I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

第二次世界大戦はまだ終わっていなかった

 ディープ・ステートの歴史の話となります。
 ここでは可能な限り都市伝説などは交えずに、真面目な歴史でお送りします。

 アメリカ不正選挙において、トランプ大統領は会見で『ディープ・ステートは60年以上アメリカを裏で支配してきた』と述べました。60年間というのは長いのですが、歴史を調べてみるとどうやら60年どころではなく、第二次大戦時には既に原型となるものが存在していたようです。

 日本の占領政策を行った、GHQのマッカーサー元帥は次のような言葉を遺しています。
「アメリカは戦う敵を間違えた」
「日本は自衛のための戦争だった」

 アメリカの本当の敵は、ソビエト連邦、中国などの共産主義国であったということです。こうした態度だったため、元帥はトルーマンによって解任されてしまいますが、なぜ日本が朝鮮半島や満州に手をつけていたのか、ということを肌で理解した様子でした。

 資本主義・自由主義のアメリカにとって本当の敵は共産主義だったのに、なぜか共産主義国家を助けることで戦争が終結してしまったのです。
 敗戦国は都合のいいスケープ・ゴートなります。大日本帝国は悪の象徴とされ、ナチスについてはどこまでが実際にあった悪行で、どこからが現場が暴走した結果だったのか、果たして欧州の罪をなすりつけたものなのか、研究さえ禁じられています。そのため、ヒゲの総統が一体なぜユダヤ人を迫害したのか、何を目的としていたのか、何と戦おうとしていたのか学術的には不明なままです。

 第二次世界大戦ですが、アメリカがソビエト連邦を助け、ナチス・ドイツと大日本帝国を倒しました。はて、イタリアはいつ敗けたんだったか……まあイタリアなので(1943年9月8日、いち早く降伏しました)。
 その戦時に、同胞のユダヤ人達をナチスに売り飛ばして大金持ちとなったのが、あの悪名高いジョージ・ソロスです。そんな人物は、もはやユダヤ人とは言えないでしょう。イスラエルのユダヤ人にとっても敵でしかありません。
 よく『真ユダヤ』という言葉も使われますが、陰謀論やオカルトとレッテルを貼られがちです。ユダヤ教徒には誰でもなれますが、元々ユダヤ教とは選民宗教なのですから、元のユダヤ民族を指して『真ユダヤ』と区別することをオカルトいというのは奇妙ではあります。単純に伝統的なユダヤ人として建国に成功したイスラエル人と、他国に潜り込んで経済支配している金貸しユダヤとを同一に考えるのは難しいものがあります。既にユダヤ人の中でも分断がはじまっているのです。

 では、今回の本題となる、大日本帝国下でのディープ・ステートがどのように認識されていたのかを見てみましょう。
神戸大学経済経営研究所;新聞記事文庫 人種問題(3-046) 報知新聞 1941.6.23-1941.6.29 (昭和16)

与論が白聖館を支配し、与論が政治的権機力に先駆するとまでいわれた与論の国アメリカ—その民主主義の牙城アメリカが今や一億三千万国民の与論を、"頬かぶり"して参戦の無限軌道を猪突驀進しようとしている、国民がストップと手を挙げているのに運転手ルーズヴェルトは赤信号を無視して遮二無二参戦の交叉点を渡ろうとしているのだ、冷静な与論を踏みにじってまでアメリカは何故"参戦"の危い橋を渡ろうとするのか、アメリカの実思を歪め、アメリカの与論を去勢するものは誰か?この疑問符をあぶり出しにかけると『参戦を煽るものユダヤ地底政府』という文字が大きく浮び上って来る、ニューヨークがジューヨークと呼ばれ、ニューディールがジューディールと皮肉られ、ニュースペーパーがジュースペーパーといわれるくらいジュー即ちユダヤ勢力が浸潤し、ユダヤの資金力によって金しばりにされているアメリカである、米の参戦近しが喧伝される今、ここにアメリカの参戦をあおる"ユダヤ地底政府"を白日下に暴き、参戦の鐘は論がために鳴るかを解剖して見よう
【神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 人種問題(3-046)】よりガイドライン通りに引用

 ユダヤは「Judea」とか「Jewish people」などと記載されることから、地名を「ジュ」ともじっています。
 このように、大日本帝国ではディープ・ステートのことを『ユダヤ地底政府』『ユダヤ地下政府』『影の政府』などと呼んで、確かに認識されていました。このユダヤとはもちろん、金融ユダヤのことです。これらはアメリカだけに留まりません。

judea.jpg


 大日本帝国は中国共産党のバックにも『地底政府』の存在を察知していました。それで特別高等警察(特高)と呼ばれる人達が『アカ狩り』をしていたのです。
 そう考えてみると、ドラマや映画などで刷り込まれた特高のイメージとは随分異なると思います。フィクションは意図的に誰かにとって都合のいいイメージを植え付ける装置です。作家は共産主義にかぶれることが多いものですから、さもありなんというところです。

 このことから、どうしてアメリカ不正選挙において、ディープ・ステートと呼ばれる勢力と、中国共産党とが手を組んでいるのかは想像がつくことと思います。事実上、中国共産党はディープ・ステートが作ったとも言えるのです。

 ユダヤと一言で言っても、ディープ・ステートに関わっているのは正確にはユダヤ人ではなく、『金融ユダヤ』とか『偽ユダヤ』とか言われる人達です。ユダヤ人にはユダヤ教を信じていれば誰でもなれますが、彼らは世界中に散らばって根無し草となっており、イスラエルへは帰化できない人々です。
 ここで勘違いしてはならないのは、ディープ・ステートはあくまで金権の力で政府を裏から支配する存在であり、必ずしも都市伝説で言われているような悪の組織ではないということです

 『ディープ・ステート≠悪の組織』
 『ディープ・ステート=金融支配組織』

deep_state.jpg


 あくまで金の力と選民思想に溺れて暴走してしまった結果です。悪事を行っているからといって、単純に悪の組織として捉えてしまうと読み違いをしてしまいます。どちらかといえば、悪事を行ってももみ消せる立場なのでそういう風に見えるというだけです。
 以前はアメリカのディープ・ステートもきちんと(自分たちの利益の次くらいには)国益を考えていましたし、それ前提での暗躍でした。アメリカが潰れたら、自分たちも共倒れしてしまいますからね。
 しかし、ジョージ・ソロスにそんな論理は通じません。彼はアメリカを破壊してめちゃくちゃにしたいのです。

g_soros.jpg

 一方で黒幕とされがちなロックフェラー家ですが、その資産はアメリカと一体となっています。偉大なアメリカでこそ、ロックフェラーは君臨し続けられるのです。石油利権と過剰なエコ活動とも食い合わせが悪いですからね。
 ディープ・ステートの象徴とも言えるビルダーバーグ会議という世界の大富豪が集まる会議があるのですが、その面々の顔にアドレノクロム使用の痕跡は少なくとも見られません。
 このことから、悪魔教のイニシエーション、グレート・リセットなどは、ジョージ・ソロスやクリントン財団をはじめとした、ディープ・ステートの極一部でのみ行われていると推測されます。また、ロックフェラー家はトランプ支持へ回ったとの情報もあります。クリスマスの巨大ツリーから出てきた小さなフクロウがロックフェラーと名付けられた出来事もありました

rockefeller.jpg


 つまり、トランプ大統領の2016年の当選や、奇跡的にも見える動きには、ディープ・ステート内のパワー・ゲームもあったものと思います。
 ディープ・ステート内の分断は、中国の大躍進がはじまった頃から、少しずつはじまったものと思えます。中国共産党を利用する立場だったはずが、もの見事に利用される側になってしまいました。中国に入れ込みすぎた結果、中国経済は泡のように膨れあがり、現在破裂寸前です。それが噴出する形となったのが、現在世間を騒がせている2020不正選挙問題でしょう。
 この選挙でトランプ大統領が勝利し、ディープ・ステートが敗北してはじめて、本当の戦後が訪れるのです。

 話を第二次世界大戦に戻しまして、ABCD包囲網や、日本が対米開戦せざる得ない状況に追い込んだのは、まさに当時のアメリカのディープ・ステートであると言われています。日本のような弱小国をヒネリ潰すのは簡単だと踏んでいたのです。……ですが、想像以上に旧日本兵の練度が高かったため、4年も掛かりました。

brzezinski.jpg


 しかも潰すつもりで送り込んだGHQは日本を理解し、戦後処理も予想に反して繁栄の道を歩んだのです。

ghq.jpg

Posted at 2021/01/06(Wed) 03:17:50

文学・歴史・民俗学 | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

劇場版『きみの鳥はうたえる』

ubcsing1.jpg


 佐藤泰志原作の『きみの鳥はうたえる』の映画化作品です。タイトルの元ネタはビートルズの"And Your Bird Can Sing"。時代を彷彿とさせますね。
 以前の『海炭市叙景』に続いて佐藤泰志作品が映画化なんて、梅田昌志郎先生に話してもびっくりしていましたが、何にせよ2018年に公開。私はDVDにて購入。

ubcsing1.jpg


 演技は役者らしい演技ではなく、小津映画のような人物は棒立ちで抑揚無台詞を読み上げる、いわゆる狙った棒演技。BGMはほとんどなくだいたい環境音のみ。無音のシーンが多く、爽快感があるわけでもなく、終始蔭鬱とした空気が漂ってきます。映画としてはそれなりに気合いを入れて覚悟を決めないと視聴が大変かと想います。
 登場人物は言うなれば社会の底辺で蠢いているダメ人間です。男も女も上司も全員ダメです。若さだけが取り柄の青春。ここまでダメ人間を描かれると清々しささえ感じますが、上澄みの綺麗な部分だけを描いた作品には、今日日やる意味もあまりありませんからね。

 執筆当時は70年代の末から80年代初頭かと思いますが、舞台は80年代ではなくスマホも存在する現代日本にアレンジされています。あまり違和感はないですが、原作より暗い雰囲気さえあります。小説ではあっさり流れている部分が、映像だと重く感じます。同じ貧乏でも深刻さが違うように感じますが、当時と現代の社会的な面の違いかもしれません。

 ネタばらしになるので書きませんが、原作での静雄が母親の見舞いへ行った後のオチはバッサリとカットされて、ただよくある青春の一コマとしての映画としてまとめられてます。映画としては正解でしょうね。


----
 去年には書いておきたかったのですが、なかなか視聴する時間がとれませんでした。
 いつも思うのですが、兼業専業問わずに超人気作家がtwitter上でリアルタイムで頻繁にツイートしまくっているのが、一体どこから時間作ってるのか不思議でなりません。

Posted at 2020/01/20(Mon) 15:34:04

文学・歴史・民俗学 | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

映画『海炭市叙景』

海炭市叙景


 私には劇場で見る機会がなかったのですが、報酬が入ってすぐDVD-BOXで購入(BDは手軽に見られなくて好きじゃないのです)。しかし観賞したあともなかなかテキストに起こすことができずに、こんな時期になってしまいました。
 この作品が映画になるだけでも一読者としては、御・御・御の字です。製作委員会の皆様・監督・スタッフ・出演者・出資者の皆様に感謝。めでたく文庫も出ましたし、ぜひ再評価の流れを! バブル時代には理解されなくても、今だったら理解されるかもしれません。
 こういう映画が出来るということも拝金主義の蔓延する現在においては珍しいですね。草の根的ではありますが、胸を張ることのできるしっかりした作品に仕上がっています。

 さて、原作者である佐藤泰志という作家の名前は、かなりの本読みでもなかなか知らないと思います。事実某芥川賞作家の先生などは名前すら聞いたことがないという状態でして……(少々とはいえ話題になった今なら掌を返すかもしれませんが)
 一時期“芥川賞を獲れなかった”作家に興味があって、調べていたことが佐藤泰志作品との出会いです。特に興味が出たのは梅田昌志郎の繋がり(佐藤泰志デビューの選者が梅田昌志郎で、後に佐藤泰志が国分寺の辺りに住まうのもまた梅田昌志郎の影響です)なのですが、先生とは今でも手紙のやり取りくらいはしています。先生曰く佐藤泰志を評して『ごまかしばかり』とのことでしたがはてさて……。
 純文学というのは現在では芥川賞を未獲得の新人が単行本を出したところで、商業など名ばかり、アマチュア漫画家の方が発行・売上部数も利益率も上なんてことはザラです(というよりも村上春樹のような存在が特例中の特例)
 当時の佐藤泰志作品の発行部数はわかりませんが、恐らく収入は相当乏しかったのではないかと思います。――尤も奥さんの方は真っ当に稼いでいましたけれど(それはそれでプライドが傷つくでしょう)

 では映画について。
 端的に言うと、いわゆる函館のご当地映画となっています。
 やるせなく、鬱屈した話ばかりで、劇中でずっと地面を覆っている薄汚い残雪は象徴的です。
 佐藤泰志は元々映像的な書き方をしていますが、群像劇として巧く整理・脚本・昇華されており、なかなかの佳作に仕上がっているのではないかと思います。
 さて、今はもう2010年代です。この時代でありながら1980年代当時の世界を表現しようというのです。この間、いかに我々の生活が変貌したか。その隙間を埋めるのは大変なことだったと思います。そして過去を表現する以上は、作品がただのノスタルジックに収まってしまう可能性もあります。
 全体的に漂う昭和の映像にはセット臭さも違和感もなく、なかなかよく作ってあるなと思います。走っている車は現行車でアンマッチしている部分は仕方ないですが……。1980年代のカクっとしたデザインは現行車にはありませんね。
 演技については、竹原ピストルさんの演技というか持っている物がいいですね。誤魔化しではなくご本人の素でぶつかってきている感じが良かったです。
 最も印象に残ったシーンですが、足指を潰すシーンが小説でも映画でも共に記憶に残っています。そこでチンピラから施して貰う傷テープがサビオなんですよね。

 ついでに社会的なことを書くのであれば、行き詰まった地方の人々の姿がありありと描かれており、80年代でありながら、まさに2014年の姿を象徴しているとも言えるでしょう。他人事ではありません。
 現在の経団連や政府の目指す理想像は『1%の富裕層のために99%の奴隷が犠牲となる社会』で、民衆も相互扶助よりもどうにかして自分だけは勝ち組に入ろうという発想になっていますから、ある意味で当時よりももっと酷いかもしれません。
 海外では民衆は自分たちを貧民の側だと思って行動し、裁判でも企業vs民衆という構図がたびたび生まれます。しかし、なぜか日本の民衆は、自分が貧者の側にあるにも拘わらず、自分が企業側や資本家側の立場にあると勘違いし、周囲を見下そうとする方向に走りがちです。
 労働者がストライキを決行したところ、民衆側が労働者側を責めるというとんでもない事態まで発生しました。春闘でごたつく場合、民衆の敵は必ず企業であるという根本的な原則を忘れてはいけません。80年代は懐柔されることはあっても、まだギリギリでそれができていた。今や自分の都合だけで行動する人々が増え、団結するということがなくなったのですね。
 そういったことを踏まえて観ると、底辺を描く映画というものはサクセスストーリーよりもずっと大事なものと思えます。

Posted at 2014/11/22(Sat) 17:39:05

文学・歴史・民俗学 | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

佐藤泰志作品が続々と文庫化へ

 何やら目を離している隙に佐藤泰志作品が続々と文庫化されていました。

amazon.co.jp;佐藤泰志一覧

amazon.co.jp;『きみの鳥はうたえる』(予約受付中)

 喜ばしいことですけれども、このラノベ全盛期に一体何事でしょうか……。辻仁成辺りが暗躍でもしたのか……。

 佐藤泰志の作品は純文学としては、正直に言うとイマドキの芥川賞小説をはじめとした新人賞小説(無名・既刊新人賞含む)よりはよっぽど読み応えがあります。
 近年の純文学のモチーフといえば、登場人物が作家と編集しか出てこないなど、職業を持っていてもせいぜいバイトか自由業止まり。
 プロットの時点で商業作品として失格のものがなぜか上まで行ってしまっている状況。漫画の楽屋裏ページじゃあるまいし、一体誰が作家と編集の馴れ合いなんて読みたがるのか……。読者の目線の作品を書く能力がなければ商業作家としてはやっていけないのは、純文学でも一般文芸でもラノベでも漫画でも映画でも全て同じです。その辺は兼業が当たり前の小説家よりも、漫画家の方が編集から厳しくせっつかれますね。
 小説家が作家や自由業者の物語しか書けないのは、現実社会での経験不足という何よりの証拠。そしてひたすら形而上学的愚痴と毒を、秀逸な文章で書き殴れば純文学小説のできあがり。これじゃあねぇ……。

 佐藤泰志の小説は、そういうよくあるスッカスカな小説ではないので、読んでいる間とても重たい気分となります。しっかりと読者の心を揺り動かしてきます。
 しかし、こういう風に心を揺り動かす作品というのは90年代くらいから市場で避けられてきました。読者は重たい作品よりも、より軽妙で軽い読み物を欲していたのです。

 冒頭でラノベ全盛期と書きましたけれども、じゃあラノベが軽い読み物かというとちょっと違います。ラノベ作家の描写というのは下手をすると純文学小説よりも濃厚になりがちです。なぜかというと、書いている作家が重度のオタクやマニアですから。
 彼らは一般社会において普通の人=善良な一般市民とは見なされません。オタクとして、社会からつまはじきにされ続けます。もし一般市民の気でいるラノベ作家がいたら鏡を見せてやるべきです。この化け物のどこが一般市民だ? と。彼らが生み出す作品が濃厚になってしまうのは、作家の資質ですね。
 一方で現在純文学を書く人というのは、濃厚な世界というのはサブカルもどき(せいぜいエヴァ止まり)にしか手を出さないごく普通の人です。テレビを見ては野球や政治をテレビの言う通りに批判する、善良な一般市民です。濃厚なものを書く素地がないんです。だから軽妙なものしか書けない。
 もしも濃厚なものを書けば普通の人の枠から外れ、人格さえ否定されるでしょう。もしかすると、自分の社会的地位を高めるために、あるいは見栄のために小説を書いている人もいるかもいれません。純文学小説家の看板は今でも後光を放っていますから。

 さて、話を戻します。佐藤泰志は善良な一般市民でしょうか? 答えはNOです。
 自殺したこともそうですけれども、他人との距離感のつかめなさや、自分を評価してくれた人への依存の仕方、精神の弱いところなど諸々を含めて、現在のオタクの精神性そのものでしょう。
 このように列挙してみると、太宰治の精神性に近いですかね。太宰治ももちろん現代ならオタクです。太宰に匿名掲示板でも与えたら、きっと自演しながら日がな1日クリックし続けるでしょう。石川啄木だって給金は良かったけれども、現代で言うなら究極のだめんずですね。
 現代でこそオタクはアニメ的な世界へ逃避していますけれど、そういったもののない過去であれば女や風俗、映画や演劇といった分野へ逃避していたわけです。形が変わっただけで、精神性は何ら変わりません。むしろより創造的・生産的になったかもしれません。

 そういった精神性を持った人達が書いたものは、好き嫌いこそ分かれますけれど、面白い。文章がねちっこいと感じることもありますし、内容は誤魔化しだらけなこともありますけれど、読者の心を搏つ可能性を秘めています。社会的にダメな人ほど心の奥底は純粋ですので、透明感のある美しいテーマも見え隠れしてくるでしょう。
 ただし、尊敬される機会は少ないでしょうね。ぶっちゃければ変態ですから。何よりも生きているうちには報われないと思います。

 健康的でノーマルで善良な一般市民で、偉大な小説家までのし上がったのは、ヘミングウェイと村上春樹くらいですかね。でも、ヘミングウェイも幼少時代の経験からちょっと性癖が歪んでますからね……。

 今の時代だからこそ、佐藤泰志の小説というものは重要だと思います。ちょっと時代が古いなと感じる描写ありますけれども、物語の奥底にあるものをすくい取って読むことで、何か違ったものが見えてくるかもしれません。

Posted at 2011/05/02(Mon) 14:04:37

文学・歴史・民俗学 | コメント(2) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

他人に迷惑かける小説はダメだと思う

 どれだけ前衛的でも、挑戦であっても、どれだけ技術が優れ、文章が美しかろうと――
 他人を貶めたり、傷つけることで芸術にしてやろうって魂胆は、やっぱりダメなんだと思います。
 どの作品とは言いませんけれど。

 やっぱり小説や物語っていうのは究極的には癒しの行為でなくてはならないんだと思います。
 もちろん、行きすぎると卑しくなってしまうし、生ぬるい作品ばっかりになってしまいますけれど、作品の底を構成するものというのはそうであるべきなのね。

 ところが純文学を中心にして一般小説はそれがなかなかできない。だから純文学はラノベに敗けるんですよ。ラノベは文章がへったくそでもまだ救いがありますから。

Posted at 2010/09/24(Fri) 17:58:25

文学・歴史・民俗学 | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

『芥川賞作家』という呼称なんて恥じるべき

j-cast;芥川賞作家がサッカー批判? ファン刺激、ネットで熱い論戦

サッカーを「乱暴で無精なスポーツ」などと芥川賞作家が新聞コラムで書いたことが、波紋を呼んでいる。野球を持ち上げるため、半ば冗談で書いたようだ。しかし、サッカーファンらを刺激し、ネット上で熱い論戦が繰り返されている。

 辻原登はアンチネットの典型的な人ですので、ネットで幾ら叩かれようが毛ほども痛くないでしょう。これからもガンガン鋭い表現をして戴きたいもんです。シャレのわからん人達はそれで大騒ぎしては、恥を晒すだけですから……。
 辻原登はスタルヒンの記録を元に枯葉の中の青い炎という短篇を書いたくらいの野球好きですから、野球びいきになるのも仕方ありませんね(どんなに冗談でも、サッカーびいきならああいう表現はしないですから)

 まあ、そんなことは実はどうでも良くて、私が気に掛かったのは、この表題。芥川賞なんて下らないものを受賞したために、辻原登は一生「芥川賞作家」としか書かれないんです。
 芥川賞は所詮は新人賞。他の賞の方がずっと価値があるにも拘わらず、です。
 知名度の低い作家はこうなる傾向が強いです。村上龍や池澤夏樹レベルでも、名前の前に『芥川賞作家』と付いてしまいますね。
 こっ恥ずかしいのは元より、作家はそのことをもっと恥じるべきだと思う。これでは、しょせん芥川賞のための駒みたいにしか見えません……。
「ボクは芥川賞作家であること以外に何も価値はありませんよ」
 と自己紹介しているようなもんです。もちろん本当はそうじゃない。
 今や芥川賞なんて形骸化しているし、芥川賞を受賞しなかったからこそ成功している作家は大勢います(もし村上春樹が芥川賞作家だったら、その呼称によってイメージを縛られて、今のようには書けないでしょう。村上春樹はあくまで村上春樹であって、○○賞作家だなんてバカな表現はされません)
 重要なのは作家個人なのに、日本では賞の名前が先に来てしまう。これは本当に良くない傾向だと思います。

Posted at 2010/04/15(Thd) 20:06:16

文学・歴史・民俗学 | コメント(3) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ

車に乗る村上春樹と乗らない村上春樹

 車の免許を取得する以前の村上春樹と、免許を取得し、世界中を車で旅するようになった村上春樹とでは、文章がまるで違うと思う。
 特にエッセイ方面で顕著な影響が出ていますけれど、車に乗るようになってからは、どこかしら自信のようなものがみなぎっている。逆に免許取得前はどこか青臭く、人間的にまだ幼い所が前面に出てきている気がする。
 やはり自動車に乗って行動範囲・方法が増えたことで、世界観が大きく拡がったんだと思います。現実的にもなる。

 ぶっちゃけ、大人になるってそういうことよね。


 ところで1Q84ですが、もし1Q84を映像化・漫画化した場合、観念である少女との性交はやっぱり児童ポルノになるのかしら。あるいは、文章だけでも過激であるとして児童ポルノとされる日はさほど遠くない気もしますけれど。
 もちろんフィクションですから、そこに児童ポルノ被害者なんて存在しないし、さらにフィクションの中でも性行為を持つ少女はあくまで「観念」の存在です。
 あるいはふかえりと主人公の交わりも、法律的に見れば違法でしょう。

 こういう風に現実世界の法律違反を、フィクションの世界にまで持ち込もうとすると、急におかしな話になります。
 表現への規制はどんどん進んでいくでしょうけれども、文学小説で、芸術としてこのような表現は許されて(娯楽小説・官能小説ならば出版社の自粛が入るはず)、漫画・アニメでは絶対に許さないよ、となったなら、やっぱり日本の文化の定義って曖昧なんだな、と思います。

 逆に1Q84がノーカットで漫画・アニメ化されたなら凄いことなんだと思う。

Posted at 2009/09/03(Thd) 10:34:55

文学・歴史・民俗学 | コメント(0) | トラックバック(0) | この記事のURL

この記事のトラックバックURL ->

↑ページの先頭へ