団欒の声を聞くだけで、佳乃子はみじめな思いをしたもので、『あんな家には火でも点けてやれ』などと、心の裡では毒づいたものだ。もちろん実際にそうすることは無かったし、仮にその家が爆発して跡形も無くなろうものなら、佳乃子は他人事に過ぎないにも拘わらず、ひどくショックを受けて寝込んでしまったかもしれない。

 そのような団欒が遠い存在であると同じく、自由な勉強など、佳乃子にとっては遠い存在であった。

 それでも、はじめの頃は、僅かな時間でも最大限に利用してイラストを描いていた。それが、確かひどく風邪をこじらせた時を境にすっかり体力も気力も落ちてしまって、僅かな時間を利用するだけの力がなくなってしまったのだった。――いや、それは言い訳だ。本当は自分の努力が無駄なだけのものかと、萎えていたのかも。

 イラストは描くだけでは意味がない。人から見られなくては。そう信じた佳乃子は、ひたすら実行に移していたわけだが、ついぞそれが報われたことは無かった。何をやったところで、いつも蔭口を叩かれていた。精一杯努力して、稼いだお金をつぎ込んで、自分で画集を作った時も、『あいつ、莫迦ですね、カネの使い方がおかしいですよ』。勉強のために――と思って同好の集まりへ行けば『学校へ行くための勉強でもしてるのかと思ったら、遊びに行ってるだけなんですね』。そういう蔭口を一番叩いていた張本人は『私は片親なんですよ』と自分の不幸を盾にとって威張り散らしていることがあった。君は自分一人が苦労していると勘違いしているみたいだけど、まだ学生の身分に過ぎない上、学費も生活費も随分入れて貰っているくせに。ああ、学校へ行きたかった。

 もちろん、学校へなんていくお金が空から降ってくるわけがない。年収百万そこそこの給料ではとても授業料なんてまかないきれない。行き渡った教育と充分な期間のモラトリアムは、一部のカネモチにしか認められていない。学者が総中流と謳う時、あぶれ者は計算されることがない。社会保障制度は老人は大切にするが若い人間など見向きもしない。よくよく考えれば法律や制度を作っているのは老人なのだから、仕方がないか。若い貧乏人は夢も希望の失くして、労働にまみれ、老人の生活を支えることに終始しなくてはならない。そうすることが今の社会で正義と呼ばれるものなのだろう。

 なら早く歳をとってしまえばいいのか。いや、十代の頃は良かった。どんな無茶でも踏み倒して、まるで病人か何かのようにイラストを描き続けていた。思えば、そんな時には随分と励ましてくれた人もいた。それなのに、自分は生活というものに埋もれてしまって、すっかりイラストというものを忘却してしまっていたのだ。いや、決して忘れてなどはいなかった。いつだって考えていたのだ。考えて考えて考えあぐねて、ついに考えていることさえ感じなくなったに過ぎないのだ。あまりの大きな不安と幻滅から、労働ということに逃避してしまっていたのだ。だからこそ、自分を忘れさせてくれる、地味でせわしなく身体を動かさなければならない仕事を好んだのではないか。

 だけど、ここでは自分を忘れる必要はない。いくらでも自分と向かっていい。時間とバリア、ずっと渇望してきたものがここにある。出口探しなんて意味も意義も無いようなことに時間と精神を費やすなんてもったいない。

 佳乃子はイラスト描きに励むことにした。物置を漁って綿埃の中から画材を引っ張り出すと、やおら描きはじめた。何より、テレビも携帯も無いのはありがたいことだった。お蔭で、余計なことに煩わされずにイラストに専念することができた。困ったのは、資料などの不足であったが、何も問題はなかった。何しろ、佳乃子が描き始めた頃から、冷蔵庫の中にそうした類のものが入れられていたのだから。しかも、気を利かせてくれたのか、電気スタンドまで入っていた。さすがに冷蔵庫で電気スタンドが冷やされているのを見たときは思わず吹き出しそうになったが、ともあれこれで夜でもイラストが描けるし、眼を悪くしないで済むというものだ。

 今、突然ここを出ろと引き摺られたとしても、佳乃子はトイレにだってしがみついて離れないだろう。もうあの労働と生活との二元的日々は――あの生き甲斐の欠片もなく、ただ廃人の如く、生きるためだけに生きる日々は、もはや堪えられるものではない。まったく、あれこそが牢獄――そう、一見どこへでも開かれているように見えるあの世界こそ、実は出口も何も無い牢獄だったのだ。

 それに較べてここはどうだ、一見出口が無いように見えるけれども行くべき場所への扉が、目の前にしっかりと見えているではないか。問題はそれに気づくかどうか、ただそれだけのことだったのだ。そして、時が来ればその扉を自らの手で開き、自信と勇気をもって、外の世界へと繰り出せるだろう。その時には果たしてイラストに関係のある仕事に就けるかどうかは定かではないが、恐らく失った覇気も年齢相応の力も取り戻し、むしろそれ以上の力を得て、立派に人間として生き抜くことができるんじゃないか、佳乃子はそう考えながらペンを握った。

≪了≫