感想・批評(辻原登作品)

 

   匂いと色彩の文学

 私はよく道を歩きながら、辻原登デビュー作の「犬かけて」を思い出す。身体が左へと傾く時だ。このところ、原因不明の体調不良に悩まされている。昔から身体の強い方ではなく、しかもアレルギー持ちだが、ここ数年は特に酷く、地面に直立出来ている気がしない。それで身体がやたらと左へ、左へと傾きたがる。私は右目と左目で極端に視力が違う。乱視の酷い左目は時として幻覚さえ見る。見えないから何度も打ち付けたりする。そうすればするほど、左にしか動けなくなる。「犬かけて」にも左にしか切れない車のハンドルが登場する。妻の寝る位置から左右の因縁が発展していただろうか。私の動きもまた右が禁じられている。一体どんな因縁があるのか。
 後に見られるエレガントな文体も、まだこのデビュー作では影を潜めている。しかし、私はこの不器用なくらいにも見える叙述が、大変に好きだ。私の思考パターンとよく似ている。
 主人公のツチヤノボル――又の名を五円玉というが、その名の通り五円玉を十七枚も持っている。今現在私の財布には五円玉が十四枚だが、それでもジャラジャラしているのに、さらに三枚も多いと来た。これは相当なものである。彼の五円玉は『セールスの武器』だが、私は神社への賽銭のために五円玉を集めている。一円玉では軽すぎて賽銭箱で安っぽい音しか鳴らないし、かといって十円玉では重すぎるし何よりもったいない。そんな私は五円玉よりも甲斐性の無い男である。素戔嗚尊にすがりたいほど心に余裕が無いのだからしょうがない。
 この「犬かけて」は後の全ての作品と類似しているように思う。例えば、『火事だ、東京が燃えているぞ』という科白。この科白は創作ではないかもしれない。妙に現実めいた力を感じる。「だれのものでもない悲しみ」でも出てくる科白である。家出少年だった主人公が女や快楽を知り、そして帰京する時に耳にする科白である。女と別れる前に、美しい黒髪を二、三本拝借する。ツチヤノボルも女を知った時、黒髪の二本や三本は盗んだ可能性はある! 私も酷く黒髪が好きだ。美しい黒眼と長くて美しい黒髪さえ揃っていれば、どんな悪女であろうが文句はない。黒髪事件を扱ったのが「黒髪」。母親の存在や弟探しは「ジャスミン」の父親探しと結びつく。弟のトオルは「谷間」にも出てくる。谷間は「犬かけて」にも現れる。『子イヌのキモ』「村の名前」の犬喰らいだろうか。桃花源村の色彩はサヤマの色彩にも通じる。とりわけ色彩が美しいのは盲の噺家が主人公の「遊動亭円木」
 ノボルの妻春子のアレルギーの話は「マノンの肉体」へと引き継がれる。『フォッサ・マグナ』――東西日本を分ける地層的な裂け目。これが主人公の膠原病の原因ではないか、というのだ。私はふらつきのあまり地面が歪んでいるように感じるのだが、もしかするとこの地層的な違いが原因なのかもしれない。事実四国へと旅行に行った時には、体調はすこぶる良かった。全身を疲れが支配していたものの、ひまわり印のコーヒー牛乳を飲むと、身体の中から西国生まれの血がふつふつと沸き立つ気がした。美しかった『マノンの肉体』は急速に腐敗していく。作品の中で採り挙げられていた九相図絵巻について興味を持って図書館で図録を閲覧した。『九相図』とは人が死んでいく九つの相を描いた物だが、石油を意味する『草水』が『臭い水』と掛けられているのと同じく、こちらも『臭い図』と掛けているのかもしれない。
 話しが横道に逸れた。何はともあれ、文章がうっと来るような臭気に満ちているのだ。
 「犬かけて」の文章にも匂いが存在する。もちろん、他の作品にも。時に『ジャスミン』であり、『こぼれた蜜のにおい』であり、逃れられないフェロモンでもある。それだけではない。匂いを感じさせる文章は全ての作品に共通している! 文章そのものに匂いが内包されているのだ。そして、色彩もしかり。『白い黒つぐみ』『黒髪』東京が火事なのも桃花源村も色彩である。ところが、音は欠落している。音の作家は多いが、辻原登の作品のどれを紐解いても音を感じない。テレコから謎の言葉が聞こえても、それは言葉であって音ではない。家出少年のエーデルワイスは歌であって音ではない。クリークを縫う時のオールの音は無音にしか聞こえない。例えば宮沢賢治は代表的な音の作家である。読めば様々な幻聴が聞こえてくる。しかし、辻原登の文章は読めば聾のように何も聞こえなくなる。その代わりと言ってはなんだが、普通なら聴覚が研ぎ澄まされるはずの盲の円木が感じるのは音ではなく、まったく不思議なことに、匂いと色彩、である。辻原登は匂いと色彩の作家なのだ。


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