感想・批評(吉村萬壱「クチュクチュバーン」「ハリガネムシ」)

 

   吉村萬壱「クチュクチュバーン」(文學界新人賞受賞作)

 文學界新人賞史上稀に見る奇作中の奇作ではないかと思う。しかしこれでなかなか読者に読ませる。内容は下らない。驚くほど下らない。その莫迦らしさときたら、作者の人間を疑いたくなるくらいである。(笑) しかし、よっぽどの人間でないとこれだけのものは書けないのである。もちろん技術や資質だけではなく、悪趣味という点においても、ですが。莫迦な話しであればあるほど、肥えた眼の読者を相手に、何十ページも読ませるのは難しいものだろう。
 しかし、私は読み終えて、この作者のこれ以降の作品についてかなり心配をした。この「クチュクチュバーン」においてこの作者は、この作者自身の全てを終わらせてしまったような気がする。確かに、技術や実力は確かなものがあるかもしれない。それだけでも小説は書けるし、金にはなるかもしれない。だが、それが一体何んだってんだろう。完成度の高い人間ほど、伸びしろが残されていない。これ以上悪くなることがあっても、良くなることは無いのではないか、と思う。まあ実際、処女作を越えられずに終わってしまう小説家というのはごまんといるのだが……。

   処女作の壁――吉村萬壱「ハリガネムシ」(芥川賞受賞作)

 そして私は不安を増すこととなった。その印象は処女作の比ではない。作者は一転、告白病の私小説家に化けてしまった。いわゆる普通の小説を書いてしまったのだ。人間の裡に棲む「ハリガネムシ」とでも言いたかったのだろうが、しかしそんな使い古されたテーマを持ち出して一体何んになるというのだろうか。既に大作家と呼ばれる人達がやってきたことではないか。今更こんなものをやってどうするんだという気持ちから、途中から流し読んでしまった。私にしてみれば、その程度の価値しかない。技術だけで繋いだ作品に価値なぞ無いのだ。
 文学とは、方法論によってのみ書かれるべきものではない。「小説の創り方」だとか「テクニック」だとか「実力」が良いと言っている選考委員もいるが、そんな寝言を言っているから、日本の文学は面白くならんのだろう。“文学”の中からそっくり“学”が抜けている。完成度で評価するだけの傾向がはびこっているから、中身の無い空虚なものが世に出回るのだ。そして、読者離れは進むというわけだ。


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