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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

文学における映画の功罪

cafe MAYAKOVSKY;Da57. Finished
 私は本よりも先にイワン・プイリエフ監督の「カラマーゾフの兄弟」から入っていたせいか、いざ活字で読んでみたところで、アリョーシャはアンドレイ・ミヤフコフだし、イワンはキリール・ラヴロスだった。名前は知らないが、スメルジャコフの細かい動作さえ、全てあの俳優の動きを頭の中でトレースしていた。
 実際に映画を観たのは5〜6年ほど前のことなのだが、これが怖ろしいほど鮮明に思い出されてしまう。それだけ完璧な配役だったということの証明にもなるのだが、困ったことである。
 人物だけではない。風物、建物、家具、ありとあらゆるもののイメージが映画をトレースしている。
 特に印象深いのは、ゾシマ長老の庵室。質素ながらも美しく、暗く。第一部の見所、ゾシマ長老の前で茶番劇が演じられるシーンは、まさに映画のあの場面が思い浮かんだ。

 クラスメートの顔や名前さえ、一年経たず忘れてしまうことが多い私にとって、これはショッキングである。
 こういうことにばかり記憶容量が裂かれて、社会で生きるために必要なことにはまわされていない。
 まさにショッキングな刺激がなければ、人の顔さえ覚えられない性格なのかもしれない。

 他にも似たようなことは多い。

 カフカの「アメリカ」はストローブ=ユイレ監督の「階級関係」のキャストがそのまま頭に浮かんでくるようになった。
 しかし「審判」を読んだところで「サイコ3」のアンソニー・パーキンスは全く思い浮かばないのだが。
 どうやら、記憶の連結にはある一定の条件があるようである。
 配役の善し悪しもあるだろうが、脚本と原作との距離も関係がありそうだ。オーソンウェルズの「審判」はカフカ作品と感じるよりも、ずっと強くオーソンウェルズを感じてしまう。

 トルストイ「戦争と平和」を読むと少しばかりオードリー・ヘップバーンが頭に浮かんでしまう。
「風と共に去りぬ」を読めばビビアン・リーが……
 スタニスワフ・レム「ソラリス」も、改めて読んでみるとタルコフスキーの「惑星ソラリス」のイメージが先行する。早川版にはご丁寧に映画のイメージが表紙にまで描かれている。

 どうにも、ミーハーでいけない……。

 少なくとも映画は後回しにした方が無難なようである。それが良作であるなら、なおさらのこと。

Posted at 2006/11/04(Sat) 07:33:58

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