身体から何かが抜けている――三郎はここ何年かというもの、そういう感覚に囚われ続けている。今も、口を開けば何か白い煙が逃げていってしまうような気がして仕方がない。事実、三郎は少しずつ色々なものを失くしていった。全身の力を失い、体力を失い、仕事を失い、笑いを失った。少しでも笑おうものなら、全身がきしむように痛む。哀れなほどに痩せてしまった。ただ、佳乃子だけが三郎を見棄てることなく世話を焼いてくれるのだった。
あの白い煙を見たのがそもそもの発端だった。佳乃子と一緒に山登りに出掛けた時のことだ。
山頂には破れきった神社があった。三郎は面白いものを探して周囲を歩き周り、佳乃子は社の中をのぞき込んでいた。佳乃子は一人で頷くと、誰に話すともなく喋りだした。
「恵比須様ね。ありきたりな民間信仰――ということは、この辺りには昔小さな部落があったのね。
ところで恵比須様は七福神の中でも異質な存在だって、知ってる? 恵比須様以外は皆んな中国の伝承の中の人物や仏教の神様なの。恵比須様はイザナギとイザナミの最初の子供――だけど、骨が無いのよ。蛭みたいにね。だから蛭の子と書いてもえびすと読むの」
佳乃子の趣味は雑学だったか。いや、大学では民俗学をやっているんだったっけ。とにかく何か知識を披露せずにはいられない性質らしい。
三郎はそんなものに興味は無かった。所詮は人工物に過ぎない。それだったらどこにでも何んでもあるだろう。それよりもさっきからチョロチョロ聞こえている水音の方が気になっていた。社の裏手の方から聞こえるようだ。裏手に廻ってみると、水場があった。
「見ろ、湧き水だ」
崖の方から石で出来た溝を伝って水が流れていた。三郎は両手ですくってみた。澄んだ透明で、見るからにうまそうだった。佳乃子もやってきたが、三郎の期待通りに喜ぶことはなく、怪訝そうな眼で見るだけだった。二人はいつもそんな工合なのだ。
「よしなさい、何が棲んでいるか知れない」
民俗学女のくせにフィールド・ワークはお嫌いと見える――三郎は佳乃子の忠告を無視して美しい山頂の湧き水を呑んだ。身体の中に心地よい何かが染み渡るような気がした。その時、三郎は確かに泉から白い煙が立ち上るのを見たのだ。龍神、というものかもしれない。龍神の水を飲んだ者には何か力が備わるという。それとも、蛭子様が祀られているのなら、蛭子の水だろうか。そう思うと何か力が湧いてくるような気がした。これからはきっと全てが巧く行くだろう。佳乃子との仲も今よりもずっと良くなるだろうし、いい仕事にだって就くことが出来るだろう。そしたら、2LDKの手頃なアパートを借りて佳乃子と二人で住むのだ。そのうち自然と結婚することになるだろう――三郎は順風な人生を思い描いた。
それがどうしたことだ。今やオンボロのアパートで病院へ行くことも出来ず、衰弱するに任せているとは。近頃はよく血を吐くようになった。しかし呼吸器も胃も悪いというわけではない。
「もう、病院へいきなさい」
佳乃子はマメにやってきては料理を作ってくれたりする。他の連中は『付き合いが悪くなったな』と言って皆んな三郎を見棄てていったが、佳乃子だけは三郎を見棄てなかった。去年一流企業に就職したそうだが、それでも毎日のように三郎の許を訪れてくる。俺は一体何をやっているのだろう――順風な人生を思い描いていただけに、それだけに三郎は自分が情けなくて仕方が無かった。
「健康保険、無いんだよ」
「検査くらいなら大丈夫でしょ。お金なら出してあげるから行きなさいよ」
「いや、これはきっと蛭子の呪いさ。バチが当たったんだ。医者には治せないさ」
「またそんなことを言って……」
翌日、佳乃子は無理にでも三郎を病院へ行かせるつもりで、消費者金融から借りてきたカネを手に部屋を訪れると、三郎はついに息絶えていた。佳乃子は身体から全ての力が抜けるようにくずおれた。
しかし、死んだはずの三郎の顔がもぞもぞとあり得ない動きをしているのを、佳乃子は見逃さなかった。気味が悪かったが、眼を逸らすことも出来ずにじっと凝視していると、三郎の鼻や口から次々と巨大な蛭が這いだしてきた。それがガラスをこするような鳴き声を上げるのを、佳乃子はただ座り込んでじっと見ていた。
――湧き水の中に棲んでいた蛭が、三郎の体内に寄生し繁殖していたのだった。
《了》
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