感想・批評(辻原登「ジャスミン」「村の名前」)

 

   辻原登「ジャスミン」

 文學界での集中連載の時に一旦読んで、単行本を発売日に買って後日サインを貰ってまた読みました。サインの日付は2004年7月7日。李杏と彬彦は七夕に会えるのだろうか、などと考えたり。

――幻想的空気
 この作品では大きく分けて神戸、上海、船上という三つの舞台が用意されていて、それぞれが独特の空気を放っている。船というのは神戸と上海を結ぶフェリーだけではなく、淡路島から神戸を結ぶ船、中国の内陸を縫う船であったり、多くの形をなしている。全ての船にはそれぞれ共通した空気がある。恐らく船上の空気は中国的な空気だろう。そのどれもが幻想的なのだ。
 中国での描写というのは、強烈なまでの幻想的力を持っている。逆に日本での描写は妙に現実的である。私は渡航経験が無いのでその辺が実際にどうなのかは解らないが、その一つ一つを巧く対比させながら書いているように思った。
 中国側の人物描写はカフカ的で、独特の錯覚とあやしさが滲み出ている。それに準じた“シカケ”も用意されている。
 蔡舫という人物が大きな鍵を握っていて、特に最初の登場シーンは美しくてミモノです。鑑真号に乗ったときからずっと上海的あやしさというものが出てきている。ここに来てからが本編であって、そこまではプロローグ的なものに過ぎない。ここから読み入った読者も多いはず。ここから幻想的世界へと迷子になっていくのだ。

――決算としての
 父親探しと母親のサトの存在はデビュー作「犬かけて」を彷彿とさせるし、中国での描写はまさに「村の名前」だろう。
 辻原登の場合「犬かけて」はあまり評判ではなく、むしろ「村の名前」を小説家としてのスタート地点だと見る批評家は多い。ある意味総決算的な意味として「犬かけて」と「村の名前」を融合させたのかもしれない。私は「犬かけて」も好きだったせいか「村の名前」よりも先に「犬かけて」の方を連想した。
 また、場面が日本だと「犬かけて」、中国だと「村の名前」という読み方も出来るかもしれない。そう考えると「村の名前」のラストシーンとも掛かってくる。

――最後に(アフレコ
 大人のための冒険小説だそうですが――辻原登の小説はいつもですが、教養小説としても通用する部分はあって、ためになるかも。付箋だらけです。戦後史を知っておけば愉しめますが、知らなくても充分空気は愉しめるはず。
 前半の重厚さに較べると、後半が少し雑に感じるのは枚数の多さからしょうがないのかも。読む方もそれでほっとしますし。既にもうほとんどカタルシスを得ている相手にダラダラと語るのは得策ではないでしょうからな。
 脆さを敢えて指摘するとすれば、そのスケールの大きさでしょうか。庶民には少し解らない世界が描かれているのは確か(だから面白いのだが)
 これだけの作品で誤字らしい誤字はほとんど見つからなかった(あっても意図的かどうか迷うようなレベル)し、編集さんも印刷所もがんばっているのだなぁ、とか。――というのも、最近買った本が誤字だらけで……。

   辻原登「村の名前」(芥川賞受賞作)

 一番難しいのがラストシーン。土手とは何か。対岸とは何か。読む人によってその解釈は様々だろう。作者がどういうシカケを狙ったのかは知らないが。
 沢山の“シカケ”と多重構造があって、飽きずに愉しく読むことが出来る。私は迷子小説として、カフカの「城」を思い浮かべた。桃花源記において桃花源は辿り着けない村として描かれている――その≪桃花源≫のイメージが「城」と通じたのかもしれない。実際、監視役の二人組など、Kの助手と類似した人物描写も出てくる。単なるカフカの模倣なら山とあるが、この作品の面白さはそんなものでは止まらない。
 色々な言葉が頭を駆けめぐっているのだが、巧く文章に出来ない。なぞ謎。そういう種類の面白さである。場面を一つ一つ挙げて解説を入れるような真似はしたくない。
 ところで桃花源という村は実際にあるそうだ。そして作者もこの主人公のような仕事をしていたらしい。作者自らが実際にそれをペラペラと明かしてしまったのは、手品師が種明かしをするようで残念なことだが(本人もそれは後悔しているそうだ)、それはこの難解な本を読み解く手がかりになるかもしれない。


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