1.
いつものように午前の仕事を終え、昼休みをどう過ごすが考える。一人で過ごすことには変わりない。私はいつだって一人だ。何を食べるのかが問題になる。給料の出たばかりで懐の暖かいこともあって、旨いものが食いたい。外で昼食を摂ることに決め、何んにしようかと往来の真ん中をぶらぶらしていると、ふと私が右手を握っていることに気が付いた。何も自分の右手を左手で握っているのではない。他人の右手だ。しかし、だからといって他人を捕まえているというわけではなかった。それはただ、純粋な右手に過ぎなかった。右手だけが私の右手にぶら下がっていたのである。前腕の丁度真ん中辺りからぶちりと引きちぎられた案配になっていて、筋肉と骨が少しばかり露出していた。間違ってもマネキン人形の右手ではなく、まぎれもない人間の手であった。
しかしどうしてこんなところで、こんな右手を握っていなければならないのだろう。人目が怖い。往来の人々を見渡してみたが、誰も私になど関心を払ってはいなかった。私はこの右手をどこかに捨てようと思い、遠くへ放り投げようと決めて振りかぶったところで、巡回中の警官がこちらに気づき歩み寄ってきた。私は反射的に人混みに身を隠した。恐らくこの辺りを歩いていれば、いずれまたあの警官に――或いは他の警官か刑事に見つかってしまうことだろう。即、家へ帰るべきだ。
そう思って家の方へ身体を向けたところ、急に右手が重くなった。見ると、私がぶら下げている右手に、さらに四、五歳程の子供がぶらさがっていた。どういうわけだか知らないが、あの右手は大変この子の気に入ったらしい。私はいっそのこと右手をこの子供にくれてやろうと思った。私は手を離した。しかし、右手の奴は私の方を離そうとはしなかった。私の右手をどうあっても離すものかとしっかりと握っていて、ちょっとやそっとじゃびくともしない。
私は右手が離れないならば、と歯の隙間から鋭い空気を出してシッシッと子供を追い払った。しかし、子供はまるで虚空を見つめるような顔でこちらを見るばかりであった。精薄者……ダウン症だろうか。眼を大きく見開いて――その下には大きな隈があった――ぽかんとしたような感じでこちらを見ている。私の意図していることは、この子には通じていないようだった。
まったく、とんでもない三角関係だ。この王子様は右手にぞっこんらしいが、右手の奴は私をしっかり掴んで離さない。被害者は私だけ。お目付役は一体どこに隠れてやがるんだ。
子供は相変わらずこちらをじっと見つめているばかりだった。説得しようとも試みたが、こちらの言っていることなんて、何一つ通じちゃいない――ひどい独り言だ。もしくは、この子は電話の送話器で、私はどこか遠くの誰かと話をしているのかもしれない。母親が受話器を取ってくれればいいんだが、電波が足りないとか、混線とか、断線とかしてないといいもんだが。
何んとか子供を引き離そうと骨を折っていると、不意に誰かから追われているような感覚が身体を襲い、戦慄した。先ほどの警官がこちらの居場所を嗅ぎつけたらしい。私は大急ぎで、しかし外見は落ち着いて見えるように子供を半ば引き摺るようにして歩き、人が団子状態になっている宝くじ売り場の脇で人混みと一体になるようにしてから、逆方向へ行くと見せかけつつ角を折れ、狭い路地に身を隠した。
相手はプロなのだから、こんな小細工はお見通しかもしれないが、もし見つかったって開き直るまでだ。何もかもをありのままに話してやる。奴さん方は誘拐に加えて殺人・死体遺棄・遺体毀損の疑いをかけるだろうが、あくまでも真実を貫き通すんだ。どうせ右手の本来の持ち主は見つからんだろうし、子供の親だって碌でなしに決まっている。
ただ惜しむらくは、やっとの思いで手に入れた現在の職と社会的地位の一切をどぶに捨てなければならないことだった。どんなことを言われたって卑屈に笑って『私は莫迦でございます』と頭を下げ続けることで手に入れたのだ。そういえば、今の会社に入社してから私の育成を受け持った一番最初の上司は、私のことを『街灯にへばりついている蛾』に譬えていた。ほとんど弱っていてもう命も短いくせに、堕っこちても落っこちても必死で明かりにしがみつこうとするからだそうだが、つまり私のことをただの給料泥棒の役立たずに過ぎないと罵っていたわけだ。
独身だから家族に影響の及ぶ心配は無いし、親とも永年連絡を執っていない。職にあぶれて食にすら事欠いていた少し前なら、実刑判決に諸手を挙げて喜んだだろうが、どうしてよりにもよって安定しはじめた今になって……。
いっそ、塀の中の生活でもやってみるか。獄中での生活は知識と見識を研ぎ澄ましてくれるかもしれない。官本は古くて良いというし。それに食生活を改善するいい機会かもしれない。麦飯は身体にいいかもしれないし、糖分だって摂りすぎる心配も無いだろう。
女にだって興味は無い。――何も相手がいないわけではなかったが、しかし、誰とも巧くはやれなかった。特定の人のために何かをしてあげるということほど嬉しいことは無いが、私の場合は特にそれが過剰になってしまいがちなのだった。無邪気な子供と同じように、私は大喜びで前後の見境を失くし、相手へと没頭し、必要以上に相手へ尽くすことによって、お互いの関係そのものが破綻してしまうのだ。親切はされる側よりも、する方がより快楽があるし、する方は過剰でも一向構わないのだが、される方はうんざりしてしまう。そしてそれは過剰さ故に、恐ろしく短い期間で完全に燃え尽きてしまい、同時に私の情熱も失われてしまうのだった。
そうした私の未熟ささえもしっかりと受け止め、そして正しい方向へ導いてくれる母のような女性に出会い、泣きつきたいと――弱音を吐いてしまいたいと強烈に思ったことはあったが、それは思春期の春の衝動と同じく、生理的で一時的なものに過ぎないと片づけてきた。事実そうなのだろう。そんなわけで、私は女性をろくに知りはしないのだが、――ああ、いっそのこと泣きついてしまえば良かったのだ。あの罪を知らない娘さんの、心安らぐ笑顔に向かって、素直に全ての感情を吐露してしまえば良かったのだ。そして、じっくりと愛というものの手ほどきを受けてしまえば――。
*
彼女は私が人生で二度目に転居した――私は籠城が好きで、一度自分の城と決めた場所からは動こうとはしなかった。好きな歴史上の人物は千剣破城に籠城して僅かな兵力で大軍と互角に戦った楠木正成だ――アパートの隣の部屋に住んでいた。そのアパートというのが、何しろ古いシロモノでトイレは共同だったし、風呂も歩いて二十分の銭湯まで行かねば無いという工合だった。そんなアパートに住むようになったのは、かつて職場で上司に向かって『馘にできるもんなら、やってみろ!』と勢いづいたことの結果であった。見事に私は職場を去らねばならない羽目になったというわけだ。何かしら準備があって食ってかかったわけではないので、再就職もアテなど、あるはずもない。
彼女とはあくまでお隣さんとしての付き合いだけだった。今の時代なら、お隣さんという言い方はそぐわないかもしれない。知り合い以上友人未満だった、とでも言っておくか。そんな風に認識していたのは、彼女だけだ。そのアパートに住んでいた他の人間は、中国人だか韓国人だか解らないがどこかアジア圏の外国人ばかりだったと思う。何しろ『あんにょんはせよー』と声を掛けられたことはあるが、彼女と出会うまで『こんにちは』と声を掛けられたことが無い。ほとんどは眼があっても、どことなく卑屈に、にやにやと何か言いたげな顔でこちらを見るだけだった。ああいう表情を作るのは外国から来たということの証明ではないかと思う。自国の人間だったらもう少し警戒の色が見えるし、どこか偉そうにも見えるはずだ。
私の部屋は二〇一号室だった。しかし角部屋というわけではない。角はトイレだった。左隣の部屋が、彼女の部屋だった。彼女との出会いはそれはそれは凄まじいものだった。今でもあの時のことを思い出すと、鼠のはらわたの凄まじい臭気が鼻を衝く。このアパートときたら二十一世紀の都市にあるくせに、未だに鼠が大挙して襲ってくるのである。隣の部屋からドタバタと聞こえる争いの音を耳にした私は、何か犯罪の匂いを感じ取って隣の部屋を訪れた。隣が若い女性であるということは知っていたので、少しばかり下心もあったのかもしれない。少なくとも、仮にその部屋の住人が男だったら行かなかったことは確かだ。――ともかくも私はその部屋の扉を叩いたのだ。隣の者だと伝えると、すぐに返事が還ってきた。
「ああ、丁度いい。開いてるから、上がって」
扉を開けてみて私は仰天した。仰天しながら、私は『女は血に強い』という説をどこかの誰かが唱えていたのを思い出した。部屋は血の海であった。その真ん中で彼女が棒きれを手に、鋭い目線を抜かりなくあちらこちらと向けていたのだ。
「さっき罠に小鼠が二、三匹かかったんよ。それを助けようと、ねずみ算式に罠へバンバンかかってくれたのはいいんやけどね、今度は一斉に罠を襲撃して、救出劇をやらかそうって魂胆らしいんやね」
罠というのは箱形の粘着テープのついた捕鼠器で、鼠がかかると中で動けなくなる仕掛けものだ。小鼠などがかかった場合、彼らは救援信号を送るので、仲間や親鼠が救出にやってくることがある。さすがは哺乳類でも最大の親戚を持つ彼らだ。
それにしても鼠というものは動きが素早い。しかも恐らくゴキブリなんかよりは圧倒的に頭がいいのだ。それを棒一本でこれだけしとめられる腕前とは、一体この女性は何者なのだろうか。しかもこの強烈な匂いと凄惨な状況を前にしても、真剣ではあるが平気そうな顔をしていた。もちろん、それはいいのだが――しかし、鼠の死骸からは、何か悪い病気でも発生しそうな雰囲気だ。この後片づけをしなければならないことを考えただけでもぞっとする。
「ええ、なるべくなら血は見たくないんやけどね、加減するのなんて難しいわ」
なるほど、この女性も必死だったらしい。だめにされた食べ物も相当あるのだろう、食べ物の怨みというものは恐ろしい。
無論、猫いらずは仕掛けてあるのだが、鼠たちが美味しそうにそれを食べても平然としているところを私はこの眼で何度も目撃した。まあ、巣に戻った頃には効いているのかもしれないが、どこか知らないようなところで死なれたのではうじが湧くかもしれないし、どうにも堪ったものではない。相手を捕らえるか、即死させるか、だ。
このアパートは共益費で猫を飼うように、大家へ嘆願でもした方が良いかもしれない。
「あら。私、猫をぶん殴る趣味は無いんやけど」
動物愛護団体の人間が聞こうものなら、仰天するような言葉を、心地よいスポーツでも終えたかのような爽やかな笑顔で発した。
ペストが流行したような昔は、鼠取りという仕事もあったそうで、子供が鼠を捕らえてはお金に換金して貰っていたそうだ。彼女はきっとそのような子供達の血をひいているに違いない。子供達の血を引く――というのも変だが。
私と彼女はそれ以来、毎日のように会っていた。何しろお隣さんなのだし、お互いに助け合えるのならこれ以上のことはない。住民同士のちょっとした誤解から生じるようなトラブルだって、未然に防ぐことが出来る。何より、相手の生活時間帯が解るようになったのは大きな収穫と言えた。都市生活というものは気を遣い始めるとキリが無い。少しの物音でも安心して出せるのと、出せないのとでは大きく違う。
私はそこを引き払って以来、もう彼女とは会ってはいない。私は念願の再就職に成功し、彼女との愉しいご近所付き合いよりも、鼠害が無く、シャワーがあって、トイレがあって、都市ガスが来ていて、壁掛けのエアコンを設置出来て、室内に洗濯機を置くことの出来る生活の方を択んだ。文明生活万歳。
彼女はまだあそこに住んでいるのだろうか。毎日会っていたのに、名前さえ尋いていなかった。 <お隣さん> で済ましていたのだが、彼女のことは <名無しの女> として整理することにした。
――彼女は私にとって必要で、彼女もまた必要としてくれていたのではないだろうか。いや、それは恐らく私の思い違いだろう。彼女は決してそんな人間ではなかったし、私もそんな人間ではない。――ああ、俺のような惨めな奴に一体、どこの誰が?! 酔狂にもほどがあるってもんさ。そんなことをする奴はうしろ指さされるに決まっている。世の中は体裁だとか、体面だとかが一番重視されるものなのだ。苦労知らずの娘さん方が果たして俺に同情してくれるかな? むしろ狂人だストーカーだと罵られるのがオチだ。それに較べ、ああ、なんてこの右手の愛らしいこと! しっかりと俺のことを掴まえて離そうともしない。したたるその血はまるで赤い糸じゃないか! よくよく見ればこの右手は女のものだったんだなあ、ちっとも気づかなかった。こんな雪のように白くて、きめの細かい肌はそうそうお見掛け出来るもんじゃない。ああ、素敵だなあ。よし、今度その照りの良い爪に塗るマニキュアを買ってきてあげよう。紅いやつがいいな、真っ白な中に鮮血のような紅だ、きっと映えるぞ!
さあて、そろそろ奴さんが俺を見つけだす頃だ。いや、もしかすると気づかずに通り過ぎてくれるかな? 私は物陰で息を潜め、警官が通り過ぎるのを待った。ダウン症の子供もそのことを解っているのか解っていないのか、じっと息を潜めていた。警官が見えてきた。身体半分ってとこだな。こちらにはどうやら気づいていないらしい、身体全体が見えたぞ、さあさあ、もう少しだ、さっさと通り過ぎていってくれたまえ。警官の身体があと身体半分で視界から完全に消えようという時、私の脇で大人しくしていた子供が――てっきりもう暫くは大人しくしていると思い込んでいた子供が――突然「うおー!」と歓喜の雄叫びを挙げた。私は慌てて子供の口を塞ごうとしたが、既に手遅れだった。警官は何事かと振り返り、こちらを観察している。私ははっと息を呑んだ。……なんだ。まったくふざけている。何んのことはない、私が警官だと思っていたのは、ただのガードマンだった。こうやって正面から見ると、警備保障のマークがはっきりと見えるじゃないか。それに服の色だって警官の制服に較べれば、水色で随分と安っぽく見えるというのに、あの憎ったらしい右手にあわくったせいで、ちっとも気づかなかったのだ。私は子供をあやしながら、恐らくは休憩中か何かでぶらぶらしていただけの警備員に向かって愛想笑いをした。警備員は子供へ溌剌とした笑顔を残し、去っていった。
私は呆然とそれを見送った。
気づくと、いつの間にか母親らしき女性が後ろに立っていた。子供の声を聞きつけたのか。私に「すみません」と一礼すると「ねえ、お願いだから言うことをきいて」と、子供の両肩を揺すって説得していた。
見るからに母親は疲れ切っていた。子供の方はどこ吹く風――というよりも、あらぬ方向を見てなにやら眼を輝かせるばかりで、とても母親の苦労を解ってくれるとは……。これは誰が悪いということではなく、――間違いなく子供に罪はないが、敢えてあると言うとするならば、母親が焦ってしまっていることだろう。物わかりのいい子供だったらこの母親はきっとうまくコミュニケーションを執ることが出来ただろうが、恐らくそんな子供は世界中を探しても数えるほどしかいない。しかし、どんな人間にだって正しいつきあい方というものがある。それさえ見つけられるならば、相手がどんな残忍な悪党であっても、理解し合うことは不可能ではないはずだ。大体、悪党といっても、周囲が悪党と認識するからこそ悪党なのであって、そんな人間にも感情というものが存在するということを忘れてはならない。何も悪党とダウン症を較べるわけではないが、ダウン症の子供だって、間違いなく感情はあるし、我々よりずっと素直に生きているかもしれない。我々だってドラマや映画では弱い人間の話に感動するくせに、実際に自分が弱い人間を前にすると足蹴にしたり逃げ出したりするのはなぜだろう。きっとそれは異常な存在だからだ。でも、異常じゃない人間なんて存在するのかな。全てにおいて平均的で、統計学上の理想像のような人間がいたとしたら、やっぱりそいつは異常じゃないだろうか。だとすると、異常ってどんな意味なんだろう。
私が大して意味も無いことを考え込んでいるうちに、いつの間にか母子は居なくなっていた。まるで変質者から逃げるみたいだ。
はっと気づいた。
私も周囲から異常な人間だとは見られていないだろうか。こんな右手をぶらぶらぶら下げて、おどおど歩いている人間は決して正常な人間では無いだろう。だから、誰も右手のことを私に尋ねようともしないのだ。異常な人間が妙なおもちゃを持ち歩いていたって、正常を自負しているような人々は誰しも、見て見ぬふりをするものだ。あたかもそれがステータスであるかのように。踏み絵のようなものだ。右手のことを私に問い質した瞬間、正常だった人は <転んで> しまうのだ。そしてこちらの世界に来てしまう。
――ということは、私はとんでもない世界に脚を踏み込んでしまったらしい。或いはどこかの世界へと、右手によって引っ張られているのだ。
ともあれさっさとアパートへ帰って、まずはシャワーを浴びよう。厭な汗をかいたものだ。
2.
仕事は無断欠勤してしまった。昨日の午後も出社していないから、二日続けてということになるだろうか。もう、席は無いかもしれない。
かといって、こんな右手を持って出社するというのもあほらしすぎる。
もちろん努力はした。会社の手前までは歩いたのだが、再び右手に眼を落とすと、途端にそんな気持ちは失せてしまった。
タイムカードの代わりに、右手にスタンプを押すというのも一興かもしれない。先方さんとの挨拶は、ちぎれた右手を差し出して握手か。千切れているだけに契りとな。相手はどんな顔をするだろうか。そう思うと惜しい気もした。せめて病気だとか休暇だとか届ければ良かったかもしれないが、今更面倒だ。どうせ、この右手につきまとわれている限り、気になって仕事になどならないのだ。いつになったら離してくれるか解らないのだから。
――そう、離してはくれないのだ。私は昨日、家に帰ってからのことを思い出した。
まず、ドアノブを開けるのに、利き手である右手で開けようとしたのだが、ノブに右手が埋まりそうになった。獅子だか熊だかの作り物の代わりに、この右手をドアに取り付けておけばどうだろうか。
いや、そんなことはどうだっていい。問題はそれからだ。
家に着くと、右手はついに私の手から離れた。そしてテーブルへぴょんと跳ねると「来い来い」と言わんばかりに、私を手招きした。これはチャンスではないだろうか。それも千載一遇の。あの右手が外れたのだ。私はそれこそ手を返すように振り返り、慌てて戸を締めた。オートロックのドアはそのまま鍵が掛かった。
私はざまあみやがれ、と心の中で思いっきり叫んでやった。本当は口にも出したかったのだが、出せないくらいに解放感だとか安堵感だとかといったものが、私の声帯をぎゅっと締めてしまった。
案外あっけないなと思ったが、ともあれ右手の奴が離れてくれさえすればいいのだ。あとはどうにでもなる。とりあえず今晩はホテルで過ごして、それから新しい住まいを探せばいい。家具は備え付けのものだし、持ち物といえば着替えとか、一張羅とか、別段惜しい物は無い。ああ、セザンヌの絵のポスター印刷を切り抜いたコレクションがあったな。写真立てや額に入れて部屋に飾ればなかなかいいものだった。あれはちょっとだけ惜しい気もするが、しかし絵画は永遠のものだ。またいつか集めればいい。
これからのことを考えながら表へ出たところで、最後に、と思ってかつての我が家を何んとなく見た。もしかすると厭な予感を感じていたのかもしれない。私の見たものは、あの右手が部屋の窓を開けて出てくる様子であった。なるほど、奴は人間の手だもんな。家の中から出てくるなんていうのは、それこそまさしくお手のものだ。奴はそのまま壁をつたい降りて、こちらへと一目散に迫ってきた。私は逃げた。逃げるより他にあるものか。逃げながら、私は最近は追われヅキがあるのだな、と思った。一日に二度も追われる羽目になるなんて……。しかも一度目は勘違いからの、情けない独り相撲だ。蟻のように小粒な心。そういえば、子供の頃、戯れに蟻を追いつめて遊んでいたことを思い出した。最後は巣にビニールホースを当てて水攻めにしたり、実験と称して虫眼鏡で焼き殺したりなどした。もしかすると、あの頃の報いが今頃になってやってきたのかもしれない。
私は駆け足で右手との距離を離すと、文具会社のオフィスの入っているビルと、不動産屋のビルの隙間に這入り込んだ。ここは行き止まりではなく向こう側に通じているので、万が一追いつかれても追い詰められることが無い。
私は向こう側を眺めた。
ビルの谷間から見える外の光は、まるで万華鏡ででも覗いているかのようにきらきらとしていて、綺麗だ。少しオーバーな言い方だが、こんなに暗くて、しかも都市独特のゴミ臭い場所から見ているわけだから、そう思えてしまう。
そして、来た方向を見て右手が追って来ていないことを確認して、私はその場にへたり込んだ。
まさかこれで終わったとは思えない。しかし、今は休息の時のようだ。私は大きく息をつき、空を見上げた。暗いところから見る空は色褪せたシアンで、限りなく眩しい。刺激が気持ち良すぎて、鼻がむずがゆくなってくる。私は久々に自由を手に入れた右手で眼を覆った。
私は指の隙間に、蜘蛛のような影が走るのを見た。蜘蛛のような――そう、まるで蜘蛛のようにそれは落ちてきた。蜘蛛は八本脚だが、こいつは五本指だ。わざわざ上からやってくるなんて随分と凝り性な右手だ。普通に追ってきてくれたなら、私だってちゃんと逃げられたかもしれないのだが。ああ、でも右手の <普通> なんて、私は知らないじゃないか。もちろん、私にも <右手> は付いてはいるが、全体自分の身体の一部だというのに、彼らのことをてんで解ってはいない。私の意思によって動かせることはもちろん、その仕組みも少しくらいは知っているが、どうして私の意のままに動くのか、ということになるとさっぱり解らない。それらを思うように動かせない人々だって大勢居るのだし、こんな風に右手だけが独り立ちしてしまうような事だってあるのだ。
右手は、私の右手に掴まった。私は頑固に手を閉じたままでいるつもりだったが、それはすんなりと開かれてしまった。手に冷たく無機質な感触が伝わった。
何んというか、つまり私はもうすっかり観念してしまった方が良いようだ。この右手からは決して逃げられることが無いように思えた。何しろ人の手なのだ。仮に鍵を付けて閉じこめたとしても魔術師の手よろしくに鍵抜けショーをやらかしてくれるかもしれない。くだらないことに労力を費やして時間を空費するよりか、腰を据えて右手との共生の道を探った方が手っ取り早いというものだった。
さて家に戻ろうか、と思って立ち上がると、路地裏の出口に一人の年端もいかない少女がぽつねんと立っていた。顔は能面のようにのっぺりとしていて、形容しがたいほどに無表情である。私の脳裡には、あのダウン症の子供の顔が思い浮かんだ。この子もダウン症か、或いは何か他の精神障害を持っている人なのだろうか。それだったらまだいいが、或いはもしかすると人間でない――、或いは実体でないかもしれない。この子がいつからそこにいたのか、私には全く把握出来ていなかった。
「このアスファルトの下には……」少女の声が響いたが、私には彼女の口が動いているようには見えなかった。「幼虫のまま一度も陽の目を見ることの出来なかった仲間達が、大勢埋まっているのです」
蝉は十年近くを地中で幼虫として過ごし、そしてはじめて地上に出て、たったの十日間程度を成虫として過ごすと言われている。そのため、道路のアスファルト化に際し、地上に出る間もなく、そのまま幼虫のままアスファルトで覆い被されてしまう蝉がいるのかもしれない。
這い上がろうとしたところに、硬いアスファルトが立ちふさがっていたら、私ならどう思うだろうか。それでも諦めずに出ようと試みるだろうか。さらに、やっとのことで外へ出ても、待ち受けているのは、人や自動車に踏みつぶされ、カラスについばまれ、ひしゃげて死ぬ運命だと知ったらどう思うだろうか。是非一度地中に眠っている幼虫共に知らせておきたいものだ。私なら絶対に出ない。仮にそれがいかに詰まらなく、生き甲斐の無い人生であったとしても。
ちょっと待った! 違うぞ。こいつはとんでもないペテン師だ。アスファルトで覆われるのは、踏みならされた道だ。そんな硬い土の下に潜る間抜けな蝉などいるものか。彼らが潜るのは、木の下だ。彼らは土の中で、木の根の汁を吸って生きているのだ。
私はふと私の右手の感覚が変わっていることに気づいた。見ると、右手の様子というものがすっかり変わってしまっていた。それは不格好な幼い少女の手だった。ところでこの手の感触には覚えがある。随分昔のことだ。
そうだ。――私はいつも待っていた。彼女のことを待ち続けていた。
彼女は六つほど年上のお姉さんで、真向かいの家に住み、毎日遊んだ。私にとって姉のようであり、そして同い年のようでもある存在であった。見た目は確実に年上なのに、話す内容は私とそんなに変わらないようであった。もしくは、私に合わせていてくれたのかもしれないが、今となってはそんなことは解らない。記憶から判断しようにも、その人の顔すらぼやけてしか思い出せない。無理矢理思い出そうとしても酷い頭痛に悩まされるだけだ。
彼女は精薄者だった。しかし決して重度のものではなかったと思う。なぜなら私は当時、彼女が特殊な人間であるなどということにはまったく気づかなかった。まあ、物心つく前からずっと接触があったのだから、私にとっては彼女こそが当たり前であり、標準であったことも確かなのだが。
彼女はよく人以外のモノと会話をしているように見請けられた。或いは会話をしているつもりだったらしく、よく何も無い空間へ向けて口を動かしていた。何も無いと思えた空間にも、細かな虫や、雑草や苔のようなものが生えていた。もしかすると彼女はそれらと会話をしていたのかもしれない。しかし、それは当時の私だって同様のことだった。当時の私が何を思ってそうしていたのか、今となっては思い出せない。しかし恐らくそれは彼女と同じ理由だと思う。
自己弁護になるかもしれないが、そうしたことは実に高度なことではないかと思う。知的生物以外のものを知的生物と見立てて会話をしたり行動を執ったりするということは、実にイマジネーションが必要なことだからだ。もしかすると、彼女には知的障害など無かったのかもしれない。あったのは勘違いと思い込みだったのではないか。
それにしても、考えが妙な方向へ行ってしまった。我ながら極論が過ぎる。こんなことばかり考えていたら、そのうち頭がおかしくなってしまうに違いない。頭痛が酷くなってきた。彼女は確かに精薄者であり、そのように世間から見做されていた。単に私が幼かったから気づかなかっただけなのだ。それを今更になってひっくり返そうとしても仕方がない。過去を翻すことなんて出来ない。出来るのは歴史家くらいなものだ。
ああ、私が思い出すのは、彼女のあの曖昧な顔ばかりだ。私の記憶にも随分と靄がかかっているようなのだが、それ以上に彼女の顔の輪郭線それそのものが曖昧であった。どうして生まれながらにして知能が不自由な人というのは、皆んな一様に顔があんな風になってしまうのだろうか。染色体のせいなのだろうか。いや、それだけではないだろう。程度の違いこそはあれ、知的な人間は知的な顔になってしまうし、愚かな人間は愚かな顔に、精薄の人はどうしても精薄の顔になってしまう。だからこの少女を、私の幼なじみと見間違ってしまう。
違う。この少女は――この少女は確かに私の近所に住んでいた精薄の少女だ。しかし、まったくもってあの時のままで……。こんなことはあり得ない。少なくとも、私よりも年上なのだから、少女のままということはあり得ないのだ。――尤も、今も無事で生きているとしたならば、心はあの時の少女のままかもしれないが……。
私は少女に歩み寄ったが、少女と私の距離は一向に縮まなかった。少女は微動だにしていない。少女はそのまま遠ざかっているのか。或いは私がその場で足踏みを運動をしている可能性を考慮して、一旦周囲を見渡し、そしてもう一度視線を戻すと少女は居なくなっていた。
いなくなったのではなく、或いは消えてしまったのかもしれない。あの少女はやはり――幻覚だったのだろう。私が幻覚というものを見たのは、子供の頃に起きたまま夢を見た時の一度見たきりだ。子供の頃のそれは、白い天井にまるで映画のスクリーンのように映し出されていた。一目で夢だとわかるような、色あせたフィルムのようだった。先ほど私が見ている幻覚は、当時見た幻覚よりもずっとリアルに見えていた。何しろ、本当の人間だと思ったのだから。しかし、どちらも夢には違い無いのかもしれない。夢は記憶の延長線上だろうか。だとすると、私の記憶の中から、あの精薄の少女が一つのイメージとなって喚起されたのかもしれない。おぼろげな記憶を掘り出したものだから、視覚が混乱してしまったということもあり得るかもしれない。そうだ。あの顔を思い出そう、思い出そうとしても、一向に曖昧模糊としているものだから、脳が必死になって思い出そうとする余り、幻覚となって現れたのだ。この前、ディスカバリー・チャンネルでそういうことを言っていた。それに違いない。
しかし、彼女の残した科白は一体何んだったのだろうか。それは確かに私に強烈な印象を与えた。私が今踏みしめているアスファルトの下には無数の死体が埋まっているのではないか。そこを人が歩き、車が走り、汚物を垂れ流している。汚物と死体とが絡まり合い、何か独特の異臭を放っているのだが、それはアスファルトに塞がれて漏れることが無く、地中に凝縮されていく……。その隙間を走るのが地下鉄であり、地下街である。コンクリートで覆われた向こうに何があるのか、我々一般人には解らない。地面をアスファルトで覆い、地中をコンクリートで覆い、これは何かを我々の目に触れさせまいという陰謀でも働いているのだろうか。
私は一つもドアの無い、真四角の部屋に閉じこめられていた。コンクリートの壁には幾筋もの亀裂と、染みが拡がっていた。明かりは天井窓から差し込む街の灯だけである。見上げると、天井窓には牢獄のように鉄格子が嵌っており、そこから向かいのビルが見えた。明かりの無いこの部屋でもこんなに明るいのは、あのビルの窓から漏れる光のせいだ。私の顔には縞の影がたぶりながら付いていることだろう。その時、部屋の中でもそりと動く気配がした。私がそちらを見ると、片隅にはベッドが置いてあり、そこで誰かが頭まで蒲団を被っている。
私は蒲団を剥いだ。
そこには少女の顔があった。二十歳くらいだろうか。痩せすぎ……というよりも痩せぎすといった感じだが、それなりに可愛い方だろうか。ややつり目気味なのに、キツい印象が無い。むしろ優しくしたくなる。小動物のような大きな瞳のせいだろうか。
彼女は憂鬱そうにつぶやきはじめた。携帯電話がどうの、紙飛行機がどうのと聞こえる。私はあいにくどちらも持ち合わせてはいなかった。
特に携帯電話に関しては、仕事で使ったことしかないが、私は操作しているうちに気分が悪くなる体質なのだ。きっと機械音痴のせいか、それとも電波が身体に合わないのだろう。以前電車の中で、鼻にピアスをした若い男がアンテナを私の眉間に突き立てんばかりにして携帯電話で遊んでいたが、その時には突然吐き気に襲われて、堪えきれずにそのまま男に向かってゲロをぶちまけてしまった。私は手痛い報復を受けるかと思ったが、男は何やらぶつぶつつぶやくばかりだった。ゲロ男とはかかずらいになりたくなかったのだろうか。尤も、悪いのは乗車マナーを守らなかった鼻ピアスの方なのだから、当然のことだ。他にも、放送局や電波塔の傍を通ると、おかしな気分になることがあるし。トラックドライバーの友人が電波を五百ワットにまで違法にブーストした無線機を見せてくれた時には、近寄っただけで失神してしまいそうになった。
それらのことを彼女に苦笑を交えながら説明してやったのだが、彼女はちっとも理解していないらしく、ただひたすらに同じ事を繰り返すばかりであった。彼女は頭が弱いのかもしれない、と私は思った。彼女の眼の隈は暗く、深く刻まれていた。
突然、私はこの部屋がエレベーターであるという確信に襲われた。襲われたのである。確信とは突然降りてきて、人を襲う魔物なのか。
――で、この部屋はエレベーターであるので当然上がったり下りたり出来る。部屋はどんどんと下りていくのだが、なかなか停まってくれないのだ。鉄格子の向こうには何か淡い光を放つものが見えた。それは何か虫の屍骸であった。屍骸に含まれていた燐が発光しているのだと思った。しかし、違った。
それは虫の翅だった。大量の虫の翅である。虹色に輝く透明な翅や、きらきら光る鱗粉の付いたの、ありとあらゆる虫の翅が堆積しているのである。それらから発せられる光なのであった。小学生の頃、キャンプで蜉蝣の大群を見たことがある。水銀灯を中心にして、大量の虹色めいたものが、気持ち悪いくらいに空間を占拠していた。あの時よりもずっときらびやかだ。
私が思い出に浸っていると、部屋は最下層へ到着したらしい。チーンという音と共に、鉄格子の窓の対面の壁が開いた。多分出口なのだろう。
私は少女を連れて出ようとした。
しかし彼女はどうしても出たがらなかった。外の世界には携帯電話や紙飛行機が幾らでも手に入るんだよ、と説得したが、ベッドにしがみついて、どうしても出ようとしなかった。もしかすると、彼女も携帯電話の電波が嫌いなのかもしれない。だから、こんなところで隠遁生活を送っていたのだろうか。
私は彼女の手を握った。そして、即座に離した。冷たい感触が私を怯えさせたのだ。しばらくの間、私と少女は黙ってじっと見つめ合った。
沈黙をうち破るかのように、突然壁が閉じ始めた。
私は彼女を連れて出ることを諦めて、外へ出た。いや、正確には外ではない。そこは下水道であった。私はともかくも歩いた。
しばらく歩くと、前方に明かりが見えてきた。そこへ近づくにつれて、空気が新鮮になってくる。やっと出口に着いたぞと思ったら、そこは私の卒業した小学校の脇の、どぶ川であった。私はどぶ川が地面に消えているところから、出てきたのである。そして、そこで蛾の大群が舞っているのを見た。特に水銀灯の辺りが凄い。
私が歩きだすと、突然足許でジジジジジと鳴く音が聞こえた。私はそれで目醒めた。
厭な夢だった。私はぐっしょりと寝汗を掻いている。
喉が渇いた。
水が欲しい。
私が起きあがろうとすると、足許で再びジジジジジジという鳴き声が聞こえた。私が驚いてみると、右手が蝉を握っていた。右手は、またもとの形に戻っていた。形容のしようのない、女性の手だ。
ここは私の寝室であり、私はベッドの上で寝ていたようだ。そう、幼なじみの少女の幻覚を見てから私は即座に家に戻り、さっさと蒲団を被って寝たのだ。そして今みたいな夢を見た、というわけだ。
蝉のあのジーという音には、何かこう、精神を乱すものがある。まるで機械のような音じゃないか。精神が研ぎ澄まされている時には曖昧なものにし、曖昧な時には研ぎ澄ます効果があるような気がする。私を夢から醒ましたのは、この右手のお蔭なのかもしれない。もしかすると、あのまま夢を見続けていたら、出ることを拒んだあの女のように、私もこちらの世界へは還ってこられなかったかもしれない。
――だとすると、この右手の目的は何んなのだろうか。
私をどこかへ連れて行くことが目的ではないのだろうか。
しかし、考えてみても仕方がない。私はこの右手とよろしくやっていくしか無いのだ。
私は右手から蝉を受け取ると、窓へ行き、外へ蝉を放り投げた。蝉は弱っていたのか、巧く飛べないらしく、地面に激突したらしかった。酷いことをしてしまったかな、と思った。そして私は再びベッドに戻ると、再び眠りに落ちた。
――とまあ、昨日はそんな工合だったのだ。夢にしろ幻覚にしろ、私は自分の精神に若干の不安を抱かざるを得ない。まあ、右手の奴と出会ったのが昨日の昼過ぎのことで、それから一気におかしくなってきたのだから、よっぽど疲れさせられたのだろう。特に警備員を警官と見間違えたのは、痛かった。
まあ、過ぎたことはどうでもいい。今日は幾らか思うところがあって、ある人を訪ねようと思っている。出来ることなら、恐らく今回のことの核心であろう自分の幼なじみとも会いたいのだが、今どうしているかなんて、調べようがない。しかしまあ、まずは外堀から埋めてみようと思うのだ。
3.
私はかつて住んでいたアパートへと向かった。目的はもちろん <名無しの女> だ。彼女に会えば、何かこの右手のことが解るかもしれない。たとい解らなかったにしても、何かしら手助けをしてくれるかもしれない。
実を言うとはじめの頃は、この右手は彼女のものではないか、と思っていたのだ。警備員を警官と間違えてダウン症の子供と一緒に隠れている時だ。彼女のことを思い出した時、表面的には思わなかったけれども、心のどこかでそう考えていたのだ。
ところで私は多重思考が出来る。
もとい、多重ではない。二重だ。あくまでも二重までだ。三重まで行った自覚はない。二つまでのことなら、同時に考えられる。
一つは、言葉で思考することであり、もう一つはイメージで思考することだ。
ただし、絵画のような具体的なイメージではない。どちらかと言えば、匂いを感じることに近い。嗅覚は視覚などの他の感覚に比べると特殊で、実際には匂っていなくても、匂いを感じてしまうことがあるし、実際には匂っているのに、意識しないと感じることが無い。そんな風に少しあやふやなところのあるイメージであり、思考だ。
言葉と理屈で思考する時には、よく嘘が出てくる。しかし、イメージの場合は嘘の出ようがない。その代わりどこかあやふやで、意識することを忘れると感じていることさえも忘れてしまう。
だから、私は言葉で思考することは表向き。イメージで思考することは心の裏側、と整理している。
世に言う <良心の声> なんていうのは、イメージの方かもしれない。
でも、本当に良心の声を聞いている奴なんて居ないだろう。どちらかというと、本能に近いものなはずだ。だから、言葉などという姑息な発明に較べると、真剣味という点で大きく引き離している。
さて、良心の声は当たっているだろうか。早く確かめたい。
駅を出て、床屋のある角で右に折れ、左手に倉庫、右手に空き地を見ながら進むと、現代的だった景色が少しずついかがわしくなってくる。さらにコインランドリーと銭湯の間の細い道を這入ると、真っ黒に変色した漆喰のアパートや、廃屋や、トタンの屋根、壁が見えてくる。独特の臭気がこの一帯を包んでいるように思える。足許に眼を落とすと、猫の死骸が捨ててある。アンモニア臭というのだろうか、その死骸からは酸っぱいような匂いが漂ってくるのだが、それと同じような匂いが周囲の家々からも発せられているようだ。私は少しばかりむせた。
狭い路地を抜けると、今度は緑色をした用水路が見えてくる。用水路なだけあって、もちろん人工の川なのだが、そのせいか川底が異様に浅い。水が濁っているせいで一見深いように感じられるのだが、打ち捨てられたテレビがきちんと頭を出している程度の深さしか無い。
私は川縁の手すりに手を掛けると、一息ついた。カビたような匂いが、用水路から上がってくる。川は緑青だらけの鏡のように真っ平らで、淀んでいた。川面には私の顔がくっきりと見える。私はそれに唾を吐きかけた。顔を上げると、上流からダンボールが流れてきた。ダンボールからはドタバタという音が聞こえたような気がした。私は中を見ようと思って背伸びをした。中に仔猫らしきものがちらっと見えた。この辺はどうやら不幸な猫の密集地のようだ。私はそれをただ見送った。どうせ、ここからは届かないのだ。そのうち捨てられた冷蔵庫か何かに引っかかるだろう。まさか海まで行くことはないだろうな。その時は大海の仔猫か。まあ、そんなところに着く前に、ダンボールが溶けて無くなってしまうのだろうが。
私は川縁に沿って歩いた。対岸は新興住宅地という奴だろうか、やたらと原色ばかりを用いた悪趣味な家々が川面に映っている。洒落ている――というよりかは、人食い人種の持つイメージに類似している。荒々しく狂信的で、取って喰われてしまいそうな印象がある。私はそれらを見ていられなくて、背を向けた。すると、以前住んでいたアパートが見えてくる。そこの一階は大家が住んでいるが、アパートの前では大家が植木に水をやっていて、その脇では猫が不愉快そうに腹這いになっている。
私はとっさに植え込みの影に隠れた。別に隠れなくても良かったのだが、一瞬の間に昔の習慣が蘇ったらしい。仕事の無かった頃の私は、しばしば家賃を滞納させた(件のアパートは、不動産屋を通していない。だから賃料は直接大家に支払わなければならないのである)。そのせいで顔を合わせるたびに、厭な気持ちになるようなやりとりをしなければならなかった。ああ、彼女が醜い老女ではなく、心優しく、美しい年頃の女だったら!(しかし、それはそれで私は情けない思いをしなければならなかっただろう)
それにしても、何も一つ悪いことをしていないというのに、私はどうして隠れたりするのだろうか。何も右手にひっつかれているからだけではあるまい。現に、私が今隠れたのは右手とはほとんど何んの関係も無い(唯一、ここへ来なければならなかった動機だけである)。思えば、昔からそういう性格だったのかもしれない。問題事は解決していくのではなく、蟲か何かのように物陰に隠れてただひたすらに堪えるだけだった。これじゃあ『街灯にへばりついた蛾』に譬えられたって、仕方がない。問題一つ解決出来ない人間は社会からも、いかなる人々からも必要とされない。もちろん友人や恋人からも、だ。問題はいずれ姿を変えて、再び眼の前に現れるのだから。
理窟では解っているにしても、今更どうすることも出来ない。生き方というものは、そうそう簡単には変えられない。私はずっと卑屈な人間だった(もちろん、今も、だ)。卑屈に生き、困ったことがあれば、蟲のようになって堪えた。つい先ほどまでの私は、右手に付きまとわれてから、私は追われヅキがあるのだと思っていたのだが、実際にはそれは私そのものの資質だったのだ。何も右手だけが生み出した不幸ではなく、たまたま私の性格と重なっただけだ。私はなぜだか、右手に対してすまないような気持ちが湧き上がってきた。
しかし待てよ、私にだって誇りに出来ることはあるじゃないか。以前の職場を去る原因は、上司に噛み付いたことがきっかけだった。あんなことは恐らく人生一度きりだろう。その原因はというのは――あの空虚感を何んと表現したものだろう。堪えて堪えてやっとのことで少しは自慢できるくらいのポストに上ることが出来たところで、自分がとてつもなく場違いな位置にいることに気づいたのである。
私は人の上に立つには、あまりに人格が向いていなかった。人は、卑屈な――カリスマの無い――人間が上に立つことを極端に嫌うものだ。私は部下達から嫌われた。彼らは私への苦情を書いては、私の上司へ直訴した。その苦情の内容というのは、私の部下達への接し方についてだった。私はあまりに糞真面目すぎた。糞真面目というよりも腐れ真面目とでも言うべきだろうか。私は堪えて、堪えて仕事をしてきたのだ。だから当然、仕事とは苦しみを堪えるべきものだと思っていた。しかし、そう考えない人もいる――というよりも、そうした人々の方がずっと多いのだ。そして恐らく学問的に見れば、仕事は決して苦しみではなく、むしろ苦しむような仕事は間違いであって、愉しんで仕事をするくらいの方が正しいことなのだ。言い換えればそれは夢であり、希望だ。それによって、人は働く意欲を持つことが出来るのである。
私の部下達は、そうした正常な人々だったのだ。しかし、私は違った。仕事に対して堪えることしか出来ない。物陰に隠れて、苦しみが通り過ぎるのを待つのみだ。無意識のうちに、部下達にもそれを要求していたのだろう。彼らが憤るのも、無理も無い話なのだ。彼らが苦しむ時は、あくまでも自己の夢の実現のためであって、そうでない時に苦しむことは断乎として拒否するものなのだ。
私は上司から、高級役員が受け取る札束のような手紙を突きつけられ、辞職を奨められた。その時、毒が体内に溜まりに溜まった毒蟲は、思わず相手を刺してしまったのである。そんなことをすれば自分が一瞬にして叩き潰されることも、そして自分の毒が相手には一切効きもしないことも、すっかり忘れてしまっていたのである。
私は立ち上がってかつての住まいの方へ向かった。大家は私に一瞥をくれたが、特に構おうとはしなかった。カネの切れ目が縁の切れ目か。あの頃はさんざ言い争った仲だというのに、寂しいばかりだ。
私は建物の中に這入り、そして階段を上った。そして、目的の部屋のドアをノックをした。
妙に安っぽい音を立ててドアが開いた。
中から見たことのない人が顔をひょっこりと出した。一瞬、部屋を間違ったかと思った。或いは、住人の方がそっくり入れ替わってしまったのかと思ったが……
「ああ、確か……」
声は間違いなく彼女のものだった。よくよく見れば、顔の印象は確かにそのままだ。若干やつれたかもしれない。髪型がすっかり変わってしまっていたので解らなかった。以前は後ろ髪が背中くらいまであったのだが、今ではまるで男のような短髪になっている。
彼女は私を部屋に入れてくれた。その際、彼女の右手を確認してみた。私の持っている右手とは、随分と違うようだ。この右手は、彼女のものではない。良かった。私は少しほっとした。まずは一歩前進といったところだ。
私は部屋に上がる前に、右手を後ろ手に隠した。
別に隠すまでしなくてもいいのかもしれないが、なぜか見られたくなかった。気恥ずかしさ、とでもいうのだろうか。自分で絵か何かを描いて、それを他人から見られたくないような気持ちと似ていた。それに、私はいつも隠れる側だったのだから、たまには隠す側になった方がいいかもしれない。
ところで、彼女の部屋は不可思議に変貌していた。以前に見たときは、鼠の死骸の他にはこれといった特徴は無かったものだ。むしろ殺風景なのが特徴といっても良かっただろう。ところが今となっては、そこら中に干し首が置いてあった。多分レプリカ。もちろん、人間のものだ。
「それ、リンゴで作ってるんやけど……」
なるほど。劣悪なレプリカだったらしい。せめて動物の皮か何かだったらそれらしいのだが……。それはともかく、リンゴなんて使って、腐ったりしないのだろうか。まあ、可愛いものだ。
「まあ、坐りなよ。インスタントで良ければ、珈琲でも出そうか」
私は遠慮無く坐らせてもらった。ここから干し首コレクションがよく見える。なぜ、干し首なんて作ろうと思ったのだろうか。
彼女は珈琲を淹れながら、答えた。「なんでやろうねえ。突然欲しくなったんよ。髪の毛は、自分のを使ったんよね」
だんだん話の方向が怪しくなってきた。それで髪型が変わったわけだな。それにしても、人毛をリンゴになんか植えたりなんかして、呪いの人形みたいに髪が成長して怖いことにはならないだろうか。どうにも、趣味が歪んでいる。怖いからやめてほしい。
きっと、鼠を虐殺しすぎたのが影響したに違いない。環境被害と言ってもいいだろう。もし彼女が精神異常をきたして犯罪に走ったとしたら、まず責めるべきは大家だ。『なぜ、猫を飼うことを許可しなかったのか』と。……駄目か。しかし、その肝心の大家の方は、自分では猫を飼っているのだから、不公平な話だ。
猫といえば、リンゴの干し首は鼠の餌食にならないのだろうか。
「ああ。時々やられてるね。食べるというよりも、囓ってるんやね。木みたいにガチガチになっちゃうから。そういえば、鼠といえばね……この間、シマヘビを飼っていたんだよ。小さなヘビさ。ま、飼っていたといっても、たまたまウチに迷い込んできたものなんやけどね。そしたら、どうなったと思う?」
はっきり言って、あまり考えたくない。
「なんと、鼠の骨と一緒に、奴の抜け殻が出てきたんよ。びっくりやね」
今度は鼠害じゃなくて、ヘビ害だろうか。それに、成長し続けているんじゃ、そっちの方がよっぽど怖い気がするのだが。
「ああ。その心配はないわ。この間、逆に骨にされてるのを見つけたから。鼠って思ってた以上に強いんやね。ヘビなんて見たら逃げていきそうなもんやのにね」
そういえば、昔の炭坑夫なんかは生き埋めになんかなると、後で発見されても鼠から体中を食いちぎられているという。小さくて数の多いものというのは決して侮れない。今時の飼い慣らされた猫くらいでは、逆にやられてしまうかもしれない。特にこのアパートの鼠は気性が荒いからな。大きさだって半端じゃないし。小鼠なら何んてことも無いのだが、ドシドシと床を鳴らしながら高速移動する親鼠の方と出くわすと、思わずぎょっとしてしまう。
彼女は湯気の上がる珈琲を持って、テーブルに腰掛けた。私は珈琲を一口啜った。何んとなく酸っぱい気がする。
「ところで、仕事はどう?」
まさか無断欠勤中だとは言えないな。お蔭で生活も改善してきた、と伝えた。尤も、またすぐに逆戻りだろうけれども。
「実はわたしもいい仕事にありつけてな。月三十万貰えるようになった。ちょっとしたアイディア一つやったんけどね。もっと稼ぐことも出来るんやろうけど、それはちょっとリスクというか、デメリットが大きくてね。それこそ、四六時中働いていなくちゃいけなくなる。夜中だってね。私は日々の生活さえ送ることが出来れば、それで満足やから」
私がここに住んでいた頃は月八万程度だったろうか。十四時間の労働で二千円の日当しか貰えないこともしばしばだった。資本家にとってみれば、窮乏した日雇い労働者など、都合の良い捨て駒に過ぎないのだ。よくお互いにそんなことを愚痴ったりしたものだったが……。今は月三十万も貰っているなら、こんなぼろアパートになぞ用は無いはずだ。何を好き好んで、こんなところに住んでいるのだろうか。
「風呂無し、トイレ共同、カセットコンロ、排水口から上がってくる匂い……。あたしにはそれらが無いと生きられないんやね」
このアパートに来る宅配業者の中には、酷くむせかえっているようなのをたまに見掛ける。このアパートには独特の臭気があるが……或いは瘴気かもしれない。人を毒する悪気だ。私はもうすっかり慣れてしまって、よっぽど意識しない限りは感知できないのだが、他所から来た人にとっては辛い匂いかもしれない。しかし、一度これに慣らされると、これ無しでは生きられない、とか。そうか、中毒性もあったんだな。
「それに、身一つで住んでいられるというのは、何かと気楽でいいもんやからな。良い住まいに住めば、その時点で或る程度の資産があるということを宣言するようなものだし、それを維持していくのも大変なことやないんかな。バスルームだって自分で管理しなくて済むのは大きいと思う。掃除するのはもちろん、故障したときだって自腹を切らなきゃいけないし」
それから何時間か、お互いの近況を報告し合ったり、これからの計画を語ったりしたものの、それらの時間は、私にとってあまりに退屈なものだった。
不思議なことだが、彼女に対しては何んの感情をも抱かない。つまり、彼女からは何んの刺激も受けない。好意も、悪意も、セックスアピールも、嫌悪感もすら感じない。彼女は確かに特殊な人間ではあるのだが、それがあまりに空虚過ぎるのだ。しかも、それを前面に押し出してしか生きることが出来ない。干し首がなんだってんだ。こちとらナマの右手を四六時中持ち歩いているのだ。全くこの女は空虚そのものだ。苦しい生活をしていた時期は、こんな友人も必要だったのかもしれないが、今の私にとっては存在の重みが無い。あまりに軽すぎて堪えられない。
空虚な人間と空虚な会話を続けて、一体何になるのだろうか? せいぜい、傷の舐め合いをやる程度だろう。時間の無駄というものだ。もしくは、時間の無駄だと気づくことが、収穫と言えば収穫なのだろうが。
アパートを出たとき、もう辺りは暗くなっていた。
4.
今晩は満月だ。低い位置で病的に赤く染まった月がこちらを見ていた。夕陽が赤いのと同じ理屈で赤いのだが、空気中の塵の量も関係しているだろう。空気中の塵などによる乱反射によって、波長の長い赤い可視光線が残されるからだ。これまた空気が澄んでよく晴れた日の空が青いのと同じ理屈だが、空気が綺麗であれば高い空に病人のように蒼白な月を見ることが出来る。こちらに住むようになってから、まだ青白く輝く月を一度も見たことが無い。
実家は一番近いスーパーまで行くのでさえも、片道四十分ほど歩かねばならないような場所にあったが、月はそれなりに綺麗だったような気がする。よく銀色の光が頭上から降ってきた。子供の頃は、ときどき望遠鏡で覗いてみたものだ。あんまり明るすぎて、眼がおかしくなったような記憶がある。写真に撮ってみようとしたこともあったが、それと同じ理由で露出がおかしくなってしまった。サングラスを挟んで撮ってみたりもしたのだが、やはり駄目だった。どうやら、それ専用の機材が無いと巧く撮れないらしい。
空を眺めながら歩いていると、危うく前方に立っていた青年とぶつかりそうになった。私は謝って通り過ぎようとしたが、彼は私に声を掛けてきた。私はかかずらいたくなかったので彼から遠ざかったのだが、それでも私のことを呼んでいるらしい。
夜に、街で見知らぬ者に声を掛けるのは、客引きと麻薬の売人くらいなものだ。いや、あるいは狂人、もっと言えば殺人狂かもしれない。彼の方に眼をちらりとやる――どうやら、片手には何かを手にしているようだ。私は身構えてから、振り返った。
「あの、すみませんが、ライターをお持ちでないですか?」
よく見れば、彼が持っているのはタバコの箱だった。何んだ。莫迦らしい。私はポケットを叩いて、ライターを捜した。無い。よくよく考えれば、私はタバコを吸わない。吸えないわけではないが、別に禁煙したわけでもない。特に吸いたくて仕方がない――とまでは思わないだけだ。金銭的に締められるなら、なるべく締めておきたいし、今時は禁煙ムードで、どちらかというと吸う機会が無い。
「ああ。すみませんね、呼び止めてしまって。しかしですね、世界的に見ても、禁煙ムードというのが拡がっていますからな。近い将来、考古学者が地面からタバコの欠片でも掘り当てて、新聞に載るような時代が来るかもしれませんね」
私はこの青年と話し込むような気持ちはさらさら無い。しかし私が歩き出すと、彼も一緒に私に付いて歩いてきた。
「まあ、そんなことを言ってみても、時流は変えられんのでしょうね。人間の作り出したものは、あっという間に転落してしまう。無常というか――西洋風に言えば革命なんでしょうかね。例えば、私がつい五年ほど前に学校で取った資格なんてのは、今じゃもう紙切れ同然です。どんなに努力をしても、価値観がすぐに変わってしまうんじゃ、やりようがありません。それに引き替え、見てください、あの月は何も変わるところがない。変わるのは地上から見た姿だけです。人間から見た姿だけが変わるんです。それだって、実際には常に同じ向きなんですから。何百、何千年とあの無意味とも釈れないような旋回を繰り返している。ねえ。今晩の月は、いい月だと思いませんか? 実に紅い」
思わないか――と問うばかりで、いい月ですね、とは言わないのだな。ああ、内気そうな青年じゃないか。こんな青年が話しかけてくるなんて、ある意味でとても怖いことだ。しかも、言葉遣いがまるで翻訳小説の書き言葉のように丁寧だ。今時考えられない。私は何か恐ろしいことに巻き込まれようとしているのではないだろうか。なぜ私になんて話しかけてきたのだろうか。私はさっさと通り過ぎていくつもりだった。どうせ、ろくなことではないのだ。
「実を言いますとね、私は月信仰者なんです。おっと、厭な顔をしないでください。新興宗教やなんかじゃありませんよ。確かに、どこの地域でも、大昔には月信仰というのが存在していたようですがね、しかし、そんなんじゃあありません。今時、そんなことやったって、アナクロも良いところですしね。で、私は単に月を眺めるのが好きな人間だ、とでも言っておきましょうか。休みの日に望遠鏡を取り出して眺めたりするような――まあ、趣味ですな。
月を観るついでに、星や惑星も観ますよ。惑星は土星が好きです。特に、望遠鏡で見た、ぼやけたような像が好きです。他の星だと、プレアデス星団が好きですね。昴のことですよ。星団というのは、見ていて飽きが来ないものです。もやもやしていて、肉眼で見ていても面白いものですが、五十倍くらいの望遠鏡で見るのもなかなかオツなものです。肉眼では捉え処のなかったのが、くっきりと見えるようになるんですよ。
ああ、少し話しが逸れましたな。で、そうなったきっかけというのがですね、子供時分に――ちょうど私の誕生日でしたが――家族でハレー彗星を観に行ったことなんです。その時、月が出ていてですね、皆んな、月へ呪いの言葉を吐いていたんですが――ああ、それは、明るすぎるから消えて欲しいってことなんですがね――でね、私一人だけが、月の魅力の虜となっていたんですよ。七十六年に一度見られる彗星よりも、ほとんど毎日厭味なくらいに見られる、月の方が私にとっては良かったんですね。ぼやけた彗星に較べ、月はあまりに輪郭線がくっきりとしていました。私は、今じゃぼやけた像というのも好きなんですがね――さっき言った土星みたいに――ともかく、そのくっきりとした輪郭というものは、私にとってあまりに衝撃的だったのです。考えてみてください、他にどんなものがあんなにくっきりとした輪郭を持っているでしょうかね。私には、地上にあるものは、どんなものだってぼやけて見えますよ。月と同じような物体であろう、岩石だってそうですよ。そこには泥が付き、様々な生き物が寄生しています。人工的に作ってみようとしたって、無駄なことです。人の手が入ったところには、あの、月から感じられるような冷たさが無いんですよ。きっと人間というものが、ぼやけていて、あやふやな存在だからでしょう。例えば、我々は個人というものを認識し、それを固持しますが、しかし一体何がそれを証明しうるんでしょうかね。顔でしょうか? 人間の顔なんて酷いもんです。顔の形というのは、刻一刻と変化しています。ちっとも安定することがありません。すこし見方を変えてみただけで、全人類が同じ顔に見えてくることだってあります。私はよく電車の中で人の顔を凝視することがあるんですよ。マナーとしてはいけないことなんでしょうがね。しかしデジャヴュとでもいうのでしょうがね、どんな見ず知らずの人でも、どこかで会ったことがあるような気がするんです。顔というのは、或る程度系統付けられているのでしょうね。元の民族が原因かもしれません。日本人はアジア系の色んな民族がごちゃ混ぜになっていますからな。私はそんな風な時、多分人を個人ではなく、民族単位で見ているのだと思います。まあ、色々な理由があるのですがね、顔というものはあまりに不安定ですぎて、何んの証明にもならないのです。そういえば、近頃はDNAだとかヒトゲノムだとかいうものの研究もだいぶ進んでいるそうですが、しかし所詮そんなものはタンパク質でしょう。燃やしたり、放射線でも浴びせればすっかり壊れてしまいます。それこそ、人間の価値観と同じで、解明した上で、さあこれから有効利用しようと思った頃には、もうすっかり中身が入れ替わっているのかもしれませんよ。明日には、人間だってキリンのような頸をしているかもしれません。そうそう、進化論でキリンが高いところの葉を食べようとして、頸を伸ばしたなんていう説は嘘っぱちですよ。あんなに頸を伸ばすなんていうのは、動物としては失敗でしょう。身体に無意味な負荷を与えるだけです。その位なら、木登りを覚えた方が、ずっとマシというものです。大体、努力して頸を伸ばすったって、何十世代も交錯してやっと得られるかどうかという能力でしょう、その途上にある世代はどうするんです? 中途半端な長さの頸では、高い枝の葉は食べられないし、地面の草を食べるのは一苦労でしょう。そんなことをしていたら、その種は皆んな飢え死にしてしまいます。だって皆んなが一斉に頸を伸ばさなきゃ、キリンという種が現代まで残るとは考えられませんからね。それよりも、突然変異の説の方がずっと現実的です。ある日、全くもって革命的に、頸の長い奴が生まれてしまったんですよ。それはある一種の病気かもしれません。胎児の段階で一斉に感染してしたんです。そしてたまたまそれが生活していく上で、都合が良かった。その証拠は何よりも、我々人類が行っていることにあります。生物を改良するような時、ウイルスを利用するんですよ。あれは遺伝情報とタンパク質のお化けですから、そいつに感染させることによって遺伝情報を書き換えるんですな。人間が行う場合は、そのウイルスを決して外部へ漏らすことはありませんが、自然界は別です。発症するかしないかはともかく、次々と感染していきます。だから、新しい種がある日突然一斉に生まれてくるのです。
ああ。まただ。また話が要らぬ方向へ逸れてしまいました。あなたは退屈なんてしちゃいませんよね? これは私の癖なんですよね。どこまでも延々と話しが展開していってしまう。きっと私には小説なんて書けませんね。終わりっこ無いんですから。まあ、その代わり、なるべく面白いようにお話ししているつもりなんですがね。
まあ、ともかく月の話に戻しましょう。私は月を信仰していると言いました。趣味なら趣味と言えばいいのです。それをなぜ信仰と言う必要があったと思います? その理由は、さっき言った『月の絶対性』の為です。え、私はそんなこと言わなかった? いえ、言い廻しはともかく、そういう意味のことを言っていたのですよ。絶対的なものは信仰を集める、そうですね? 相対的なものだったら、人と変わりがありませんからね。まあ、人だって絶対により近い人間はカリスマがあり、信仰を集めますね。優柔不断な人間にカリスマの欠片も無いのと、逆の理由ですね。
――で、私はその『月の絶対性』というものに願いを掛けたのです。どうしてだと思います? 妹が還ってきてくれるように、なんですよ」
彼の妹というのは、行方不明か何かなのだろうか。
「いえ。妹は家でぐっすり眠っていますよ」
まったく莫迦げた話だ。
「ただ、ずっと眠ったままなんです。もうほとんど寝たきりと言ってもいいでしょう。医者に尋いても、原因は不明なんですよ。尤も、それ専門の医者に当たらなかったからかもしれません。現代の職業は細分化と専門化の網の目ですからな。よく、社会の歯車なんて言いますけど、それどころじゃありません、もはやちっこい網の目というべきでしょう。歯車ほどの価値を見出そうとしても、現代じゃあ難しいところですから。
ただね。昔、妹は小児麻痺に罹っていたんです。はじめは、肺炎だと言われていたんですがね。で、その後はリハビリも成功して、ちゃんと生活できるまでに回復していたのですが、今頃になってね、突然動けなくなってしまったんです。後遺症って奴ですかね。薬にも問題があるのかもしれません。ほら、筋肉量を水増しする薬(実際、それらの薬によって作られる筋肉は、水分が多く、実用的ではないという)があるでしょう、あれはホルモンバランスを乱し、最終的には骨髄が液状化するっていうじゃありませんか。結局ね、世の医者というのは、物体と数値に左右されすぎているんですよ。数字として取り出せなければ、そこに病気は存在しないと思っているんです。実際に病気に苦しんでいる患者は、そこに居ないんですね。そんなものだったら、少し物覚えの良い小学生でも出来そうですよね。私はてっきり、病気に苦しむ患者から苦しみを取り除くために、経験豊富で人の心を見抜く眼を持っている必要があるから、大人がやっているんだと思っていたんですがね。医は仁術ですから。
いや、そんなことはどうでもいいんです。どうも愚痴っぽくっていけませんな。それよりも、あなたは全くもって面白い物をお持ちだ。腕……そう、ちぎれた腕ですね」
私は愕然とした。今更愕然とするようなことでもないかもしれないが、この青年には私の持っている右手が見えている! それとも今までに会ってきた人達もこの右手を見えていたのかもしれないが、誰も気にすることが無かったのか。ともかくも、彼はこの右手について認識していることを私に示した他者の第一号なのだ。そのせいで、軽く受け流してさっさと立ち去るつもりだったのが、彼と対峙してしまうという事態になってしまった。
「どうしました? そんな目立つ物を持ち歩いていれば、さぞかし知らない人からも声を掛けられたでしょうに。あっと。私は、その腕のことについては尋きたくありませんがね。巻き込まれたくありませんから。さて、あなたは随分と都合良くこっちをご覧になった。さあ、家は、この角を曲がったところにあります。どうしたんです、来ないんですか?」
私は一瞬ためらった。彼の話しはほとんど右から左だったが、やはり、右手のこととなると無視するわけにはいかないだろうか。彼に従って歩いた。すると彼は待ちかまえていたかのように話しを続けた。今度は話が逸れないでいて欲しいものだ。
「さぞかし不思議に思っているでしょうな。巻き込まれたくない、と言っているのに、私はあなたに色々なことを明かし、しかも家へ招待しようとしている。それはですね、あなたにお願いがあったからなんです。妹は、夢で、右手の切れ端を持った男性と出会ったと話したのです――妹は寝込んで以来、ほとんど口も利いてくれなかったのですが、ふとそんなことを口走ったのですよ。
全く、信じられませんね。切断された腕を持ち歩いている男なんて、どんな変質者か、殺人鬼か――いえ、失礼。ともあれね、妹はその男――まあ、あなたのことですな――と会ってみたいだなんて言い出したんですよ。
私はそんなことに請け合うつもりはありませんでした。だって、信じられないでしょう。かといって、妹の言うことを全く無視するというのも、酷な話です。だって、妹は動けないんですからな。私が代わりになって妹のしたいことをしてやらなきゃいけません。妹だって、もしかすると意識があって、私のすることをちゃんと見ているかもしれませんからね、全く無視してしまったとしたら、妹は傷つくかもしれません。そこで私は、妹には『腕を持った男を探しに行く』と言って、月を観ることにしたんです。妹だって、私が外で何をしているか、だなんて解りっこありませんからな。もちろん、騙すつもりはありませんよ。夜、外に出ていれば、もしかしたらそんな男だって通り過ぎるかもしれませんからね。
――で、月を見ていたら、あの月が私の願いを聞き入れてくれそうな気がしたんですよ。よく、恋人同士が月を見て願いを掛けるというのがあります。少しばかりおセンチが過ぎますかね。まあ、私の場合だと、それが生やさしいものでないということは、さっきからの私の説明でお解りでしょうがな。そして、私が月を観ながらぶらぶらしていたら、偶然あなたが通りかかったというわけです。全く信じられませんな。本当に! そこで、です。見ず知らずの人にこんなことをお頼みするなんて、失礼千万でしょうけれども、どうか妹とお会いしては戴けませんかね?」
別段、彼女と会うことは問題無い。しかし、この青年の態度が気にくわない。廻りくどくて、言い訳がましく、自信過剰で、しかも自己顕示欲の塊だ。こういう兄だけは持ちたくない。死んだ方がマシというものだ。彼の妹というのも、その性格に煩わされた経験があるに違いない。なんて不憫な。本当は、それが厭で寝込んだんじゃないのか?
それに、妹のことを語る時、彼は妹という名詞をしきりに使いたがる。それは、彼が自分の妹に対して意識が過剰だってことの証拠じゃないか? まず間違いない。不幸な娘さんが寝込んでしまった理由はこいつ以外に考えられない。
*
私が案内された一軒の家は、これでもかという位に原色まみれだった。もう夜だというのに、眼がちかちかして堪らない。まずこの家からして問題があるんじゃないか。こんな家に住んでいたら、気が変になって当然というものだ。尤も、家の外観なんて内側からは見えまいが。しかし家に帰ってくるたびに、こんな家に住んでいるのかと自覚してしまったが最後、生きる気力を失ってしまいそうだ。
妹が寝込んでいるのはともかくとしても、そこには親の姿が見えなかった。まさかこの一戸建ての家を、そこの青年が購入したわけではあるまい。そう思って遠回しに尋いてみると、彼の両親は二人とも遅くまで働きに出ているとのことだった。不景気のこのご時世、子供が成人しようが、生活していくということは恐ろしく大変なことらしい。近頃はNEETというのが流行っているらしいしな――働かず、学ばず、何もせず。月ばかり見ているこの男だってNEETじゃないのか。学費などの借金もきっと完済していないに違いない。日本という国では子供を作ったら、人生は破局へと向かうのか。結婚なんてしなくて良かった。尤も私からしてみれば、仕事があるだけでも随分とマシなことだと思うのだが。
私は奥の部屋に通された。四畳も無いくらいの小さな四角い部屋にベッドが一つあり、そこに顔の半分まで蒲団を被っている人が見えた。それが彼の妹だろう。それにしても、殺風景な部屋だ。窓も明かり取り用の小さな窓しか無い。恐らく、これはサービス・ルーム(洋風の納戸のこと)だ。きっと彼女の本来の部屋は二階にあるに違いない。寝たきりの病人は二階には置いておけない。いちいち階段で運ぶわけにはいかないからだ。それにしても、酷い。こんなところ、独房に閉じこめているのと、変わりない。
青年は、不満そうにしている私を彼の妹の傍で不思議そうに見ながら、手招きした。私は歩み寄った。
小児麻痺に罹ったことのある人だというから、どれほどの年齢かと思えば、実に若い娘さんだ。鼻まで蒲団を被っているから正確には解らないが、二十代前半か、下手をすれば十代にも見えるが……。
「そうですね。国内での最後の流行が終わってから、だいぶ経った後だそうですよ。たまたま、免疫力が弱かったのかもしれません。昔から棒きれみたいな奴でしたから。親戚に旅行好きが居たりもしましたし、インドかどこかからウイルスを持ち帰ったとか、或いは逆にワクチンが原因だとか、色々考えられますけどね。まあ、ウイルスなんてものは、真の意味で完全な撲滅などは出来ないものでしょう。昨今の世界事情を見ても、人類がそこまで偉くなったとは考えられませんからな」
何かと口の多い男だ。内向的なのか外向的なのかは解らないが、多分、普段内気な分だけ、反動的に要らぬことをだらだらと喋くってしまうのだろう。私はこの青年のことが気にくわない。こんなペラペラと一方的に喋くる奴に、ろくなのはいやしない。会話とは、あくまでも言葉のキャッチボールと思いたい。一方的なのはノック練習か、或いはバッティングマシーンだ。そういうものは講義だけにするが良い。
さて。彼の言うところによると、彼女は夢で私と会ったというが、そう言われてみると、昨日の夢で見た少女と似ていなくもないかもしれない。だが、夢で会った人間の顔なんて解りっこない。そんな、それこそ夢物語のようなことを信じて妙な期待を抱かれたとしても、迷惑な話だ。
青年は、彼女を起こそうと幾らか揺すってみたが、彼女は起きなかった。青年は椅子を取ってくると言って、そこから立ち去った。
私は青年を見送ると、再び彼女に眼をやった。
彼女はいつの間にか眼を開いていて、小動物のような潤んだ瞳を私に向けていた。いや、違う。小動物なんて生やさしいものではない。凛とした、吸い込まれるような魅力を持った眼だ。それでいて、触れると崩れ落ちてしまいそうなくらいに、脆い。それは、彼女が鼻から下を隠しているせいかもしれない。それだけ、彼女の眼が強調されている。私は年甲斐もなく、身体がほてるのを感じた。こんなあどけなさの残る少女を相手に、私は何を見つめているのだろうか。私はふっと、自分がまだ十八歳そこそこのような錯覚を覚えた。あの頃へ戻ることが可能ならば、戻りたい。肉体的にも、精神的にも、まだ絶頂期だった。自分を信じていた。努力すれば必ず報われると、信じていた。
私は少女から眼をそらした。途端に私の肉体はみすぼらしくなり、心はずたずたに引き裂かれ、絶望感に襲われた。
その間に、少女が上半身を起こすのが解った。
私は少女を見た。思った通りの顔立ちをしている。普通の人と見分けが付かない。彼女の目線は、私を見ている、というよりか、私の立っている辺りを見ている、と言った方が正確だった。私にとっては、その方が良かった。真っ直ぐ眼が合あったら、私はまた眼を逸らしてしまうだろう。
再び絶望感は去った。
恐らく……これは私の想像だが、彼女の眼が持っているもの――それはひたむきな精神だ。しかし、これは現在の彼女のものだろうか? 実は、これまで彼女が積み上げてきたものが、この瞳に刻まれているのかもしれない。仮に、今彼女が抜け殻であったとしても、そう簡単に積み上げてきたものを失ってしまうのだろうか。――とすれば、彼女が眠りに落ちた理由は、ただ一つ。彼女は絶望したのだ。
彼女は決して精神にハンディキャップを負っている人間ではない。彼女が負っているものは、肉体的なハンディだ。しかし、どんなに強いと言っても、彼女の精神は二十歳代のうら若き乙女なのだ。
彼女は痩せているが、ぱっと見、それほどまで異常があるとは考えられなかった。右手だってちゃんと付いている。蒲団に隠れていて解らないが、重いポリオに罹ったことのある者にありがちな身体の歪みも、それほどまでとは感じられない。恐らく、彼女は疲れているのだ。心が。或いはそれは慢性的な筋肉痛のせいかもしれない。これといった運動もしていないのに、筋肉痛に襲われる苦しみとはどういったものだろうか。右手にぶら下がれているどころではないかもしれない。心の気怠さと、肉体の怠さは一致するかもしれない。
日々が努力を強要する毎日だとして、そんな中で周りから『がんばれ』などと言われようものなら、どんな惨めな思いをするだろうか? なあ、お兄さんよ、お前さんにも一つくらいはそんなことを言った覚えがあるんじゃないか?
私の心の裡から、とめどない怒りが溢れてきた。しかしそれはやがて、即座にあのろくでなしの兄貴から引き離して、彼女と共に右手と三人で一緒に平穏を勝ち取ってやる――そんな気持ちへと変化していった。同調心とでも表現すればいいだろうか、私は彼女と共にあるのだという錯覚に満たされた。
いっそのこと、このまま彼女の手を取って、どこか遠くへ行ってしまおうか。そしたら、あの青年はどんな顔をしやがるだろう。それに、私にも良い変化が訪れるかもしれない。護るべきものがあるということは、生きていく上で、独身の時とは全く違う感覚をもたらすだろう。よっぽどの芸術家か理想家でない限り、依存されるということは、決して不快なことではあるまい。むしろ生きる糧ともなるだろう。疲れ切った時に、笑顔を向けてくれる人があれば、どんなにか楽になれるだろうか。護られる側は、依存することによって、相手を救っているのである。
逆に言うと、理想が無く、誰からも依存されない生活というものは救いがたいことになる。現代では、私を含めて救いがたい人間が猛烈な勢いで増えているのではないだろうか。純粋に理想を追い求めようとすれば、それはほとんどの場合が、社会のある一つのレールを踏み外すことになる。人と違った生き方というものは、並大抵の労苦では済まない。世間とは、決して純粋さを寛容に受け容れようとはしない。むしろ、頑強に撥ね付け、ようやく生き残った数少ないものにのみ敬意を表する。しかし、そうなると今度は純粋さを維持することが難しくなる。生き残ることにより、今度は社会から利用されていくこととなる。そして、人が純粋に生き続けることは、ほぼ不可能である。その為には、どこかで死を択ばねばならないかもしれない。だから、人は穢れることを恐れてはならないのか。
依存し、依存されるということは、普通の人が最も手に入れやすい幸福の一つかもしれない。人並みの幸福というものだ。しかし、一度特殊な世界に身を染めてしまった人間が、果たして人並みの幸福を得られるものだろうか。もとい、得ることを果たして世間が許すであろうか?
私は仕事も社会的地位をも逐われようとしている身である。誰から? もちろん右手からだ。そして恐らくこの右手のある限り、私には決して平穏など訪れまい。私はこの右手ある限り、究極的に特殊な人間だ。しかも、ただ特殊なだけである。それは災い以外の何物でもない。そしてその災いの元凶から、私は逃れることが出来ない。むしろ共存の道を模索しようだなんて、どこかの主婦会みたいに莫迦で暢気なことを考えている。そんな状態なのに、果たしてこのか弱い娘さんを護ることなど出来るだろうか? 下手をすれば共倒れだ。
第一、私は年下の女性にはあまり興味が無い。出来ることなら、年上の方がいい。私は導かれることを何よりも望んでいる。まして、こんな風な脆くて、護ってやらなきゃならんような娘さんでは……。しかし、彼女の眼を見ている時のこの安らぎのようなものは何んなのだろうか。決して安らぎなんかではないはずなのだが、私にはこれが無ければ生きていけないような錯覚をさえ覚える。或いは錯覚ではないのかもしれないが、これが世に言う恋心というものなら、随分と安っぽいものだ。
しかし、私も『護ってやらなきゃ』なんていう考えが浮かぶこと自体、傲慢極まりない。人は見掛けだけでは判断出来ない。弱い者のその心によって、強い者の方が却って護られることだってあるだろう。心の強弱というものは、確かに仕種や、表情にも出るものではあるが、必ずしも肉体の強弱とは一致するとは限らない。肉体的弱者が見せる頑固さの一端は、肉体的強者の横暴に較べて、どの位重みが違うだろうか。
私は、彼女の目線が少し動いたことに気が付いた。私が振り返ると、いつの間にか青年が椅子を手に、私の斜め後ろに立っていた。彼は呆然と彼女を見つめていた。
どうだ。彼女はお前さんが居ない間、私と二人きりの時に目覚めたのだ。お前さんにはこんな事は出来まい。彼は、彼女の方へ歩み寄り、何事かを耳打ちした。しかし、彼女の方は頸を横に振っていた。すると、彼女の方から彼へ耳打ちをしたが、今度は彼の方が頸を横に振った。
すると、彼は振り返って言った。
「全く申し訳ありませんがね。もう時間も遅いことですし、そろそろ帰って戴きたいと思うのです。お茶一つ出さずに恐縮でしたがね。しかし、こうして妹だって無事目覚めたわけですから、もう私としては目的を達してしまったのです」
何かこの男は勘違いをしていないだろうか。この男は彼女が寝込んでいた原因をちゃんと理解しているのだろうか。これからしばらくは私がいなければならないということが解らないのだろうか。
彼が私が面食らっているのを見て、さらに言葉を畳みかけてきた。
「まあ、妹のことだって心配ですからね。あなたは所詮赤の他人だ。ついさっきまでは全く見ず知らずの人間だったのですから。ああ、今でもそうですかね。何か間違いが無いとも限りませんし……」
『何か』って何んのことだ。このイカレポンチは何を言いたいのだろう。私をここまで引っ張って来たのは誰だと思っているのだ。
どうだろうか。彼女はこんな兄貴と、こんな原色の家を棄てて、私と一緒に来てはくれないだろうか。私は彼女の眼を見た。
しかし、彼女の眼は、明らかに私を拒否していた。どうやら、あのろくでなしの兄貴の方がずっと良いらしかった。もしくは、彼女の切れ長の眼が、私にそう誤解させたのかもしれないが、そんなことはどうだっていい。問題は私がどう受け取ったかだ。これから先、ずっとあの眼に悩まされるとしたら、堪ったものではない。私が拒絶されたと感じた時点で、それはもう拒絶されたのと同じことなのだ。
私はさっさと原色の家から立ち去った。私が突然廻れ右をして歩き出したので、彼女はあわくってなにがしか言葉を発したようだったが、聞き取れなかった。私はもう腹を括ったのだ。もうあんたがどうなろうが、本当はどういう気持ちであろうが、知ったことじゃない。あの家を出たところで、背後からドタバタと物音が聞こえたような気がした。その時、来る途中で見た用水路に流されていた仔猫のことをふと思い出した。私はなぜか突然悲しい気持ちに襲われたが、それはすぐに過ぎ去っていった。
翌日、私は会社へ辞職願を出した。今までこんなものに拘っていたなんて我ながら莫迦みたいだ。護るべき者もいないのに、何かを護ろうと躍起になっていたわけだ。もう、そんな幻想なんて抱くものか。
そして、こんな住まいだって要らない。何が籠城好きだ。ただ淀んでいるだけじゃないか。私は部屋にあっためぼしい物を全て売り払い、残りは処分した。手許にはそれなりの金額が残った。もしこれが無くなっても、またどこかで少しばかし稼げばいいのだ。
さて、そろそろ出掛けるとしようか。
結局この右手が離れてくれるかどうか、ということはさっぱり予想が付かないが、過去のことを掘り下げてみるのは悪いことではあるまい。そこに右手の、いや、自分自身の原点があるかもしれない。
差し当たって、私の生まれ故郷へ行ってみようかと思う。精薄の幼なじみも、もしかするとまだそこにいるかもしれない。
故郷への列車に乗り、客席に座った時、ふっと肩の力が抜けた気がした。要らぬことを考えることをやめることが出来た。もはや、世間体だとかいうものにしがみついたり、何かに怯えたり、築いてきたものを失うことを恐れなくても済むのだ。私は車窓の風景をぼうっと眺めた。こんなに落ち着いて景色を眺めたことが、ここ数年あっただろうか。まるで車窓から、心の裡に空気が流れ込んでくるようだ。私の心は、小さな紙飛行機になって風の中を飛んだ。こういうのをカタルシスと呼ぶのかもしれない。
私が半分うとうととしていると、車掌が切符を点検にやってきた。私は、つい利き手で切符を取り出した。切符は私の手と右手との指の間に挟まっていたわけだが、私は気にせずに差し出した。その時の車掌の顔ときたら……。
《了》
|