I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

フランス短編傑作選 あらすじ+書評

 前回よりの続き。予告通りwikiに載っていなかった作家の作品について、簡単なあらすじを紹介する。

※以下は俗に言う“ネタバレ”ですので、純粋に作品を愉しみたい方は眼を通さないように願います。
 トリッキーなコント(ショート・ショート)及び短編小説はネタが少し解っただけで大きく愉しみが損なわれます。
 よって、肝心要の部分は、背景色と同じ文字色とし、読んでも構わない場合はマウスで選択してください。

「ヴェラ」 オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン
(ドスモワ公爵夫人に)
 ヴェラは主人公のダトール伯爵の妻の名である。彼女は非常に美しい娘で二人は一目で惹かれ合った。ところが結婚六ヶ月を過ぎた頃、突然ヴェラが腹上死(作品では『はげしい抱擁に恍惚となってわれを忘れ、そのため心臓が悦楽に耐えきれずに息絶えた』とある)してしまったのである。悲痛な想いに、伯爵は下僕を一人残して、他の召使い達にはみな暇を出し、門にはかんぬきをかけ、誰にも会わないことにする。そして、ヴェラの死をすっかり忘れて、あたかも彼女が生きているように語らい、口づけをし、生活を送ったのである。
 下僕もはじめは芝居のつもりであったが、三週間も経たないうちに、ヴェラの死を時々忘れてしまうようになった。ダトール伯爵自身も、自分の見ているのが幻なのか、それとも確かな存在なのか、区別が付かなくなってきた。

【ここから、伏せてあります】
 それがヴェラの一周忌の頃、それはついに頂点に達し、ヴェラの存在を裏付ける数々の現象が起こる。ついにヴェラが姿を現し、二人が抱き合ったとき、伯爵はふとした言葉を発してしまう――
「ああ、そうだった! 何をぼんやりしていたんだろう。――おまえは死んだのだったな!」
 その瞬間、すべては幻と消え、伯爵はひとりきりであることにやっと気づいた。
「ああ、もうおしまいだ! 彼女は消え失せたのだ……ひとりきりで。――いまおまえのところまで行くには、どの道を行けばいいのか。そちらへ行ける道を教えてくれ……」
 そうつぶやく彼の視線は一つの光る物体を捉える。それはヴェラを葬った墓の鍵であった。


 まあまあ面白いんだけど、下らないような気がする。
こんなものをきらびやかな観念の世界などと評するのはいかがなものか。

「親切な恋人」 アルフォンス・アレー
 ある寒い日に、恋人を部屋に迎えるが、彼女は足が冷たいと不平をいう。暖炉に火をくべようと部屋をあちこち探したが、どこにも燃やす物がない。そこで、男は恋人の服を脱がせて、ベッドに入った。自分も素っ裸になった。

【ここから、伏せてあります】
 そして、男はナイフで自分の下腹部の皮膚だけを切り、あふれ出しそうになるはらわたをどうにか押さえつつ、そこに恋人の足を入れて暖めた。翌朝、恋人は感謝して、絹糸で傷口を縫った。二人にとって最も幸福な日だった。


「ああ、フランス文学だ」と思った。こういうダメ臭さがいかにもフランス。エスプリって奴ですか。
【ここから、伏せてあります】
  一応補足しておくなら、腹の中に一晩足をかくまっていれば、寝返りのときに蹴られて腸を切って死ぬか、後日細菌感染によって死にます。
 また、縫合するときに注意して腸に織り目が付かないようにしないと、閉塞を起こして、やはり死にます。

「ある歯科医の話」 マルセル・シュオッブ
 主人公が上等のロンドレス葉巻を吸い終わって家に帰る途中、自分をじろじろ見る風変わりな男と出くわす。男は突然鏡を手渡してくる。何んでも、上あごの日本の前歯が虫歯になっていて、放っておくと感染性歯槽歯肉炎になるという。そして自分の診療所の場所を教えると、蜘蛛のようにすばやく去って行った。
 主人公は歯に自信はあったものの、だんだん不安になって男の診療所を訪れる。
【ここから、伏せてあります】
  一般的な歯の治療が、オーバーで皮肉めいた調子で描写され、主人公の歯科医への憎しみが増大していく様子を表現している。
 そして金充填を行う際、『自動ハンマー』によって問題の歯が砕けてしまう。しかも虫歯だと思ったのは葉巻の滓を見間違えただけだったという。主人公はついに憤慨する。歯をぼろぼろにされた仕返しに、自動ハンマーでもって歯医者の歯を粉砕してやろうとしたところ、彼の口からは総入れ歯が出てきた。彼は侮蔑を含んだ微笑で主人公を見る。主人公はぐっと睨みつけるまでにして逃げ帰った。
 口腔が文明生活を送れないほどに傷つけられたと思った主人公は、インディアンの未開部族のなかに小屋を建てることに決め、氾濫が起きたときには頭の皮を剥いでやろうと決心する。『だが待てよ。あのワルめ、理髪師になっているかもしれんぞ』


 これも下らない。社会批判か、皮肉なんだろうけど、あまり面白くない。
 尤も、私がこの手の【普通の出来事を大袈裟に描く』形式のショート・ショートを見慣れているせいかもしれない。コノ手のものは、アマチュアが好んで書くので、インターネット上には腐るほどあるだろう。もう見飽きた、というか。
 しかし当時としては面白かったのかもしれない。


「アリス」 シャルル=ルイ・フィリップ
 アリスは七歳であるが学校に行かない不思議な子供である。彼女が学校へ行かない理由は、実は母親の愛を欲するがゆえであった。そのために、色々な言い訳を聞くのが大人たちの愉しみであった。
 ところはそのアリスに弟ができた。はじめのうちはアリスも喜んでいた。しかし、それも今まで、アリス以外の兄弟達は赤児のままでことごとく死んでいったのを知っていたからである。それなのに、この弟は全く死ぬ気配を見せない。次第にアリスは焦りを覚えてくる。

【ここから、伏せてあります】
 毎朝アリスは起きるたびに「ママ、赤ちゃん死んだ?」と尋くが、周囲は弟の実を案じてのことだと思っていた。しかし「ママ、赤ちゃんにお乳をやらないで」「毛布を口と鼻の上にかぶせた方がいいよ。息ができなくなるから」などという言葉を発するようになり、ようやく、周囲は事情を飲み込む。
 アリスとしては母親も自分と同じ気持ちでいるとおもっていたし、そのうち誰かが思いきって殺してくれるとさえ期待していたのであるが、段々その期待も抱かなくなった。
 赤ん坊がしっかり生きていることを認識した日の晩「赤ちゃんが死なないのなら、あたしが死ぬ」と宣言し、一切食事を執らず、自分の小さな腰掛けに座ったまま、ただ暗い目で母親の動きを追うだけになった。それは鬱病で死ぬ狂人の目だった。
 医者はチューブでアリスに食事を執らせる方法を提案したが、どうやってもだめだった。アリスは人から触られることさえ厭がり、母親が膝に抱くことすら、激しく暴れて拒否した。
 アリスは七つの歳で嫉妬のため死んだ。


 これは日本のショート・ショートに一番近い内容。ただし、日本人が書いてもここまで忌まわしい内容にはならないし、日本の大部分の読者は納得しないだろう。
 星新一が似たようなモノを書いていたような気がする。「月の光」というショート・ショートで、言葉さえ教えられず、ひたすら愛を受けて育った少女が出てくる。――正確には“飼われている”わけだが、彼女は愛という副食物が無ければ食事さえできない。ところが自分を飼っていた富豪が交通事故に遭ってしまい、結局餓えて死んでしまう。
 生きるために必要な愛が欠乏したために餓死する――という点では共通している。ただし、「アリス」が嫉妬という忌まわしい感情によって死ぬのに対し、「月の光」は美しい話として描写されているのだが。
 もちろんシャルル=ルイ・フィリップの作品が先だが、星新一は世界の掌編小説に造詣が深く、フランスのコントについても触れていたので、もしかするとこの作品を参考にしたかもしれない。星新一は世界のショート・ショートを集めたアンソロジーを編集したこともある。古本屋をうろつけば、その手の本を眼にする機会があるだろう。

「ローズ・ルルダン」 ヴァレリー・ラルボー
 これは『幼なごころ』という短編集に含まれており、有名。ここで紹介すべきほどではない。
 こちらにあらすじ付きで紹介されている。


 一言で表現するなら、『マリア様がみてる』の世界。(笑) 少女漫画に多い『ああ、そんな気持ち、あるある』という感じ。

「バイオリンの声をした娘」 ジュール・シュペルヴィエル
 とくに変わったところのない少女だったが、ある日、木から落ちかけて思わず上げた叫び声が、まるでバイオリンのような音に聞こえた。それ以来、彼女はバイオリンのような声を発するようになった。しかも、自分が黙っていても、勝手に喉の中でバイオリンが音楽を奏でているのである。
【ここから、伏せてあります】
  少女も家族もそれを恥じ、他人から気取られないように過ごしていた。しかし少女が処女を失ったとき、その声も同時に失われた。普通の声になったことを喜んだ家族だったが、少女は、自分のなかの独特な調べを壊してしまった恋人のことが恨めしくてたまらなくなってきた。
《本当にあたしを愛してくれてたのなら……》と彼女は考えた。


 山田稔氏の簡明な訳(ただし、文章はそれほど巧いとは感じない)のせいもあるだろうけれど、まるで素人同人誌のような印象を受ける。
 譬喩的作品、暗示的作品は卓越した文章でないと、私はどうしても素人臭く感じてしまう。恐らく、そのせいだろうけれども。

「タナトス・パレス・ホテル」 アンドレ・モーロワ
 タナトス・パレス・ホテルはメキシコとアメリカの国境に建つ、現地人さえも寄りつかないホテルである。このホテルは法的な問題の曖昧なことを利用し、なんと自殺専門の営業をしているというのである。
 株で大損をした主人公のジャン・モニエはこのホテルで死ぬことを決心する。しかしホテルの支配人ブアステッカーは彼には、自殺に対する宗教的なためらいがあることを見抜く。

【ここから、伏せてあります】
 ジャンは支配人からクララ・カービー=ショウを食事の相手として紹介される。お互いに身の上を告白しあううちに二人は親密になっていくが、クララの説得によって、ジャンはついに自殺を思いとどまり、人生をやり直すことを決意する。
 彼はブアステッカーに自分とクララの自殺中止を申告する。ブアステッカーは彼を祝福し、収めた三百ドルのうち差額分を返還することを説明し、彼が出ていくのを見送る。それから密かにボーイへ、今晩のうちにジャン・モニエの部屋に毒ガスを送るように指示する。
 そこへクララ・カービー=ショウが登場し、支配人から給与と特別手当を受け取る。実のところは、彼女はホテルの従業員であり、ジャンから宗教上の問題をクリアするために近づいたのであった。


 途中までは面白かったが、最後のオチがいかにもショート・ショート的で、拍子抜けした。

「結婚相談所」 エルヴァ・バザン
 ルイーズとロベールは兄妹二人だけで生活をしている。四十歳を前に結婚しようと、ルイーズは結婚相談所に登録する。

【ここから、伏せてあります】
 ルイーズはマルチーヌという偽名を使い、エドモンという男性と文通をし、想いを通わせる。ルイーズはエドモンと較べれば兄のロベールは何んてデリカシーというものがないのだろう、と思った。
 しかし、会ってみるとエドモンは兄のロベールだった。二人の兄弟関係は血が繋がっておらず、結婚もできたが、そうせずに、今まで通り二人仲良く暮らした。ただ、ロベールが人を遠ざけようとしたとき、彼女は『エドモン!』と呼びかけ、瞼をぱちぱちさせるのだった。


 あー、これはつまらない。最初にネタが解ってしまう。もちろん“解ってもいいように”書かれてはいるのだが、最後には『だから何んだ』という気分になる。

「ペルーの島」 ロマン・ギャリー
 レニエが経営するキャフェの前にある浜は、鳥糞(グアノ)の島から鳥たちが真夜中のうちに飛んできて、そこで一生を終えるため、大量の鳥の死体が転がっている。
 ある朝レニエが浜を眺めると、カーニヴァル姿の若者達が三人いる。他へ眼を移すと、女が一人海の方へ向かって自殺しようとしている。レニエはその女を助け、キャフェの中に匿う。彼女は高価な宝石類を大量に付けているが、イブニング・ドレスの下は素っ裸である。彼女に問うと、さきほどのカーニヴァルの若者達からレイプされたのだという。
 女にシャワーを浴びさせ、ベッドへ寝かせると、彼女は忘れるために抱いて欲しい、と訴える。

【ここから、伏せてあります】
  そのとき、キャフェへ訪問者が現れる。カーニヴァルの若者達だったら拳銃で撃ち殺そうと思っていたレニエだが、タキシード姿の五十がらみのイギリス男である。もう一人、闘牛士スタイルの若いハンサムなイタリア男と、タクシー運転手がいた。
 イギリス男とイタリア男の話から、女が淫乱であることが解る。彼等は女をモンテビデオで、治療のために連れて去っていく。


 これは舞台設定が面白い。もっと面白い、大作が書けそうな世界観なのだが……。


「ジャスミンの香り」 ミッシェル・デオン
 イタリアの避暑地で仕事をする作家ジョンが主人公で、彼はアレクサンドラという十歳の女の子からなつかれて、色々オーバーな話を聞かされる。
 アレクサンドラの言うことはどれもあり得ないことであるが、みな“本当のこと”である。ただ、少し物事を誇張だけで、空想力というものがない。
 ジョンはアレクサンドラの母であるラウラに想いを寄せ、アレクサンドラにそのことを漏らす。しかしなかなかラウラと親しくなることのできないジョンは、ついにそこから離れることを決意する。

【ここから、伏せてあります】
  最後の日、ラウラと話したジョンは、アレクサンドラが彼の想いを母親に話してしまったことを知った。別れ際、石段の途中でジャスミンの花をふたつ摘み取り、てのひらで揉んで香りを嗅いだ。ジョンはそれを「いつまでも思い出すでしょう」と言った。
 ジョンはナポリへやってきたが、そこでアレクシーナそっくりの女の子を見つける。見間違いだろう、と思うとラウラまでいた。二人は、彼を追ってやってきたのである。


 この本の中で、唯一の心温まる話。救いようのない話が並ぶ中で清涼剤の役割を果たしている。

『さまざまな生業』(抄) トニー・デュヴェール
「洟浚え」
 洟浚えは昔、い草の管を使って、口で洟を吸っていた。鼻の穴を底まで浚えるのが絶妙に巧かったため、その掃除の快感をたくさん味わえるように、悪童どもは洟の棒を一本でなく日本にしていた。
 しかし現在ではポンプを用い、興ざめである。そのためにクラスの中には洟浚えの存在さえ知らぬ者が出てきて、彼等は手洟をかみ、歩道や学校用の上っ張りを汚した。

 他に、尻を拭き、糞尿を回収する「尻拭い」、匿名の手紙を書いて送りつける「もの書き」、先払いで牢獄に入って、犯罪を選ばせる「裁き屋」、削除した文章を売る「検閲屋」、願望の姿を描く「夢の肖像画家」、演奏のふりだけをする「楽士」が収録されている。


 えげつなさの程度や、発想が夢野久作のようである。


「フラゴナールの婚約者」 ロジェ・グルニエ
 かつて夫から銃で撃たれ、言語中枢を壊されて口を利けない女ヴィヴィアーヌと、史蹟巡りをする主人公フィリップ・ゲラン。彼はヴィヴィアーヌの子供の頃を知っているが、かつての可愛いらしいばら色の膚は失われ、マラリア患者のようにどす黒く、痩せて、黒くて大きな眼は病的な輝きを見せている。彼は、そんなヴィヴィアーヌへ淡い恋心を寄せる。
【ここから、伏せてあります】
  フィリップは老いのために徐々に弱っていく。しかし、彼女との史蹟巡りは欠かさない。そのうちにヴィヴィアーヌが言葉を話せるようになるが、くぐもった、かすれた声で、子供の頃とは全く異なる、聞き覚えない声だった。
 フィリップは彼女に『皮を剥がれた馬上の女』を見せる。それは『フラゴナールの婚約者』とも呼ばれ、一説によると、『彼女は解剖学者に愛されたが親から結婚に反対され、悲しみのあまり死んだ。オノレ・フラゴナールは恋人の死体を掘り出し、彼女を不滅のものたらしめる方法として、その死体でもってこの黙示録の騎馬の女をこしらえた。
 また、こうも書かれてあった。すなわち、それはみな俗説にすぎず、ちょっと背のびをしてよく見れば、若い女というのはじつは男性であることが解るだろう』
 彼女と別れたあと、フィリップは自分に問う。ヴィヴィアーヌが『フラゴナールの婚約者』と似ていると思っていたのではないか、と。どこが似ているのか、その答えがもう少しで見つかりそうになったとき、彼はベンチから滑り落ちるような感覚に襲われ、騎馬の女が彼の頭上を駆け抜けていく。フィリップには「行かないでくれ!」と叫ぶ勇気がなかった。
 フィリップは待合室で死んでいた。


 この本の中で、最も日本の純文学の技法と近いだろうか。少し難解なところがあるし。(笑)

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総評:
 コント=ショート・ショートが中心のせいか、トリッキーさが鼻にかかってしょうがない。そして何より、えげつない。日本のショート・ショートでは到底真似のできないようなえげつなさである。登場人物は、全員狂人とも言える。
 そういえば、アンドレ・ジードの作品も“作者の狙い”が出過ぎていて、気になった。登場人物が、作者の都合に振り回されっぱなしなのである。どうやらフランス文学は思想が前面に出るのが特徴らしい。サルトルの小説は思想ありきで、思想の方は面白かったが、小説はつまらなかった。ロブ=グリエをはじめ各種アンチロマン作品も『気持ちはわからないでもないけど、だからどうなの?』という程度のものに過ぎない。

 小説にも、思想は別にあっても構わないし、ある程度ならあった方がいい。しかし、それが登場人物を殺してしまったりしてはつまらない。小説にする上ではそれを作品にまで昇華する力量が必要である。そういう意味で、スタンダールの「赤と黒」は無理なく思想を出している。登場人物が作者の思想によって不自然な行動を執るか、登場人物そのものの思想として自然な行動を執るか、それは作者が持って生まれたセンス次第である。
 今まで私が読んだフランス文学の中ではアルベルト・カミュが最も偉大だと思うし、フランス作家陣の中では異質だと思う(ただし、文学全体で言えば、カミュは大して好きではないが(笑))。カミュの作品には感情描写が書かれておらず、行動で示されている。そのためにわざとらしく映らなかったのかもしれない。カミュはサルトルとの論争においてコテンパンにされた感があるが、少なくとも小説においては優っていた。

 ところで話しは少し逸れるが、本来アートとは“わざとらしいもの”である。つまり究極の人工物であるわけだが、その中で達人による至高の作品とされるのは“わざとらしさの全く見られないもの”に限定されると言って過言でないと思う。それは水墨画のような東洋の絵画において顕著である。しかし、その価値観は決して特殊なものでなく、普遍的なものではないか。
 最近はヴェネツィア派画家について調べていたのだが、ティツィアーノとその弟子ティントレットを比較して、こんな文言を見つけた――

『私はずっと、ティントレットの方がティツィアーノよりも才能で優っていると思っていた。しかし、今になってようやく気づいた。ティツィアーノに較べてティントレットはなんて“わざとらしい”んだろう。ティントレットは全く“本質”というものを理解していない』

 実際、ティントレット批判のほとんどは“わざとらしい”ということに集約されているらしい。わざとらしさは、アートにおいては命取りともなりかねない。わざとらしくない作品を生み出すには、どれだけ技術だけを磨いても無駄である。何しろ、作者の精神の問題なのだから。しかし、だからこそアートと呼ぶことができるのだと思う。

Posted at 2006/07/13(Thd) 20:57:13

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