E・M・フォースター風小説理論 序文

 

 まともな小説講座ほど、小説理論というものはあまり教えたがらない。大々的に「小説はかくあるものである」と宣言することは単にその人の“思い込み”を語っているに過ぎないからだ。そういう話を聞いても何も得られないばかりでなく、却って迷いを植え付けられ、才能を壊されてしまう可能性がある。
 スポーツの世界では『年俸一千万円のコーチが年俸一億円のプレイヤーを壊す』という言葉が時々聞かれるが、教える側が間違ったことを植え付けるのは、どんな世界でも日常的に起こっている。教わる者は他人の理論を鵜呑みにするのではなく、確乎たる信念を持つことが大事である。成功者ほど“わがまま”“頑固”といったネガティブな評価が付きまとうのは、その裏返しなのだ。そうでなければ、能力に依存した世界では生き残ってはいけない。
 小説で言うなら、細かいところまで一字一句指示を出してしまう人は教師としてはあまり優秀でない、ということだ。そうしたい気持ちは解るが、大家と言われる作家ほどそのような指導をしない傾向にあるのは事実だ。大江健三郎は細かいところまで指示してしまう人だが、氏の酷い“翻訳体”は日本語としては感心しない。氏は『日本語が危機に瀕している』と言うが、氏の日本語が最も欧米流に傾倒・崩壊してしまっている。
 もちろん教わる側に信念があり、正しい道を選ぶ能力があれば何んの問題もないのだが、しかし教える側の傲慢は教わる側にとってやはり危険な存在に違いないのである。
 
 フォースターは小説理論と小説との関係を鳥と影とになぞらえている。理論は鳥、小説は影である。出発点――地面に留まっている状態においては、鳥と影には密接な関係がある。鳥の姿はくっきりと影にも現れる。しかし一旦飛び立って高度を増せば増すほど、影の方はぼやけ、みるみる鳥と影の関係は希薄になっていく。
 高度とはそのまま理論の発展と進歩である。理論の構築が進めば進むほど、肝腎の小説とは関係が薄くなり『小説はわれわれの手許からすり抜けていってしまう』のである。『立派な小説理論には小説不在という落とし穴が待っている』のだ。
 また私の個人的意見として、厳格な小説理論は小説世界を狭めるものに違いない、と疑わない。定義する――とは枠を作ることである。しかし小説には本来枠などないはずである。何をしても良い。だからこそ小説=Fictionというあやふやな言葉がある(novelと言うと少しは限定的になるのだが)。時代時代によって流行する小説やメインカルチャーとして認められる小説というものは違い、それぞれの時代に生きた人にとって小説像は大きく異なる。ヌーヴォーロマンという言葉もあったし、二十世紀には“小説破壊”こそが小説とされていた。しかしそれらもやはり小説であり、何が小説であるか、ということはどうしても定義することはできない。
 その点フォースターは一つ一つ実際に例をとりながら『要素』を挙げることで、小説本体との距離を失うことなく、巧く小説について考察することに成功した。
 
 したがって他人を惑わせたり、間違った観念を植え付けたりする可能性の極めて少ない、良質で実践的な小説理論となった。だからこそ、私はこれを採り上げる。
 よく言われる言葉に『文体はその人の人生そのもの』というのがある。人生は読書経験とも言っていい。文体=スタイルが小説を形作るので、理論が無くとも小説の技術は自然に“発見”されていくのだ。もちろん小説の各要素について考察を深めることは全く無意味ではなく、その“発見”を促進してくれるのである。


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