哀しみを探す人

 

        一
 三十郎は村を出た。それは花薫る春のある日のことであった。
 誰も三十郎が村を出た理由を知らなかった。ただ、前日の晩に親同然に育ててくれた祖父と酷い言い争いをしていたことは村中の噂になっていた。三十郎は夜が明けきらないうちに家の有り金全部を持って村を出たのだった。

 ディーゼルカーに揺られながら、三十郎が手持ちぶさたに車窓から流れる景色を眺めていると、後ろで車掌と少年が揉める声を聞いた。
 大方キセル乗車をしようとしたのがバレたか何かだろう、と三十郎は振り返った。少年はまだ十歳くらいで、黄ばんだ白いワイシャツと、お尻のところが薄い砂色になってしまった紺色の短パンを穿いていた。どうやら、キセル以前にまったくの無賃乗車らしかった。この辺りには無人駅が多いから、きっとそこから乗り込んできたに違いない。
 車掌に取り押さえられ、もがく少年の爛々とした瞳が三十郎のくすんだ瞳とが一瞬交差した。
「車掌さん」三十郎はおもむろに声を掛けた。「そいつは俺のツレだ。悪いな。急いでいたから、そいつの分の切符が無いんだ」
 すると、車掌は一瞬怪訝な顔をしたが、少年に対しての時とはうってかわり、丁寧な言葉遣い変わってで応対をはじめた。三十郎は終点までの切符代を払ってやった。その様子に、少年はあっけらかんとしていた。
 車掌が行ってしまうと、少年は三十郎の隣に坐った。
「…ありがとう」
「礼なんて要らねえ。よく言うだろ、旅は道連れってな」 「家出したんだ」
 少年は問われてもいないのに答えた。
「そうか、俺と一緒だな。で、家出してどこへ行くんだ?」
 三十郎は尋ねたが、少年は質問を無視して両親への不満を訴えた。
「僕、うちの親が厭になったんだ。あれをしろこれをしろってうるさいんだよ。僕はペットでもなければお人形でもないのに。この気持ち解ってくれる?」
「いや、俺には羨ましいくらいだな。母俺の親は俺がまだ幼い頃に病気で死んだ。親父はそれから数年して失踪してしまったよ。だから、ずっと爺ちゃんと一緒に暮らしてきたんだ。俺もガキの頃に、お前さんみたいに家出したり、反抗したりしてみたかったさ。お蔭で、今そのツケを払っているところさ」
 少年は何も応えず、爛々とした一対の眼で、ただじっと三十郎のくすんだ瞳を見つめていた。
「で、家出したはいいが、行く場所がないんだろう」
「そうさ」
「なら、俺と一緒に来ないか? 子供一人ってのは物騒だしな」
「おっちゃん、どこ行くのさ?」
 少年は尋ねた。しかし、三十郎は質問には答えなかった。
「おっちゃんじゃない、三十郎だ」
「さ・ん・じゅう・ろう?」
 少年はわざと一言ずつ区切るようにして言った。
「そうだ。三十郎だ。俺の爺ちゃんがつけてくれた名前だ。どうだ、素晴らしい名前だろう」
「変な名前だ。今時三十郎だなんて、変だい」
 少年はけらけらと腹を抱えてわら嗤った。
「俺で三十番目の子なんだ」
 すると、少年はただでさえ大きな眼をさらに爛々と輝かせて、驚いた。少年が信じ込んでいるうちに、三十郎は「嘘だ」と満足そうに言ってやった。
「ひど非道いや、騙すだなんて。これだから大人は嫌いなんだ」
 少年はぷうと頬を膨らかして拗ねた。いつも大人から騙されてからかわれている少年なのだということが三十郎には解ったので、悪いことをしたな、と思った。
「今のは、さっき嗤った罰だ。だが、もう二度と騙すことなんてしない。騙したら針千本呑むことにしよう。ところで俺が三十郎なのは、我が家の長男が俺でちょうど三十代目だからなのだ」三十郎は少年の方は見ずに、斜め上の虚空を見つめ「東京へ行くんだ」と目的地を告げた。

 東京駅に夜行列車が到着したのは、朝の六時を少し廻った時刻のことであった。まだ少し早すぎたのだが、二人とも『東京は不夜城だ』という話しは耳にしていたので、とにかく駅を出て外を歩けば何かあるかと思って、そうした。すると一軒のファミリーレストランが開いていたので、二人して入った。
 二人ともとりあえず飲み物をオーダーしてから、何を食べようかメニューを見ていたのだが、疲れのせいか、そのままメニューの上に突っ伏してしまっていた。本来こういったレストランで眠ってしまうことは咎められるべきことなのだが、実際に口うるさく言うようなところはほとんど無い。二人は窓からの朝日と(二人は窓際の席に坐していた)、店内が騒がしくなってきたことで、自然に目を覚ました。メニューが顔に張り付いてしまっていた。
「ああ、いつの間にか寝てたのか。しかし今は何時だ――八時か。さすがは東京だな。何もかもが動き出した。あんなに空いていたこのレストランにも随分人が増えたな」
 三十郎はあくびをしながら窓の外を見下ろした。少年の方も、窓から通勤客の移動する様子をその爛々とした眼を一杯に拡げて見入っていた。
「ごみごみしてるね。なんでこんなところへ来ようと思ったのさ?」
「何んでも、パラダイスだそうだからな。一度この眼で見ておきたかったのだ」
 そして三十郎は奇妙な鼻唄を唄いはじめた。きっとラジオか何かでそういう音楽を聴いたに違いない。
「それよりせっかく起きたんだ。朝ご飯にしようよ」
「そうだな。せっかくだからな。このまま東京の街をぶらつきたいものだしな。寝不足だって食べれば何んとか補える。そのためにもまずは食事だ」
 二人は今までの椅子代の分も考えて、多目にオーダーした。店員もちゃんとオーダーする客には親切である。尤も、アルバイトである彼らにとっては、仕事が増える方が機嫌を損ねることもあるのだが。しかし少なくともオーダーを聞きに来たウェイトレスは客のためにか、それとも店にためにか、あるいは自己のアイデンティティーのためにかは知らないが、とにかく自覚があった。声はか細かったものの(むしろ、それは良い印象を与えてくれた)、洗練された接客口上と、猫がご機嫌な時にするようなスマイルで、二人に接した。
 三十郎がちらりと彼女の眼を見ると、彼女はさらににっこりと微笑んだ。それはごく自然にそうする時のようなもので、決していわゆる商業スマイルではなかった。そのウェイトレスが去っていくと、三十郎は少年に向かってささやくように言った。
「さすがは東京だな。うちの田舎の食堂とはどえらい違いだ。俺の田舎じゃあんな風に微笑み掛けてくれる人なんていなかったぞ」
 しかし、料理を運んできたウェイターの方は酷く三十郎を落胆させた。彼はやたらと早口で、威圧的に喋り、せわしなく身体を揺すぶらせ、いわゆる立ち居振る舞いがまるでできていない。その上、表情はどことなく高慢で、明らかに田舎者の風体である二人を見下していた。彼は二人の食事を運び終わると、他の店員達に向かって色々と指示を飛ばしていた。どうやら、それなりの地位にある者のようだったが、三十郎にはどうして彼のようなぶしつけで厚かましい男が、そうした地位に就けたのかが理解できなかった。
 三十郎のこの疑問には、目の前の少年が明快な解答を与えてくれた。
「最初に来たお姉ちゃんは昇進しないタイプで、今のお兄ちゃんは岩にしがみついてでも昇進するタイプだね。よく本で読んだよ」
「そうか。お前は博学なんだな」
「だって、ウチはゲームは禁止だし、テレビだっていつもうちの親が占領してるからさ、外に出る以外は本を読むくらいしか無いんだよ。本といっても、僕が生まれる前にお母ちゃんが訪問販売から買ったものだけどね。よく騙された騙されたって言ってたけど、僕はあの赤い本達(世界童話全集は赤と金の美しい布装丁だった)が大好きなんだ」
「どうして、好きなんだ?」
「空想しやすいんだよ。僕はいつも寝る前に本を読んで、その世界に一人の脇役として這入り込んだり、時には主人公になった気持ちで、『ああしていればこうなった』とか、『こうしていればもっと愉しかっただろうな』なんてやるんだよ。時には断崖絶壁の牢屋の中で壁を掘ったり、時には一本足の男になったつもりで……それが堪らなく面白いんだ」
「それをやると、色々な気持ちを味わえるのか?」
「そうさ。喜びも、苦しみも、哀しみも、ね」
「そうか、『哀しみ』も、か……」
 三十郎は斜め上の虚空を見つめた。くすんだ瞳がより一層くすんで見えたので、少年は心配になって三十郎を覗き込んだ。しかし、三十郎はそれに気づくことはなかった。とにかく、自分の世界に這入ってしまって、食事を口に運ぶことすらしなかった。もう凍り付いていたと言っても良かった。時々ぶつぶつと何か小言でも言うように口を動かすことを除けばであったが。
 二人が朝食を摂り終え、今後の予定を話し終えた時にはもう午前九時になっていた。二人は席を立ち、会計を済ませた。三十郎がふと振り返ると、あのウェイトレスが微笑みかけてくれた。三十郎はその笑顔を見ると、心がふわりと軽くなるような気がした。三十郎はいつまでも見つめていたい気分だったが、ウェイトレスは忙しく次の仕事をこなすために動き回り始めた。三十郎はしばらくそれを眺めていたのだが、少年に促されたので、のろのろと店を出た。

 山の手の方向に向きを定めて、二人は歩いた。途中、東京の中でも世界的に有名な電気街である秋葉原を通った。本当に世界的に有名らしく、ブロンド・ヘアーのビジネスマンからアラブ人と見られる男まで、様々な人々が渦を巻いていた。しかし、猫に小判とでも言うべきか、二人が購買慾をそそられるようなものは何一つとして無かった。機械というものはそれに依存する人間にはこの上なく必要なものであるが、依存せずに生活している人間にとっては、あってもなくてもいいようなものばかりなのである。
 そうした理由から、ふたりはどんどん電気店の少ない方――裏道に這入っていったのだった。裏道には、今にも崩れそうなヒビだらけの古い建物などがあり、この街が相当な歴史を持っているものであることを物語っていた。そして、それは何も古い建物に限られたことではなかった。
「また稲荷があったな。この辺は何んなんだろうな」
「え、お稲荷さん? あったっけ?」
 神田という町には、こうしたものが数多く存在している。そうしたものが、浅草などの下町にかけて点々と存在するのだ。ビル街の隙間に、そうした小さな稲荷社のようなものがある――実はこういう風景がいかにも東京という風情を醸し出しているのだが、気づく人は少ない。
「うむ。小さな隙間のようなところとかだな。どうも一見見落としそうなんだが、注意深く見ていると見つかるぞ」
「ちぇっ、気づかなかったなあ。僕、考え事しながら歩いていたからな」
「考え事ってのは何んだい?」
「前にも言った空想だよ。道を歩く時だって、僕は誰かを演じることにしているんだ。でも、全部僕でもあるんだけどね。さて、次は注意深いジャックにするとしよう、今度は見落とさないぞ」
 少年のそんな様子を見て、三十郎は少し羨ましく思った。自分はそれほどには本を読んでいなかったのだ、だから、少年のような遊びなんて、思いつきもしなかった。ただ、母親が生きていた頃――そう、あの頃は、寝る前に何度も読んで読んでとせがんでは、母親を困らせてばかりいた。あの頃にはもしかすると今の自分には無いものが沢山あったのかもしれない。とすると、今の自分はあんまり落とし物をしすぎているんじゃないか。その落とし物がこの上なく大切なものだとしたら、今の自分は果たして本当の自分なのだろうか――。
 しかし、三十郎は思考を踏みとどまった。自分を否定する方向で思考を続けようとしても、どうしても巧くいかないのだった。
 やがて二人は、ガードをくぐり、丘を越え振り返って電気街の方を見渡した。
「何んだか変な街だったね」
「ああ、色んなものがごっちゃまぜになってたな。俺にはさっぱり解らん最新鋭の機械があるかと思えば、今にも崩れそうな古くさい建物もあり、稲荷もある。不思議な街だったなあ。どうしてあんな風になったんだろうなあ」
 二人は頸を傾げてうず高いビルを眺めていたが、答えを出してくれる人があるわけでもない。仕方なく道を進んだ。
 それから、二人は楽器屋や古本屋の中を歩き廻ったりした。しかし、二人が食べ物以外に何かを購入することはなかった。二人は電車に乗って観光地に脚を運んだり、あるいは迷路のように入り組んでいる下町を歩いたりもしたが、二人の注意を特別引きつけるようなものは何も無かった。道端の稲荷社以上の存在感を二人にアピールしてくるようなものは無かったのだ。このまち都市には、ただ単にそこにあるというだけのものばかりで、対象物からこちらへと、半ば強制力を孕んだような影響を持つものは何一つとしてなかったのだ。あくまで二人は鑑賞者であり、そして対象物は映像にしか過ぎない、そんな感じであった。

 夜が来た。
 二人は宿を求めて、街を歩いていた。ちょうど学習塾の傍を通りかかった時、少年はその入り口のところを指差して言った。
「見てよ、僕と同じくらいの子供が、こんな夜なのに街なかにいるよ。さすが東京だね、きっと大らかなんだ」
「大らかというよりかは、どうも煤けて見えるな。まだ小さな子供なのに、そこら辺のサラリーマンと表情が大差ない気がする。それに何んだ。皆んな電話を大事そうに持って歩きながらでも独り言のようにしているか、ぽちぽちボタンを押しながら歩いているぞ。仕事や学校から解放されて、ようやく一人の時間が持てたというのに、そんなに自由になりたくないのか」
「でも、皆んな好き勝手にやっているみたいだけど」
「そうだな、確かに好き勝手だ。何かに縛られているという感じはない。だけど、何んだな、それが却って辛そうに見えるんだ。きっと皆んな社会の為に貢献したいとか、親孝行がしたいと思って努力しているんだろうが、それが皆んな抑圧の方向に向かっているらしい。しかし、そんな優等生ぶった考えなんて、三日と保つかな。きっとそのうち行き場が無くなってパンクする。結局自分らしく生きるしかないわけなんだが、その自分らしく生きることだってこの東京では見つけられないのかもしれない。何しろ、このまち都市には享楽が溢れすぎているからな。若い奴は享楽漬けになって、なるべく自分の自由になる時間は享楽に明け暮れることにして、義務を遂行するべき時間には、自分が本来為すべきことを為さずに、周囲が為して欲しいことだけを強迫的に為そうとする。だけどそんなものは巧くいくわけがない。自分の意志決定ではなく、社会道徳だとか、社会正義だとかで行動しようとしているのだ。だけど、そんなものなんて、お上の気分次第でどうにでも変わってしまうものさ。だから、この孤独なまち都市で、少しばかりの友人にすがりつこうとする。すがりついていないと、自分で何一つ判断ができない。常に電話で連絡を執り続けないと気が変になってしまう。だから、本当の自由なんてこのまち都市には何一つとして無い。東京の人間は勝手気ままなものだが、一方、小さな行動がすぐ噂になって拡まってしまうような俺の村では、勝手な振る舞いはできない。村では噂になることを恐れてマナーやルールを破る者は少なかったが、その点で東京は無神経で不作法な人間が多いと言えるな。そういう放埒な意味での自由しかこのまち都市には無いのだ」
 こう言ってみて、今頃、自分のことはどう噂されているのだろう、と三十郎は一瞬不安になった。あんな風にして村を出てきたことは、少しばかり軽はずみだったかもしれない。特に有り金を全部持ってきたというのはどうにもまずかった。預金は他にもあったはずだし、村では何もかもが共同だったし、家も持ち家だったら、金が無くても生活ができなくなるという心配は無かったが、しかし年老いた自分の祖父を置いてきたとなれば、周囲から糾弾されてもおかしくはない。小さな村なだけに、その分無法者に対する扱いは厳しいのだった。もしも三十郎が旅の目的を達して戻ろうとしても、果たして三十郎は戻れるのかどうか、怪しいものだった。
 そして二人は無言のままお互いに考え込んだ。考え込みながらしばらく歩くと、すぐに安ホテルを見つけた。

 風呂に入り、美味しい食事を摂り、テレビを見たりして、二人は過ごした。さてこれから寝ようかというところで、やっと三十郎は少年がここにいることで、少年の家に心配を掛けているのではないか、と思い至った。三十郎は少年のことを自分と同じ境遇であるくらいにしか考えていなかったし、少年の方は両親のことを話題に挙げることはしたものの、何しろ家出中のことであるので、普通の家出の少年少女がそうであるように、家のことはなるだけ考えないように努めていたので、思い出すだけの時間が充分にあったにも拘わらず、二人はそのことなどを夢にも思わなかったのだ。そのせいで、家の人が心配しているのではないか、と三十郎が尋くと少年はひどく慌てて、電話は無いかと騒いだほどである。  少年が外線で電話を掛けたが、電話は話し中でなかなか繋がらなかった。やっと呼び出し音が鳴るようになったが、今度は相手が出なかった。大方、今頃捜索隊でも結成して、大捜索でも演じているのだろう。二人共眠かったので、また明日の朝掛けてもいいだろうということになった。
 二人は蒲団を敷くと、灯りを消して横になった。こんな時は、何んとなく話しをしたいような気持ちになるものである。三十郎は今回の旅についての愚痴をこぼしはじめた。 「東京には喜びもあり、哀しみもあると聞いてやってきたというのに、まるで何んとも感じなかった。皆んな仕事か快楽しか追っかけていないじゃないか。これじゃ喜びも哀しみもあったもんじゃない」
「でも、仕事で疲れたら遊びたいって気持ちはわかるな。学校の先生が言ってたよ、人間は働くことで往かされているんだって。だから、仕事さえしてれば、それでいいんじゃないかな」
「そりゃ仕事は大事かもしれないが、仕事に就くということは、一種の甘えなんじゃないだろうか。本来立ち向かうべき問題から、正当な理由をもって眼を逸らすことができるからだ。しかしな、このまま機械化が進んで人々が働かなくて済むようになった時、人々は一体どうするんだろうか。もしも仕事と快楽の二つしか生活のバリエーションが無い人々ばかりだとして、そこから仕事を取ったら、あとは快楽を貪って生きることしかできないんじゃないだろうか。そうではなくて仕事以上に、人間として生まれたからには為すべきことがあるはずだ。それを人類は早く見つけなくてはならない」
「途方もない話しだね」
「いいや、そんなことはないぞ。お前が大人になる頃には、やれ偉い博士だかが真剣に頭を悩ましているかもしれない」
「そうかなあ。ま、先の話しはともかくとしてさ。この旅は良かったと思うよ。僕は三十郎に会えてとっても嬉しい」
「そうか。俺もお前に会えて嬉しいが、しかし、俺の探し物は一向にみつからないようだ」
「どうも変だね。パラダイスだから来たってだけじゃないんでしょ。本当の目的は何んなの?」
「目的か。そうだな、実を言うと、『哀しみ』を探すことだったんだ」
「何んだい、それ、ちっとも訳がわからないよ」
「爺ちゃんと喧嘩したのだ」
「それがどう繋がるんだい?」
 三十郎は少し間をおいて、呼吸を整えた。
「…爺ちゃんは、俺のことを『哀しみ』をも知らぬ青二才、と罵った。実際、俺はこの世に生まれた時以来、一度も泣かなかったそうだ。そのせいか肺が弱くてな。泣くのは呼吸器系を鍛えるそうなのだが、言い換えれば、泣かないということは病気の一種のようなものなのだろう。だとしたら、それはきっと『哀しみ』を知らないせいだと思うのだ。だとしたら、『哀しみ』を知らないことも、同時に病気かもしれんだろう。そして『哀しみ』を知らないという理由で青二才と罵られなければならない。このままでは俺はずっとガキ扱いされちまうってことさ。一生子供でい続けなければならない病気だ」
「子供でいいじゃない。大人になったって何もいいことなんて無いよ。大人は皆んな自分のことを大人だって思い込んでるだけなんだ。ほんとうは僕ら子供なんかよりもずっとわがままなのに。その点三十郎はいいよ。大人じゃなくたって、三十郎は大人たちなんかよりもずっと僕らのことを解ってくれるじゃないか。だから、大人以上に大人なんだよ、三十郎は」
「そう言ってくれると嬉しい。しかしな、それでは俺の気が済まないんだ。俺は自他共に認める大人になりたいんだ。実際、俺は物足りないのだ。何か感情をう搏つものが欲しい。強く、強く、揺り動かして欲しいのだ……」
 大抵、そんな風にして言葉のキャッチボールを繰り返しているうちに、いつの間にか一方が睡魔に負けて眠ってしまい、それにつられて、もう一方も眠ってしまうものである。ずいぶんと年齢差のある二人だったが、それでも例に違わずそんな風にして眠ってしまった。

 朝になって、朝食を摂り終え、さてこれから出掛けようという時に、三十郎は少年に家へ電話するように言った。今度はちゃんと繋がったらしく、少年は電話機に向かって頭をぺこぺこ下げながら会話をはじめた。電話に出たのは、どうやら母親らしかった。甲高い声が受話器から漏れ出てくるのが、三十郎にも聞こえた。
「うん、そうだよ。これから**ホテルを出るところなんだ。行き先? さあ、まだ決まってない。今男の人と一緒にいるんだ。年齢? 二十五歳だって。三十郎っていうんだ。変な名前でしょ。とにかくね、連絡しなくて悪かったと思ってるんだ。うん。でも、ちゃんと帰してくれるっていうから大丈夫だよ。え? ああ。昨日電話したんだけど繋がらなかったんだよ。うん。そう。でね、今はもう出るところなんだ。だからね、また後で掛け直すよ、じゃあね」
 少年は世間の家出をした少年少女と同じように、『家出』という単語を嫌って、使いたくなかったし、そして何より尋かれなかったこともあって、彼はこれが家出であることを一言も告げなかった。しかし、大方母親は理解してくれているのだろうという安心感があった。ともかくも、これで不安は晴れたのである。これからは気兼ねなく家出ができるだろう――少年はそう思った。
 しかし、その考えが甘いものであるということは、二人が駅の掲示板を通り過ぎる時に思い知らされた。何しろ、尋ね人のポスターに、少年自身の写真が載っていることを発見したからである。
 もちろんその可能性は充分に考えられることであったが、しかし、先ほど少年が家に連絡を入れたことによりあらゆる不安が取り除かれた今となっては、それをすぐに撤去してもいいはずだった。いつまでもそんなものがあっては、あらぬ誤解を招きかねないのではないだろうか。二人は漠然とした不安を感じずにはいられなかった。
 そして不安は見事に的中した。二人は駅の構内を歩き回っているうちに、警察によって捕らえられたのである。つまり、三十郎は誘拐犯であるということになっていたのだ。
 少年が電話を掛けたことで少年の親はこれで安心だと思わずに、むしろ誘拐事件と解釈した。何しろ少年はこの旅が家出であることをおくびにも出さなかったし、傍には若い男がいるというのだ。もはや攫われたと考えても仕方がない。その点に関しては犯人からの脅迫めいたものがまるで無いのだから説明がつかないのだが、人の不安を煽るのに細かいことはあまり問題にはならないのだ。
「三十郎は誘拐犯なんかじゃないよ。僕が立派に家出できたのも、三十郎のお蔭なんだ」
 少年が必死でそう喚いてみてもしようがない。とにかく、二人は警察署へ連れていかれた。すぐに少年の両親も駆けつけてきて、一応は感動の対面を果たしたわけだ。しかし、それが勘違いによるものだと解ると、両親はうってかわって少年をどやしつけていた。ほっとした分、余計に少年をどやしつけたものだ。
 しかし、それでも、三十郎の立場は回復しなかった。それどころか、はじめから略取が目的だったのだろう、とか本当は身代金を取る目的で連れ回したのだろう、などと尋問されるに至った。しかも、三十郎も家出同然の身であり、全てを正直に話すわけにはいかなかったので、その辺をめざとい刑事が見逃すはずはなく、しつこく追及されたのだ。
 他の刑事達は必死になって少年の両親を説得に当たっていた。つまり、勘違いなどは存在しなかったとする為にである。その為になら、身代金要求の電話を捏造するくらいの覚悟が、警察にはあった。しかし、両親の方は折れなかった。
 三十郎はそれから丸一日拘束されていたが、翌日になって釈放された。少年の両親が非常に感情量の豊かな人で、もしも三十郎が不名誉な事態に陥るようなことがあれば、マスコミに騒ぎ立てる、と警察を脅したのである。
 ここのところ警察の不祥事が続き、この問題も下手に煽られれば、警察不審を招いた責任を取らなければならないということで、お歴々の方々が減給処分などに処されたかもしれない。元々マスコミと責任を嫌う上部の体質からして、それは避けたいものだったのだ。  それにしても、もしも彼が前科者だったりあるいはアウトローの人間だったりすれば、警察は間違いなく無理矢理にでも彼を逮捕にこぎつけたであろう。なぜなら、そのことで世論が動いてくれるからである。世論さえ味方につけば、ごく一部のマスコミが騒いだところで痛くもカユくもない。明らかに、三十郎はすぐさま少年の家に連絡を入れるべき義務を怠っていたのだし、その後未成年である少年を三日に渡って連れ回したのである。仮に身代金目的でなかったとしても、腹の中ではそれを企んでいたに違いない。そして勘違い劇はそれを隠蔽するための工作だったのだ、と世間は判断しただろう。そして三十郎は有罪になり、実刑判決を受けたに違いないのだ。

 三十郎が警察署から出ると、少年と両親が舞っていた。三十郎はお詫びともお礼ともつかないように頭をぺこぺこと下げ、少年の両親は照れ笑いをしていた。
 そして、少年は両親に連れられて帰っていった。少年は三十郎に何度も別れを告げたが、そのうちにぽろぽろと涙を流しはじめ、少しばかり駄々を捏ねた。その様子を見ていた三十郎の眼だが、相変わらずくすんだ瞳のまま、何も変化はなかった。それはあたかも目の前で起こっている出来事を否定しているかのようであった。

        二
 少年達と別れた後、三十郎は酷く腹が空いていることに気づいた。そういえば、昨日からずっと何も食べていない。もう昼時だ。どうやら、警察は三十郎を兵糧責めにしようとしていたらしい。ぐぅと鳴る腹を押さえていると、ふと東京に来てから最初に行ったファミリーレストランの、笑顔の素敵なあのウェイトレスの姿が頭に浮かんできた。巧い工合に働いてくれているとは限らないが、しかしダメモトで行ってみようかと思った。
 結果は、ダメだった。マニュアル通りの接客も充分にできていない――いや、あるいはそれがマニュアル通りなのかもしれないが――客からすれば何か苦情でも言われているような気分になるような態度の、別の女性だった。三十郎は試しに昨日の女性のことを尋いてみた。すると驚くべき回答が得られた。
「ああ、あの人ですか。その話しだったら、今噂でもちきりですよ。昨日随分店長とモメたらしくって、そのまま怒って辞めてったそうです。何んでも接客態度が悪いとか、日頃から店長に注意されていたそうですよ。しかも同僚からも随分嫌われていましたからね。まあ、当然ですよ」
 彼女は元々ゴシップの方面の話しが相当に好きらしく、部外者による問いだったのにも拘わらず、つっこんだところまで話してくれた。しかし、あれほど素敵な接客のできるような人が、どうして馘にならなければならないのだ。そして、今こうして無愛想な接客をして、しかも迂闊にも部外者である客に対して、ペラペラと内幕を洩らしてしまうような店員がのうのうとしているなんて、どこかが変だ。
「あ、もしかして、あなたってカレシか何かですか?」
 ウェイトレスが興味津々の様子で三十郎に問い掛けたので、三十郎は飲みかけたお冷やを鼻に詰まらせながら、慌ててかぶりを振らなければならなかった。ウェイトレスは物足りない様子だったが、ともかくも新しいゴシップのタネを得ることができたので、それを仲間達に話すべく、去っていった。
 三十郎はとにかく素早く昼食を摂り、店を出た。昼時のラッシュのせいでやたらと混雑していたことと、店員が早く出ろと言わんばかりの眼でこちらを見ていたので、いたたまれなくなったのだ。
 往来は昼休みのOLやサラリーマンや学生でごった返していた。コンビニエンスストアを覗いてみると、それらの人々が長蛇の列を成していた。どこもかしこも食べ物を求める人々で溢れかえっているのだ。どこの世界でもこういう光景は変わらないものかもしれない。ただし、ここでは飢えに苦しんで食糧を求めるのではなく、まさに食慾を満たすために食べ物を求めるのだ。いや、もしかすると中には食慾すらも無いのに『昼を抜いてはならない』という打ち消しの義務感で食べているだけの人もいるだろうし、あるいは仲の良い友人との付き合いで食べているだけの人もいるのだろう。
 三十郎はさらに通りを歩いた。この辺りは本当に殺風景でビルしか無い。そして、ビルの隙間には何もない空間がどこまでも拡がっているように見える。三十郎の村では、周囲はどこもかしこも山だった。古来より日本人は盆地に慣れ親しみ、そして落ち着いてきた。はじめ東京に来たとき、三十郎は山の無い風景に解放感をさえ感じたが、しかし今は寂しさを強く感じていた。どうにも落ち着かないのだ。
 あの元ウェイトレスと出会えるだろうか。こんな寂しい気持ちを吹き飛べしてくれるようなものがるとすれば、あの女性の笑顔しか無い、と三十郎は確信していた。
 三十郎は下町の方へ向けて、歩きだした。あの迷路のような下町へ続く道が、一体どうなっているのか気になったのだ。
 三時間ほど歩くと、三十郎の腹が鳴りだした。昼食を慌てて食べたためで、腹に充分溜まらなかったのだ。そこで一軒の古ぼけたモルタル造りの、仕出しもやっているという弁当屋に入った。そこで彼は眼を丸くすることになる。そこで売り子をしていた女性は、あの笑顔の素敵なウェイトレスだったのだ。
 なんと相手は三十郎のことを憶えていて、しかも気さくに声を掛けてきた。
「あら、おとついはレストランでお会いしましたね。今日は弟さんはいらっしゃらないのね。それとも、甥御さんでしたっけ」
 どうやら、彼女はあの家出少年のことを三十郎の弟か甥だと思っていたらしい。実際、普通に考えれば、その他の選択肢は無かったのだから。三十郎はあの家出少年のことは話題に出さない方がいいだろうと判断して、そのことは無視することにした。
「ここでも働いていたんだな」
「ええ。でもこれは家業なんですよ。あっちはバイトなんです。学校の近くにあるんで尤も、もう辞めてしまったんですけどね」
 三十郎は、馘になってしまったことについては、触れないでおこうと思った。
「そうか。学生さんだったわけだな」
「よく天ぷら学生だって言われますけどね。これでもちゃんと真面目に勉強しているんですよ」
 彼女は実に親しげに話してくれる。まさかこんなことを期待していたわけではなかったが、こんなに気分の良いことは無かった。彼女と話している限り、不快な気持ちに襲われるということはなかった。とにかく、彼女と一緒だと落ち着いていられるのだ。こんなに気分のいいことが他にあるだろうか。
 そして何より、彼女は売り子であるのに、話しの方を大事にして、販売のことには少しも触れないのだ。思えば、これが本来の商売のやり方ではないだろうか。押し売りでもするように客を急かして物を買わせるのは、どうにもおかしい。大量生産と大量消費と合理化の果てにあるものなのだろう。
 三十郎は話しが途切れたところで、鮭おにぎりを注文した。店の隅にあるテーブルで食べることができるようだったので、三十郎はここで食べることにした。お皿におにぎりが盛られ、わざわざテーブルまで置いてくれた。三十郎が席に着くと、彼女も三十郎の向かいに坐った。
「ところで、あなたは東京に住んでいるんですか?」
「いや、俺はただの旅人さ」
「そうですか。いつか東京に住みたくなったら、教えてくださいね。うち、アパートを持っているんですよ。七十年代に建てられたとんでもない安普請なんですけどね、中は十年前にリフォームしたから結構綺麗なんです。六畳の畳と、四畳のキッチン。しかも、お風呂とトイレは別れているんですよ。でもなかなか借り手がみつからなくって」
「東京なら幾らでも借り手はいるかと思うんだが」
「そうでもないんですよ。駅が近くないと、なかなか入ってくれる人がなくて――ああ、アパートはここから少し離れたところにあるんですよ。だから駅まではバスで移動することになります。毎日学校や仕事に通う人だと、バス代だけでも結構掛かるでしょ。だから、少し高くても駅の近くのアパートに住んだ方が、得だったりするんですよね」
 理由を聞いて、三十郎はなるほど確かに尤もだと思った。しかし同時に、通勤しないような人間なら、それなりに住み良いかもしれない。第一に、三十郎は何んとなくこの町が好きになったような気がしていた。ほんの短い期間だけでも入居できるとしたら、ホテルに泊まるよりもずっと安いだろう。試しに値段を聞いてみた。
「賃料は……月に三万五千円ですよ。それに共益費が三千円と、敷金は三ヶ月分で」
 東京都内では、かなり安い方だということは、三十郎にも解った。本屋を覗いた時に、住宅情報誌を軽く立ち読みしたのだ。軽く計算してみた。一日当たり、約千三百円ほどだと解った。
 三十郎は、ごく短い期間――ほんの三ヶ月ほどで良いので、入居がしたいと申し出た。そのくらいもすれば、三十郎もほとぼりが醒めて、安心して村へ帰れると思ったのだ。逆にそれ以上帰るのが遅くなった場合には、逆効果で、却って冷たい目で見られようというものだ。三ヶ月くらいが頭を冷やすには丁度良いのだ。
「だったら……私が今使っている部屋はどうですか?」
 三十郎は思わず飯粒を鼻に詰まらせた。ほとんど初対面と変わらない女性からそんなことを言われようとは、夢にも思わなかったのだ。
「あ、ごめんなさい。変な意味じゃないんですよ。いえね、私、もうそこを使うのはやめようと思っているんです。今年、兄が県外に出たので、実家の部屋が一つ空いたんですよ。だから、私は実家に移ろうと思っているわけですが、引っ越しが大変じゃないですか。私は業者に頼もうとしたんですけど、両親が、無駄だから運べるものは全部自分で運びなさいって。だから、一つ一つ自分で移動しようとしてるんですけど、なかなか忙しくって。両親も手伝ってくれませんし。まだ、兄の部屋の片づけすら完全に終わっていないんですよ! まだ部屋の片隅に兄の荷物が残っている状態なんです。アパートの部屋の方は、今はほとんど倉庫状態なんですけど、あと二、三ヶ月くらいはうっちゃってると思うんですよね。だから、そこにしばらく滞在して貰えれば……。あ、お金はいいんですよ。ほんとに。ほら、家って人が住まないと痛むって言うじゃないですか。だから、住んでいただけるだけでも嬉しいんです。ただし、掃除だけは念入りになさって欲しいですけどね」
 ここまで言ったところで、客が来たので、彼女は席を離れた。その間、三十郎はじっくりと考えることにした。厚意に甘えるべきか。彼女から聞いた話に、何かやましいところがあるようには思えなかった。
 三十郎は決心を決めた。彼女の厚意に甘えてみよう。この提案そのものが三十郎にとって非常にありがたいものであることもそうなのだが、それ以上に彼女にもう少し近づいてみたいと思ったのだ。

 アパートは、本当に古い建物のようだった。木造の骨組みにモルタル製の壁を囲ったものだった。その壁にはベランダの付け根など、ところどころに幾本ものヒビが這入っていて、コンクリートで修繕してあった。鉄製の柵などはすっかり錆びついてしまい、折れている箇所さえあった。物干し竿を掛ける金具なんて、ナットが取れて半壊状態なのに、針金で留めて、かろうじて物干し竿を支えている状態なのだ。風が吹いて揺れるたびに、今落ちる、ほら落ちる、と三十郎は目を見張ったが、なかなか落ちなかった。三十郎は『鯖腐れ岩』の昔噺を思い出した。これはこんな話しだった。
 ――ある男が漁に出ると鯖が大漁だった。市場へ持っていって売りさばこうと歩いていたのだが、通りの途中で上を見上げると、今にも落ちそうな岩がある。男は今にその岩が落ちる、落ちると思って、そこから先に進めずにいる。一方他の商人達は平気の平左で通り過ぎていくのだが、その男だけは頑固に岩が落ちるまで待った。しかし結局岩は落ちることは無かった。そして男の持っていた鯖は皆んな腐ってしまった。
 この話は別に三十郎の地方の昔噺というわけではない。しかし、母親は何度もその噺をしてくれたものだ。もしかすると、母親はそこの出身だったのかもしれない。確か、長崎のとぎつ時津というところの噺だったように思う。三十郎は、村へ還ったら忘れずに祖父へ尋いておこうと思った。
「あんまりオンボロなんで、びっくりなさってるんじゃありません? 本当に、取り壊されるのを待っている状態ですよね。もう一切修理するのを辞めてしまっている状態ですし。実際、あと十年しないうちに取り壊されるんだと思います。今入居してる人も、取り壊されるまで居座るつもりらしくって。そしたら、敷金が丸々還ってくるからだそうですけど、怖いですよね。地震なんかあったら、ひとたまりもないかも」
 正直、地震どころか、颱風でも吹き飛んでしまうんじゃないかと、三十郎は不安だった。あるいは、雪が降ったらその重みで倒壊してしまうんじゃないだろうか。
 彼女の部屋は二階だった。その二階の部屋へたどり着くために、鉄とコンクリートでできた戸外の階段と廊下を利用しなければならないのだが、これがまたクセ者だった。素人目にもはっきりと解るくらい、あからさまに歪んでいるのだ。もちろん、建物とは反対側――廊下を接いでいる部分が無い方が下がってしまっているのだ。長年の雨ざらしと重量と振動による負荷によって、鉄が曲がってきたのだ。しかも悪いことに、鉄は曲がるのだがコンクリートは曲がらないものだから、コンクリートがぱっくりと割れてしまっているのだった。これは実際の強度への影響よりも、精神的な影響の方が強かった。こうなったら、何も自然災害を待たずとも、巨漢を数人連れてきて、上で跳ねて貰うだけで、簡単にボキリといくに違いないと思えてくるのだ。事実、そうなのかもしれないが。
 さて、中に這入ってみると、意外に綺麗なものだった。十年前のリフォームの影響もあるのだろうが、内側というものは気を付けて使ってさえいれば、それなりに綺麗に保てるのだということの証明でもあるだろう。何も雨風に晒されるわけではないのだから、住む人の心がけ次第では、一流ホテルのスイートルームにだって負けないのだ。
 靴を脱いで上がると、確かに一種の生活感は失われていたものの、いつだって生活を始めることができるような状態だった。冷蔵庫、電子レンジ、エアコン……一通りの電化製品は揃っていた。考えてもみれば、これらを実家に運ぶわけにはいかないのだから、まるきりの無駄になる可能性があったわけだ。
 とりあえず、掃除をしようということになった。しばらく掃除をしていないということだったからだ。今日は彼女も手伝ってくれるという。さっそく掃除を開始することになったのだが、掃除機が見あたらない。どうしたのかと尋くと、掃除機は使わないのだという応えが返ってきた。何んでも、掃除機は、箒とちり取りで掃除をするのに較べれば数百倍のエネルギーを使う上に、騒音になるの何んだのと理屈を捏ねていたが、結局のところはただのケチ根性である。彼女が箒とちり取りで掃いたり、ハタキをかけたりした後を、三十郎が雑巾で拭いていった。
 三時間もすると、掃除は完了した。別に見た目にはそれほど変わったようには思われなかったが、空気が随分と気持ちの良いものに変わっていた。あるいは単に掃除をしたという行為そのものに達成感があったのかもしれない。
 彼女は掃除道具を仕舞うと、くたびれたように、パタンと畳の上に横になった。三十郎はその様子を見て、少し色っぽいなと思った。実際には、彼女は何んの飾りっけも無しに横たわったのだから、色気もクソも無かったのだが、三十郎は少しずつ彼女に参り始めていた。その相手が今無防備にも横たわっているのだから、三十郎はどうにでもできたわけである。
 しかし、三十郎は何かをするというわけでもなく、ただ眠っている彼女の横に立っただけだった。そして、彼女の顔を見下ろした。彼女の方は彼女の方で、三十郎の顔を見上げたので、二人は見つめ合う格好になった。
「なんてくすんだ瞳をしていの…。あなたはきっと沢山の哀しみを乗り越えてきたんでしょうね」
「そんなことはない。『哀しみ』は俺の頭上を通り過ぎていくだけさ。ちっとも俺の許へなんか降りてきてくれやしない」
「変わった人。あなたは『哀しみ』なんて欲しがっているんですか、面白い…」
 彼女は起きあがって、もっとよく三十郎の眼を見ようと、両手で三十郎の顔を自分の顔に近づけた。しばらく至近距離で対峙することになった二人だったが、しばらく眺めると、彼女は満足したのか、三十郎を離すとベランダの方へゆっくりと歩いていった。
「ううん、違う。あなたはやっぱり『哀しみ』を知っているんだと思う。でも、気づいていないだけなんですね。あなたにとって『哀しみ』を知るということは、『哀しみ』を自覚することなんだと思います。きっと、時が解決してくれるものなんじゃないでしょうか」
「そうか。もしかするとお前の言うとおりかもしれない。しかしな、黙っていても勝手に時間が解決してくれるなんて甘っちょろいことはないさ。結局のところ、動き回って、努力する以外にないんだ」
「でもそれはきっと――お気を悪くされたら謝りますけど――、子供が無意味な努力を必死になってやって、ただ空回りしているだけのようなものだと思います」
「そうか。確かにそうかもしれない。しかし、他に俺に何ができる? 『哀しみ』を知らないということは、つまり俺はガキだってことさ。ガキにはガキ相応の努力しかできないものさ。そうしてそれを積み重ねた結果、やっと大人になれるんじゃないか」
 三十郎のこの言葉を聞くと、彼女は、以前ウェイトレスだった頃に三十郎へ向けたあの自然な微笑みを浮かべた。この女性は俺の全てを受け容れてくれる、と三十郎は直感した。

 三十郎が住み始めてから一月が経った時に、三十郎は彼女の両親から夕食に招かれた。彼女の両親は六十代に差し掛かった位の年頃で、父親の方は白髪が目立っていた。出された食事はいかにも家庭料理という風で、少しばかり味付けが濃いようにも思えたが、三十郎にとっては久々の家庭料理であり、ありがたかった。
 特にこれといって珍しい話しはしなかったが、三十郎は彼女の両親から酷く気に入られていることを感じた。父親の方は口汚い冗談を交えながらも、しきりに焼酎を勧めてくれたし、母親の方は娘の話しをひっきりなしにしてくれた。恐らく、あらかじめ彼女が三十郎のことを吹き込んでおいたに違いなかった。
 さて、今度は三十郎が話す段になったので、三十郎は生まれ育った故郷の話しをした。颱風が来たときの話しや、日照り続きだった時の話しをした。両親のことについても尋かれたので、母親が死んだことも父親が失踪したことも、包み隠さず話してしまった。無論、育ててくれた祖父のことも、喧嘩して家出したことについてもだ。
 相手によってはこういう生い立ちを蔑視する人もあるようだが、彼女も、そして彼女の両親も決してそのようなタイプの人間ではなかったらしい。情に厚く、涙もろい性質なのだ。生粋の江戸っ子というやつだ。しかし、それは周囲にとってみれば、しばしば悩みの種ともなるのだが――ともかく、彼女の両親は全幅の信頼を三十郎に寄せてくれた。
 その日を境に、彼女の三十郎に対する態度は明らかに変わった。まず、訪ねてくる回数が圧倒的に増えた。そしてなるだけ三十郎と一緒に行動しようし、何か悩み事があるような場合には、真っ先に三十郎に相談しに来るのだった。
 それらのことから三十郎が得るところは大きかったが、しかしそれはあまりにも仕合わせすぎた。『哀しみ』からはどんどん離れていっているように、三十郎は感じた。あるいは仕合わせがあるからこそ、『哀しみ』を発見できるのかもしれないとも思ったが、仮にそうするためには、ここを去ることが必然だと思っていた。
 しかし、三十郎はただ理由もなしにここを去ることはできなかった。それだけ三十郎も彼女の愛を享受していたのだ。そこで、三十郎は彼女の部屋の片づけを率先して行うようにした。部屋が片づいてしまえば、三十郎ははじめの約束の通り、必然的にここから去らねばならないことになるのだ。
 そして、実際に彼女の元の部屋も、新しい部屋もはほぼ完全に片づいてしまった。残るは家電製品を処分してしまうだけだ。これで未練なくここを去ることができる、と三十郎が思ったのも束の間。彼女の両親が、自分の弁当屋に住み込みで働かないかと持ち出してきたのである。未練というものは、まるで地中から湧き上がるように次々と脚を捕らえるものである。
 三十郎は決心して、その申し出を断った。彼女の両親は、本当に落胆したようだった。それだけ三十郎は愛されていたのだ。しかし、三十郎に必要なのは愛ではないのだ。

 三十郎は荷物をまとめて、部屋を出た。すると、建物の入り口で彼女と出会った。
「本当に出ていってしまうんですね。でも、もし心変わりするような……」
「ダメなんだ」三十郎は遮って言った。「お前と一緒にいるとだな、どうしても俺は腑抜けてしまう。このままじゃ俺は『哀しみ』なんて見つけられない。それじゃいけないんだ。俺は『哀しみ』を見つけないと、本当の俺にはなれんのだ」
「そう、だったら、見つけてきてください。その、『哀しみ』を……」
 それっきり彼女は黙ってしまった。恐らく、彼女の本心は、もっと沢山のことを言っておきたいのだということを、三十郎は悟った。だが、言わないのだ、三十郎のために。彼女がそうした気遣いをするならば、自分が為すべきことは決まっている。三十郎は早速この部屋を出る準備を始めた。何より、彼女の気持ちを無駄にしないことだ。

        三
 三十郎はかれこれ三ヶ月もの間、東京を彷徨した。いつの間にか季節は春から夏へと移り変わっていた。しかし、もうそれも終わりにせねばならなかった。資金がもう少しで尽きるのである。もしも東京にこのまま居続けようと思うなら、もう今からでも住まいと仕事を探さなくてはならなかった。あるいは、『哀しみ』を探すことはすっぱりと諦めて、村へ帰って祖父に頭を下げるか、である。アパートへは、『哀しみ』を見つけないことには戻れない。
 そして、三十郎はその選択をもう決めてしまっていた。
「ここは俺のいるべき場所ではない」
 三十郎は立ち並ぶビルに向かってそうつぶやいた。個人個人が絶対的な境界を持ち、そしてお互いに干渉をしないまち都市……隠者のような生活をするなら、意外と向いているのかもしれないが、しかし三十郎は隠者ではなかった。人々が過剰に干渉し合う環境で育ち、骨の髄まで共同体の精神に浸かりきった人間なのだ。

 翌日、夕方になってから三十郎は村に帰り着いた。てっきり村人は驚きと非難の入り交じった眼差しで三十郎を見るだろうと思って、それをどうとも思わないように努力しようと決心して歩いて来たのに、村人とは誰も会わなかった。拍子抜けしたように歩いていた三十郎だが、村の様子がどうにも奇妙なことに気が付いた。三十郎は自分の家の傍まで来て、愕然とした。三十郎の彼の目に付いたのは見慣れた家の様子ではなく、『忌中』という文字だった。誰か死んだのか。いや、死ぬとしたら一人しかいないではないか。
「爺ちゃん!」
 三十郎は慌てて家の中に走り込んだ。
 座敷には位牌と三十郎の祖父の写真が飾ってあった。線香が柔らかな煙を上げていた。そして脇には見慣れない喪服の男が座っていた。男がこちらを見た。眼の爛々とした男だった。
「やっとお帰りになりましたね。あと一日待ってお帰りにならなかったら、どうしようかと思っていました」
「じ、爺ちゃんは、爺ちゃんはっ……?!」
 三十郎は、いきなり走ったために口が急激に渇いて、巧く言葉が喋れなかった。
「明日で四十九日ですから、一月とちょっと前ですね。お亡くなりになりました」
「そうか……爺ちゃんも――死ぬのか…」
 母親が死に、父親が失踪した。しかし、祖父だけはいつまでもこの家にいて、三十郎のことを見守ってくれていると、三十郎は勝手に思い込んでいた。そう、祖父も死ぬのである。
 状況が解ると、もう既に三十郎の心はすっかり落ち着いてしまった。できることならば、おおわらわ大童に泣いて、哀切を表現したかったのだが、その哀しみそのものが三十郎の心には、まだ芽生えていなかったのだ。
 三十郎が落ち着いたのを見計らって、男が声を掛けてきた。
「さて、私はこういう者ですが(と、男は名刺を三十郎に手渡した)――あなたのお爺さまの遺言状によれば、土地の権利は全てあなたにお譲りになられるそうです。ですから、どうしてもあなたの確認が必要だったのですよ。(続いて、男は数枚の書類を取り出した)ここに署名・捺印して戴ければ、この土地は行政が買い上げます。新しい移転先はご自分でお決めになってください。一応、ニュータウンの方の造成もだいぶ進んでいますから、そちらでも構いません。もう他の方は皆んな移転してしまいましたよ」
 三十郎は、そういえばダム計画を持ち込んで、再三に渡って村人を説得して廻る役人の男がいたことを思い出した。そして、その男の顔が、目の前に正座している喪服の男の顔と一致したのである。
「では、私はもう用事を済ませましたので、お暇させて戴こうかと思います」
 男は立ち上がり、戸口に向かった。今にも出ようというところで、ふと三十郎の方を振り返って言った。
「ああ、それと、相続税の申告をお忘れにならないように願います」
 それだけ言い終えると、そのまま出ていった。

 翌日執り行われた法要には、一体今までどこに潜んでいたのか解らないが、村人達が集ってきた。そして、三十郎の顔を見ると、一瞬ぎょっとするのだが、すぐにほっとした表情に変わるのである。ともあれ、肉親がいてくれて良かったというところだろう。
 三十郎はこの法要の費用などがどこから出されているのか、知らなかった。坊主に尋いてみたが、何かごにょごにょと言うばかりで、肝心なことを聞けなかったし、村人達に尋いてみてもさっぱり解らなかった。どうにも奇妙だ。それにまだ奇妙なことはある。他の地にいるはずの親戚達がまるで来ていないのだ。もしかすると知らされていないのではないだろうか。だとすると、この法要は家とは関係の無い誰かが、厚意でやってくれているのだろうか。それとも、敢えて親戚達を外したのだろうか……解らなかった。
 だいぶ人が集まってきてから、一人の村人だった男が遅れてやってきた。がっちりとした体格の男で、熱血漢で有名だった。その男が三十郎を見つけるや否や、怒りの形相になり、三十郎に飛びかかったかと思うと、顔をありったけの力でぶん殴ったのである。三十郎は突然のことに数メートルもぶっ飛んでしまった。男はさらに追撃を加えようとして、三十郎にまたがったが、あわやというところで他の村人に羽交い締めにされ、もがいていた。その隙をついて、三十郎はまた別の村人達によって引きずり出されたのである。
 何人もの村人達が覆い被さり、かろうじてこの鬼と化した男を抑えつけることに成功した。場が落ち着いたところで、氷枕が用意され、三十郎の顔と、ぶん殴った方の男の手に当てられた。
 男の拳骨は不恰好に腫れていた。野良仕事で鍛えた腕力で思い切り叩きつけたのだ。手の骨は繊細にできているから、間違いなく骨折していることだろう。一方の三十郎の顔も紫色に腫れあがったのだが、かろうじて骨折はしていないようだった。尤もヒビくらいは這入っていてもおかしくはなかった。そのくらい勢いをつけて殴られたのだ。
 村人が事情を尋ねると、男は憤慨しながら、しきりに無念、無念と繰り返していた。どうやら、彼はダム建設に最後まで反対だったらしい。急先鋒で闘っていたのに、リーダー格であった三十郎の祖父が突然死んでしまったことで、負けてしまったのがどうしても口惜しいのであった。そして、その死の原因はといえば、三十郎の失踪だったのだ。
 しかし、別の村人が諭すように口を開いた。何んでも、祖父はもう既に村のことを諦めていたというのだ。村が消えるなどということは、許されることではない。口惜しい。だが、もしも最後まで抵抗して村人が傷つくようなことがあってもいいだろうか。おまけにそんなことまでしたら、立ち退き料だって、這入ってこないかもしれない。とにかく、村人が抵抗という名の暴力で傷つくことは許すべきではないと結論づけたのだそうだ。そして、自分の命がもう長くはないことをもすっかり悟っていたらしい。
 祖父はもう永いこと肺気腫に罹っていた。肺が拡張して腫れてしまう病気だ。若い頃、劣悪な環境の工場で働き続けたことが原因なのだそうだ。もう、ただでさえ老体なのだから、身体が弱って他の病気を併発してしまうかもしれないし、あるいは肺動脈破裂を引き起こしたりして急死してしまう恐れだってあったのだ。本人も死を意識せずにはいられなかったのだろう。自分が抵抗の指導をするうちは、村人も平和な形で抵抗ができる。しかし、自分がいなくなったらどうなるだろうか。だから、自分が斃れたら、もう抵抗はやめるように一部の村人に告げていたのだそうだ。そして、村人達はその遺言通りにしたのだった。
 その話しを聞くと、三十郎を殴った男は、男泣きに泣いた。いや、啼くと言ったほうが適当かもしれない。ほとんど獣が哀しみを表現することと同じように見えたからだ。そして、村人達に伴われ、タクシーで医者に向かった。その間もおんおん啼きつづけていたので、タクシーの運転手はよっぽど酷い怪我をしたのかと思って、車を飛ばした。
 三十郎は、あれが『哀しみ』というものか、と眺めていた。そして、家出を決意した日のことを思い出した。

 祖父は三十郎を自室に呼び出した。
「お前は実にいい子だ。先にそれを言っておく」
「何んだい、爺ちゃん。改まって」
「お前、もしこの村が失くなってしまうとしたら、どうする?」
「そんなこと、あり得るわけがないじゃないか」
 三十郎はダム計画の存在自体は耳にしたことがあったのだが、しかしそれで村が消えてしまうとは考えていなかったのだ。
「もし仮に、だ。ええ、どうする?」
 祖父は厳しい調子で応えを迫ったので、三十郎は勇ましいところを見せるべきだと判断してこう言った。
「そうだな。それが誰か外の奴らからやられることだとしたら、俺は徹底的に闘うな」
「それで、村人が傷ついてもか?」
 祖父の顔がどんどん強張ってくる。三十郎は緊張が昂まったが、しかし自分が決して間違った応えをしていないということを何度も心の裡で確認した。
「自分の村を護るためだ。当たり前じゃないか。それで傷ついたって、皆んな誇りに思うはずさ」
「そうか、三十郎よ。お前の考えはようく解った。お前は『哀しみ』を知らぬ青二才なのだ!」
 三十郎は焦った。自分は何も間違った応えはしなかったはずなのに、まるで死刑の宣告をされたように感じたのである。
「何んだい、それ。いきなりそんなことを言われても……」
「所詮はガキだということだ。お前のような奴の顔は見たくない。どこへでも行ってしまえ!」
「お、おい、爺ちゃん。冗談だろ」
「これが冗談なものか。お前など、この家には一歩も入れん!」
「そんな急に言われてもな……」
「なら、明日まで待ってやるから準備しろ。儂は明日お前をこの家から放逐する! その後は儂とお前は赤の他人だからな、いいな!」
 そして三十郎は祖父の室を出たのだが、家を逐われるなど、ただごとではない。三十郎は祖父のことを愛している。そして同様に、祖父も三十郎も愛しているはずなのだった。三十郎は、明日になれば祖父もケロッと忘れてくれるかもしれないという希望を持とうとしたが、何しろこんな調子の祖父を見るのは初めてのことで、どうしても明日になれば自分が本当に放逐されてしまうような気持ちになって、いたたまれなくなった。
 三十郎はもう本当にどうしたら良いか解らなくなって、母親の位牌に向かって相談さえした。そうこうしているうちに、いいアイディアが浮かんできた。つまり、祖父は明日、三十郎を放逐するのだからその前までに家を出てしまえばいいのだ。これなら祖父は三十郎に勘当を言いつけることもできないし、『哀しみ』を見つけてから戻れば、歓待されるかもしれないし、あるいは見つけられなかったとしても、ほとぼりが醒める頃を見計らってから戻って来ることもできるだろう。そして、何事も無かったように、今までの生活に戻ることができるのに違い無いのだ。
 三十郎は大急ぎで荷物をまとめ、家の中にあった金庫からありったけの現金を手に掴み、そして暗がりの中を駈け出したのだ。
 暗がりの中で三十郎は家の方を振り返ってみた。祖父は眠っているのだろう。どの部屋からも灯りは漏れていなかったし、しんと静かにしていた。しかし、縁に誰かが立って、こちらの方をじっと見ているような気がした。暗すぎて、この距離からでは解らない。しかし、三十郎はそれが祖父であると確信した。先ほど荷物をまとめる時に音を立てすぎたから、きっと祖父が嗅ぎつけたのだと思った。今、祖父の眼につくことはあってはならない。もしも眼があったら、その時点で祖父と自分の関係は断ち切れてしまうのだ。三十郎は駅に向かって必死で走った。どうせなら、隣の駅まで走ってやろう。そしたら、誰にも見つからないはずだ。始発電車まではまだ二時間ある、大丈夫だ。そうして、三十郎は見知った者の誰の眼につくこともなく、無事に家出をすることができたのである。
 しかし、それらの思惑も、祖父が死んでしまうことで、すっかりふいになってしまった。鯖腐れ岩の噺と一緒だ。安全になってから――などと考えているうちに、何もかもが取り返しのつかない事態になってしまうのだ。

 法要は無事に済んだ。村人達は新しい家へと帰っていった。そして、これから片づけようかというところで、あの役人の男が這入ってきた。
「あの、済みませんけどね、私もお線香を、いいですか」
 三十郎は男を通してやった。もしも村人が大勢いる中で、かつての敵役である彼がのこのことやってきたら、随分気まずいものになっていただろう。男はそれを気遣って、今こんな時間にやってきたに違いない。男はかつての良き敵に向かって、ごく素早く慰霊を済ませると、儀礼的なお悔やみを三十郎に残し、去っていった。三十郎はその背中を見て、東京で見てきた、沢山の煤けた背中を思い出した。
 三十郎は荷物をまとめて、家を出ることにした。村は村人あっての村である。もう村人が一人しかいないこの村は、村ではない、東京と同じだ。今や三十郎という完全無欠の個人が存在するためだけの土地なのだ。
 荷物をすっかり整理し終え、母親の位牌も連れて行ってやろうと思って佛壇の位牌に手を伸ばした。すると、奥に二冊の古いアルバムが置いてあるのが解った。開いてみると、煤けた写真に、若い女性が自然な笑顔で写っていた。その女性はまるであの弁当屋の娘そっくりだったのだ。どうして彼女がここに写っているのだろうか。しかし、落ち着いて考えれば、こんな昔に彼女がいるはずはなかった。
 三十郎は写真をよくよく見ることにした。すると、その女性には三十郎が幼い頃に見た母親の面影があった。つまり、これは若い時分の三十郎の母親の写真なのだ。三十郎は祖父から写真は皆焼き棄てたと言われていた。――とすると、これは三十郎には内緒で隠していたアルバムなのだ。三十郎は出ていく前に母親の位牌と相談しているので、恐らくその後に置いたものなのだ。そこなら間違いなく三十郎に渡せると思ってのことだったのだろう。
 三十郎はアルバムのページを繰った。次々と若い頃の母親が現れてくる。母親はどれも綺麗だった。そして本当にあの弁当屋の娘とそっくりな、自然な笑顔を見せていた。彼女の笑顔に強く惹かれたのは、恐らくこの母親の面影を見ていたせいなのだろう。
 しかし、それにしても一つ不可解なことがある。それは常に母親の傍らには、あの役人の男がいるのである。あの男も、昔はこの村に住んでいたのだろうか……。次のページを繰ると、三十郎は思わず「あっ」と叫んだ。白無垢を着た母親のと並んで、あの役人が羽織姿で写っていたのである。
 三十郎は慌ててもう一冊のアルバムを開いてみた。今度は小さな男の子が写っていた。それはまるであの家出少年とまるっきり同じ顔をしているのだった。これは一体どうしたことなのだろうか。三十郎は背中がぞくぞくと寒くなってきた。どんどんページを繰っていくと、小学校入学、中学校入学……と続いていくうちに、家出少年の顔が、モーフィング画像のように、次第に役人の顔へと変わっていった。
 つまり、だ……。自分はあの役人の子であり、父親はあの役人であり、そして祖父は自分の実の息子と村を賭けて闘っていたのである。村のダム計画はまだ三十郎が子供の頃からあったらしい。そうすると、祖父がほとんどの写真を焼き棄ててしまった理由も解る。もちろん、父親が失踪してしまった理由もだ。
「爺ちゃん。爺ちゃんは、本当に辛かったんだなあ……」
 祖父の写真に向かって、三十郎はしみじみと言った。そして、『哀しみ』というものの存在がおぼろげながら解りはじめてきた。
 三十郎は泣きたかった。しかし、これはまだ祖父の哀しみであった。まだ、三十郎自身の『哀しみ』ではなかった。だから、三十郎はまだ『哀しみ』を完全に知り、そして泣くことができなかったわけである。
「明日、親父にもう一度会ってみるよ」
 三十郎は言った。

 三十郎はすぐに父親と会うことができた。まるで、三十郎が来ることはあらかじめ解っていたかのように、三十郎は父親の許に案内されたのである。
「あんたは、俺の親父だな」
 と三十郎は切り出して、テーブルの上に例のアルバムを置いた。父親はそのアルバムの表紙をちらりと見ると、中を確認しようとはしなかった。しかし、家出少年が三十郎に向けたのと同じような、爛々とした眼で三十郎を見た。
「そうです。そうですけれども、だからといって、どうなさいます?」
「いや、確認したかっただけなんだ。そして今、自分という人間の原点が解ったような気がする。俺は東京に住むことに決めたんだ。この二冊のアルバムを見て思ったんだ、俺は東京に住むべきなんだってね」
「そうですか。それは大変良かったです。ご成功をお祈りしていますよ」
「ああ、今度こそ本当に見つかるといいんだがな」
「そうですか、前に東京にいらしてたんですね。今度こそいい仕事が見つかりますよ」
 父親は三十郎の言葉の意味を勘違いして言った。三十郎は微笑した。
「さて、俺はこれで失礼する。電車の時間が来る前に最後に村を見ておこうと思ってな」
 そして三十郎は立ち上がり、ぎこちなく会釈をして、回れ右をすると、ドアのノブに手を掛けた。
「ああ、そうだ。言い忘れていたが――」三十郎は振り返って言った。「通夜も葬式も四十九日も、皆んなあんたがやってくれたんだろ。何しろ実の息子だからな。しかし、心から感謝している。ありがとう」
 そして相手が返事をする前に、三十郎は室を出た。そして最後に、
「あばよ、家出少年」
 と小さくつぶやいた。

 三十郎は村を見渡せる丘の上に立っていた。こうして見ると解るが、この村はダムにするのに絶好の地形をしている。これを国が放っておくとは考えにくかった。尤も、もしかするとダムそのものは大して必要のないものなのかもしれない。何しろ数十年も前からの計画なのだ、ほとんど面子と利権だけで事が進んでいるのかもしれない。しかし、だからといって、既に移ろい流れて行ってしまったものを、どうやってたぐり寄せることができるだろうか。全てはもう、手の届かないところにまで行ってしまったのだ。
 今見えているものは、皆んな幻と同じことだった。村という共同体の幻想は全て水の底に沈み、個だけの世界がそこからぽつぽつと泡沫となっては、どこかへ飛んでいってしまう。
 少年の頃、かけずり回って遊んだ公民館も、勝手に這入り込んでこっぴどく叱られたあの田圃も、飛び越して遊んでいるうちに脚を引っ掛けてしまったあの小川も、今にダムの底に沈んでしまうのだ。今までの自分を証明するものなど、何も残らないだろう。残るのはただぼやけた記憶だけなのだ。三十郎は東京に住む一つの個として、あくまでその生涯を終えるに違いない。
 蝉が盲めっぽうに啼き叫んでいた。それは山々に反響して、幻想的な音の空間を作り上げていた。
                                     《了》


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