序章
僕は記さねばならない。これからの歴史のために、僕に語り継がれた言葉を。
差し当たって、僕は歴史の本を開いてみた。大体を要約すれば、次のようになる。
『西暦22xx年、地球の人口は増える一方で、人類は宇宙への進出を企図していた。沢山のロケットを飛ばし、宇宙ステーションの建造は慌ただしく進められていた。
しかし、そんなものは、一瞬にして杞憂と化してしまった。僅かな、ほんの僅かな太陽の収縮により、地球は緑と水の星から、雪と氷の星と化してしまったびだ。人口は貧困地帯を中心に、激減を見せた。人類の意図しないところで、人口問題は解決されてしまった。
以上の事件は、実に多くの副産物を残した。まず、『国』というカテゴリが瓦解してしまった。今回の未曾有の事態に、国は何も対処できなかったのだ。そもそも国などというものは、道具に過ぎない。人々が生活する上で、便利だからこそ使っていたのだ。機能しなくなった国など、誰も必要としない。まして、戦争の危険があればこその国である。戦争どころではない現状において、どうしてのうのうと存在しつづけていられるだろうか。
代わって、コミューンと呼ばれる、小さな自治都市が現れるようになった。
しかし、毎年何度も襲ってくる寒波による死傷者は一向に減る様子が無く、毎年、家族を失う人々が絶えなかった。コミューンの代表者達は集い、何度も対策を検討し、あるハードウェアを開発することにした……。
弱々しい朝日が昇り、寒空の中にいくつも点在する、そのハードウェアがその花を開かせる。それらは人々から『ひまわり』と呼ばれていた。
『ひまわり』とは、空に浮かぶ、巨大な静止衛星のことを指す。この名称は、常に太陽の方を向き、反射光で光り輝く、花のようなフォルム(しかも、朝日と共にパネルを開く様子が、本物の開花に酷似していた。夜の間はメンテナンスのために、パネルが閉じられているのだ)、そして二度と来ない『暑い夏』を想って名付けられたのだが、これらの衛星の目的は、特に冬季、不足する日照を、ミラーパネルによる太陽光線の反射によって僅かでも補おうとするものである。果樹園などで、地面にアルミを敷き詰めて日照効果を増幅するのと、同じ理屈だ。実に単純明快――というよりも、単純すぎる発想ではあるが、他に仕様がなかった。
因みに、『ひまわり』の材料となったのは、国の遺産である。世界中で国が斃れた時、持ち主と、用途を同時に失った人工衛星や建造途上の宇宙ステーションが数多く残ったが、それらを人々は再利用しはじめたのだ。費用に関しては、共同事業として、それぞれのコミューンの代表者が話し合いによって、その運営を決めていた』
次に僕は、少しずつ記憶をたどった。僕は記さねばならない。これからの歴史のために、僕に語り継がれた言葉を。
三人の賢者(やせっぽち)
辺境のコミューン……『三人の痩せっぽち』と名付けられたそれに、スレイとザブは住んでいた。スレイは二十代半ばのアジア系の素朴な青年で(アジア系の人間でも、欧米系の名前を名乗ることは珍しくなかった)、ザブは今年十二歳になる北欧系と思われる亜麻色の髪をした、美しい少年であった。別に二人は兄弟というわけでもなく、たまたま出会い、たまたま一緒に生活をするようになったのだ。二人の出会いについては、いつか述べようと思うが、とにかく、こうした非血縁の者同士が同じ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食べるのは、コミューンにおいては、何ら珍しいことではなかった。
ザブがスクールから帰宅してきて、さっそく食事をねだりはじめた。記録文学(ルポルタージュ)を執筆していたスレイは、手は止めずに、口だけで応えた。
「棚に完全栄養食があるぞ。人工食糧万歳というやつだ。何? 天然の肉が欲しいだと?! 贅沢言うなよ。庭に埋めといた肉はもう一月も前に食っちまっただろ。春までお預けってやつだ。春になれば肉も魚も結構出回る。雪うさぎでもニシンでも何でも好きなだけご馳走するさ」
「この間、雑誌社から原稿料が入ってたじゃない。確かあの時の記事、ネタを提供したのは僕だったね。もちろん、スレイに対して金銭を請求するなんて野暮なことはしないけれども、僕が提供した分のリベートくらいは貰っても、バチは当たらないと思うんだけどなぁ」
「とんでもないマセガキだ!!」と、スレイは心の中で叫んだ。しかし、マセガキのマセの部分を育んだのには、他でもないスレイ自身も一役かっており、この叫びは呑み込むより他になかった。
スレイは、ザブが執筆に集中させてくれないと悟り、脚を組んだまま、回転椅子でくるりとザブの方を振り向き、得意の講釈をはじめた。
「いいかい、ザブ。俺たちの口座には、今現在、合計二十万ドルある。一財産だな。しかし、お前だって知っているだろう、俺たちが働いて得た金は、事実一割にも満たない。九割以上が、土地の権利を売って得た金だ。つまり、これから先、資産が減ることはあっても、資産が増えることはないんだ、解るな? 利子なんてけちなことは言うなよ。共益費(コミューンを運営する上で必要な経費というものは、住民から集めることになっていた。いわば税金。しかし、コミューンでは税金という言葉を嫌った)を考慮すれば、無いも同然だ。
ということは、だ。月当たり平均千五百ドルの生活を送るならば、あと十一年以上不自由なく暮らしていける計算だが、仮に月二千ドルの生活をしたとすると、三分の一近く――四年も縮まって八年程度しか暮らせないんだ。もしも、その四年の差で、俺たちが飢え死にしたらどうする? 四年延びてくれれば、俺が安定した収入を得ているかもしれないんだ。二月三月なら、我慢すればどうにでもなるが、四年の差は我慢じゃ埋めようがない。
だから、あと三月、春まで辛抱しろ。いいな? 人生とは辛抱の連続なんだ。じっと岩のようにして、機会が来るのを待つんだよ」
「春まで待てないよ〜、僕は成長期なんだよ、成長期。今、良質なたんぱく質を摂取すれば、後になってたんぱく質を摂取するよりも、十倍も二十倍もの働きをするよ。スレイは、この機をむざむざ逸しようというの?」
「なかなかやるな。しかし、先立つものが無いことは事実だしな。俺くらい開き直り貧乏をやっているとだな、節約しないことにはどうにもならんのだ」
「お金が無いならさ、スレイも白熊とかペンギンとか狩りに行こうよ。自給自足は究極的な節約だよ」
「北と南の味覚って奴か。昔で言うなら、キャビアとかフォアグラって奴なんだろうな」
「それはちょっと違うようにも思うけど。っていうか、話しを逸らそうとしてるね? いいからさぁ、行こうよ」
「いやだ」
「頭ごなしに否定してくれるね。でも、どうしていやなのさ?」
「多くの生物がなぜ冬眠をするのか、それは食糧の乏しい冬に、無駄なエネルギーを使わないためなんだな。そうしなければ、やがてエネルギーを消耗して、死んでしまう」
ザブは、ふと、何かを思い出すような仕草をした。
「生物の授業で習ったんだけど、昔生きていたナマケモノなんて、一年中そうだったって……コアラもだ。まるでスレイそっくりだよ。でも、僕はナマケモノでもコアラでもない。スレイはじっとしてればいいかもしれないけど、僕はそうはいかない」
「あのなぁ、冬の間はコミューンから一歩出ると、洒落にならんほど寒いんだぞ。解ってんのか? 運悪くブリザードにでもぶつかってみろ、それこそ命が無い」
「なら、コミューンの近くでも雪うさぎくらいは見かけるっていうじゃない。それを探そうよ」
その言葉を聞くと、スレイはおもむろに立ち上がり、窓を開けて、ベランダから白い塊を取り出した。
「じゃぁ、これでも食っていてくれ。これもれっきとした雪うさぎだ」
スレイが差し出したのは、雪でできたうさぎだった。
「……」
ザブは何とも言えない、情けないため息をついた。
その様子を見たスレイが勝利を笑みを浮かべた時、電話が鳴った。
「もしもし?」
慌てて受話器をとると、しわがれた声がスレイの鼓膜を刺激した。
『よう、スレイか……』
「なんだ、ブラック爺さんか」
『なんだとは随分だの。まぁ、それはいい、実はな……お前さんの耳に入れておきたいことがの……』
「どうした?」
……しばらく電話をしていたスレイだが、受話器を置くと、ザブに向かって出し抜けにこう言った。
「グルメツアー旅行に行くことにしよう。これから旅支度だ、いいな?」
*
スレイは買い物を済ませ、不恰好に膨らんだリュックサックを抱き、バスに乗車した。ザブとは別行動だったために、一人で席に座っていた。バスはいくつかの停留所を過ぎた。バスが新たに乗客を乗せた時、スレイはリュックの頂きのその先に、白髪を見た。そこで、老人が乗ってきたのだろうと思い、スレイは席を立った。
「どうぞ……」
しかし、同じ高さで見てはじめて、その男がスレイとまったく同年代の若い男であることが解った。白髪の男は、スレイの意を察したらしく、こう言った。
「あはは、よく間違われるのですよ。せっかくですから、この席はそちらのご婦人に坐って戴くとしましょう」
空いた席には、中年の太った婦人が坐った。白髪の男は、申し訳なさそうにして、スレイを見た。
「なんだか、だましてしまったようで……悪いことをしてしまいました」
「いや、そんなことはないさ。それに、次で降りるのでね」
「しかし、それでは、私の気持ちが収まりません。そうだ、次に降りるのでしたら……どうですか、一杯。いい店を知ってますよ」
コミューンにおいては、善きにつけ悪しきにつけ、見知らぬ者同士がよく語り合うが、それと同じように、見知らぬ同士でもよく呑む。アルコールを水のように呑むのは、体感的な寒さのせいでもあったが、同時に、いつ終わるともしれない氷期による、精神的な寒さのせいもあった。
スレイは、『智慧の残り滓(The Dregs of Wisdom)』という名の店に案内された。店に入ろうとすると、玄関の前に置いてあったスピーカーが歓迎の辞を述べた。『ありがとうございます』
「バーテンにいつも直すように言ってるんですがねぇ、これは『来てくれてありがとう』という意味だとか言ってました」
「というか、どうして酒場にこんなものが……」
どう考えても、酒場にこういった物は似合わない。スレイのこの問いに対し、白髪の男は、他人に聞かれないように、ひそかに耳打ちした。
「ここのバーテン――あぁ、オーナーなんですがね、昔はバッタ屋をやっていたそうで、その時の名残だそうですが……。どうやら、意固地になっているようです。言っても聞く耳が無いというか、何というか」
白髪の男は肩をすくめた。スレイは「あぁ、元バッタ屋だから、『残り滓』か」と、心の中で勝手に納得していた。バッタ屋とは、正規ルート以外から仕入れた品物を、安価で販売する者のことを指すのだが、たとえば、つぶれてしまった店から商品を買い上げるのも、そのルートの一つである。スレイにはまさにそれが残り滓に思えたのだ。
スレイは先にカウンターの前に行き不恰好に膨れあがったリュックを椅子の上に置くと、外套を脱いで丸め、洋服掛けの前に立っていた白髪の男に投げた。白髪の男は器用ににそれを掴むと、洋服掛けに外套を掛けながら、スレイのリュックを見ていた。
「随分買い込んでますね。冬眠でもするんですか?」
「旅支度ってとこかな」
「こんな冬に、ですか?」
「そう、居候に食わすタンパク質が無いんでね。ちょっくら、そいつを調達に」
調子づいたスレイの口上に、白髪の男はぽかんとした表情をしていた。
「はぁ……? まぁ、いいでしょう。しかし、冬に旅をなさるなんて、豪毅というか何というか。実は私も旅人生なのですが、冬の間はおとなしくしていますよ。ま、私もつい二週間前にここに入ったばかりですがね。しかし、二週間前と今とじゃ、寒さがまったく違う。寒波がやってきて、これから、本格的な冬が始まろうとしているのです」
「その割には、この辺に詳しそうだな」
「えぇ、ここはいいコミューンですから…。気に入っているのですよ。夏はいつもここで過ごすんですが、今回は特別な用事があったので、こんな時期にいるのですよ」
「夏の間は、俺はいつも旅に出てるな。だから、今までずっとすれ違ってたんだな。それが時機はずれの旅――そいつの準備のお陰で知り合うなんて、お互い妙な気まぐれが作用したようだな。でも、あんたは、どうして旅なんてしてんだい?」
「人捜しですよ。実は、その男しか知り得ない事実の書かれた記事を、とある雑誌で見掛けたのですよ」
話しながら、白髪の男はスレイに一冊の雑誌を開いて渡した。スレイは「へぇ」とおどけて見せながら、記事に眼を通した。生と死についての考察が、いくらか書かれていた。
「匿名の記事でしたが、なんとか調べて、このコミューンに住んでいるという情報を掴んだのです。もっとも、相手は顔を変えてしまっているようで、確認のしようがないんですがね。しかし、会えば解りますよ。どう顔を変えても、目だけは変えようがないですし、声も聞いたことがありますから、話しをすれば、絶対に間違いようがないです」
「顔ねぇ…。整形前の写真とかは無いのかい?」
「あぁ、ありますよ。これです」
さらに、スレイは一枚の端がぼろぼろの写真を手渡された。それは、画面が四つに分割されており、アジア系の男性の正面、横、後ろ、斜めからの顔が写っていた。まるで犯罪者のようだ。
「うーん、こいつの目つき、どっかで見たことがあるなぁ……」
「え、どこでですか? 是非、教えてください!」
「あぁ、確かねぇ〜」
「どこです?」
「確か、『七色の蛇』とかいうコミューンだったかなぁ」
スレイの言葉に、白髪の男は肩を落とし、大きくため息を漏らした。
「はぁ、ここのコミューンではないのですか」
「コミューンは広いようで狭い。顔見知りとはいかなくても、大体皆んな一度は会ったことがあるのさ。だから、ここのコミューンにいつも住んでるんなら、すぐ思い出せるだろうが、そうじゃないってことは余所者だってことさ」
「なるほど。『七色の蛇』でしたね? ありがとうございます。春が来たら、早速行ってみますよ」
「そうか。それもいいだろうが、もしかしたら、あんたの捜してる人も、俺らどうように、冬に旅をしているのかも知れないぜ?」
「そうですね、その可能性もありますね。まぁ、できるだけ早く確認したいものです。ここも、まだ完全に調べたわけではありませんし、少しは留まろうかと思っていますが……。やはり、早めに動いた方がいいでしょうか?」
「難しい問題だな」
二人は同時にウォッカをあおった。二人ともそれっきり沈黙していた。酒場には、声が不足していた。他の客もほとんど黙って呑んでいるのだ。例外は、隅の方で、煙草の煙をもくもくと上げながら、カードゲームをしている四人組だけだった。勝ち負けについて、色々と文句をつけているようだった。「やれやれ、またお前の勝ちか」「イカサマじゃねぇだろうな」「そんな、僕はちゃんとフェアーにやっているとも。今日はツイてるぞ」「うふふ、解ってるわ。文句ばかり言う男達は放っときなさい。さぁ、次のゲームと行こうじゃないの」
スレイは彼らの話しをそれとなく聞いていたが、その四人のうち三人がグルで、一人をカモにしているのが解った。その一人というのは、さっきから連勝をしている、声にどこか幼さが窺われる青年だろう。放蕩息子が三人の擦れっ枯らしにカモにされているという名画を、スレイは写真で見たことがあった。彼らのやり方は、世間を知らずを相手に、最初はとことん勝たせておいて、最後になって、尻の毛一本までも残さずむしり取ってしまうのだ。
あの青年が家に帰り、無一文になってしまったことを父親に告白し、悔いるならば、父親は黙って、それを迎え入れるべきかもしれない。だが、現実というものは、なかなかそうはいかない。人の更正のためには、果たして、現実を突きつけるだけでいいのだろうか……そう考えながら、スレイは、白髪の男の方を見た。彼も四人組のことには気づいていたようだが、しかし、スレイとは考え方が根本から違うのか、随分とさわやかな表情をしていた。スレイはその表情を計りきれなかったのか、グラスに映った自分の顔しばらく眺めると、一気に飲み干した。
「カクテルか何か、お作りしましょうか?」
二人の会話と途切れてしまったのを気にしていたのか、それとも、単なる気まぐれなのか、バーテンが話しかけてきた。それが巧い工合に、いいきっかけになり、二人はその後、ウォッカの飲み方やカクテルの配合について、バーテンをも巻き込んで、議論を交わした。流れるように時は過ぎ、酒場の窓から見える、丘の上の一本の針葉樹の上に浮かぶ巨大なひまわりが、閉じ始めていた。バーテンがそれに気づいた。
「おや、もう暗くなってきましたね」
これは、隠語である。家へ帰る人間は、この言葉を機に帰宅するのだ。
この時代、夜、外を出歩く者はほとんど居ない。なぜなら、寒暖の差が大きいコミューンにおいて、冬の夜というのは、いつでも凍死の危険があるからだ。また、人が出歩かないために、常夜灯などというものが存在せず、治安の面でも、不安がある。こうした酒場は、遅くまで呑む客のために、上の階を、宿屋にしている。ひまわりが閉じても呑んでいる客というものは、皆酒場に寝泊まりするのが通例だ。もっとも、あの四人組は朝までカードゲームをしているだろう。最後に残るのは一人、放蕩青年だけだ。朝になって、彼は二日酔いの中、昨晩の友達の姿も、財布の中に一セントの金も――いや、財布すらもないことに気づくだろう。
スレイが四人組の方を見ていると、白髪の男が「馬のはなむけ代わりに、今日は私が奢りましょう」と、数枚の紙幣と革製のコインをカウンターに置き、勘定を済ませてしまった。
因みに、極度の寒さの中では、金属製の硬貨は使われない。冷えた金属を迂闊に触ると、指を失くすことになるからだ。代わりに、革の硬貨を用いる。鞣し革に特殊な加工が施してあり、容易には偽造できないようになっている。それに、動物自体が稀少で、天然の皮革ともなれば、それだけで宝石のように価値のあるものだった。
店を出ると、スピーカーは『いらっしゃいませ』と述べた。
「こいつは、『また次もいらっしゃい』という意味らしいですよ」
と、白髪の男は苦笑したが、対照的に、スレイは愉快そうだった。
「はは、そいつぁ傑作だ。俺らも、また会うことになりそうだな。えぇと……」
スレイは名前を呼ぼうとして、白髪の男を指さした。
「私の名はクリス。クリス・ハーディンです」
「そうか、俺は……」
スレイは少し考えてから、グレン・グールドと名乗った。
「では、良い旅を」
二人は別れたが、クリスは酒場に泊まるらしく、また扉の中に戻っていった。『ありがとうございます』というスピーカーの音が、冷え込み始めた街にこだました。
*
翌日、暖かい時分を見計らって、スレイとザブは、ソリに乗り込んだ。このソリは電動でも、犬を繋いでも使用できるようになっていた。もっとも、犬は高価なために、ほとんど使用されなかった。
電動の場合の問題は、極度の寒さで、回路や電池が故障してしまうことである。極寒の地での、移動に機械よりも犬が最適なことは、スコットやアムンゼンが身をもって証明している。
どちらにしろ、暖かい季節ならまだしも、この時代の冬の旅は、昔の南極探検と同じくらいの危険がつきまとうのだ。まさに命がけの旅であり、冗談半分で言ったことが聞き入れられ、今回の旅を言い出したザブの方が、実は混乱していた。
「でもさ、スレイ、どうして急に行く気になったの? ブラック爺さんから何か言われた?」
「ああ、そのことか。そうだな。たとえるならば、大事な買い物をする直前に、余計な買い物をして、足りない金のようであり――あんまりこのたとえは良くないな――そうだ、幾多もの勝利を与えておいて、最後の最後で相手方に浮気をする勝利の女神のようでもあり……」
「わけ解んないよ。もっと解るように話してよ」
「参ったな、解るようにたとえを使ったつもりなんだがな。要は掴もうとする者が居るならば、逃れようとするってことだ。それも、ほとんど掴みかけた状態でだ」
「参ったよ。余計わからなくなってきた。スレイはいつも僕には理解できないように、わざと論点を逸らして、話しをはぐらかそうとする」
「そんなことはないぞ。俺は真摯に応対しているつもりなんだがな」
「つもり……ね。じゃぁ、ブラック爺さんには何を言われたのさ」
「俺のファンが会いたがっているってさ」
「ファン? それが、どう旅行の動機に繋がるのさ」
「どちらかといえば……多分、偏狭的ファンとか、ストーカーとかの類だろうな。かかわるとろくでもない目に遭うであろうという予測は、動かしがたいね」
「どうしてそれがわかるの?」
「勘だな。悪事千里を走るとは言うが、善い行いが知れ渡るというのは、ほとんど無い。人は悪い噂こそはするが、好んで善い噂をしようという人間は、偽善者か、よっぽどの偏屈かのどちらかってことさ。ということは、俺の見ず知らずのファンってのは、大抵悪い噂を聞いているか、何者かの意図による教唆煽動(アジテーション)を受けているということになる。そのどっちも俺はごめんだね」
「それじゃまるで悲観論者(ペシミスト)だよ。スレイの世界には、良心的なファンというものが存在しないんだね」
「ああ、悪い。もちろん、いいファンってのもいるさ。でも、この場合のファンってのは、隠語なのさ。たとえば、たまに妙な手紙が届くようなことがあるだろう? 何らかの形で意見を発表したりなんてすると、時々因縁をつけたがる奴らがいるのさ。それと同じようなものだとは思うが……とにかく、あまりかかわりにはなりたくない奴さ……」
「先にそれを言ってよ。でも、どんな人なのかな?」
「白髪の、俺と同じくらいの好青年だったよ。どうやら、俺の記事にケチをつけたいらしい」
「ま、まさか会ったの?」
「ああ、一緒に呑んできた。しかも、借りまで作ってしまったさ。だが、相手も俺とは気づかなかったから大丈夫さ。ただ、本当にかかわり合わない方が良さそうな奴だった。ヤバイ雰囲気がぷんぷんしてたからな」
「まったくもう……」
ザブは、スレイの話しに呆れかえって、何とはなしに自分の住んでいたコミューンを振り返って見た。と、ゲートの傍に『ようこそ、三人の痩せっぽちへ!』という看板が立っているのを見つけた。スレイ達の進行方向とは反対向きに立っていたため、ゲートに入るか、振り返るかしないと見えない。
「でもさ、『三人の痩せっぽち』なんて気の利かない名前だよね」
つぶやくように言ったザブの目線を、スレイも辿ってみた。
「あー、あれか、あれは確か元々は『三人の賢者(The Three Sages)』という名前だったはずだ。三人の賢者がこのコミューンを作ったからってのが由来だそうだ。……が、それがいつのまにか時を経るに従って『三人の痩せっぽち(The Three Lean Men)』に変わってしまったんだなぁ」
「作ったのは賢者ではなく、人足達でしょ。賢者が苦労して作ったわけじゃないんだ、だいたい安直すぎるんだよ」
「そうか? いい名前じゃないか。lean ってのは、『痩せた』という形容詞になるんだが、動詞で『頼る』って意味もあるんだな。Sages と韻は踏んでないが、賢者というものは、大抵人を扱うこと――頼ることに長けた人間さ。だから、意味としてはなかなか面白い。知識だけじゃ痩せるばかり――つまり、腹は膨れないってことを言っているように、俺には聞こえるねぇ。
手っ取り早く腹を満たしたいなら、耕すなり、狩りや採取をするなり、身体を動かした方が単純でわかりやすい。一方で、腹の足しにはならない知識だが、人々をまとめあげる統率力と、それにもう一つ、一絞りのレモンを加えさえすれば、腹の足しどころか、コミューンだって作れてしまうのさ」
「一絞りのレモンって何?」
「さぁな。どんなエッセンスを加えるかなんて、人それぞれさ。逆に、人の模倣(まね)をして、同じものを加えてみたところで、物事は成功しないばかりか、逆に悪い方へと行くばかりさ」
二人は、『ようこそ!』という文字に見送られて、出立した。「また次もようこそってな…」スレイの小さな独り言にザブは気づいてスレイの方をいぶかったが、スレイは黙っていた。
<続く>
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