I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

翻訳の作法

cafe MAYAKOVSKY;Da42. Story of Errors
 翻訳にまつわる、ちょっと感動的な話。どこが感動的かというと、原文に“主語”が無いのを発見したこと。
 つまり少し引用させて戴くが――


わたしの主人公(わが主人公)、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きおこすにあたって、わたしはあるとまどいをおぼえている

 この文章は下のようになる。

わたしの主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きおこすにあたって、あるとまどいをおぼえている

 私が断ずるのも烏滸がましい話だが、後者の方が圧倒的に文章として優れている。文法上の正確さは無論前者になるが、詩的な意味で、文章がより美しくなった。
 翻訳としての正しさもその通りだが、問題は距離感である。“わたしは”という主語は、読者に一段階距離を置かせる。それが無くなることで、より文章に近しい感じが生まれた。これはドストエフスキーのアリョーシャへの愛の大きさをも表現することに繋がる。

 また、日本語とロシア語はよく似ている部分がある。私のロシア語の知識は学校で週1時間を2年間習っただけで、分不相応な断言になるが、共通点はその大雑把なところにある。
 日本語も、ロシア語も土臭い言葉なのだ。そこで生活する人々の心がそのまま投影された言語である。これは現代英語には決して無い感覚である(古代英語の実態は知らないが)
 それは、例えば今回の“主語の省略”であったり、いい加減にも思える助詞の法則に顕れる。ラテン語的欧米の文法ではよろしくないとされている部分であり、大江健三郎ならバッテンを付けるような部分である。(笑)

 真の意味で美しい日本語は、文法から外れている。真の意味で美しかったドストエフスキーの言葉を、あたかも英語の重訳のように、無様に翻訳する必要はない。――リンク先の記事を読みながら、そんなことを思った。

 充実した気持ちの伝わってくる文章で、読んでいて気持ちが良かった。院生といい、編集者といい、素晴らしい人に囲まれている――この運命には何か予感させるものがある。出版が待ち遠しい限りだ。

Posted at 2006/07/23(Sun) 15:56:07

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