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文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

ゴッホの手紙

 画家フィンセント・ファン・ゴッホほど日本で人気・知名度共に高い画家はいない。誰でも『ゴッホのひまわり』といえば頭に黄色い絵を思い浮かべることができるだろう。生まれ故郷のオランダでも、主な活動の舞台となったフランスでも、日本ほどの人気はあるまい。極めつけは『日本人はゴッホ好き』という言葉はもはや慣用句と化している。最初に言いだしたのは恐らく小林秀雄だろうと思うが、それが何も知らない若者でも何気なく使うのだから、凄いことである。
 弟テオドール(テオ)との手紙のやりとりは『魂の交信』と言われ、現存するだけでも700通以上。現代ならメールで簡単にやりとりができるが、それでもよっぽどの仲でない限り700件ものメールをやりとりすることはない。それほどまでに繋がりあった二人だから、ゴッホの自殺から僅か半年後、テオは精神を病み、死んでしまう。

BBC;Museum buys 55 Van Gogh letters

 オランダのアムステルダム美術館はゴッホの手紙55通をニューヨークサザビーズコレクションで匿名の個人コレクターから購入した。美術館はそれらの手紙を『芸術家同士の本物の書簡』として、その価値を強調している。
 年譜を見ると1880年11月に同郷の画家アントン・ファン・ラッパルトと出会ったとあるが、今回の手紙はその1881年〜1885年までの間にやりとりされたものだそうである。弟テオによって引き合わされから4年間の交際の間、画家として共感を交換しあったが、ゴッホの『馬鈴薯を食べる人々』に対するラッパルトの批評が二人の友情を気まずいものとし、手紙のやりとりもすぐに終わってしまったのだという。
 ゴッホの喧嘩別れは有名で、その後南仏の地で(このサイトでしばしば話題に挙げる)ゴーギャンと共同生活をしていたが、やはりすぐに喧嘩別れをしてしまった。元々あった癲癇性の熱心すぎる気質に加え、画家としての強い意志が彼を怒りっぽく、孤独にさせていたのだろう。もちろん、ゴーギャンの性格も強烈であった。頑固さというのは、芸術家にとってある意味宝である。もしもゴッホが世渡り上手だったら、これほど彼の絵が愛されることは無かっただろう。

参考:
日本通運 輸送・設置をお手伝いした美術展等のご紹介;
フィンセント・ファン・ゴッホの生涯/年譜

本:
ゴッホの手紙 上 ベルナール宛 改版 (1) 岩波文庫 青 553-1
ゴッホの手紙 中 テオドル宛 (2) 岩波文庫 青 553-2
ゴッホの手紙 下 テオドル宛  岩波文庫 青 553-3

小林秀雄「ゴッホの手紙」(「ゴッホの手紙」を作者が読んでのエッセイ)

Posted at 2006/06/28(Wed) 12:42:31

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