I teie nei e mea rahi no'ano'a

文学・芸術など創作方面を中心に、国内外の歴史・時事問題も含めた文化評論weblog

身勝手な“獰猛なペット”の飼い主

http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200511030007.html

 テリア犬というのは生来獰猛な性格で、狩りにも使われ、人や他の動物襲ったりすることで有名な犬種。飼い主は決まり文句のように「人なつこくて優しい性格だ」と言うが、そんなのは飼い主に対して当たり前のことだ。問題は他者と接した時である。

 レトリバーなどの中型〜大型犬を紐を付けずに放し飼いにし、その結果他人の子供が襲われ、血まみれになっても平然としている飼い主は日本にも非常に多い。私の友人も黒いレトリバーに襲われている子供を素手で助けたことがある。犬は死んだ。もちろん犬の飼い主はカンカンに怒り狂って、あわや友人の方が逮捕されかけた。他人の命を奪ってでも、自分のペットを可愛がりたい人がいて、困る。現代人は命について考える機会も与えられていないのだ。
 ダライ・ラマ十四世はペットにしか心を開けない人間を哀れだと言っていなかったか。もしもペットが人間と同じように言葉を話せれば、そうした人々は恐らくペットにも心を開けなくなるだろう。自身の一方的思い込みが許されないと不安になる、あまりに脆い人間性だ。これが物質的豊かさがもたらした結果であり、二十一世紀といったところだろうか。

 ところでこの記事はあたかも警察の不祥事のような見出しになっており、あまり公正とは言えない。


普通の人として生きたがる障害者
http://www.asahi.com/national/update/1102/TKY200511020162.html

 小学校以降ならともかく、一般の保育園では無理だろう。その子だけの面倒ならいいが、他の子供と一緒に観る場合はとてもじゃないが把握できない。下手したら重大な事故を引き起こす。尤も、私は幼稚園も保育園も行かされていないので、保育の実情など欠片もしらないが。そう、そもそも行かなくていいのだ。保育・幼稚園に行ってない人間は異常だとでも言いたいのだろうか。

 そもそも保育師の資格では痰吸引は法律上出来ないだろう。それは簡単か難しいかの問題ではない。この家族は問題をすり替えているとしか言いようがない。

 何んらかの治療できない障害がある者は、障害がある通りに生きていかなければならない。それを五体・精神ともに満足な人間と同じように生きることを要求するのは筋違いだ。自分自身に合った生き方を拒否することは、無い物ねだりだけでなく、もはや傲慢である。障害者の傲慢は、一度ボランティアや介護をやってみるとよく解る。辛苦をなめているからといって、いい人間ばかりではない。もし障害者に“純粋”幻想を抱いている人がいるとしたら、是非とも現場に触れて欲しい。もちろんいい人だっているが、その比率は普通の社会と変わりないように思う。
 例えば私自身はきちんと病院に行って診断を受け、社会保険も払ってさえいればある程度は障害者として認定される。私よりも症状の軽い人が何んらかの社会的サービスを受けていることはある。しかしそうはしないでリスクだけを負っている。理由は他人の世話になることとガツガツしたことが嫌いだからである。だからといって普通の社会生活を営むことは不可能だ。極端に病弱で、健常者と同様には身体を動かせない人間は、普通の人間として生きようとしても社会はそれを決して容認しない。そういう人間はそれに見合った生き方をしなければならないのだ。そしてその結果社会に貢献することも出来るのである。
 近頃は「子供は女の子でなければダメ」「私の遺伝子を継いだ子供でなければダメ」「結婚は好きな相手でなければダメ」――等と全てが欲求の従うままである。そう、これらは美学でも何んでもなく、単なる我がままな欲求なのである。人間は我慢したり現状を受け容れたりすることも必要じゃぁないか。

Posted at 2005/11/03(Thd) 17:20:18

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