辻原登『枯葉の中の青い炎』
第31回川端康成文学賞受賞作である「枯葉の中の青い炎」他5篇を収録した短編集。どの作品も読み入ると現実と空想の区別がつかなくなってくる。むしろ本の中の方が現実ではないか、と思わせる強さがある。それもこれも読者を引き込むエレガントな文体あってこそである。
私は近頃の辻原登の文体をエレガントと評しているが、この言葉に辿り着くまでに色々な言葉を探った。流麗、洗練――確かにそうなのだがありきたりすぎるし、どうにもイメージがそぐわない。もっと中国的な妖しさが欲しい。幽玄、玄妙――これではイマドキの若い日本人には意味がよくわからないし、どうにも妖しすぎる。もっとこう、優雅さが欲しい。しかし、優雅と言うと根本的に何かが違う。そんな折、ロジャー・ペンローズ「心は量子で語れるか」を読んでいると、著者が宇宙のモデルについて、ロバチェフスキー幾何学型宇宙を『エレガントである!』と評した。これだ、と思った。エレガントという評語はフランス文学において使われることが多いかもしれない。もちろんフランス文学とは随分違う文章だが、また違ったエレガントさがある。古代中国宮廷のような、妖しいエレガント。
「ちょっと歪んだわたしのブローチ」
時間の経過が面白い作品。そのせいか読む方に、もどさかしさに似た何かを与える。私はどうにもそわそわして、何度も本を置いてしまった。そしてぼんやりと色々なことに思いを馳せる。ある程度の時間を置いた後、本に眼を戻すと物語の中でもだいぶ時間が進行している。現実の時間の経過も愉しい、一作。
私も携帯電話は持たない人間なので、登場する女学生には妙に親近感を抱いてしまった。人に魅力を感じる理由というのはそういうものかもな、と思った。人と違っている部分を好きになるのだから。
「水いらず」
脳で匂いを司る部位は、原始的なより深い場所に位置するという。つまり、それだけ本能と直結しているわけで、匂いからは逃げられない――というコンセプトは医学的にも立証されうるのかもしれない。
内容は恐らくパトリック・ジュースキント『香水―ある人殺しの物語』が元と思われる。決定的な証拠は『火掻き棒の一撃』である。海外文学は面白くても、妙にデリカシーが欠けていたり、日本の生活とまるで繋がっていないのが欠点だが、日本向けに一から書き直せばこうなるだろうか。
ジュースキントの話をもう少ししたいのだが、ここに書くと長くなるので下のアーティクルにまとめてみた。
「日付のある物語」
文芸誌で読んだ記憶が無く、かつ文章も内容も最近の傾向と違うな、と思ったら97年一月の作。
これは歴史小説の手法。実際にあった事件を独自の解釈と構図で描く筆致の切れ味は妖刀の如く鮮やかである。個人的ではない事実を元に小説を書くことは一見簡単なようで意外と難しく、杜撰な作家に出来ることはない。
私もこういった小説には何度か挑戦したことはあるのだが、いずれも挫折の憂き目を味わうこととなった。
「ザーサイの甕」
ラスト・シーンの色彩が美しい。金魚を扱った小説は世界でも稀だ。同じく『遊動亭円木』も数少ない金魚小説である。そしてこの作品と密接に拘わっている。また、『だれのものでもない悲しみ』も同じくハマトウを扱った小説。
私は夢に見るほど、強烈な印象を受けた。ザーサイも、ハマトウも、金魚もインパクトは充分である。こんな小説、他にない。
「野球王」
野球王というニックネームの旧友へ思いを馳せる作品。読んでいて、自分にもそういう旧友がいるのだ――という気分にさせてくれる。
あんまりあれこれと語るべき作品じゃないかな。
「枯葉の中の青い炎」
革命によって亡命してきたロシア一家の息子スタルヒンを扱った野球小説。主人公としてではなく、これまた訳ありの帰国野球選手アイザワススムの視点で語られている。普通、呪術的な描写というとオカルト的だったりして読む方はうさん臭さを感じるのだが、この作品はちっともトンデモ臭くない。事実はこうだったのではないか、と読者に錯覚させるほど自然と受け容れられる。不思議な話=荒唐無稽ではないということをよく顕している作品だ、と思います。
ところで、中島敦も出演している。錚々たるキャスティングだが、これもまた辻原ワールドの魅力か……。他の作家がやると途端にシラケてしまうようなことですが、辻原登がやればサマになっているのですから、その点は凄いものです。
パトリック・ジュースキント『香水―ある人殺しの物語』
2003年に文庫化されている。マイナーな本だが、インパクトは充分。売れ行きもなかなか。映画化の話しもあるらしいので、ここに採り上げておく。
世界でも稀な“嗅覚そのもの”を扱った小説。単に“匂い”の充満した小説なら他にもあるが、この作品の凄いところは“嗅覚の及ぼす影響”に的が絞られていることである。つまり、匂いの内容だけでなく、匂いのプロセスそのものも書いているのだ。
人間は周知の通り“視覚”に特化された動物である。嗅覚はあまり優れているとは言えない。それだけに、匂いというものにあまりにあっさりと騙されてしまうのだ。ただしこの小説では犬など嗅覚に依存した動物もあっさり騙されてしまうのだが……。
明らかにこの作品は簡単に騙されてしまう人間への嘲笑だ。この作品は、社会風刺社会批判の意味合いが大きいように思う。普通の小説家ならそういうことはあまり気にせず書くのだが、この作者はなかなか芽が出なかった苦労人で、しかも寡作で後には独り引き籠ってしまったような人。ならば、多作の作家のように一つの作品への意味合いが薄いわけはなく、グルヌイユの世間への嘲笑は、まさしく作者自身の世間への嘲笑に違いないだろう。
その辺がこの小説の弱点でもある。何しろ泥臭いし、デリカシーというものがまるで無い。でも同時に、そういう小説もいいな、と思う。読む方に何かズンッと来るものを与えると思う。逆にそれだけのものを持った小説は今の日本には無いわけですから。
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