私は佳乃子が好きだ。誰よりも愛している。
しかし、私は彼女と一緒になることはできない。なぜなら、彼女は既婚者だからだ。しかも、佳乃子は私と知り合う十年も前に結婚してしまっていた。時間というものは無情だ。やりきれない思いはあるが、どうしようもなかった。時間だけには逆らいようがない。
掠奪愛というものは成り立つだろうか。私は数度に渡り、佳乃子と二人きりで逢ったことがあるが、その時はなかなか良い雰囲気だった。相手だってまんざらじゃないはずだ。
しかし、私は佳乃子を愛しているので、決して荒々しいやり方で彼女を掠奪することはできない。彼女は夫と大変うまくいっているようだし、何より、彼女に不貞を働かせるのは心苦しい。
結局私は想いを呑み込んでしまう以外に無かった。この想いは、胸の奥にしまっておくべきものなのだろう。このまま新しい恋を探すか、それか一生独身を貫いた方がいいだろう。いや、選択肢はもう一つある。このまま人生を終わらせてしまうことだ。自殺してしまえば、苦しみは無くて済む。世界は真っ暗になってしまうのだから。
私は死に場所を求めて山の中へと入った。幽霊でも出そうな薄気味の悪い森だ。そこで私は本当に幽霊と出会った。
「私は錬金術師の霊だ。かつて私は今までにない秘薬を作ったのだが、それが原因で教会から異端視され、ここ日本まで逃げてきたのだ。私は薬を使い民衆の心を掴んで、神様のように振る舞おうと思っていたのだが、そうなる前に、間抜けにも盗賊に殺されてしまった。外国人は金持ちだと思っていたのか、それとも敵視されていたのかもしれない。とにかくそのことがあんまり無念で、成仏できずにいたのだ。いい加減彷徨い続けるのも飽きたし、早く成仏して天国に行きたい。是非、君に協力して欲しいのだ」
「そんなことを言われたって、私は霊能力者でも坊主でもありませんよ。それだったら、お寺か神社――それとも、外国の方ならば教会へ行くのが妥当でしょうよ」
「いやいや、そんなに難しいことではない。私は死ぬ前に、ある秘密を胸の奥に秘めていた。恐らく、そのことをばらしてしまえば、成仏できるのだと思う。君にそれを教えよう」
「あぁ、しかし、どんな宝物であっても、私は欲しいと思いませんよ。何しろ私はこれから自殺するのですから」
「そう言わないでくれたまえ、人助け――いや、霊助けだと思って、聞いてやってくれよ。君だってこれから死ぬというのに、私に協力してくれないとなれば、私は君の脚を引っ張って、成仏できないようにするまでさ。それに効能を聞いたら、心変わりして欲しくなるかもしれないだろう」
「まさか、霊に脅されるとは思ってもみなかった。仕方ありませんね、では聞きましょう」
「それは三つの薬だ。迂闊に持ち歩いて誰かに奪われるといけないから、そこの木の根元に埋めたのだ。いっそのこと奪われておけばさっさと成仏出来たかもしれんがな。私はここから離れることは出来ない。ここでずっと誰かが来るのを待っていたが、私を見ると皆んな逃げてしまうのでね、まだ誰も掘り起こしてはいない。
さて、肝心の薬だが、三つの薬とはいっても、実際には二種類だ。一番小さな瓶の中身は不老長寿の薬。残る二つは若返りの薬だ。不老長寿の薬は一口飲めば病気に罹らなくなり、二口飲めば、老いることがなくなる。若返りの薬は一口で十歳若返ることができる。一瓶で五十歳くらいは若返ることが出来るはずだ」
私には突然雷にでも撃たれたような気持ちになった。そしてある考えが稲光のように閃いた。私は早速幽霊の言うままに土を掘り起こし、彼の遺品を見つけだした。厳重に封印のされた木箱だったが、私は注意を払って壊した。すると中から確かに三つの薬瓶が出てきた。保存状態はすこぶる良好、悪くはなっていないようだ。
「どうです、成仏できそうですか?」
問い掛けた時には、もう既に幽霊は居なくなってしまっていた。私は静かに両手を合わせて、感謝の気持ちを込めて祈った。
そして、私は不老長寿の薬を一口飲んだ。残るは一口分だけだ。
あくる日、私は佳乃子を食事に誘い、隙を見て、不老長寿の薬を一口分料理に混ぜた。これで彼女は病気で死ぬことがなくなる。病気で死ぬことが無ければ、絶対に夫よりも長生きするはずだ。それが私の狙いである。夫が死んで、佳乃子が独りになる時を待つまでの話だ。
私は待った。ひたすら待った。そしてやっとその時が来た。佳乃子の夫は、七十四歳まで生き、そして死んだ。佳乃子も七十一歳になった。私も七十二歳になった。
佳乃子には子供が無かった。表向きでは夫が子供嫌いだからだと言っていたが、詳しい事情はわからない。確かなことは、佳乃子にはもう身寄りがないということだった。
私は兼ねてからの計画を実行に移すことにして、佳乃子の家を訪れた。
「この薬を飲めば、若返ることができます。どうか、私のためにもう一つの人生を送って欲しい。私は今日まで徹底的に生活を切り詰め、馬車馬のように働いてきた。財産は充分にある。遊んで暮らせるというほどではないが、一生働かずに安楽にやっていけるだけはあります。今はオンボロのアパート暮らしだが、すぐにあなたが望むような家を建ててあげよう。さぁ、早くこの薬を飲んでください」
私は佳乃子の前に瓶を差し出した。
しかし、佳乃子は首を横に振った。
「いいのですよ。私は充分に生きました。それに、私が愛しているのは主人だけです。あなたには大変悪いけれども、私は自然の摂理に背いてまで、生きようとは思いません」
どれだけ説得しても無駄だった。彼女は頑と首を横に振るだけである。
私はがっかりした。これまで、どんなに苦しい生活も、仕事も耐え抜いてきたが、それはこの日の為だったからだ。佳乃子と過ごすという夢があったからだ。それが今、もろくも崩れ去ったのだ。頭の裡では、苦しかった日々が何度も何度も浮かび上がってきた。
強引な男なら、ここで無理矢理にでも薬を飲ませてから言うことをきかせるという手段に出たであろうが、私はそうではない。私は佳乃子を愛しているのだから、佳乃子の意志を無視して、身勝手な行動をすることはできない。
「えぇい、せっかく今日まで堪えてきたのに、それが全部無駄になってしまった。こうなれば、ヤケだ」
私は持っていた薬を一気に全部飲み干してしまった。みるみる世界が巨大化していく。一瓶で五十年ということは、私は消えてしまうのだろうか。
――しかし、消えなかった。消える一歩手前とでも言えばいいだろうか。佳乃子は驚いているようだったが、私の方にゆっくりと歩み寄ってきた。
「あらあら、可愛い赤ちゃん……。これだったら、子供を作るのも悪くはなかったかもねぇ」
佳乃子は私を抱き上げた。
「でもねぇ、私だって本当はあなたのことを好きだったのよ。そりゃ主人のことも愛していたけれども、いつかあなたが全てを壊して、そして私をさらっていってくれるんじゃないかって期待していたの。それなのにあなたったら、優しいばかりでちっとも思いっきりが無いじゃないの。それじゃぁ、百年の恋も冷めちゃうわ」
私は消えかける意識の中で、必死に佳乃子へ言葉をかけようとしたが、それは全て泣き声へと変わった。それで良かったかもしれない。大人のままでは、思う存分に泣けなかったに違いないのだから。
《了》
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