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E・M・フォースター風小説理論 第2回「物語/ストーリー」


 『小説とは何よりもまずお話である。物語である。原始人も耳を傾け幼児も耳を傾ける面白い物語である。小説の最も基本的な要素は物語(ストーリー)であり、物語とは時間の進行に従って事件を語ったものである』と、フォースターは述べている。同感。私自身も全く同じ考え方である。これは当たり前のように見えても、こと日本では阻害されている。物語性に乏しい、心象風景ばかりを描いた陰気な私小説という純文学が権威という服をまとってハバを利かせ、そういうものを至高のものとする人々が物語性の高い作品を前にすると『この小説は面白すぎる』などというどうしようもない批評を今もなお生み続けている。面白いことの一体何が悪いというのか、私には全く理解できない。
 例えば中島敦の小説が生前権威的な人々からあまり歓迎されなかったのは、そうした価値観が原因である。現在では誰も中島敦の作品を『「小説」ではない』なぞと言う人はいないだろうが、当時はそう酷評されたのである。権威や大家と呼ばれる人々は、もっと陰気で独白に満ちていないと小説として扱いたくない、と言いたいのである。そして、面白い作品を前にすると冗漫だ、下手だと言うのである。『明らかに』などという言葉を使う批評には大いに警戒すべきである。それは単に躍起になっているだけのことだから。
 少し愚痴が多くなった。この“面白さの要素”とも言えるストーリーであるが、フォースター曰く、一方で最も下等な要素である、と。ストーリーは「それからどうなる、それからどうなる」という好奇心をかきたてるだけだから、という。なるほど、正常な人で好奇心のない者はいない。千一夜物語がそうであるように、愚劣な王であっても、好奇心は満々としてある。また現代では例えばこれは漫画の世界である。荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは荒唐無稽とも思える筋書きだが、次々と起こる困難な出来事をトリッキーに解決していく主人公達は読者の好奇心を刺激するために「それからどうなる」という好奇心を切らせることがない(DBやワンピと呼ばれる漫画の場合は次にどうなるかはもう分かり切っているので、もはや読者の好奇心をつなぎ止めるのに苦労しているけれども(笑))
 さて、フォースターは人の生活を二つに分類する。それは「時間に支配された生活」と「価値による生活」とである。そして後者の方がより高次元にあるという。しかし物語はこのうち「時間に支配された生活」しか描くことが出来ない。「価値による生活」は物語とは違う方法でしか描くことが出来ないのである。と、同時に「価値による生活」のみを読まされることほど、多くの人にとって退屈なことはない。好奇心とは無縁な、全く面白味のない作品となるのである。それは既に幾人もの作家による実験的創作によって逆説的に明らかにされたように思う。一時の物語の排斥により文学は世界的な不人気となり、ある新人賞の募集要項にはわざわざ『ストーリー性の高い作品を……』とまで書かれたほどである。現在は『物語の復権』が求められ、そしてじわじわと進んでいるが、村上春樹のヒットを見ても、単に村上春樹の文章をモノマネしただけの春樹クローン作品の物語性の乏しさと失敗とを見ても、物語こそが小説の核心にあるということを、私は信じてやまない。

ことば
物語【ストーリー】
 時間の進行に従って事件を語るもの

Posted at 2006/01/10(Tue) 07:59:42

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