I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

ゴーギャンの「二人の女」

http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20060208025.html

futari1.jpg


 英国サザビーズにてゴーギャンの「二人の女」が25億円で落札とか。
 この絵ははじめて見る。ヌルっとしてて、あんまり気合いが入っているようには見えないが。(笑)
 それにいかにもセザンヌ的な三角構図――人物、物の配置が画面中央で“△”の形で収まっている――で、それほど珍しいものだろうか。

futari2.jpg


「イア・オラナ・マリア(マリア礼賛)」「マナオ・トゥパパウ(死霊は見ている)」「ヴァヒネ・モ・テ・ヴィ(マンゴーを持つ女)」などと較べると見劣りするような気がする(リンク先に商業サイトが多いのは、迷惑にならない上に、サーバー負荷などがほぼ関係ないからです)
 まぁ、“美術史”的に価値はあるだろう。ゴーギャンらしい、変な絵であることは確か。
 一応、ポイントは左端の犬と、寝床(?)の形状、奥にいる女の左手と顎のライン、入り口による空間の分断。
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参考:
日付のある紙片では、ゴーギャンの“女漁り”について書いてあるが、これも一応参考に挙げておく。

Posted at 2006/02/22(Wed) 09:59:39

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フルーティヌードが論争を呼ぶ

[ananova]フルーティヌードが論争を呼ぶ
 宗教団体は、フルーツと野菜に囲まれてポーズをとる裸の女性を写した作品を展示する美術展の禁止を求めている。

クリックすると大きな画像を表示します


 カーラ・ボバディーラの新しい展示が一連の巨大ヌードポスターによって構成されている、とアルゼンチン紙「Las Ultimas Noticias」は報じている。
 チリのアーティストの作品のうちのいくつかは非常に露骨で、即座に宗教団体は展示をやめるよう訴えた。
 ボバディーラ夫人はこう主張する。
「私の目標は外国人が持つチリ――そのフルーツの輸出のための経済的に安定している国――の空想(ヴィジョン)を描くことにあった」
 その展示はサンティアゴのBellas Artes Museumで行われている。

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 フルーツと裸婦というとりあわせは、実にチリらしくて良いと思いますけどね。生の賛歌、と言いますか。ボバディーラ氏のコメントは何んとも要領を得ないですが、掲載されている写真を見る限りは全くいやらしさを感じることは無いです。
 私はミッション・スクールの出身ですが、当時は美術展へ行ってもいわゆる『裸婦像』を見ることは禁止されていました。さらにルソーのような素朴な絵、印象派風の絵、シャガールのような素朴派の作品群を『漫画』と評するような教師で埋め尽くされていたような気がします。まぁ、ミッションなんて保守的なのが売りですから仕方ないのかもしれませんが……。
 人間の裸像というのは美術をやる人間にとって基本中の基本です。それを攻撃するのはアートを理解していない証拠。攻撃するんなら、食人パフォーマンスや、実際の死体を使った美術作品を攻撃してください。(笑)

Posted at 2006/01/27(Fri) 11:36:17

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日本女性の美しさについて

 天皇家について勉強しとこう、と思って毎日新聞のオマケについてた天皇家系譜を見ていたら、地味な天皇家の顔ぶれにあってひときわ異彩を放つファミリーが……。
 そう、秋篠宮家です。紀子様の時に何かと採り上げられたので記憶している人も多いでしょうが……。問題は秋篠宮殿下と紀子様との間の長女である眞子さま。

200612242213291.jpg

 ……一瞬転びそうになりました(註:私は片想いを貫き通して生涯独身の予定なので)。なんといっても眼がいいです。スッと伸びていて、半眼になると能面のようになるのですが、これは日本女性の美しさならではだと思う。“アーモンド・アイ”といって、東洋女性の眼が持つ美しさは欧米人も賞賛するところです。
 まぁ、この位身分が離れていれば転んでも安心ですけどね。失恋が成立するのは『手が届くから』なんです。完全に雲の上の人――ましてやプリンセスならどれだけ転ぼうが全然問題がありませんで。痛みなんて無いし、むしろ安心出来る。女の子から『好みの有名人は?』と尋かれたとき、もたもたすることも無いわけです。
 普通の女性だったら、見ず知らずの野郎から好意めいたものを抱かれるのは迷惑な話ですが、そこはプリンセス。勤王ですよ。(笑) 天皇家への忠義の心、ということで。(笑)

 眞子さまは眼が魅力的だと言いましたが、イマドキは結構多くの女性が、一部アイドルの虚飾のせいで変な整形したりしてますけど、無理矢理ひん剥かれた眼と、毒々しいまつげ・アイラインは見ていて怖いです……。もしかすると私だけなのかもしれませんけどね。ただ、本来綺麗な眼なのに、本人の無知と思い込みで壊してしまうのはもったいないこと。
 ところで近頃のアイドルといえばほとんどが――

1.お莫迦さんで無知
2.言葉が汚い
3.ケバケバしい
4.芸が無い(歌がヤバイ、芸術感覚ゼロ、演技が下手)
  くせに自称、女優
5.まるでAV女優とほとんど変わらない……

 ――で、ジュニアアイドルの頃に正統派でも、年齢を重ねているうちにいつの間にか上記のような邪道に走ってしまうことが多いです。
 もはや日本中の男性諸子は心のよりどころが無いわけで、我らがプリンセス眞子さまには是非ともまっすぐに育って戴きたいものです。

Posted at 2006/01/24(Tue) 23:39:40

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中期までのムンクの作品なら燃やしたい気持ちもわかる

http://www.cnn.co.jp/world/CNN200512200016.html

 CNNjpの翻訳が『ムンク博物館』となっているが、これは“ムンク美術館”の間違い。まぁ、どちらもmuseumなので誤訳するのも仕方がないのかもしれないが……。しかしオスローのムンク美術館はムンクの生涯の資料が豊富にあり、人によっては作品よりもむしろそちらの方が愉しめるかもしれない。
 私はムンクではpuberty(思春期)や、“死と少女”をモチーフとした連作群が特に好きだ。ムンクの暗いイメージは、がっしりした像よりも脆く果敢ない像の方がずっとしっくり来るように思う。残念ながら(?)私は辛気くさい人間なので、どうしても“脆さ”を愛してしまう。
 それでも「叫び」ほどに強烈なものになると、さすがに長時間は見ていられない。シャレで使うのはとても好きなのだが、本物のパワーはちょっと辛いものがある。
 もし狂人がこれらの絵を眼にしたら、悪魔的な魅力さえ持つ「叫び」や「マドンナ」を燃やしたり、ナイフで斬りつけたりしようと決心するかもしれない。そしてそれが何んらかの組織のボスだったりしたら……。
 
 ただ、「叫び」や「マドンナ」という作品は何枚も描かれており、1枚ずつ葬り去っただけでは世の中からは消えないし、むしろ報道で採り上げられることによりデジタル画像が世の中に溢れてしまうので、やはり作品の消失が目的ではなさそうである。

Posted at 2005/12/20(Tue) 21:39:16

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岡本太郎 壁画「明日の神話」

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200512060019.html(リンク切れ)


「明日の神話」修復中


 ゴミ同然に放置されていた岡本太郎の壁画「明日の神話」だが、順調に修復作業が進んでいるらしい。
 この写真で見ると、いかに巨大かが解る。これほど巨大だとは思わなかった。
 さて、巨大な作品というのはそのスケールだけでも、既に見る者に大きな衝撃を与えるものなので、写真で見るとそれほど迫力は伝わってこない。大きさというのは、美術作品にとって最も大切な要素の一つだ。
 なおかつ、大作というものは非常に手間と材料費が掛かるために、あまり数が無いこともあるが、基本的に価値は大きければ大きいほどあがるものである。小さな作品というのは、その分だけ価値もさがる。
 それだけ、大きさというのは見る者にとって大きな問題となる。さて。真の芸術家であるなら、大物よりも小さなサイズの作品にこそ真価があらわれるものだと思う。岡本太郎も大物ばかり評価されがちだが、トランプのデザインなど、細々としたところの方にこそ注目する人々も決して少なくない。

Posted at 2005/12/08(Thd) 15:37:52

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プーシキン美術館展@東京都美術館



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 今日か来週に行かなければ後が辛い、と思ったら今日はよりによって勤労感謝の日。どうりで向かいの小学校がシンとしているわけだ。普段なら休日は外すのだが、yahoo0学占いの結果が良かったので敢えて今日にした。別に占いに頼っているわけではないが、別に右でも左でもいいような、考えてもまず答えが出ない問題の時は占いが一番解りやすく決めてくれるのでありがたい。自由意思なんて幻想に過ぎない。
 さて。記憶に残ったのは、モネの「睡蓮」と、マティスの「金魚」と、ルソーの「セーヴル橋とクラマールの丘、サン=クルーとベルヴュの眺め」。
 モネの「睡蓮」はまだあまり分解されていない睡蓮。睡蓮のバリエーションを全て集めて眺めれば、なかなか凄味があるのだが。
 マティスの「金魚」は可愛らしい色彩とユーモアのある画。しきりに「小学生の絵だ」と言っている客がいたが、これだけの色彩感覚のある小学生はどこか厭なものがある。
 ルソーの画ははじめ見たとき「ルソーみたいな絵だな」と思ってよく見たらルソーだった――という妙な工合だった。何しろ『ピカソとキュービズム』コーナーにあったので心の準備が出来ていなかった。さて、肝腎の画の方は熱帯植物画ではないので迫力は無かったが、気球が画面中央よりやや上方というあまりにわざとらしい配置で、とにかく眼に留まった。実物を近くで見ると、本気でルソーはアカデミックなものを目指していたのだと解る。とにかく“塗り”が印象派画家と較べると遙かに精緻である。
 逆に全く記憶に残らなかったのはセザンヌ。一目でセザンヌだと解るくらいに存在感が無い。正直、学生の絵を見ていた方が遙かに心が沸き立つ。存在感の無さがセザンヌの特徴なのかもしれない。
 他にはピカソ、ルノワールなどの画があった。
 ルノワールも好きなのだが、少し見飽きたような気がする。それでも暗い美術館で、遠くから見て一目でそれと解るくらいに明るい色彩にははっとさせられるものがある。
 今日は充実した時間をゆっくりと過ごすことが出来た。



 館内ではフランス印象派画の展示がやっているのに、館の前ではロシア民芸品売りやテルミン演奏会をやっていた。幾らロシアの至宝とはいえ、フランス人が創ったものを見たあとにロシア文化を見せられても、どうにも違和感がある。
 テルミンは私も所持しているが、座って演奏するのは初めて見た。私はふらつき病を患っているので立って演奏するのが辛いし、クオリティが落ちる。今度から座って演奏するようにするか。

Posted at 2005/11/23(Wed) 18:50:34

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I teie nei e mea rahi no'ano'a



Gauguin.jpg


 このウェブログの名でもある“I teie nei e mea rahi no'ano'a”はタヒチ語で、“今はとてもいい匂い”という意味だ。文明から逃避したある貧乏画家が、その言葉を深く焼き付けた。そして今、私の心にも確かに焼き付いている。
 ある貧乏画家とは、もちろんポール・ゴーギャンのことである。ゴーギャンと言えば、アート好きの間では『考え方や行動は好きだけど、作品はどちらかと言うともう一つ』という何んとも歯切れの悪い感想を持たれることが多い。
 かく言う私も、ゴーギャン入門は「ノアノア」というタヒチ滞在記が先だった。さらに言えばゴッホのような周辺の画家達から辿ることが多く、作品不在、思想ありきの何んとも情けない状態だった。
 しかしゴーギャンの作品世界は何も知らずに作品を鑑賞するよりも、その背景を知っていた方がより魅力を感じるのは事実だ。ゴーギャンの哲学が色彩を浮き立たせるし、「ノアノア」で語られている物語世界が、作品に奥行きをもたらすのである。「マナオ・トゥパパウ」などはその典型例。一方、パリにいた頃のゴーギャンのは、まるでその精神そのものを直接描いているかのように蔭鬱で、特徴の無い絵。もしゴーギャンがタヒチに渡らなければ、その名は美術史に残るばかりだったのかもしれない。

 文明から逃亡する文明人……思想と緊密に繋がった作品世界……
 ゴーギャン――彼はきっと根っからのインテリだったに違いない。

Posted at 2005/10/29(Sat) 17:15:02

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